拉致 前編
明日は休日という日の夕方、エルは兄のクロマから今月分の小遣いを貰った。
「無駄遣いするなよ」
「してねえって」
学生街の武器屋巡りをして、ダガーの掘り出し物を探すのが最近の楽しみではあるが、根がしっかり者のエルはそのための貯金もちゃんとしている。
「あのさ兄貴、手紙とかってルディのクソ兄貴のとこにもきてんだろ」
「そりゃ、トゥルダスの魔法ギルドの定期便に乗っけてもらうのが一番確実で安く付くから、リューのとこもウチのと一緒に届いてるぞ。しっかしお前がリューのこと嫌ってんのは知ってるが、一応俺とパーティ組んでいるんだし、クソ兄貴ってのは」
「良いんだよ、あんな奴。だってひでぇだろ、自分だけ家から手紙や仕送りもらってんのに、ルディには手紙もないんだぜ。アイツ、奨学金あるからって仕送り無しだし、それどころか金かかるから手紙も出さなくて良いって言われてるって、兄貴だって知ってるだろ。それでも半年試験の時は出来が悪けりゃ自主退学とかかかってるから、合格したことくらいは知らせようとしたのに、余計なことするなって言われてさ」
まくし立てる弟の言い分を聞いて、クロマもさすがになんと言ったらいいか、言葉に詰まった。
シエロ家との便りのやりとりがリュシュワールとの間しか行われていないことはクロマも知っていたが、自分も家とは弟の分とまとめてやり取りしていたから、そんなものだととらえていたのだ。まさかルディには手紙一つないとは思ってもいなかった。
「あそこの家の仲が拗れてんのは知ってたが、なんでそこまで」
少なくとも、クロマがトゥルダスにいた頃は、ルディの扱いもちょっとなおざりなとこがあるとはいえ、そんなに酷くはなかったはずだ。
それがルディが魔法学校を受験することになってから、弟に対するリュシュワールの態度が目に見えて悪くなってきたのに、クロマも気がついていた。しかし、まさか家族からそこまでルディが孤立しているとは思ってもいなかったのだ。
「魔力がなくて出来損ない扱いされてたときより、魔力があるってわかってからの方が悪くなるなんてわけわかんねぇよ。これで来年、妹まで入学してきたらフローネがまた爆発するぜ」
ガシガシと茶色の頭をかきながら、エルは自分もホントにあそこの兄妹には腹が立つとクロマに愚痴をこぼした。フローネとシエロ家の末娘アリアルーナの仲の悪さは、近所でも評判だったし、一番にとばっちりをうけるのはエルなのだ。
「ルナちゃんもキツイからな」
クロマもそれを考えると気が重くなる。何しろフローネに当たられたエルの愚痴を聞かされるのは毎回自分の役目なのだ。
ルディと同じ祖父譲りの銀髪の美少女は、魔力も高いし頭も運動神経も良いが、その分プライドが高く、甘やかされて育ったためかかなりキツイ性格をしていた。また、彼女と比較されるのが近所でも年の近いフローネであるのも悪かった。
「フローネに敵わないもんだから、余計ルディに当たるからさ。それでまたフローネがキレて」
どうにも出来ない悪循環だと、間に挟まれる身になってくれと、エルがぼやく。
「実際、魔力はあの家でも一番高いんじゃないかって言われてるらしいし、学校の成績だって良いもんな。フローネちゃんとタイプは違うが、どっちもなかなかの美少女なんだけどなぁ」
「そうなんだよな。ルディがアレだから、余計になんつーか」
「お前の言いたいことはわかる。あれはちょっと別格だ。男でしかも兄貴のが美人だってのはちょっとな」
瞳の色はルディが淡い青でアリアルーナは青緑だが、髪の色は同じ銀だ。血が繋がっているだけに顔立ちも似たところがあるから、余計に比較されやすい。いっそフローネのようにまるっきりタイプの違う可愛い系だったら、また違っていただろう。
