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白兎亭

 ルルシアの黒薔薇亭といえば、王都でも、否エール=シオンにおいても有名な酒場である。酒を主とした飲食とともに、歌や舞踊を提供するいわば歌酒場(クラブ)といわれる店であるが、その歴史は百年近い。

 贔屓の歌姫のために後援する貴族の肝煎りで開かれた店であるが、彼の歌姫の他は芸にうるさい店主の目にかなった芸人しか出演させず、その芸の質の高さがいつしか店の売りとなった。

 その経営方針は代々受け継がれ、いまでは一流といわれる芸人でなければ出演できないといわれている。

 その前座に出られることは、芸人にとって最大の足がかりだ。目と耳の肥えた客の目にかなえば箔がつき、運が良ければ後援者も得られる。

 今日の前座の一人は男の吟遊詩人であった。確かなリュートの腕によって爪弾かれる曲は北の古謡だ。厳しい冬の旋律から訪れる春の明るさへと曲調が変わり、朗々と響く艶のある低い声が客の耳を捉える。

 全部で三曲。中の一曲は若い女性との混声であったが、快活な曲調で色っぽい歌姫の声を殺すことなく支え、拍手を引き出す。

 ルルシアの黒薔薇亭でよく演奏される歌とは一風変わった曲調ではあったが、しっかりとした実力に裏打ちされた色気のある男の声は耳に響き、厳しい常連客にも受け入れられた。


 歌の才はレニエ譲りかと、ブランは思った。

 もっとも、オレのことを笑うくらいには、あいつも下手ではなかったと、四十年以上も前のことを思い出し、苦く笑う。

 成功に値する拍手を貰った歌い手が舞台から降り、次の前座の準備に入ったところで、ブランは席を立った。


 前座には個別の控え室は与えられていない。舞台袖にある小部屋で、準備をしながら出番を待つだけだ。それも三組ほどいる前座の出演者が共同で利用するため、実質使えるのは前後の出演者が演奏している間だけである。

 その代わり出演後は、客席の一角に営業が終了するまで留まることが許されていた。客や、支援したい者との話をするためだ。もちろん、支援者として大物が名乗り出れば、店も特別な便宜を計らうのは当然のことだった。

 マティリアーナが営業用の愛想の良い笑顔を貼り付け、師匠であるヴェルの横に座っていた。

 「やっぱり、もったいないと思うんだけど」

 夏には王都より北にあるというセデスアルノに帰郷するため、数件あった依頼の一部は断らざるを得なかったのを、マティリアーナはとても惜しいと思っていた。反面、彼女に対する引き合いには、ヴェルは売り込みと口添えを惜しまなかったから、マティはその面では感謝と共に喜びを隠さなかった。

 客に勧められ、少しだけ酒を口にしたマティリアーナは頬を朱く染めてご機嫌である。

 「ありがとう」

 店員によって届けられた紙片を礼を言って受け取り、目を落としたヴェルはその手を握り込んだ。

 「師匠?」

 手の中で握りつぶされた紙片に、マティは怪訝そうに視線を向ける。

 「済まない、用事ができた。わたしはこれで帰るが、マティはどうする?」

 「師匠が帰るならあたしも。あたしだけいてもしょうがないもの」

 それに、夜道の女性の一人歩きはあまり褒められたものではない。ヴェルの今夜の宿泊先は、マティの実家である白兎亭だし、一緒に帰る方がいいだろう。

 今夜のルルシアの黒薔薇亭の主演は、双子の女性による歌と舞踏である。ハスキーな声による迫力ある歌に負けない、アクロバティックな見応えのある舞踏。歌い手と踊り手が入れ替わりながら、流れの途切れることない息のあった演技は、さすがにこの店に出演するだけある見事なものであった。

