表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

徒然なるままに~夢に現に 朧長崎~ 第二章

 長崎を描いてゆく上で、一つの悩みがある。それは、長崎というものが「生き物」であるということであり、生き物である以上は避けて通ることのできない変遷を考慮しなければならない。序段で自らの核心を描くために長崎を書くと述べたが、「私」を描く上ではどうしてもこの変遷が邪魔なのである。しかし、同時にこの変遷がなければ「自己」の成立など望むべくもないのは自明の理である。そのため、私は前章を書く間中、今昔とその狭間の移ろいとのいずれを描いてゆくかで非常に苦心させられた。特に、長崎駅周辺は変遷が激しく、今昔のいずれを描くにしても自己の成立を描く上で決定的なものが不足していた。ゆえに、本作を書く上でこれ以上、両方を共に述べてゆくことは難しいと判断した。

 そこで、これ以降の章を二つに分けることとした。私という存在の成立には、中学生までの幼少期とそれ以降の青年期という二つの時代が存在しており、これを土地を以って二つに分けることとした。

 本章では、幼少期の中心地を中心に語ってゆく。特に、幼少期にこの長崎という土地をイメージする上で中心となった地域を語るつもりである。現代と過去の話の両方を跨ぐ形式を大きく変えることはないが、人間的成長の上での時間的移動は避けられるはずである。

 幼少期の活動範囲は狭い。それでも、小さい身体で長崎を東奔西走していた。南部は茂木を端として風頭山や早坂、唐八景を活動の範囲とし、滑石を北端として道ノ尾や浜口、坂本までが子供の頃の『長崎』であった。西には稲佐、東には矢上宿を抱えた世界こそが『長崎』であり、私の『現実』世界であった。狭い世界である。それでも、偉大なものであった。

 天地あめつちは狭き物とは知りながら

   それでも点の 如く流離え

 以下、二章を綴る。

              (第十三段)



 長崎の県産品で最も有名なものといえば恐らく枇杷であり、故に、長崎といえば茂木という名前を思い出す方は多いことであろう。しかし、私にとっての茂木は港町としての印象が強く、釣りと船との関わりの方が大きい。一応は収穫期に訪れたこともあるのであるが、後述する海の遠景を思い出すばかりである。

 茂木は田上を越えた先にあり、歪曲を重ねた道とその名に恥じない木々を抜けて、初めてその世界を拝むことができる。険しい道のりの先にあるのは海。春の最中であれば蒼も朧。下手をすれば全てを海鳥の声に誘われてしまいそうで、それでも、潮風の淋しげな様子に引き止められる。それが、この土地である。

 このように、私は茂木という場に対して幻想的な印象を持っているが、これは今に始まったことではない。既述のことであるが、子供の頃の私にとって田上が『地の果て』であり、その先に控えていた茂木は一種の幻想郷であった。それでも、長崎の一部として現実世界に組み入れていたのは木々と海のおかげであり、木々の抜け道が海という『長崎の出口』へと連れてゆくものだと思っていた。長崎にとっての海は玄関であり、その先は異郷、であった。

 そして、茂木を現実として私に印象付けたものがもう一つある。

 まだ幼い頃、父に連れられて茂木に行った。川に糸を垂らし、待った。潮の薫りが穏やかに鼻先を通る中、一尾の鯊が父の竿にかかり、やがて死を迎えた。この生こそが現実であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。陽光の下に揺らめく川面はどこか切なく、子供心に無常を感じただけである。

 連綿と 流れる水は 川を行き

   海へ空へと やがて我が身へ

 是非はない。ただ、帰る前に見た海は果てしなく揺らぎ続けていた。

              (第十四段)



 昨年は坂本龍馬に注目が集まった年であり、その影響を受けて長崎も幕末探訪を売りにしての観光宣伝が活発に行われた。その中でも随一の難所にあるのが亀山社中であり、その更に上が風頭山――かざがしらである。

 風頭は長崎のハタ揚げ文化の一翼を担っていたと考えられる場所であり、今でも、『長崎ぶらぶら節』の中に謳われている。しかし、その実際は開発の進行によって様変わりしているようであり、長崎を囲む単なる斜面の一部と化してしまっている。ホテルと短期大学の存在もその表れであろう。それでも、中腹には家庭菜園を営む古い一軒家が立ち並んでおり、長崎の斜面文化の一翼は辛うじて担っている。

 ただ、長崎にとって今の風頭山が持つ最大の意義は花見の名所としての存在である。注意が必要であるのでは、あくまでも『花見』の名所であり、花と絶景を味わうための場所ではなく、桜を通して宴を成し、そのひと時を楽しむ場所である。とはいえ、花の持つ美しさは微塵も味わうことができないなどということはなく、夜桜と飾られた街の対比は長崎でも有数の眺望である。だが、それ以上に美しいのは曙の桜であり、

