徒然なるままに~夢に現に 朧長崎~ 第1章
私は来春、二十三年もの間慣れ親しんだ長崎から巣立つ。
確定ではないが、およそそうなるであろう。既に内定をいただいた会社は本社が長崎になく、全国転勤をしなければならない。そうなれば、必然として長崎との離別が必要となる。そして、その事を意識した時、私は初めて長崎を描きたいと感じたのである。
元々、私は長崎に対する愛着が薄い。就職を考える時も、この土地からの脱却を願ったほどである。田舎だから、出たいと思ったのではない。ただ、この閉鎖性の高い郷土に籠っていることが、どうしても我慢ならなかったためである。しかし、実際にそのことが決まると、私の僅かな郷土愛が刺激されたのである。
ただし、この郷土愛はあくまでも、自己に対する愛の一部でしかない。すなわち、二十三年もの間、私を育んでくれた者に対する愛情である。したがって、郷土を書くということは、私の中では自らの核心、源泉を書くということなのである。
そのため、私の中では「郷土」を書くというよりも、「祖国」を書くという意識の方が強い。正しくは、私の概念の中では「郷土」と「祖国」がイコールになっている。要は自らの「祖」を探しに行く旅である。それでも、これから書くものは紛れもなく「祖国」である。堪らないほど、官能的であろう。少なくとも、この女神への愛情は現代的自由恋愛にはないものを孕んでいる。
正体の在り処を問うて土を行く
我思うゆえ 我は在るなり
残された時は少ない。それでも、私はこの「祖国」を書き尽くすつもりである。
(序段)
「男はつらいよ」でおなじみの寅さんは、だれしもが知るように葛飾の生まれである。「私、生まれも育ちも葛飾柴又。帝釈天に産湯を受けまして……」と言えば、およその人には通じてしまう。しかし、私の生まれは長崎白糸であり、このような口上とは無縁の土地である。
私の生まれ育った土地である白糸は、正しくは愛宕という行政区分に属する。とはいえ、ここではそのような仔細を考える必要はない。元々、愛宕という地名は愛宕山から、白糸という地名は白糸の滝から来ている。そうなれば、より近い白糸の滝の方に自らの祖はあるべきである。
さて、この私が生まれ育った土地である白糸は前述の通り、滝の名前からきている。この滝は、今でこそ用水路の一部のようになり、目立つようなものではなくなってしまったが、以前はその美しさを讃えられていた。それも、「白き糸」という最上級の賛辞によってである。今でこそ、白い糸は一般に普及しているが、植物からとる糸の方が安価であったため、昔はとんでもない高級品であった。貴婦人とでも称すべきであったろう。ゆえに、この白糸の滝はその細さと清らかさで人々の心を洗ったのであろう。
それが、今ではコンクリートとアスファルトという、他の土地と変わりない現代病のような風景に変わってしまった。流転は理であるために仕方のないことであるが、せめて水の流れでも分かればよかったものを、と考えずにはいられない。少なくとも、母校校歌の中で「曇らぬ鏡」と言われたその美しさの一片でも味わってみたいものである。
白糸の 滝の流れは 古の
霞の果てに 「現」の果てに
唯一の救いは、地名と人々のつながりである。今でも、やや温かい人々の目が白き生糸のように、心を洗う。
(第一段)
白糸を少し下ると、すぐに小島という地区に入る。この名前から察するに、この地の近くには昔、多くの小島があったのではないかと考えられる。小島氏の一族が住んでいたという説もあるが、丘に登ればそのような考えは一切、吹き飛んでしまう。それほどまでに、この地は海に近しく、しかし、高いのである。
