徒然なるままに~夢に現に 朧長崎~ 第二章
私の青年期は高田との出会いから始まる。
幼少期、という話をこれまでしつこくしてきたが、この小文を進めてゆく上では当然、それ以降の話も必要となる。しかし、そのためには幼少期と青年期を分ける必要がある。そして、それを『高田との出会い』、すなわち、高校入学を基準として行なったのである。理由はいくつもある。しかし、その中で重要なものは二つであり、自らの意志と責任において行動を始めた点と『影』をおよそ受け入れた点が青年と幼少を分けると考えたのである。ちなみに、『影』とは今でも闘っているが、まあ、時として酒の席に迎えるほどである。
そのため、三章の始まりは母校がある高田とした。高田は長与町の一部であり、本来は後段のように分けるのは好ましくはない。それでも、そのように些細な部分は問題ではなく、『私』を描く上では必要不可欠の分化である。そこで、この文における高田は高田駅周辺の一角のみを差すこととし、北方は長与町役場の手前まで、南方は道ノ尾駅の手前までとする。大雑把もいいところであるが、こればかりはどうしようもない。事実、高校から帰宅の際に住吉辺りまで歩こうとした時、道ノ尾駅の手前にある『長崎市』の看板を見る度に、安心感があったものである。家に帰れる、という私には到底似つかわしくない感傷である。
とはいえ、これだけの文を尽くしたにもかかわらず、高田の周囲には何もない。がっかりされる方も多い(事実、高校生には本来的につまらない場所である)だろうが、しかし、ここには『何もない』が存在するのである。まるで、時が捻じ曲がって過去と近い過去の混在する世界に迷い込んだような錯覚を覚える。この錯覚が、私の文芸生命を決定したのである。
青空に 時計の針は 狂いつつ
男溺れる 朧なる夢
(第二十三段)
我が母校、長崎北陽台高校は膨れ上がる長与方面の高校生を受け入れるべく、『長崎』に作られた五番目の公立の進学校である。しかし、その実体は長崎市内にはなく、西彼杵郡に属しており、故に、電話帳に母校の番号が載っていないのを知ったときには、母子共に言葉を失ったものである。
北陽台高校は小高い丘の上に立つ、それこそ自然豊かな中にある高校であり、秋には教室を虫(主に蜂)たちが行き交うような高校である。周囲には、高校生の興味を惹くようなものは一つもなく、歩いて(谷を越えて)少々行った先にあるファミレスが残された光であった。それだけに、勉学に集中するにはよく、そのせいかはともかく、長崎でも屈指の進学率を誇っている。が、その中で私は先述したとおり、文芸の世界にどっぷりと浸かり込んでしまったのである。成績は落ちた。『貴重な』青春における恋愛は放棄してしまった。それこそ、頭から崖へ飛び込んでしまったようなものである。とはいえ、高校入学の当時は文芸などというものに一切の知識はなく、部員が少ない中で(先輩は三年生一人という惨状)我武者羅に文芸へと打ち込んだのである。
それに、北陽台は私が文芸に打ち込むにはいい条件が揃っていた。「文芸」があり、何もない状況があり、話の種があり、そして、自然があった。これが、私の文芸観を大きく左右し、今に至る文芸の基礎を創り上げた。特に、無為と自然への敬慕は文章への優しさに繋がってゆく。この『優しさ』はそれこそ幸福である。
そして、この精神を支え続けたのは校舎裏に広がる畑であった。迷った時にはここへ行き、学び舎を下から眺めた。夕暮れと自然の威圧の中で見る現は、どこか温かであった。
夢現 彷徨う者は 惹かれゆく
温かき火の 灯る陽の丘
(第二十四段)
長与町は長崎市より北方にあるベッドタウンであり、北陽台高校の母体となっている。地形は長崎市と似たり寄ったりであるが、長与川という小川と県央との境ともなっている琴の尾岳が聳えている。周囲に自然が多いのは長崎の他の市町村に漏れず、それでも、人はその合間から開拓を進めており、山地にまで家々が連なっている。