「だからって、自分の兄のこと、顔だけはいいけど魔力のない出来損ないだって言うか、普通」
あんなの見てくれだけだけで魔力もない出来損ないなのよと、堂々と言っているのだから、フローネが怒るのも無理はないとエルだって思う。
憤慨するエルを宥めるクロマだが、自分も弟と友人の間に挟まれて苦労しているのだ。兄弟して同じような気苦労が多いのも、結局二人ともが面倒見の良い性格をしているということだろう。
「ルディはああいう性格だし、あんま言わねぇけどな。あっと兄貴、このことはクソ兄貴には言わねぇでくれよ。ルディが余計に虐められちまう」
今までの様子から、下手な忠告はリュシュワールの機嫌を損ねるだけで、ルディへの風当たりがさらに強くなると、エルもなんとなくわかっていたし、その辺はクロマも同感だった。
一通り愚痴を聞いて貰って、ちょっとすっきりしたという弟の肩を、クロマは軽く叩いた。
翌日三人は朝から連れ立って、学生街の店をあちこち回っていた。
エルのダガー探しが主である武器屋巡りではあったが、今回初めて来た店では、フローネもレイピアやショートソードの類を興味津々で見て回った。
彼女の普段の帯剣はショートソードだ。
ルディが投げナイフや弓などを手に取っているのを見て、フローネは珍しい物を見ていると思って寄っていった。
「飛び道具って使わないでしょ」
中距離、遠距離攻撃用の武器は、魔法を使う魔術師には無用の代物だ。魔法の方が絶対的に威力があるのだから、そんなものを使う魔術師はまずいない。
「ブラン先生がちょっとだけ教えてくれたんだけど、剣よりは才能あるって言われたんだ」
「弓はともかく、投げナイフとかならありかもね」
とっさの反撃には、それも有効かもとフローネは言う。
それにしても魔法の先生だって言っていたけど、ルディに何教えているのかと、公開練習試合の時に見たやたら顔の良い黒髪の青年をフローネは思い出していた。
「先生が使っていたのは、もっとこれより小さい刃物なんだけど」
「暗器かい?」
店の主人が声をかけてきた。二人の子は剣と一緒に杖を持っているし、この子の剣は魔導具でもあるから、魔法学校の生徒だと見当を付けた。
それにしても傭兵なんかには使い手がいるが、騎士学校ではなく魔法学校の生徒が珍しい物を欲しがるものだと思う。
「隠し武器のことだよ。礫とか針、坊やの言うような投擲用の小型の刃物なら、少しはウチにも置いてあるよ。見るかい?」
ちょっと小太りでそろそろ老年に差し掛かろうかという店の主人は、棚から小さな投擲用の刃物が入った箱を取り出した。
「護身用には良い選択かも知れんよ。魔術師ならとっさのとき、詠唱の時間稼ぎに使える。もっとも、かなり練習も必要だから、魔術師にはあまりウケないかな」
とっさの時も詠唱無しで魔法を使うルディに、ブランが飛び道具の技を教えようと思ったのは、それが剣と並んで魔術師を殺害する常套手段だからだ。
魔法を使わせない近接戦闘での剣と、魔力を察知されない飛び道具。攻撃手段を知らずして、護るなどできようはずもなく、飛び道具の有効射程距離、射手の位置、状況に応じた様々な要因は知っておくべきことだと判断したのだ。
「ありがとうございます。先生にどんなのが良いか相談してみます」
「それが良い。坊やは予備の剣はいらないのかい?」
一目で逸品とわかるミスリルのスモールソードを持っているルディを上客と見たのか、ニコニコしながら聞いてきた。
「済みません、それも先生か姉さんに聞いてみます。これも姉さんが選んでくれた物で、僕は剣とか良くわからないんです」