さて、前段でもそうであったが、私にとっての小島は行政区分とは異なる。むしろ、それよりもはるかに広い。少なくとも、正覚寺の電停の辺りより山側は、白糸まで「小島」と考えている。無論、その道路沿いに小島と名の付くバス停が続くことも理由の一つであるが、それ以上に、母校二つがそびえていることが大きい。二つの山を見上げる小学校と、丘の上からそれを見下ろす中学校が、まるで二体の仁王像のように存在するのである。そうなれば自然、私が外で過ごした期間の半分近くがこの周辺ということとなる。ゆえに、私の「小島」は雄大なのである。
とはいえ、この地区は決して平らかな場所ではない。斜面都市長崎の土地として、階段と坂道によって覆われている。そのため、この辺りには安い家賃の家が多く、慎ましやかな生活を送る人も多く住む。これでは、雄大と言うことなどできないではないかと、怒られるかもしれない。だが、長崎港から浜町を通って南へと行く場合、平地と市街の喧騒の後に押し寄せる、山と斜面の沈黙に圧倒させられる。そう考えれば、この「雄大」という言葉もあながち間違いではないだろう。
この土地を 小島と呼ばん 然れども
長崎たらん 志士の高鳴り
ちなみにではあるが、私の天邪鬼たる気運は恐らくここで生まれている。思えば、四変人を抱えた中学時代であったが、そのひと時が自我を確立させたのである。こうした意味でも、私にとっては「個性」の林立する「小島」なのである。
(第二段)
白糸より下ると小島に行くが、上れば田上ないし早坂に着く。田上は浜町と茂木を遮る壁の頂点であり、向かいに進めば、海へと繋がる。また、西へと下れば大浦に流れ、そのまま戸町に進む。このような地形であるため、以前はバスのターミナルが存在していた。今では、この一角は長崎南環状線を繋ぐ動脈として整備されており、その形を変化させつつも役割は引き継いでいる。
子供の頃、この田上に来ることは一つの事件であり、私の小さな冒険心を刺激するには十分すぎる出来事であった。そのため、バスや親の車で坂を登るだけでは飽き足らず、進んで登山(と言うほどのものでもないが)に挑戦したものである。さすがに、それより先へと進むことはなかった(当時はここを「地の果て」と考えていた)が、こうした冒険心はやがて私の幹となったのであろう。未だに見知らぬ土地への憧れは尽きず、踏破の喜びは何物にも代えがたい。生長は必ずしも成長を伴うものではないのであろう。
さて、既に述べたことではあるが、この田上を西に下れば大浦に達する。長崎三大天主堂があることで有名な大浦だが、昔はこの直下が海であったことは想像に難くない。少なくとも、近くを制する水辺とその辺りを覆う低地は、埋め立ての傷痕としては十分である。以前、
「グラバーがあの土地に邸宅を設けたのはその眼下の眺めに圧倒されたからである」
と、熱弁を揮われていた大学教官がいらしたが、今、その眺めを観光地と化したグラバー邸で探すのは困難であり、往時を偲ぶには相当の想像力が必要である。とはいえ、今でも海から吹き込む風は「大浦」の名に恥じまい。
坂を 下る下る 海原への風
今昔違う(たがう) 人を知らずや
大浦への道は一つ外れれば遊郭でもある。往時への思いは尽きない。
(第三段)
丸山にその昔、日本でも有数の遊郭があったことは有名である。今では、その名残は歌月の趣と長崎検番という佳人の中にしか残っておらず、往時の述懐など夢のまた夢である。それに、今ではその周辺を思案橋銅座界隈と味気なく呼ぶ。
とはいえ、今でも思案橋は異世界への入り口に繋がっている。思案橋から「丸山」に続く通りは、浮世の憂さを晴らすべく集う男達の吹き溜まりになっている。夜な夜な個々に着飾った女性たちがその艶やかさを競い、ネオンという名の七宝に人は集うのである。怪奇といえば怪奇であろうし、回帰といえば回帰である。そのため、早暁にこの街を歩むのは憚られる。