このような環境の中で私は高校生活を送り、文芸生活を始めた。これが、今にしてみれば正に幸いであったと思う。自然と人間とが奇妙な立場で相対している中で、文芸家の端くれとして詩的な情緒を磨くことができたのである。特に、三度登った琴の尾岳は私に数々のエネルギーを与えてくれた。また、堂崎の岩場では革靴で遊んだこともあり、自分と自然との対比を考えさせられたものである。微小、そして、広大。今までも、そして、これからも、私は自然に対する畏敬の念が文芸観のどこかにあるものと思う。
蒼天の ちぢれし雲の 海原の
万里の果ての 芥子粒よ 我
高校時代は何も文芸ばかりではない。曲がりなりにも理系のクラスに在籍した私は、その立場でもこの長与を礎とした。長与港、橘湾を高二の夏には高校生として『研究』し、その時初めて、海というものが非常に異質なものであり、楽しいものであるということを覚えた。それが、行く行くは大学受験へとつながり、その直前には一悶着を起こすこととなるのだが、今でも、その神秘性に魅せられた人となっている。それも、幼少期の圧倒感に似た神秘性ではなく、この時はその幻想性と輝きに似た神秘性であった。
船虫を、私は愛した。それこそが私の海に対する神秘性の象徴であった。
船虫の 黒く駆け行く 岸壁に
繋がりを見る 青年の影
唯一つ、色沙汰は皆無であった。
(第二十五段)
文芸観という部分から高校時代を振り返った場合、私は再び浦上の地を語る必要がある。
幼少期の「浦上」と青年期の「浦上」とは全くの別物である。幼少期における浦上はあくまでも、「原爆」という「歴史」の土地であった。それが高校生となり、文芸を以って思考してゆく中で、原爆は私の根源となった。左翼と言って、蔑むのであれば蔑めばよい。ただ、私にはこの『虐殺』が耐え難かった。
長崎と いう名は今も ここにあり
あのあつきひの 燃える思いと
高二の頃の一首である。この一首を先駆けとして原爆をテーマにした作品を創作するようになってゆく。若人らしい、情熱に任せた訴えが次々と心の中から羽ばたいた。長崎はあの『暑き日』に『熱き火』によって地獄と化した。その不条理と事実に対する思いはやがて、私の中では、最も心血を注いだ作品へと繋がってゆく。
浦上の北方、平和記念像で有名な原爆公園には、その近くに平和式典で鳴らされる鐘がある。原爆投下からの年数だけ、一分間の黙祷の間に鐘を鳴らす。乾いた鐘の音は、しかし、八月の陽炎の中をかけてゆき、人々の心の中へと入り込んでくる。あの日は、それを遥かに上回る熱気が覆い、様々な形で人からものを奪い尽くした。それでも今、鳴る鐘の音は孤高にも訴えている、長崎の思いを。それを高二の秋に描いた。
そして、今の賛美される平和がどこから生じたものなのか、何が平和なのか、なぜ訴えるのか、なぜ祈るのか、なぜ戦うのか、なぜ現実はかくも悲しいのか、なぜ私はこの地に生まれたのか、誰が私なのか。その思いを高三の私は長編詩とした。未だに、その答えは出ていない。故に、浦上の地は今でも訴え続けている。
幾年を 一時とせん 年表の
上に滴る 我が熱き血潮
(第二十六段)
対馬は長崎市の遥か北方、長崎よりもむしろ福岡に近い場所に位置する島であり、古来より大陸との緩衝地帯となってきた場所である。以前、韓国で竹島問題が酣となった際に対馬は韓国の領土であるなどという意見が出たほど、地理的には韓国にも近い。ここで韓国の掘り出してきた対馬藩の二重外交の資料を相手に話をする気はないが、晴れた日には韓国本土が望める場所すらある。そして、この島の近くには暖流が流れており、そのため、豊かな海が広がっている。