正直に見る目がないと答えたルディに、主人は気を悪くすることなくそれで良いと言う。
「下手に知ったかぶりして変な物売りつけられるより、聞ける人がいるなら一緒に選んで貰うのが正解だよ」
「そうね。誰かさんはどうか知らないけど」
向こうの方で唸りながらダガーと値札を見比べているエルを見て、フローネはクスリと笑った。
昼は麺が良いと、わりと気に入っている店で食事をする。
午前中は武器屋を回って終わった。エルが欲しいと思う物はやはり値段も良かったから、結局見ただけで何も買っていない。
「金貯まる前に売れちまうよなぁ」
最後の店で一つ凄く気に入った物があったのだが、とても手が出ない価格であったため、手が届かないとわかっていてもなおエルはまだ未練タラタラであった。本当の逸品は子供の小遣いで買えるような値段ではないのだ。
「その前に剣の腕も上げなさいよね。せめてサーニファ相手に余裕で勝ち越せるようになるのが先でしょ」
自分にと言わないあたりが、フローネの自信であり思いやりだ。
「それも結構キツイんだけどな」
「やっぱりサーニャも強いんだ」
「エルと良い勝負ね。ルディもまた一緒に練習しましょ」
「僕相手じゃフローネが練習にならないって」
「ルディはわたしと練習するの嫌?」
さすがフローネそうくるかと、エルは巧妙な誘い方に思わずにやついた。そんな言い方されれば、ルディがどう答えるかなんて聞くまでもない。
ちなみにエルはルディの参加は大歓迎だ。なにしろフローネの機嫌が良くなるし、ひょっとしたらルディのオマケで手加減とは行かないまでも、若干は柔らかく相手をしてくれるかも知れないと期待すること大だ。
「そんなことないけど、僕下手だから」
「だから教えてあげる。ね、たまには一緒に練習しましょ。ダメ?」
そこまで言われて嫌だと答えられるはずがなかった。
ルディの隣でエルはこっそり手を叩いている。
三人は昼食を終えて店を出、ペンなどの文具の店へ向かっていた。その後で日用品を買いに雑貨店へ行き、ルディの希望する食料品は、かさばるから最後ということになっていた。
「いーなぁ、わたしもルディの作ったご飯食べたい」
「俺も」
「それじゃ、果物のパイとか余分に作っておやつに持って行くよ。それで良い?」
「やった」
もちろんだと、フローネはニコニコして早速何のパイが良いかなと、通りかかった店頭の果物などを見て考え始めた。その様子に、エルはさっさと買い物済ませてゆっくり選べば良いだろうとフローネを引っ張った。
「おい」
「わたしも気づいた」
二人して目を合わせ、やはり間違いではないと確かめ合う。
「ルディちょっと」
エルがさりげなくルディの肩に手をやって、こそりと目配せをした。
「うん、わかってる」
実はこういう事態は初めてではない。王都の学生街は飛び抜けて治安の良い地区ではあるが、危険がないわけではないのだ。
特にルディを筆頭にこの三人は容姿の良さでとても目立っている。故郷のトゥルダスでも、タチの悪い連中に絡まれたり、怪しい連中に誘拐まがいのことをされかけたことも何度かあったのだ。ここでも変な輩に誘われるなどは珍しくなかった。
だが、今回のは何となくヤバイ気がすると、三人は直感した。気配が違うのだ。
ルディは風魔法でそっと伺ってみたが、腕が良い魔術師なのか直ぐに気づかれ、魔法を断ち切られてしまった。
「逃げよう」
フローネは直ぐに無理をせず逃げることを選択した。腕が立つからと自惚れない状況判断は、彼女の賢さでもある。
「あそこ二つ先の角、右に曲がってちょっと行ったとこに警邏の詰め所がある」
そこが一番近いというエルが先に立って、相手を刺激しないように自然に振る舞いつつそちらへ向かう。