小道に外れれば、そこに広がる景色はまた変わってくる。丸山交番近くの小道を進むと、そこはもう異空間である。一歩間違えば地獄の淵に足をかけることとなるやも知れぬ。だが、その先にあるものは無限の快楽かも知れぬ。そうした絶望と羨望とを同時に抱ええる男たちはこの小路を行き、小童はその隣のやや広い道を行く。私も未だこの道をしかと歩んだことはない。しかし、いずれはこの小路が揺り篭となるのやもしれない。
もう一つ、『大きな』小路がある。思案橋界隈に入ってすぐのところにある小路であり、私にとってはむしろこちらの方が中心となっている。この小路は表通りの裏面に位置し、浮世と夢との合間を薄氷のように隔てている。そのため、小童には非常に心地が良く、艶やかさこそないものの穏やかな時の流れが出迎えをする故郷のように存在している。何も男は槍を構えるだけの存在ではないのだと、優しく諭している。
夢現 彷徨う時も 人の道
止める莫れと 笑う道草
思案橋はこの夜も、薄闇の中灯りを点している。
(第四段)
丸山のことを思うたび、私には一つの疑問を抑えることができなくなる。それは丸山遊郭についてであり、なぜこの町を「破壊」してしまったかである。
長崎には「女」がいない、というのは自説である。このように述べると、誤解を生んだ上で非常に冷たい目で見られることとなるが、ここで言う「女」とは、遊女のことである。つまり、単なる性交渉を動物的な次元から文化へと引き上げ、それを朗らかさと優しさで向かえるために必要な下地を作る存在がいないということである。
人間、特に男には本能としての「性」がある。それは非常に暴発を起こしやすく、放置すれば人間社会というものは動物と同じ次元に落ち込んでしまう。それを防ぐために考えられた機序が「風俗」である。つまり、人間性と野性の彼岸を歩く男を、その限界で人間側に引き止め、さらには文化まで注ぎ込むというものが風俗なのである。恋愛で、いいではないかという意見もあるだろうが、それは的を外している。それは、恋愛自体がそんなに転がっている代物ではないからだ。単純に男女が付き合えば恋愛となる、いわゆる自由恋愛が栄えている現代であっても、本式としての恋愛はほとんどない。互いの心血と情熱を自分の外にある人間のためにすべて注ぐ、生命と智嚢の爆発が本当の恋愛なのである。単に、「好きだ」という言葉を交わすのは馴れ合いに過ぎない。恋愛というのは非常に強い幸運の下でしか生じないのである。
そのために、恋愛の代わりとして風俗というものが存在すのであるが、現代風俗はそうもいかないのである。単純に男性の「性」を満たすだけではなく、文化を以って迎え入れる下地がないのである。だからこそ、私は丸山の破壊が悲しいのである。
丸山の 仄かな香りの 夢心地
浮世は玻璃に 映る黄昏
(第五段)
夏盛り 祭りの如く 浜町
長崎で最大の繁華街といえば浜町であり、市内に複数の商業施設が建設されるようになっても、依然として商業的価値は健在である。流行よりやや遅れて、という観が二十一世紀に入ってからは感じられるようになったが、だからこそ長崎の古き時代を偲ばせる。若人の憧れこそ外へと向かおうとしているが、人の熟した方々には代え難い存在である。
子供の頃、私にとって浜町は魅惑の土地であった。軒を連ねる商店はその一つ一つが目新しく、数多の食事どころは全てが高貴な場所に思えた。今になれば、それが何のことはない雑貨品店であったり、アメリカ文化の象徴たるファーストフード店であったりしたのだということは分かる。それでも、このように単純無垢な感慨は今でも僅かながらに残っているようであり、時に喫茶店で過ごすひと時は愉悦と緊張とを伴っている。
愉悦と緊張とは、相容れない複雑な感情であるようにも考えられる。だが、それほどまでに人間の感情は単純ではない。時に、自らを縛るものの中に浸ることの方が快感になり得る。特に、自由ということに慣れきってしまいその在り処を失ってしまった人にとってみれば、緩急の『急』にあたり、ほどよい快感になるだろう。