対馬へは高二の頃に訪れたきりであるが、それにしては印象の深い土地である。今でも、目を閉じればその時の旅路が瞼の裏に明瞭に浮かぶ。よく、この世の『楽園』を求めて南方の島々へと向かう人の話を聞くが、私からすればこの島こそがまさしく、楽園、であった。ただ、フェリーで行く場合には博多より四半日をかける必要があり、それなりの時間的余裕が必要となるのが玉に瑕ではある。それでも、その船上のひと時も、なに、楽園を彩る一部になるのである。
対馬の良さを一言で述べよといわれれば、そのような言葉などこの世に存在しないと私は反論する。豊穣の海と「ちはやぶる」神代の自然、柱時計の刻んでいるような暖かなとき、そして、ひと。この全てが、宝であり、輝きであり、地球である。和の国にある原生の美しさを、益荒男の美しさを体現した地、それが対馬に最も相応しい言葉ではないか。
この美しさを最も味わったのは、蟹取りをした時であった。小船の上で槍を構えて深い闇を湛えた水底を照らし、瞬時に狙いをつけ、放つ。穂先で蠢く蟹を思いながらも、緊張から放たれて漆黒を仰ぐ。その時の星空は、感動などという陳腐な言葉では表現できなかった。
星月夜 刃先に喘ぐ 蟹の霊
夢に現に 至る水底
(第二十七段)
文教町は長崎市北部に位置し、住吉という商店街のお膝元にある。もし、この地に長崎大学というものがなければ、一介の閑静な住宅街か小規模な事務所の立ち並ぶ一角となっていたであろう。しかし、この界隈には女学校、小中学校、そして何よりも長崎の教育の中心である長崎大学が存在しており、一つの要として、一応、名が立っている。とはいえ、近隣に学生街が広がるかといえば、そのようなことは全くなく、学生としては全く生き苦しい場所となっている。むしろ、長崎特有の田舎にも関わらぬ土地代の高さを考えれば、単身の学生には地獄であろう。
長崎大学の周辺には、複数のコンビニと住宅が立ち並んでいる。一方、遊技場としては十五分圏内にパチンコ屋があり、ボウリング場があり、カラオケがあり、ダーツ場があり、雀荘があり、そして、空ろがあった。逆に言えば、長崎大学の学生がその教養を深めうる場所などそこには一切、存在しなかったということである。その代わり、遊戯はある。遊戯があるが故に、何もない学生が次々と生まれてゆくのである。
また、この街中で詩情を育むことが、どうしても私にはできなかった。むしろ、詩情を排斥することこそが現代であり、自由主義的人間の在り方であり、日本人の在り方であるとでも言うかのような冷ややかさが充満していた。何かへの指向性がないわけではないが、それはもっぱら、狭い共同体の内部における快楽、社会的とされる活動、情欲の三つに捧げられる。それらの重要性は否定しない。しかし、文教、という言葉からすればどこか空虚な大学と言えよう。
大学と いう名の星は 地に堕ちて
荒野に迷う 子羊の群れ
いずれ、それを形にする日が来ることになるかもしれないが、それは当時の私に対する鎮魂の詩となるであろう。
(第二十八段)
長崎は三方を海に囲まれており、それこそ、海辺には何不自由しない土地である。そのため、多くの釣り場があり、休日・平日を問わず釣りに出る人が散見される。しかし、海水浴場に恵まれていえば、そのようなことは決してなく、むしろ少ない。そのため、長崎市内で大学生が海に行くといえば、弁天白浜へと集中する。
弁天白浜は山を越えて文教町の対角にあり、小江原という長崎でも有数の団地の先に存在している。とはいえ、そこはさすがに長崎であり、坂とさかとサカを過ぎた先にあり、到底、徒歩で行くことができるような場所にはない。それこそ、漁師町と大きな差はない。むしろ、都会の人からすれば漁村の原風景としてしか映らないだろう。