 一刻に 千金ずつを 敷き詰めて

   六万両の 春の曙

という狂歌に掛け値なしの賛同を与えずにはいられないほどである。

 そして、私にとっての風頭山は遠足の地であり、同時に、寂寥の地であった。幼少の頃、ここを訪ねるのは葉桜の頃、遠足によってであり、級友のざわめきと移り行く季節の『匂い』との対比がいかにも象徴的であった。毛虫に嫌悪感を覚えることもあった。しかし、それ以上にこの両者につくかを悩んだ。私はいずれか、未だに悩むことがある。

 行く春や 銅たる志士も 寂しげに

   来るべき春を 知らぬ子を見る

              (第十五段)



 長崎を正覚寺より南に下ると茂木方面と白木方面とに分かれるが、白木方面は更に二つに分かれる。そのうちの一つが風頭山方面であり、もう片方が早坂方面である。

 早坂は長崎南方にある路線バスの終着駅の一つであり、例によって高台に位置する。風頭山と同様に短期大学がその頂上には聳えており、裏手には長崎有数の団地である三景台が控えている。また、東の方へと下ってゆくと飯香の浦や太田尾の方へと通じ、長崎でもいよいよ秘境の領域へと迫ることとなる。そうした意味では、早坂は現実と虚構とを隔てる場であり、『地の果て』の一つとして堂々と存在していた。実際、小学校も高学年の頃に初めて飯香の浦方面へと学校行事で行くことになった際には、昔の人が自然に対して抱いていたであろう畏怖を抱かざるを得なかった。今でこそそれ程の衝撃はなくなったが、それでも、昭和まで受け継がれてきた生活と自然に対する礼節を私に教え説き続けている。

 さて、早坂は先に述べた地の果てという役割以外に、私に『遊び』を教えた大切な存在でもある。幼少期、あまり身体の強くなかった私が、初めて身体を使って遊んだ場所である。もう記憶も曖昧な小学校高学年の頃、私は友人の祖父の家へと行くようになり、そこで様々な経験をした。まず、二輪車に触れた。成長によって得た常人並みの身体を以って初めて、あの乗り物を御すことができるようになった。それに、泳げこそしなかったものの、川遊びも楽しんだ。茂みの中も駆け巡った。級友たちと白痴となって騒ぎまわった。陽光の下にエネルギーを爆発させた。まるで、そこが自由の地であるかのように、歓喜と共に自然と触れ合ったのである。

 早坂の 丘へ童は 放たれて

   女神を想う 和の人となれ

 思えば、自然はどこか温かい。その温もりが子を人へと変えるのかも知れない。

              (第十六段)



 長崎は昔より独自の文化を育んでおり、ハタもその中の一つである。その中でも、特に喧嘩バタは華やかであり、人の持つ蛮性を文化へと昇華させた偉大な例の一つである。その文化を未だに受け継ぐ土地が唐八景であり、時季になればハタの秀麗さが空を覆う。それも、錦絵ではなく西洋の油絵のような美しさであり、その色彩だけで長崎を象徴している。

 さて、唐八景は市内南部の中では一際高い丘であり、一種特殊な景色を望むことができる。眼下には海、空には霞、そして、それを分かつ丘は勾配をつけながら遥かに広がり、一瞬、日本にいることを忘れさせる。中世まで日本では、世界に国は日本と唐土と天竺の三つしかなく、この景色を見て昔の人が幻想的な印象を受けたであろうことはその名前からも想像に難くない。

 また、以前は長崎の港を望むには大浦が最も美しく、グラバーがその眺望を求めて邸宅を設けたことは先述したとおりである。しかし、そのように美しい景色を求めるのであれば、今はこの唐八景に到るより他にない。『ハコモノ』の密林で街が覆われている現代に生まれていれば、グラバーは迷うことなく、この地に邸宅を求めたであろう。それほどに、この地は眼下に広がる海と人並みの眺望が美しいのである。

 このように、長崎に残る希少な景勝地に、幼少の頃は何の有り難味も感じることなく訪れていた。むしろ、遠足の行く先としては遠いこの地に対して、僅かな恨みを覚えていたかもしれない。それでも私は、この丘で大地に寝そべり、空の行く末を見守るのが好きであり、潮騒を夢想しながら海原を眺めるのが何よりも好きであった。

 潮騒の 夢の畔に 唐土の

   思い冠した 泡沫の丘

 ここからの景色も変わるのかもしれない。その時、潮騒に身を委ねた子供は何を思うのであろうか。        (第十七段)