さて、その浜町も今やカフェとドラッグストアに席巻されており、昔日の観は失われている。そのうち、文化としての浜町が失われる日が来るかもしれない。確かに、街の変遷というものは歴史の摂理であり、この街もそうした摂理から逃れる事はできまい。とはいえ、『場』の喪失ということを考えれば、私は寂しさを隠しえない。
寂しさや またいつ頃に 街歩き
現を行くや 夢をさるくや
カフェも喫茶も業態は同じである。だが、代え難いものがここにはある。
(第六段)
長崎で唐寺といえば正覚寺が最大のものであり、その朱に塗られた門が寺町の始まりを告げる。寺町といえばキリスト教包囲網の主戦場であり、江戸幕府が行った鎖国の象徴の一つである。歴史を現代の視点で裁くことは避けるが、この国が宗教に大らかであることはこの先必要であるように考えられる。
まあ、話が大きくなりすぎてしまったが、今でもこの界隈には複数の寺院・仏閣が軒を連ねており、しかし、排他的な冷たさはなく、長崎の温かさが僅かながらも残されているように感じる。また、年の終わりには複数の寺院が除夜の鐘に合わせて炊き出しを行っており、信仰心からはかけ離れた人間にも心を尽くしてくれる。
さて、このように宗教色の強い正覚寺周辺であるが、私にとっては、安らぎの場という側面がある。安らぎの場、と単純に述べたが、実際には心の赴くままに一献傾けるによい店が複数あるということである。
まず、チェーンではあるが焼肉屋がある。やや高い店ではあるが、一人で飲むにはほどよい値段である。
次いで、これまたチェーンではあるがとんかつ屋がある。本店であるようでやや高級感が高まるが、池波先生よろしく「ロースかつで酒を飲む」にはよい。
そして、何よりも馴染みのバーがある。このバーでは暗がりに合わせ、全ての時の流れが緩やかになる。その中で頂く「ギムレット」は若輩ながら感動を隠し得ない。本来ならば排除されても良いはずの若僧を迎えてくださる皆様が何よりの美味であるのかもしれない。また、温かな光が映し出す「ラフロイッグ」は芳醇な香ばしさと共に淡い苦味を伴っており、至福の瞬間を与えてくれる。
仏門の 前に般若は 微笑んで
若人一人 惑う事なし
今なお、この界隈の夜は私を誘い続ける。
(第七段)
長崎には「さるく」という方言があり、市はこの言葉を冠した街歩きルートを策定している。しかし、この方言の原義は夕食後の街歩きであり、よく言えば粋な散策であり、悪く言えば夕闇の中の徘徊である。特に、私がこの言葉に持つ印象はほろ酔いの街歩きであり、正直なところ、観光に向く言葉ではないと考えている。
とはいえ、全く嫌いな言葉であるかといえば、どことなく間延びした言い方がゆったりとした歩みを表しているようで非常に心地が良い。現代人の歩みが速いという話もあるが、少なくとも浮世から僅かに離れたひと時を表す言葉としては最適であるように思う。そして、この「さるく」に最も相応しい場所のひとつが中通り・中島川沿いの一角である。
中島川はアーチ型構造で有名な眼鏡橋を筆頭に、浜町から諏訪神社までを繋ぐ長崎では最も重要な川の一つである。昔はこの沿岸に魚河岸があり、長崎の魚食文化の中核を担っていたが、今では静かに鯉が泳ぐ国道裏の裏庭となっている。周囲には個人の飲食店も点在しており、浜町より諏訪神社までを歩めば、夢心地に陥った気分になる。
しかし、それ以上に「さるく」に向くのは中通りの商店街である。昔からの店が多く存在しているため、長閑な商売というよりも商いを見ることができる。ゆえに、丁寧な仕事も残されており、長崎の甘味を堪能することもできる。何か今の自分が置き忘れてきてしまったものが、そこにあるような懐かしくも少し悲しい味。それが、この界隈の魅力である。そして、この味を支えるのは言うまでもなく空間であり、そこに厳然として寝そべっている『場』が何よりも喜ばしいのである。
