女伯爵の館
王都の南側に建つリュレの館は、品の良い造りの邸宅だった。
市街地からは若干距離があるが遠すぎず、落ち着いた佇まいの屋敷が適度に離れて建つ、静かな環境の中にある館は、建てられてからの年数を感じさせる壁も、程よい風格を漂わせている。
庭は広く、様々な草木、特にハーブが多く植えられ、手入れが行き届いた明るい印象が見受けられた。
なかなか瀟洒な造りの鉄製の門扉をくぐり、玄関前で二人は騎竜から降りる。
「こんにちは、ハルドレッドさん。ルディをリュレ様のところへお願いできるかしら」
玄関で出迎えてくれた使用人らしき中年の男性に、デューレイアは気さくに声をかけた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたデューレイア様。こちらの方がルディシアール様でございますね。応接間へお連れするように聞いております」
「そう、わたしはまだリュレ様のお使いがあるから」
「デューア姉さん」
リュレの邸宅とはいえ、一人残される心細さから、ルディは不安そうな顔をしてデューレイアを見る。
その様子に、そういえばこの子は人見知りする質だったと、デューレイアは思い出した。
「ルディ、こちらは家令のハルドレッドさんよ」
「はじめまして」
ルディは慌てて挨拶をする。
「わたしは今から魔法ギルド本部へ行かなくちゃならないの。ハルドレッドさん、ルディをお願いね」
「はい」
一礼するハルドレッドとルディに軽く手を振って、デューレイアは騎乗した。
「こちらへ」
緊張しているが落ち着かず、不安そうに周りを見ているルディの様子を見ない振りをして、ハルドレッドは屋敷の中へ招き入れた。
「この館は昔は貴族の別邸であったものを六十年程前にリュレ様が買い取られ、改築されたものです。住み込みの使用人はわたくしと、女性が二人と男性が一人、料理人の男性が一人です。後ほどご挨拶させていただきます」
重厚な木の扉の前で、ハルドレッドは立ち止まった。
「こちらが応接間になります」
扉を睨みつけるように見てから深呼吸をするルディの前で、ハルドレッドはノックして返事を待ち、扉を開けた。
「失礼いたします。ルディシアール様をお連れいたしました」
広い応接間の中央に設えられた、細かい細工のなされた年代物の黒い木製の長テーブルと、十二脚ある布の張られた豪奢な椅子のセット。
薄い紫色をした裾の長いドレスを着たリュレは、明るい窓辺に別に置かれた洒落た丸テーブルと二脚の椅子の、その奥にある方の椅子に座っていた。
「久し振りだな」
光に輝く黄金の髪をした繊細な美貌の女性は、髪と同じ色をした双眸で、入り口に立つルディをみつめた。
「はい」
この応接間の何よりも存在感のある美女に気圧されながら、丁寧にお辞儀をしたルディを、リュレは視線で招き入れる。
ハルドレッドは一礼して、部屋を出て扉を静かに閉じた。
自分の前の椅子に座るように勧め、ルディが躊躇いながらも腰を降ろしてから、リュレは口火を切った。
「その顔では、養子の話は聞いているな」
「デューレイアさんに聞きました。今まで僕に知らされなかったのは、その必要がなかったからだって言われました」
「その通りだ。気に入らないか?」
「自分のことなのに勝手に決められて、気分が良いはずないです」
「そうか。正式な手続きを踏んで、わたしはお前を養子に迎えた。シエロの家には十分な支度金を払ってある。魔法ギルドでの当面の優遇措置も取ってやった。条件は、お前との一切の縁を切ることだ。あちらに不服はあるまいよ」
これから後も含め不服は言わせないと、リュレは言っているのだった。
それよりも思いもしなかった条件の内容に、ルディは問い返した。
「縁を切るってどういうことですか」
「言葉の通りだ。お前との関わりは総て切らせた。今後、シエロ家とお前は赤の他人だ」
そしてそれは養子縁組の書面でもはっきり書き記されている。
互いの相続権の完全な放棄はもとより、手紙のやり取りを含め一切の交流の禁止、今後は親子と呼ぶことも許さないという徹底した血縁関係の解消をリュレは望み、実行した。