 最後まで見れないのは残念だが、中休みくらいで引き上げるのが、適当なところかもしれなかった。

 特別に店に辻馬車を呼んで貰い、二人は賑わう黒薔薇亭を後にした。




 学生街の白兎亭はごく普通の宿屋である。一階は食堂になっていて、主に泊まり客が食べるが、それ以外の客もいないではないという程度の店である。

 「済まない、女将さん。黒曜という人が来ているはずだが」

 白兎亭の前に横付けされた辻馬車から降りるなり、ヴェルはまっすぐ食堂の片付けをしている女将に歩み寄った。

 「ああ、お師匠さん、おかえりなさい。お客さんなら、二階の端の部屋においでですよ」

 ヴェルが帰ってきたら伝えて欲しいと言われていた女将は、黒曜と名乗った客の部屋の方を視線で示した。

 「ありがとう」

 部屋を聞くなり、踵を返したヴェルの後ろ姿を見送る女将に、マティリアーナが声をかけた。

 「ただいま、母さん」

 「お帰り、マティ。それで、ルルシアの黒薔薇亭はどうだったんだい?」

 やはり一番気になるのは、愛娘の晴れ舞台だ。

 「緊張しちゃったけど、ばっちりよ。おかげで、新しい仕事の話も来たわ」

 今まで行ったことのない店から、試しに一度歌ってみないかとの引きがきた。もちろんこれからの頑張り次第だが、今よりも大きい店で、顔を売るチャンスだ。成功といって良い出来だったというマティリアーナに、女将は破顔する。

 たかが前座の一曲とはいえ、今までと格の違う店での舞台だ。娘の将来にも関わってくるとあって、女将も心配していた。

 「そりゃあ良かった。お師匠さんのおかげだねぇ」

 「ほんとに、ヴェル師匠には感謝してるわ。‥‥‥ねえ、ヴェル師匠にお客?」

 「ちょっと前に部屋を借りたいってきたんだよ。一応一泊分のお代は貰ってるから、お客には違いないからねぇ」

 「師匠、なんか急に用事ができたって、顔色変えてたから気になって。変な客じゃないわよね?」

 「変な客どころか‥‥‥ああ、ダメダメ、お前はお喋りだから」

 「何よ、もう。気になるじゃない」

 片付け手伝わないなら、さっさと部屋へお行きと、女将にあしらわれたマティは、むくれた顔をみせる。

 「おなか空いちゃったの。軽く何か食べさせて」

 飲み物とちょっとしたつまみしか口にしていないマティリアーナは、食堂の椅子を引いて座り込んだ。

 「仕方ない子だね。お師匠さんだって食べてないんじゃないのかい」

 「多分ね」

 ヴェルの客がいるという二階の方を見ながら、マティは頬杖をついた。

 「ねえ、あたし何か食べる物、届けようか」

 「用意はしとくけどね、余計なことするんじゃないよ」

 「‥‥‥ねぇ、母さん。お客って、まさか黒の魔術師だったりして?」

 「マティ!」

 以前、ヴェルが会いたいと言っていて、マティリアーナがダルトール魔導具店の店長に話を通したことがあった。彼女は、ふとそのことを思い出したのだ。

 「詮索はおやめ。今夜のお客のことは誰にも言うんじゃないよ」

 厳しい表情で、声をひそめながらもキツく、女将はマティリアーナに言い聞かせた。

 「母さん」

 「黒曜」と名乗った黒髪の青年の、フードの下の素顔は、長年客商売をしてきた女将をして目を瞠る程の美貌だった。今まで女将は黒の魔術師と直接の面識はなかったが、ダルトール魔導具店の店主が言う、魔法と顔には文句がつけようがないという言葉を思い出すのに十分すぎる容姿であったのだ。

 「事情があるんだろうねぇ。お師匠さんに恩を感じるんだったら、見て見ぬ振りをしておおき」

 「‥‥‥わかったわよ」

 マティリアーナは好奇心が強く、口が軽い。宿屋の娘で、歌姫をしているのだから、もっとそのあたりの分別をつけろと、常から女将が言い含めているのだが、お喋りな性分はなかなか直らないのだ。

 今も不満そうなマティに、繰り返し注意するものの、女将は心配な気持ちが拭いきれなかった。




 ノックをし、部屋に足を踏み入れたヴェルは、佇んで出迎えた相手の怜悧な美貌と視線の厳しさに、息を飲んだ。明かりの魔導具があるものの、薄暗い部屋にあってなお、彼は圧倒的な存在感を持っていた。