川沿いを 夕暮れを背に さるきをり
歴史の風を じかに受けつつ
海風はどこか寂しい。しかし、この川の風はどこか優しい。
(第八段)
長崎で文化と交わる場は観光マップを見れば多いということが分かる。しかし、市民が文化と触れ合う場は少ない。今でこそ、複数の文化的施設が市内中心部を環状に取り囲んでいるが、以前はそれが一箇所に集中していた。公会堂の周辺がその一帯であり、長崎で知的好奇心を満たそうと思えばこの辺りに赴くことが最良であった。
公会堂周辺には公会堂、市民会館、県立図書館、歴史文化博物館と文化的施設が点在する。これに、市立図書館が独立して(以前は市民会館だか、公会堂だかの中に細々と存在するだけであった。薄暗く、近寄りがたい雰囲気を醸し出しながら)設けられ、この一帯の文化的重要性が決定された。現在は県立美術館が出島に、ブリックホール(コンサートホール様のもの)が浦上にあるため、少しは分散されるようになったが、この周辺が長崎の文化を形成していることは間違いがない。ただし、この『文化』は土着風俗を基盤とした『文化』の方ではなく、人類全体が長い歴史の中で積み上げられてきた方の『文化』であることは言うまでもない。
さて、このように『文化的』意義の高い公会堂の周辺であるが、閑静な一帯が広がり、教養を深める地として敢然と存在している。また、少なくはあるものの飲食店がいくつか存在しており、そのいずれもが雰囲気ないし味において輝くものを持っている。ある意味では、この一帯は長崎にあっても長崎ではないのかもしれない。
また、県立図書館や歴史文化博物館へ到る道程には『文化』がある。それは、斜面であり、文化施設を繋ぐ上で大きな壁となっている。だが、この斜面も他の長崎の坂とは異なり、春の桜と夏の木陰が柔らかな世界を作り出している。
長崎を つくる文化は 美しさ
優しさ緩さ 一つ苦しみ
(第九段)
長崎で最大の宗教施設といえば、諏訪神社がある。土地の広さだけを単純に見れば、他の施設があるかもしれないが、あくまでも長崎全体に与える影響を考えれば、これ以上の施設はない。特に、先に述べたキリスト教包囲網の中心地として存在しており、市内北部のキリスト教文化域とは決然と分かれている。
また、長崎で諏訪神社といえば長崎くんちの中心であり、江戸より続く文化の象徴でもある。『くんちばか』という言葉が長崎にはあるが、生粋の長崎っ子を今も興奮させて止まない。一度、仲秋の長崎を訪ねてみればわかることだが、長崎人の粋と息を感じるにはこの時期以外にはない。
この宵は 酔いも回って 余威をかる
シャギリの音に 集うじげもん
とはいえ、この辺りはくんちのためだけにあるわけではなく、路地に入れば長崎では最大級の市場が息づいていた。今では、他の例に漏れずやや衰退の足音が忍び寄っているが、それでも活気は失っていない。長崎で庶民を知るにはこの新大工市場を行くのがよい。
さらに、線路沿いをそのまま進むと、やがて中心街から離れてゆき、路面電車の東の終末である蛍茶屋に到る。周囲には僅かな店舗があるだけであり、墓場が山側には控えている。これを越えてゆくと日見峠に到るため、峠道を行く旅人の憩いの場になっていたのかもしれない。また、茶屋である以上、当時は男女の溜まり場であった可能性もある。いずれにせよ、今は往時を偲ぶようなものは無く、ただ、空間を隔てる壁としての役割しかない。
思えば子供の頃、この地は『地の果て』であった。そのため、この地を通って市街から離れる際には強い寂寥感を感じたものである。
道行かば 脇行く風に 凍え込む