「そんなこと、できるわけないでしょう」
「あちらは承知したぞ。それに、これはもう決まったことだ」
「‥‥嘘だ‥」
魔法学校に入学してから、実家とはほとんど絶縁状態にあった。兄であるリュシュワールとも最低限の会話しかなかったし、妹のアリアルーナには校内で話しかけるなとまで言われた。
それでもルディにとっては血の繋がった家族なのだ。
多少邪険にされていたかもしれないが、ちゃんと育ててもらったのは事実だ。
家族として暮らした過去のすべてまで、否定出来るものではなかった。
それなのに、これではおまえはいらないと言われたに等しい。
「あの家にお前の居場所があったとも思えないが」
「そんなことはない‥‥‥です」
「お前がそう思いたいだけだ。過去はともあれ、もはやあの家にお前の居場所はない。いや、あってはならない」
容赦なくリュレはルディの願望を打ち砕く。
「まだ、わかってはおらんのか。ルディシアール、お前以外の空魔法の使い手がどのような立場におかれているか知っているか?」
「僕の他に二人いると聞きました」
「マルドナーク皇国のユユレナ・ミーティ侯爵夫人。もとは辺境に小さな領地を持つ男爵家の末娘だが、それが皇家に連なる名門の正夫人、夫は軍の重鎮だ。実家の男爵家も引き上げられ、領地も加増され子爵家となった。まさに玉の輿だな」
傍から見れば、辺境の貴族の端に引っかかる男爵家に生まれた娘が、国でも有数の大貴族の正室に納まる。これ以上ない出世だ。
だが、それだけではないとリュレは言った。
「お前も知っての通り、マルドナークは名にし負う軍事大国だ」
彼の皇国は百二十年前の大戦で、周辺の小国家を併合して現在の大国の基礎を築いた。
そのあたりの歴史は、ルディも学校で学んでいるが、リュレはそれを前提にして、空魔法について語る。
「さて、空魔法の代表的なものに空間収納魔法がある。一般的には魔法収納庫、魔法鞄と呼ばれている物がそれだ。これの軍隊における価値は大きいぞ。何しろ、物資の補給能力が格段に違う。極言すれば、兵士一人に魔法鞄一つを持たせれば、実質補給の必要はなくなるといって良い」
食料、衣料、武器、薬、軍隊が活動するために必要な物資は膨大な量に及ぶ。
しかし、これを兵士が必要なだけ自分の持つ鞄一つで持ち運ぶことが出来れば、そこまでいかなくても、補給が格段に楽になるのだ。
当然としてそれにより、軍隊の活動範囲は大幅に広がる。
「他にも瞬時に物を送る転送魔法。大きい物は無理でも手紙がやり取りできれば、十分情報の伝達には役立つ。このような魔法を使える者がいたら、国がどう動くか考えずともわかろう」
つまり、マルドナーク皇国は空魔法を使える娘を、軍の重鎮と結婚させることで、国に取り込んだのだと、ルディは理解した。
「ユエ共和国のコカ・ラン・デテは現在は学都リンデスの参議員になっているが、共和国の屋台骨である商業ギルド相手に、随分稼いでいるようだ。魔法鞄の供給もだが、こちらは商売として転送魔法で、情報のやり取りの仲介をしているな。共和国と商業ギルドに優先権を与えることで、後ろ盾としての保障を得ている。いわば、コカ・ラン・デテは空魔法を売って安全を国から買い、国は彼を保護するという契約だ」
リュレは机の上に置かれた小箱を開いた。
箱に納まっているのは、真紅の魔石。最高級の品質を持つそれに込められているのは、転移魔法。他でもない、一昨日ルディが魔法を封じ込めたものだ。
「そこにお前が現れた。三人目の空魔法の使い手、それも過去数百年いなかった転移魔法を使える魔力の持ち主。どう思うかな」
突きつけられた自身の立場に、ルディは手が震える。
今まで、そんなこと考えたこともない。ブランに三人目の稀少な魔法の使い手であり、王宮が動くと言われた。
でも国がといわれても、実際の所とても実感がわかなかった。ごく一般的な魔術師の家庭に生まれ育ったルディの意識は、まだ庶民のものでしかないのだ。
だからこそリュレは、国単位の思惑を向けられる対象であると、はっきりと具体的に言って聞かせる。