実際、この砂浜に存在するものは何もない。いつ訪れても一組で、数人の若人が海の方を向きながらはしゃぐ様子と靴の中に入ろうとする砂とに嫌悪感を感じるだけであった。それでも、一人で何度か訪れるうちに、「虚しさ」は「あはれ」さへと変わった。私はそこで泳ぐようなことはしない。ただ、粛々と時をこなしてゆくのみである。波の動きはどこか漠然としており、それを空ろの中で見つめると、溜まり溜まった澱のようなものが静かに揺れて流れてゆく。
遠雷や 光もなしに 海を行く
静かに開く 岩肌の貝
また、夏を外して行けば、それこそ厳しい風が肺の中へと吹き込み、脳がクリアーになっていく。何かを決断するとき、考えるとき、様々な場所に行くが、仕事で考えが煮詰まった際には、ここに一人できた。そして、一つ一つを進めたのである。
海行かば 思いに一の 縛りなく
潮騒に向け 放つ決断
今でも、海を眺めることはある。ただ、その情景は『弁天』ではない。
(第二十九段)
長崎の魚市は以前、長崎市内でも中心に当たる中島川にあり、流通の要を押さえていた。その後、現在の長崎駅の裏側に移転して長崎港の奥に控えていたが、今、その跡地は漠然とした倉庫と空き地が広がる。そして、魚市と漁港自体はさらに北方へと場所を移し、三重にその機能を置いている。
三重は長崎市でも北西端に近い場所にあり、西海橋の袂にある。日本海と東シナ海の境目の近くにあり、対馬海流も近くを流れているため、豊かな漁獲を誇っている。しかし、そこへの交通の便は決して良いものではなく、市街地からは半時間以上かかる。また、周囲は「何も」ない。それでも、この地には漁港、市場、保存、研究の全てが凝集されており、長崎における水産のおよそが凝集されている。
この地に私が最初に訪れたのは大学入学時のオリエンテーションの際であり、水産学部の持つ二隻の船に感心するばかりであった。そのため、最初の印象は比較的にしても明るいものであり、その後に待ち受けている苦難など、微塵も存在しなかった。
一年後、同じ土地に立った私は乗船実習ということで憂鬱であり、二泊三日の後、虚ろな目をして戻ってくることとなった。陸酔いも酷く、それから暫くは先の印象とは打って変わり、暗澹としたものしか残っていなかった。少なくとも、二週間の苦悩の果てに要らぬ減量をさせられたという恨み節が大きかった。そして、二度目の乗船実習では船酔いという苦難と貴重な体験とが入り混じり、必ずしも暗いだけの場所ではなくなっていった。しかし、未だにこの付近へ来ると船酔いの印象が強く思い出され、少しだけ後ろめたさと暗さが影を落とすこととなる。
海行かば 人は波間の 藻屑たり
揺れて揺られて 耐えるひと時
思えば、海が生命の父であることを教えてくれた場所だったのかもしれない。
(第三十段)
「天気晴朗ナレドモ、波高シ」
日本海海戦の折、連合艦隊参謀の秋山真之は大本営への電報にこう書き加えた。日本の命運を賭けた一戦は長崎でも対馬の近くで行われ、バルチック艦隊の「撃滅」という戦略目標が完全に達成され、日本の完勝に終わった。無論、この要因はいくらでも挙げることができようが、その中の一つに日本と朝鮮とを結ぶ海域の波の荒さがあった。波が荒ければ、船は大きく煽られ、船底を海面という防御壁の中より出すこととなる。これにより、ロシア側の艦艇は腹を海面より出すような形となり、砲弾によって痛烈なダメージを受けることとなった。「不沈」と称された当時の戦艦を沈めることができたのは、こうした幸運に恵まれていた事もあった。
と、私は二回目の乗船実習までは考えていたのである。
無論、某球団の応援歌で玄界灘は波が荒いということを知っており、また、一回目の乗船実習でその「威力」は嫌というほど思い知らされた。それでも、冬という悪条件が根底にあり、また、出航前の凪を見ればそのようなことはあるまいと高を括っていたのである。