違う方向からも嫌な気配をした男が近づいてくるのに、三人は少し脚を速め、目的の角を曲がった。
その瞬間、影が周囲を覆う。
「ルディ?」
「閉じられた」
道の真ん中で足を止めたルディに訝るが、エルもフローネもすぐに異変に気づいた。かなり広い道であるのに、誰もいないのだ。しかも、直ぐそこの街の喧騒も聞こえなくなっている。
前方に二つの人影が現れる。商人のような風体をしているが、纏う気配がまるで違う。抜き身の剣、それも杖として使える魔導具であるものを構えている時点で、待ち伏せをしていたのだと気づく。
かなり体格の良い中年の男と、がっしりとしたやはり同じくらいの年代の男性だ。
後ろから三人を追ってきた二人の男の気配が迫ってきた。やはり身なりは普通の街の人のようではあるが、ここにきて捕獲者の気配を隠そうともしなくなっていた。
そちらからは攻撃魔法、氷矢、風弾の詠唱が聞こえる。
追い込まれたのだと三人は悟った。フローネとエルが剣と杖を抜くが、詠唱を始める前に待ち伏せしていた男達から、炎刃が放たれた。
相手はおそらく手練れの魔術師、あるいは魔法剣士であり、確実にこちらが追い込まれている。だけどまだだと、ルディは逃れる手段があると思っていた。魔法は使えるのだ。
手加減なんて余裕のある者がすることだと、彼は師達から繰り返し言われていた。生きるため、護るためなら躊躇うことはないと、ルディは瞬時にそれを選択する。
ルディは風楯を展開し炎刃を止め、真上から雷閃牙を四人に向かって同時に撃ち込んだ。
魔術師、魔法剣士だろう彼らが護りの楯の魔法を展開しているのはわかっているが、それは撃ち抜ける。上からだと命中率は下がるが外さない自信があったし、周囲への被害は最低限に抑えられる。
命中すれば彼らを殺すことになると知っていて、ルディは躊躇わなかった。
だが、雷の牙は、彼らの楯を貫いたが、身体に至ることなくその下に重ねられた新たな楯に止められた。
「残念。良い判断だったんだけどね」
それはルディに向けられた言葉だった。
影から、一つの鮮やかな闇が美しい姿を取って現れる。
「この子はアンタ達の手には負えないわ」
吟遊詩人か舞台役者といった派手な衣装を纏った艶やかな美貌の青年だ。琥珀色の髪を複雑に編み込み左に垂らした彼は、翡翠の瞳をぴたりとルディに向けていた。
「君、そう銀の髪の君よ。こっちに来なさい。アタシ達が欲しいのは君だけだからね、二人は逃がしてあげても良いのよ。素直に従えば悪いようにはしないわ」
尊大な態度で、舞台の上に立つ役者のような優雅さを持って、彼は命令する。絶対的な強者の力がそれを裏付けていた。
ルディを後ろに庇う形で剣を抜いていたフローネとエルは、彼に向けられたルディの瞳が恐怖に染まったのを見ることは出来なかった。だが、隠しきれない怯えが幼馴染みの少年から伝わってくるのがわかる。
「逃げてっエル、フローネ!」
駄目だと、彼を一目見た瞬間にルディは直感した。
彼は自分の師、ブランと同じだ。
「ルディ!?」
目の前にいる者が尋常でないのはフローネにもエルにもわかっていた。けれど、ルディほどに、それが何であるのかは知りようもなかった。
自分達がとてつもなくまずい状態に置かれていることは、とっくに理解できていた。未だかつてない生命の危機だとわかるから、冷静になれとフローネは己を叱咤する。
小声で風楯の呪文を唱え、普段は可愛らしい印象に包まれた顔を、緊張で青ざめさせながらも諦めず、剣と杖を構えて彼らを睨みつける。
隣のエルもまた、フローネの気配を感じながら、炎槍の詠唱をし、息を合わせたように少しずつ後退していく。
「お前が先にいけ」
「そうよ、逃げてルディ」