「お前の魔力はいずれ人の境界を超える。ブランから聞いているだろうが、これはわたしも断言しよう。そして琥珀の件で、マルドナークを始めとする諸外国の多くも、お前が異名持ちになることは確信したことだろう」
厳しいリュレの視線がルディに向けられていた。
「そのうえで、お前の固有魔法が空属性であると、空魔法を使う異名持ちとなるのだと知ったら、どう動くと思う?」
「それは‥‥‥」
放ってはおかないだろうと、さすがにルディでも理解はできる。
「手中に収められるものなら、手段は問わぬだろうな。だが、手に入らぬとなれば殺す。異名持ちに成長しきる前に」
自分のことを言っているのだと、リュレの言葉にびくりと身を震わせた。
マルドナーク皇国とユエ共和国、どちらの国も空魔法の術師を取り込むのに、有効的かつ、他国が文句をつけようもない正当な手段を取ったのは、国の体面を繕う余裕があったからだ。
それができなければ、なりふり構わない手段に出ることは当たり前に考えられる。
「当然だろう。使い方次第で空魔法は国の版図を変える可能性がある。それが異名持ちだぞ。彼の二国だけではない、国家間にとって危険な火種であると思う輩も少なくはない。我がエール=シオン王国の中にも、そう考える者もいるだろう」
「僕はそんな」
「お前の意思ではない、力の存在が問題となるのだ。こんな物を容易くつくれる無力な子供。それが今のお前だ、ルディシアール」
国宝級といった転移の魔石。だが、それをつくるのはルディには難しいことではなかった。
材料となる魔石こそ、相応の魔力を封じ安定性を高める為に最上級を求められるが、それさえあれば幾つでも転移魔法を封じることは出来るだろう。
それだけではない。ルディの魔力なら、空魔法の魔導具を国が望むだけ作り出せる。
「わたしはお前を養子とした。わたしに喧嘩を売るような者は、そう多くはないぞ」
異名持ちであることの他に、肩書きだけでもエール=シオン宮廷魔術師にして女伯爵、王室顧問官、魔法ギルド常任理事など不自由しない彼女は、それ以上に強大な魔術師として多くの国々で畏敬の念を持たれている。
百年以上にわたり、他国にも大きな影響力を持ち、この国を守護してきた黄金の天秤操者は、現国王の即位にあたっても大きな後ろ盾の一つであったという。
故に彼女の保護を得ることは、エール=シオン王国の保護を得ることにも等しいのだ。
「だが、他の者はどうかな。お前に連なる者、最大の問題は血縁者だ。お前と縁は切らせたが、もしこの先障害となるなら、わたしは彼らを排除するだろう」
「排除って‥‥‥」
「わからないか?」
排除、すなわち殺すことを含むということだと、リュレの誤解しようのない冷たい瞳が告げていた。
「そんなこと、させない」
流石にこれには激昂したルディが、椅子から立ち上がって机に乗りだしてリュレを睨み付ける。
「さて、どうする?」
口の端を緩く持ち上げ、嘲笑に近い表情を浮かべたリュレの言葉が終わらないうちに、ルディから全身の力が急激に失せた。
目の前が暗くなり、身体が傾ぐ。倒れたのだと分かったときには、腕一本持ち上げられない状態で床に転がっていた。
「甘いな。お前はブランに何を教えられているのだ。阻止したいならこうなる前に、わたしの首を搔き切るくらいの覚悟をしてみせよ」
椅子に座ったまま見下ろしているだろうリュレの言葉がかろうじて聞き取れるが、ルディは身動き一つ出来なかった。
この人はおそらく力を自由に奪うことができるのだと、自分の状態からルディは推測した。
「わかったようだが、わたしは他者の生命力を奪うことも与えることもできる。この距離であれば、一瞬で殺すことも容易い」
『黄金の天秤操者』というリュレの異名の由来がこの固有魔法だ。天秤に載せられるのは人の生命力。魔術師として永きを生きてきた彼女の格の違いを、ルディは思い知らされた。
「そのままで聞け。必要があればとわたしは言った。それはわかるな」
ルディが声を出すことも、頷くことも出来ないとわかっているリュレは、了承を求めているわけではなく、一方的にやるべきことを話しているだけだ。