それが、出航して四半日も立たないうちに猛烈な船酔いに襲われ、天地の感覚が狂い、調理場に吐瀉するという惨状となった。泣きそうになりながら、耐え、なぜ生きているなどかと考える始末。その中で、思ったものである。この海が日本を守護したのだと。
思い返せば、この海では様々な事件が起きており、遣隋使の派遣や白村江の戦いから日本史の劇的な舞台となってきた。そうした歴史の凝集があの荒海だったのかもしれない。それに、日本は中華帝国を横にしながらも、独立を保ってきた。この国は常に、荒海と無名の努力によって生きてきたのであろう。
海行かば 思い起こせよ 志
抱く勇士の 消えし歴史を
(第三十一段)
長崎市街はここ十年ほどで大きな変貌を遂げてきており、その中でも特に旧出島周辺は見違えるような場所へと変わった。昔は、長崎駅から大浦天主堂やグラバー園へは寂しい風景が続くばかりであった。それが、数年前に完成した水辺の森公園の出現により、観光都市とされている長崎の観光地が少しずつ線で結ばれるようになってきたのである。
水辺の森公園は長崎税務署の近くから大はと近くまで続く、長崎市内でも有数の公園であり、海辺と緑の融合した場所となっている。それこそ、デートスポットにはもってこいなのかもしれないが、私はそのような目的に用いたことがない(できないとも言う)ので、いまいちそのような印象はない。ただ、七月の末頃に行われる花火大会では多くの「アベック」を自然に見かけるので、普段からいい雰囲気の場所なのであろう。
むしろ、私からすれば水辺の森公園は長崎県立美術館の一部としての印象が強く、芸術の一部であるという感覚しかない。以前、ある知人女性の卒業展示が行われた際には、その満足感と感傷という、本来は相容れない感情が合わさって、
「海風が沁みるな」
と、ガラにもなく「気障な悦」に浸ったものである。それ程、今の県立美術館は良い。
一方、観光地化によって長崎から失われかけているものがある。以前、新地のバスターミナルの近くにある銀行の周辺には、老婦の露店が複数存在していた。
蚕豆や 新地の路地を 飾る頃
しかし、その光景が途切れた時期があった。「観光地に相応しくない」という理由によって、排除されたためである。確かに、理由としては正しい。しかし、この排除の裏で生活が消えようとした者達もいたのである。
張りぼての 夢見の国の 裏側に
涙の枯れる 水底の陰
(第三十二段)
生きていると、様々な悩みが生じる。基本的に私は、悩みを翌日に持ち込むことを嫌う人間であるのだが、それでも、時間をかけて考える場合もある。そのような時、一人で考える場所が非常にありがたい存在となるのだが、私の場合、それが複数存在する。その中でも西山の方面は、私にとって度々「お世話になった」場所である。
西山は丘の上に団地を抱え、長崎市街と本原方面、東長崎とを分断するように存在している。金毘羅山の中腹にあるため、清流が流れ出しており、本河内、浦上と並ぶ長崎の水源地を持つ。以前、長崎の八十八箇所巡りをした際には、この近くにある寺で様々な話を窺ったが、その最中に吹き込んでくる風には心も身体も癒されたものである。
清風や 静かな水の 谷間より
人ごみ避けて 山間を行け
「癒し」という観点で行けば、この地では仲夏の頃に蛍を見ることができる。交通手段を手に入れてからは、毎年訪れるようになったが、その神秘的な輝きは、浮世の憂さを晴らすには十分であった。しかも、時間によっては人が少なく、静かに幻影へと身を投じることができた。人に囲まれていると、孤独も癒しになるようである。
しかし、こうした「癒し」もさることながら、私には何よりも、ここの「自然な暗さ」が有り難かった。何か公園と宗教施設のようなものがあったのは玉に瑕であったが、そのようなことは全く気にならないほど、寂然とした漆黒に包まれていた。川のせせらぎと木々の囁きが彩りを添えた。その中で、一人、悩みを反芻する。そうすることで、少しずつ考えが具象化してくる。時には、文芸へと転じることもあったが、私にとって大切なことはこうして行動に移されたのである。