 漆黒の髪と薄紫の瞳、レニエや故郷の知人達から聞いていたそのままの青年がそこにいたのだ。

 扉を開けたまま、固まってしまったヴェルに、ブランは声をかける。

 「話をする気があるなら、扉は閉めてくれ」

 気配を抑え、食事用の小さなテーブルと一つだけの椅子を示し、ヴェルに座るように促す。

 言われるままに、椅子に腰掛け、姿勢を正したヴェルに、ブランは足音を立てずに扉の横に移動し、壁を背に立ったまま名を名乗ることで口火を切った。

 「ブラン・アルダシールだ」

 「ヴェル・グラーノ、いえ、ヴェラール・アリアス。レニエ・アリアスの息子です」

 背で一つに纏められた真っ直ぐな黒髪の男の名乗りに、ブランは感情を乗せぬ静かな口調で応えた。

 「ダルトールのレウォルは、俺の息子だと思ったそうだ」

 年齢と見た目が逆転している。青年としか見えないブランの息子と言われているのが、三十過ぎの外見を持つ男とはと、こんな時でなければヴェルは大笑いしたいところだ。

 「貴方にお会いするのに、レニエというセデスアルノの女性を覚えているか聞きたいのだと、店主殿には話しました。わたしが父親に会ったことがないとも」

 「なるほど」

 それだけ聞けば、この男がブランの息子だとほのめかしているのだと、レウォルが思ったのも無理はない。

 だがヴェルは意図してそういった言い方を選んだとしても、ブランの息子だとは、言っていないのだ。

 ブランに引き合わせようと思わせるための計略であったのだろうが、それについては特に苛立ちも怒りも感じてはいない。なにしろブランとレウォルの付き合いは長いのだ。口止めすれば言いふらすようなレウォルではないし、下手な言い訳をしなくとも、関わるべきでないラインを察し、突っ込むようなことはしないだろう。

 そのくらいには、互いに信用がある間柄だ。

 「レニエに子供がいるとは聞いていない」

 「おっしゃるとおりです。未婚の、まして貴族の女性が子を産むなど、醜聞以外のなにものでもありませんから」

 自身が日陰の存在であることを、他人事のようにヴェルは肯定してみせた。


レニエはヴェルに何度も言ったものだ。

 「あの人を愛していたわ」

 だから、彼女は思いもかけず身籠もった子を、堕ろすことを選ばず、この世に産み落としたのだと。


 「まして、レニエはアリアス家にあって、かの血筋を継ぐ最後の女性です」

 レニエを幸せにはしなかった、彼女の継ぐ血統からも、ヴェルの生まれは隠された。

 ブランの記憶に残るレニエは、煙る灰色の髪に榛色の瞳をした儚げな美貌の女性であった。触れれば折れるような嫋やかな彼女は、男の庇護欲を煽る存在でもある。

 だからこそ、レニエの幼馴染みであったあの男は、彼女を愛し、護ろうとした。縋る彼女の手を、振り払えず、抱き込んで護ることを選んだ。

 「わたしは表向き、娼婦の子として芸人宿で育てられました」

 ヴェルの言うことが嘘であるとは思っていない。

 それに芸人宿育ちというのは、吟遊詩人として生計をたてられるだけのものを、身につけられた理由としては十分だ。

 「芸人宿では剣も習えるのか?」

 敵意がないことを示す意味で、ヴェルの手は何も持たずに机上に置かれている。ブランの視線が、己の手に注がれているのに、ヴェルはハッと右手を握り込んだ。

 楽器を演奏するだけの吟遊詩人にはない剣ダコが、彼の手にはある。

 護身のためというには、年季の入ったものだ。

 「引退した騎士の手解きを受けました。カルタール家の差し金で、跡取りの予備としてですね」

 礼儀作法もだが、早いうちに将来は吟遊詩人で食べていくつもりであったヴェルにとっても、あって邪魔にはならない技能であったため、強制されたものでも文句を言わずに習得に励んだ。その辺りは、芸人宿の女将に諭されたこともある。