 長崎で最も賑う山といえば、現代では稲佐山であろう。夏には年に一度の大規模なコンサートが行われ、その時の賑わいは目を見張るものがある。また、長崎では珍しくロープーウェイが敷設されており、空から長崎の営みを望むことができる。長崎西方の砦としてその姿は重々しく、しかし、赤の電波塔がそこに茶目っ気を与えている。

 稲佐山といえば、夜景であるという人も多いであろう。稲佐山の東方は市街に向かって開けており、その眺望を遮るものは何もない。前段で唐八景からの絶景について論じたが、稲佐の景色の方が一般には受けがいいようである。観光地として確りと整備されており、ガイド本を見ればよく掲載されているようである。また、逢引の場としても好まれているようであり、夜には男女の姿が散見される。車も男が意気込んで運転したものが多く止められており、私などはあの狭い道をよくもまあと考えてしまう。それ程、長崎における「男の戦い」は熾烈であるのかも知れない。

 しかし、稲佐山が整備された公園である以上、こうした大人の思惑とは裏腹に子供たちの無邪気な笑い声も絶えることはない。遠足できたという一団もあれば、家族連れでのんびりとしているものもある。私も昔はこの一部であり、春風に吹かれながらひと時の安らぎを感じたものである。今でも、この地を訪れて安らぎを求めることがあるが、以前とは全く異質なものとなってしまった。日常で「孤独」と闘う必要がなくなったためかもしれなければ、一人で赴くようになったためかもしれない。ただ、変わらずにそこにあるのは変遷する長崎の情景とそうしたものを喜ぶ人間を横目に眺める鹿だけである。

 稲佐山 映し尽くして 鶴の海

   人を哂った 小鹿の前に

 呆けた顔で、鹿は私を見つめる。しかし、その目は白痴な人間を見るものであった。

              (第十八段)



 江戸の世、長崎は静かに南蛮人を受け入れ、日本では最も文化的な都市であった。しかし、それだけではなく、唐土とのパイプでもあり、自然、明治以降はこの地に華僑の町が生じた。それが、今の新地中華街であり、長崎の異国文化の一つである。この中華街は最大の繁華街である浜町から大波止までの喉元に位置しており、長崎人は常に「闘い」を強いられている。従って、長崎人は猫の額ほどの庭に注視する必要があり、あるいは、日本の縮図であるのかもしれない。

 長崎で中華といえば「ちゃんぽん」、「皿うどん」が恐らく有名であろう。これを受けてか、長崎の中華街ではこれをお高い値段で出す店も多い。中華街の中にある店であったかどうかは不確かであるが、三千円近くする店もあるという。別段、大した舌を持っているわけではなく、また、目的から外れるためにここでは「論評」を差し控える。が、一つだけ申し上げるとすれば、ちゃんぽんにも在るべき姿がある。ちゃんぽんは苦学している華僑のために生み出された料理であり、安くて量が多いというのが存在意義である。高い中華料理の存在自体は否定しないが、高い「ちゃんぽん」というのは存在の自己否定を行っているようにしか感じられない。

 志 秘めた丼 この今は

   物欲に沸く 亡者の湧いて

 故に、私が中華料理を頂くのは中華街から外れた店が多かった。それも、ちゃんぽん、皿うどんなどチェーン以外では食べたことがない。子供の頃、度々中華街を訪れたものであるが、特に魅力など感じず、嬉々としてそのような店ばかりを訪ねたものである。周囲の同輩がそうした店を語るのも特に気にはならなかった。天邪鬼が、子供の頃から私の中に住んでいたのかもしれない。

 一杯の 器の底に 心意気

   今は知らずや 金権の野暮

              (第十九段)



 中世ヨーロッパでは『大陸』は三つより他に存在せず、それも、ヨーロッパ以外はよくわけの分からない土地であると考えられていた。今から思えば、そのような子供じみた『幻想』は嘲笑の対象でしかあるまい。しかし、未だに子供の知る世界というのは古代のそれと同じようなものであり、私もその例に漏れなかった。幼少期、私の活動範囲は長崎駅が北限であり、その外にある浦上は長崎という世界にあるものの、よく分からない土地であった。

 浦上は長崎市北部の要地であり、この世界で最後に原子爆弾が投下された土地である。このことは、長崎という土地を語る上で欠かすことはできず、繰り返し長崎市民はその話を聞かされ続けてきた。八月九日ともなれば、変わることない平和学習というものに晒され、ある意味では思想を統一しようとされていた。原爆の遺構は生々しくもその人災を物語っており、少年の目には凄まじいほどの威力を放っていた。そのため、一種、近付きがたいような場所となっており、その一方で、やや現実から離れた場所ともなっていた。