「ならば、そうさせないためにはどうすれば良いか。他人として一切の関わりを持たず、それを周囲に知らしめよ。シエロ家はお前を金で売ったと言われるだろうが、それを擁護することなく絶縁の理由とすることだ。それがお前にできる彼らを守る最良の方法だ」
そこまでを感情のこもらない声で告げたリュレは、平坦な口調はそのままに、わずかに彩を変える。
「わたしとて、無為にお前を哀しませたくはないと思っているのだぞ。これでお前をなかなかに、気に入っているのだからな」
「僕が空魔法の使い手、だからですか」
さっきより、身体に力が戻ってきていた。まだ動けないが小さな声を出すくらいは出来る。
おそらく少しずつ、リュレが奪った生命力を戻してくれているのだろう。
「稀少な魔法だ。手元にあるというのに亡くすのは惜しい」
小さく笑ってリュレは肯定してみせる。子供が拗ねていると、彼女の目には映っていた。
可愛いではないかと思うくらいには、経験や年齢差からくる余裕が彼女にはある。
「僕は道具‥‥‥ですか」
認めるのは悔しいが、自分の立場は思い知らされた。
「お前に限らず、魔術師など道具と思う輩も多いぞ。道具でいるのが嫌なら、力を付ければ良い。わたしに、ブラン、この国も、使えるものは使って己が力とせよ」
どこか愉しそうなリュレの声に、ルディはこの女性が自分に与えてくれたものの多さを思う。
リュレはもともとルディにとって命の恩人であり、公私にわたって、いろいろ助けてくれた後見人でもある。
今度もやり方には腹が立ったものの、彼女は自分を守ろうとしてくれているのだと、ルディはようやく気がついた。
だいぶ身体に力が戻ってきたので、腕をついてゆっくりと身体を起こす。
もとが素直なルディである。
自分の意思を無視した理不尽なやり方であったとしても、好意と援助の手を差し伸べてくれているとわかった相手に、怒りを抱き続けることはできなかった。
「ルディシアール、気づいているか?お前は、一度も魔法を厭う言葉を吐いていないぞ」
リュレに言われるまでもなかった。
ルディはこうなった原因である空魔法を否定したことはない。
要らないとは、口が裂けても言わないだろう。
「先生に魔法を捨てるかと言われたことがあります」
あのときにはよく分からなかったが、今になってブランが言っていた意味が分かる。
「あの男にはそれができるからな。それで?」
「できません。空魔法は僕の魔法です」
答えは変わらない。
あの時、こうなることがわかっていても自分は魔法を選んだだろうと、ルディは確信していた。
「リュレ様に魔力を戻してもらい、先生に魔法を貰いました。そうでなければきっと僕は死んでいました」
リュレにはもしあのまま魔石に魔力を吸われ続けていたら、遠からず許容量以上に魔力を吸いすぎた魔石は砕け、行き先をなくしたルディの魔力は暴走して死んでいただろうとも言われていた。
でも、それ以前に魔法がない自分が生きていられたとは、ルディには思えなかったのだ。自分は魔法がなくては生きていけない生き物なのだと、自覚するのは簡単なことだった。
魔法を否定することは、ルディには絶対にできない。
「魔法は捨てられません」
「ならば、仕方あるまい。せいぜい足掻くことだ。そうだ、いろいろと五月蠅い輩はいるが、空魔法が使えることは吹聴せずとも無理に隠すことはないぞ」
いや、隠さないとやばくありませんかと言いたげなルディに、軽くリュレは笑った。
「どうせ知るべきところは突き止める。無駄なことだ」
「なんかそれ、すごく嫌な感じがします」
顔を顰めるルディに、大人の事情とはそんなものだとリュレは含み笑いを浮かべた。
「そろそろ立てるか。大体戻したが、学校に戻るのは無理だろう。お前の部屋は用意してあるから、今日は泊まっていけ」
全身が酷く怠い。なんとか立ち上がって、椅子に座ることが出来たが、すぐにでも横になりたいと思う。
リュレが呼んだハルドレッドに支えられ、これから自分にと用意された部屋まで連れていって貰い、そのままルディはベッドにダイブする。
情けないとは思うが、心身共に限界だった。