 そうでなければ、子供心に辛い剣の修行や窮屈な礼儀作法の練習など、おとなしく受けられなかっただろう。

 「ただ、カルタール家はわたしの実母がレニエ・アリアスであると知りません。わたしも知ったのは十を過ぎてからでした」

 幼すぎる子供では、事情も理解できないだろうし秘密も守れないと判断されたのだ。

 「あいつはカルタールの庶子だったな」

 カルタール家はセデスアルノの地方貴族で騎士爵家である。小さいが領地もあり、実質男爵家に近い家格だ。

 「それで、俺に何を望む?ヴェルドの息子」

 ブランは初めて、彼の父の名を口にした。

 隠されてきたレニエの息子だと明かして彼が望むものを、ブランは問う。




 産まれたときには既に故人であった父は、自分と同じ黒髪だったという。目の前の男と同じだ。

 真っ直ぐな黒髪は一緒だねと、祖母によく言われた。父の瞳の色は、自分よりももう少し深い暗青色だったという。

 薄紫の瞳を向けられ、ヴェルは今一度己の裡にある望みを確かめた。

 緊張しているのだろう、口の中が妙に渇く。

 それはそうだ。亡き父の親友であったというこの男は、国を相手に戦えるとさえ言われる異名持ちであるのだ。

 顔を見ることのなかった父が生きていた時と変わらない姿で、彼は前に立つ。だが、この男の上にも、四十年を超える月日は流れたのだ。

 そして、この場にいるのは、父の血を継いだ自分である。

 ヴェルは目をそらすことなく、彼の視線を受け止めた。

 これからの交渉をしくじり、この男が敵となったら、望みは潰えるのだと、覚悟を決めなければならなかった。




 ヴェルとその客のいる部屋は二階の端部屋であり、たまたま隣室は空いていた。

 「姉ちゃん、ヤバイって」

 女将が軽食の支度に調理場に入った途端、マティリアーナは足音を忍ばせて階段を上る。

 「うるさいわね。邪魔しないでよ」

 たまたま見とがめた弟のテリエスが引き留めるのも聞かず、マティリアーナはこそこそと人のいない部屋に入り込んだ。

 「母ちゃんに怒られるってば」

 声を潜めながら、テリエスは恐る恐る姉の袖を引っ張る。

 「師匠と黒の魔術師が何話してるのか気になるのよ」

 「だからって、盗み聞きなんて、母ちゃんが知ったら」

 「お部屋の片付けしていて、たまたまお隣の話が聞こえたなら仕方ないでしょ」

 母親には釘を刺されたが、好奇心が上回ったマティリアーナは、ヴェル師匠が心配だと自分に言い訳して、盗み聞きを心の中で正当化する。

 隣室との壁に張り付いて、聞き耳を立てている姉に、テリエスは諦めと、呆れた目を向けた。

 「姉ちゃん」

 「しーっ、黙って」

 壁に耳をつけたまま、唇の前に指を立てるマティリアーナだが、一向に聞こえてこない話し声に首を傾げる。

 おかしい。安普請とまでは言わないが、隣室の音がこうまで聞こえないほど壁は厚くないはずだ。

 「あのさ、姉ちゃん」

 「うるさい」

 「黒の魔術師様なら、結界とか軽く張れるんじゃね」

 「うるさいって言ってるでしょ‥‥‥結界?」

 姉の怒りを買うのも嫌だと思いながら、それでもほうっておけなかったテリエスは、ようやく話を聞いてくれる気になったかと思う。知らない振りして、後でマティリアーナに八つ当たりされるのも、ごめんだったのだ。

 とかく姉や兄といった年上の兄弟は、弟にとって理不尽な真似を平然としてやる。この力関係は、多くが一生そのままだったりするものだ。

 「こんなとこで大事な話すんなら、声、聞こえなくする魔法とか使ってるって」

 「あんた、それ早く言いなさいよ!」

 馬鹿みたいじゃないのと、無駄なことをやった恥ずかしさもあって、マティリアーナはくわっと、弟に怒りの顔を向けた。


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