7.二人の葛藤と一人の苦悩
現実と願望。現実と使命。
エヴァと別れてから、三人は宿屋に戻った。
祭りの中で夕食も済ませていたので、戻って早々に宿泊客共用の風呂へと向かった。
入浴後、三人は祭り疲れを癒やすためにすぐ寝床についた。
だが、アイクはなかなか寝付けずにいた。
眠りにつく直前というのは、不思議とその日の出来事が鮮明に頭に浮かんでくる。
祭りは、楽しかった。
ステラフロースの美しさも存分に感じられた。
そして、パルの愛らしい祭り衣装姿を見て、彼女と踊って、彼女とほんの少し距離が縮まった。
素晴らしい祭りの思い出に他ならない。
しかし、同時に己がした、思い出すだけで顔から火が出そうな行いも脳裏に蘇る。
パルに「可愛い」と言った。
彼女の手の甲に口づけた。
そして何より、彼女を「俺の恋人」と呼んでしまった。
(あの場を切り抜ける口実とはいえ、交際しているわけでも何でもないというのに……俺はなんて事を口走ってしまったんだ……!)
掛け布団の中に潜って、アイクは頭を抱える。
柄の悪い男達に絡まれていたパルを助けるため、咄嗟に彼女を自分の恋人だと口走ってしまった。
口実でありながらも本心でもあるその言葉は、彼女の想いを全く考えずに口から出てしまったのだ。
彼女はそれをどう思っただろう。考えるのも恐ろしかった。
(何も聞こえていないと良いが……もし聞こえていたとしたら、どうか忘れてくれ……!)
彼女の耳にあの時自分が言った言葉が届いていない事を、聞こえていても忘れてくれている事を切に祈る。
部屋の中は静かだというのに、布団の中だけが異様に騒がしい空間にアイクには感じられた。
一方のパルも、アイクと同じく寝付けずにいた。
同じように掛け布団の中に潜って、祭りの事を思い出す。
すると蘇ってくるのは、想いを寄せる彼が放った思いも寄らない言葉だ。
(俺の恋人……俺の、恋人……)
アイクの祈りも虚しく、パルは彼が言った「俺の恋人」という言葉をしっかり聞き取っていた。
咄嗟の口実だったのは、分かっている。
分かっているが、思い出すだけで胸が甘く締め付けられる。鼓動が速くなる。
鏡を見ずとも頬や耳が赤くなっているのを感じた。
(いつか、本当にそう言ってもらえたら良いのに……)
ふと、そんな願望が心の中に浮かんでくる。
けれど、それはきっと叶う事のない願いなのだとパルは思う。
やはり身分の差というのは、大きな障壁だった。
世の中には身分の差など飛び越えて結ばれた者も少なからずいる。
だが、アイクは地上界でも名の知れたディルニスト家の人間で、国から将来を期待されるような存在だ。
身寄りもない平民の自分が想いを寄せるなど、あまりにも烏滸がましい話だった。
同時に、数年前に何度かアイクと並んで歩く姿を見かけた一人の少女の姿が思い出される。
その少女は、清楚で可憐な美貌と、愛らしくも気品ある雰囲気を持った他国の令嬢だった。
二人が並んで歩く姿は、驚くほど絵になる。
ディルニスト家の末子は、将来彼女を花嫁に迎えるのではないかという噂が流行した事すらあった。
もし、自分が彼女だったなら――。
何度もそんな想像をしては、虚しさを感じていた。
(アイクはきっと……ああいう人と結ばれるんだろうな……)
将来、彼の隣に立つのは、美貌と品性を兼ね備えた相応の身分ある女性なのだろう。
――私なんかじゃない。
これは、いつか諦めなくてはならない恋なのだ。
(もうしばらくで良いから……アイクの事、好きでいさせて……)
彼の唇が触れた左手の甲をそっと撫でる。
祈るように、パルは瞼を閉じた。
* * *
それから一時間近くが経っただろうか。
時刻は三更を迎えた頃だ。
寝息だけがかすかに聞こえる部屋の中で一人、マルスはベッドを抜け出した。