 子供らは 阿鼻叫喚の 渦の中を

   戸惑い歩め 生き様として

 それでも、浦上の中でも浜口・坂本のあたりは確りとした現実を以って眺めていた。それは、その目的が大学病院にあったためであり、定期的に歯の検診を受けていたためである。通常、幼少期の歯科医通いは憂鬱なものであるようだが、私にしてみれば特にそうした印象はなかった。基本的に、当時の私は歯の手入れが雑であったために、医者から叱られることが度々あったが、虫歯自体はなかったためであるのかもしれない。むしろ、その後に必ず寄ったパン屋の味に惹かれており、歯医者など眼中になかったのかも知れない。

 昼下がり 無邪気に揺れる 世を捨てる

   子供の影に 一筋の陰

              (第二十段)



 『影』という言葉が、私の幼少期には常に付き纏った。むしろ、『影』そのものが成立させていた存在であるのかもしれない。その『影』には三つあり、母の病死への恐怖、自らの持病、そして、持病に因ったイジメ。そもそもが、私の幼少期を彩る『友人』は驚くほど少ない。小学生の頃に話を絞れば、『友人』は僅かであり、『敵』は無数に存在した。それが劇的に変化するのは中学生の頃であり、それ以後は『敵』も友人へと変化した。それこそ、イジメも持病も人生の『スパイス』へと変化してゆき、今では私の中でも笑い話の種となっている。それでも、未だに暗い影を落すのが母の喪失に対する恐怖感であり、道ノ尾はその象徴であった。

 北の果て 我が母逝くを 見据えつつ

   秋の夕暮 揺らぐ人影

 道ノ尾は長崎市の北限であり、ここを境に長与町、時津町と交わる。長崎の交通の要所であり、今でもベッドタウンと中心地を繋ぐ上で欠かすことができない。だが、そのようなことは幼少期の私に関係することではなかった。ただ、母が入院するとなれば決まってこの地の病院であり、その度に『死』を考えさせる悪夢の土地であった。病弱であった母は私に対して常に、その『死』の覚悟をするように言い聞かせ、入院すれば必ずその一言を残していった。壮絶である。今でも鮮明に、管で身体を捕らえられた母が病床に横たわっている姿を思い出すことができる。

 道ノ尾の 母の命を 一目見ん

   『影』に駆られた 少年の意志

 道ノ尾を過ぎ、西方へ行くと滑石という土地があり、この付近も幼少の頃の遊び場であった。伯父の家に度々訪ねるのが慣わしとなっており、その近くの公園でよく遊んだものである。思えば、幼少の頃の私には『友人』こそ少なかったものの、周りに人は多くあったものである。天性の幸せ者であった。

             (第二十一段)



 国境 トンネル越えて 雪景色

   はて長崎か 東長崎

 先述した蛍茶屋を超えてさらに進むと、日見峠があり、そのトンネルを越えると東長崎に入る。この歌はそのトンネルがいかに『異世界』へと人を誘うかを描いたものであり、この一首以上に適確な表現を求めるのは難しい。長崎は雪の少ない土地であるのだが、それでも、東長崎に入ると吹雪に転じ、積雪というものを実感することができる。事実、車で日見トンネルを超えた瞬間に、運転を体が拒否するほどの吹雪に見舞われた。それ程に、この地は隔絶されたものがある。

 現在、東長崎は以前よりも道が整備され、長崎のベッドタウンとしての成長を今なお続けている。市内で新設の学校ができるような場所はここしか考えられず、過疎の進みつつあるこの地域にとってはありがたい存在であろう。しかし、当時の東長崎は完全に校外という名の『田舎』であるという印象が強く、崖崩れによって道が封じられたと聞けば、またかという印象を拭うことができなかった。

 それでも印象として残っているのは、ここに校外特有の大型商業施設があったためであり、休日の訪問を楽しみにしていたためである。当時の私はデパートの屋上にある十円の乗り物に感激し、衝動を覚え、駄々をこねるような存在であり、校外への『旅』は最高の贅沢として記憶に刻まれたのである。

 そして、更なる大冒険といえば長崎県中部へ行くことであり、その度に過ぎる矢上という土地は長崎の玄関となっていた。子供の他愛もない空想であるが、その昔はこの地が矢上宿と呼ばれる宿場であったという話もあり、あながち間違いでもなかったのかもしれない。いずれにせよ、日常からの解放は昔から私の願望であったのである。

 冒険に 心躍らせ 矢上宿

   少年勇者に 狭き長崎

(第二十二段 以上、十段を第二章とする)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