仄かな明かり 闇夜照らすも
子供じみた寂しさは最早無い。だが、旅立ちは未だに高揚感だけでないのも事実である。
(第十段)
長崎が外部より人を迎える際、その玄関となるのは長崎駅周辺である。以前はやや南側に位置していたそうであるが、現在は浦上と浜町という二大繁華街の中心に位置しており、交通の要所として確固たる地位を築いている。また、複合商業が隣接するようになってからは若者も集うようになり、長崎の中で最も活気のあるの一つ場所になっている。ただ、異文化を売りにしているにもかかわらず、消費者金融とパチンコ屋の看板が出迎えているという現状はいかがなものかと思われるが。
また、長崎駅周辺の路地に回れば複数の料理屋が軒を連ねており、それぞれに趣向を凝らしている。チェーンの居酒屋やファーストフード店も見られはするが、完全な侵攻を防ぐかのようにゲリラ戦を展開している。昔は今よりも細々とした店が多かったが、最近は少し名を出す店も増えており、抵抗は大きくなりつつあるのかも知れない。
こうした細々とした抵抗する店の中で、私は幼少の多くを過ごした。そのため、この周辺は私を形作ったものの一つとして、避けて通ることができない。西坂公園にある二十六聖人像は子供の頃には謎の遺跡であったし、大黒町といえば自分の庭であった。また、近くにある大黒市場は品揃えがよく、安価ながらもいい「仕事」が並んでいた。今では、そのようなことを望むことなどはできず、閑古鳥がシャッターの合間で鳴くのをただ眺めるより他にない。最近、牛肉や豚の三枚肉を口にすることがめっきり少なくなったが、こうした品は量販店では手に入らないのである。
そして、変わったものといえば『我が家』である。今では移転したがためにそこには無いが、どことなく、愛着だけは残っている。そのため、一度だけ跡地の飲み屋に入った際には、思わず何かが込み上げてきた。
杯の 底で見詰める 幼き目
どこか嬉しさ どこか寂しさ
(第十一段)
大波止はその昔、駅と魚市を抱えていたために、長崎の拠点の一つとしてその存在を示していた。今でこそ、魚市と長崎駅が北へと移ったがために、大型複合施設のある場所としての意味しかないが、往時を思えば県庁を浜町と大波止の真ん中に作ったのは非常に合理的であった。それに加え、以前は大波止から県庁へ続く道は石畳で飾られていたという。その事を思うと、昭和中期の長崎は異国文化と港文化をこの地に凝縮し、精製して象徴にしていたことが分かる。少なくとも、今のように観光地を点としてしか活用せず、面として広げることを忘れてしまった人々よりも文化を大切にしていたことは明らかである。
さて、このように文化的な側面を失いつつある大波止周辺は現在、複合商業施設を中心に動いている。このすぐ南側には複数の飲食店がテーマパークの代わりとして存在しており、北側には港が隣接している。ここから、私達は伊王島などへと向かうことができる。私がそれらの離島群へと向かったことは一度しかないが、それでも、長崎が潮風と小さな島々から始まったのではないかという妄想を働かせるには十分であった。
また、対岸にある神の島岸壁を一望することもできる。この岸壁には一企業の造船所が延々と連なっており、長崎は企業城下町であるということを思い起こさせる。そうした意味では、大波止はいまだに長崎の社会を象徴し続けているのかもしれない。
そして、大波止といえばくんちの際に出店が連なる一角でもある。子供らの多くはその事実をのみ知るが、実はここが諏訪神社に眠る神の保養の地であることを知らない。『御旅所』という場所がそれであるが、私がくんちで大波止へ行く理由はそれしかない。毎年、私はそこで静かに、長崎への感謝を捧げる。
秋祭り 子らの笑む声 朗らかに
無邪気な年を 一人楽しむ
(第十二段 以上、十三段を第一章とする)