物音を立てないようにしながら起き上がり、寝衣を脱いで普段着に着替える。
今は邪魔になるから、と上着だけは置いて行く事にした。
着替え終えた彼は、少し乱れた茶髪を手櫛で適当に整えながら、ベッド脇に立て掛けてあった剣を手に部屋を出て行く。
祭りの疲れもあって深く眠っているアイクとパルは、彼に気づく事もなかった。
マルスは宿屋を出て、近くの人気のなくなった小広場に来ていた。
小広場を吹き抜けていく海風のかすかな音と、通りにある酒場から漏れ出る人々の陽気な声だけが聞こえる。
二度ほど深呼吸をしてから、腕を回したり、脚を伸ばしたりして軽く体をほぐす。
今朝の筋肉痛がまだ存在を主張していた。
「よし……」
そう呟くと、マルスは走り出す。
目的地は、特になかった。
ただ迷わない程度にアストルムの街を走って行く。
目的は、確実にあった。
――力をつけなくては。
走る目的は、それ一つだった。
先のリヴァイアサンとの戦闘で、アヴィス四天王との戦闘で、マルスは己の無力さを痛感していた。
魔法が使えるわけでもなければ、特別戦いの才能があるわけでもない。
平凡。いや、それ以下なのかもしれないとマルスは感じていた。
仮にアイクとパルのように守護聖霊と契約したとしても、自分に力がなければ大した意味を持たないのではないかとも思っていた。
「はっ、はあっ……」
小広場から通りを抜け、中央広場へ。
そこから今度は高台の方へと向かって行く。
ほとんど全力疾走に近かった。
次第に呼吸が苦しさを増してくる。
――神様は、どうしてオレみたいなのを勇者に選んだんだろう?
ここ最近、彼の胸にそんな疑問が浮かぶ事が多くなっていた。
魔法は使えない。抜きん出た身体能力もない。頭だって良い方ではない。
親友二人と比べると、尚更自分が邪神を討ち滅ぼす存在として選ばれた理由が理解出来なかった。
けれど、神はどういうわけか自分を選んだのだ。
だから、微力だったとしても足掻かなくてはならないと思ったのだ。
そして何より、兄を連れ去ったのが魔族だというのなら、兄を取り戻すためにはやはり相応の力が必要だった。
「っ、は……っ、はぁ……」
長い階段を駆け上がり、高台に登った頃にはすっかり息が上がっていた。
マルスは階段を登り切ると、引っ張られるようにその場に腰を下ろした。
汗がじんわりと滲み、火照った体を冷ますかのように海風が吹いてくる。
座り込んだまま何度か深呼吸を繰り返して息を整える。
それからゆっくりと立ち上がると、腰に下げていた剣を鞘から抜いた。
周囲にぶつかるような物のない場所まで移動すると、マルスは剣を構える。
そして、剣の素振りを始めた。
静かな高台に、剣が空気を切る音が響く。
縦、横、斜め。上下、左右。
両手、右手、左手。
切る方向を変えながら、剣を持つ手を変えながら、マルスは一時間ほど素振りに励んだ。
一時間の素振りを終えたマルスは、来た時と同様に走って宿屋まで戻った。
祭りの後も酒場でその余韻を楽しむ客も多いため、宿の風呂場は夜中も利用出来た。
これ幸いと、マルスは一度部屋に戻って剣を置き、寝衣を持って風呂場に向かう。
入浴している客は少なく、数時間前にアイクとここに来た時よりも随分静かだ。
一日に二度も風呂に入る事などあっただろうか、と呑気に思いながら汗をかいた体と髪を洗う。
綺麗になったところで、湯船に浸かった。
少しぬるくなった湯が、火照った体には心地良い。
手で湯を掬ってみると、灯りを反射して煌めきながら湯は手からこぼれ落ちていく。
湯がほんの少し残った手には、肉刺が出来ていた。
(もっと、頑張らなくちゃ)
胸中で呟いて、そっと拳を握る。
深く息を吐いてから、マルスは浴場を出て行った。