涼し夜や 空にも友の 一人なく
ただ対したる 黒き輝き
(第三十三段)
悩む度、と私は先述したが、私の悩みの一つには『色』があった。
色即是空 空即是色と 唱えつつ
残り香に酔う 若き軟弱
幼少の頃から、孤独が嫌いであった。それが根底にあるのかもしれないが、何かと、私は『色』に弱い人間であった。幼児期には、二十歳過ぎの「大人」に憧れ、少年期には純朴というものに憧れた。それこそ、憧れがそのまま『色』に繋がったのがこの時期の特徴であったのかもしれない。ある意味では自分が『美しい』と思うものを愛でるという単純な感情であったのかもしれない。
少年期、私は目移りの激しい子供であった。それこそ、目に映るひとの一割は私の『色』を覚える対象であったかもしれない。今思えば、戦場に出て敵味方の区別もつかずに、玩具の銃を乱射したようなものであったのだろう。この頃の悩みは中々に深いようで、自分の『罪』をよく歎いたものである。それこそ、然し君――などと言われようものなら割腹しかねないほどであった。それが、やがては文芸に昇華(消化ともいう)されてゆく。まあ、少しでも「もしかすると……」と思う女性は、気持ち悪い目線が見ていたと考えてほしい。
そして、学生時代。本格的に『色』が頭をもたげてくる。だが、それ以上に『色情』と『恋情』の差に苦悩することとなる。加えて、半ばには一人の女性に心奪われていることに気付かされる。この時の思いは既に「君へ」三編に述べている通りであるが、結局は実を結ぶことなく終わる。勇気がなかったのだ。その結果、私の行く先は酒場や山野となり、心の中となる。出立に当たって持つべきは離別の涙ではなく、陽気な希望であった。
名ばかりを なぜ追うのかと 我武者羅に
推論ばかり 気狂いや我
朧月 眺める人も いつの間に
空へと向かう 飛びたてよ 我
(第三十四段)
そして、浦上である。
今でも、この地は私の中で明瞭に存在している。しかし、その「在り方」は高校時代からは少々外れているように思う。少なくとも、直情的な反核の象徴ではなくなった。
長崎の原爆観の中には「燔祭」という考えが含まれている。故永井博士は、
燔祭の 炎の中に 祈りつつ
白百合乙女 燃えにけるかも
という歌を残しているが、浦上の復興のために、博士はこの惨劇を「燔祭」とし、それを人類の代表として長崎は受けたのだと主張したのである。元々、原爆の投下された浦上地区はキリスト教徒が多く、その心情を汲んだ場合、当時としては正解であったと考える。
しかし、である。原爆を作り、投下したのはあくまでも人間であり、それを防ぐ手立てはいくらでもあるのである。少なくとも、従容として受け入れたのでは、犠牲者に顔向けができない。核を使用させず、人々の幸せを守る、という道を一歩でも進めなければならないと、確信したのである。その上で、私は大学時代にこの「燔祭説」を評価しつつも脱却を目指すべきであると主張したのである。祈りの長崎ではなく、幸せを守る長崎であるべきだ、と。そして、私の文芸観の根底として「幸せ」を置くことにしたのである。それが二十一世紀の「原爆詩人」の役割であると確信して。無論、他の視点から目指すこともできたであろうが、私は科学的に行動するよりも心に問いかける方を選んだ。全く、生きにくいほうを選んだものである。それでも、一片の後悔もなく私は丘を見つめる。
原爆忌 浦上に鳴る 鐘の音は
未来を目指す 若人の歌
私は父と母から生まれた。その父と母は長崎で『生まれ』た。長崎が原爆の後に再び生まれた以上、私の出発点はやはり原爆なのである。
(第三十五段 以上十三段を第三章とする)