タイミングを見て、待機状態になった炎槍を撃つからその隙に逃げろという。彼らはルディが目的だと、はっきりと言ったのだ。
こいつらがとてつもなくヤバイ連中なのは悟っていたが、それでも大事な幼馴染みをここで見捨てていくなど出来るはずもなかった。
可愛いじゃないと、琥珀の影絵使いの称号を持つ男は、銀の髪の少年を護るように必死に踏みこたえる二人に遊び心が刺激された。
余裕のまなざしに捉えられた少年少女が、自らの力量を悟りながらも、友人を護ろうと踏ん張る姿は、愚かしいが嫌いではなかった。こういう出来の良い子供は、見ていて気分が良い。
でも、もう少し分を知るべきだと、戯れに教えてみようかという気で無造作に足を踏み出した。
派手ななりをした「男」が、一歩前へ出たのに、自然と気圧されて、エルも、フローネでさえ無意識に後退っていた。
「二人とも、逃げて‥‥‥この人は駄目だ」
怖いと、震える身体を叱咤して、ルディはエルとフローネを後ろに庇うように前へ出た。
自分の敵う相手ではないとわかっている。それに、この人は自分を絶対に逃がしてはくれない。
幼い頃から二人はいつもルディを守ってくれていた。今も、前に立って守ろうとしてくれる。
でも、いつまでも守られるばかりなのは嫌だった。
自分だって、二人を守りたいと思う。たとえ、力が及ばなくても。
だから、ルディは二人の後ろにはいられない。
恐怖を押し殺し、ミスリルの愛剣を前に構えながら友人を後ろに置いた少年に、彼は鮮やかな美貌の面に唇の端を軽く歪めて笑みを零した。
「アタシのことがわかるんだ。やっぱり君、お仲間みたいね」
この歳の子ではあり得ない強大かつ成長途上の魔力と、何より魔法の使い方だ。
本能に根付いた感覚とでも言おうか、魔法という存在の本質を根源で知っているからこその、杖無し無詠唱。アタシのことがわかっているようだし、それを感じ取れるこの子は間違いなく同類だと琥珀色の髪をした男は嬉しそうに声を投げかけた。
重厚な男性の声で女言葉を話す違和感を、もう誰も気にする余裕はなかった。
「お友達を助けて欲しければ、大人しくしててね。君は見逃してあげられないから」
見かけよりもずっと強情そうな子供がどのくらいやれるのか見てみたいと、彼は興味のおもむくままに力を振るう。
華やかな男の美貌の面が、愉しそうな微笑みを浮かべ、影がルディを包み込んだ。
敵意に満ちた闇の空間がルディを取り巻いた。全身を貫く影の刃に晒され、全力で魔力を振り絞る。魔力そのものを護りに変えて、固く編み込み必死で影を退けるための防壁を自身の周りに張り巡らせた。
それでも、少しずつ護りの壁が削られ、影の刃が浸食してくる。
遊ばれているとわかっていた。その気になれば、自分など一撃で殺せる人なのだ。
それを、嬲るようにゆっくりと絶対的な力で儚い抵抗を削ぎ落としていっている。幸いなのは唯一、これが自分にだけ向けられていることだった。
エルとフローネは見逃されている。少なくとも自分が、持ちこたえられている間は、二人には手を出さないのだろう。
でも、長くは持たないことも否応なく悟っていた。
取り巻く影の檻はルディの抵抗を嘲笑うように、暴虐の刃でゆっくり裡に抱いた獲物を仕留めるために揺るがない。諦めたら終わりだとわかっていても、限界は遠くなかった。
無理な魔力の行使で息が上がってきた。ガンガンと痛む頭に、目の前が霞む。
漆黒に塗りつぶされた空間が、歪んで迫ってくるようだった。
「先生っ」
ガクガクと膝が震えて、限界を訴えている。
一矢を報うことなど無理なのはわかっていた。
でも、影の檻を壊すことは不可能でも、傷の一つも付けられずに一方的に嬲り殺されるなど、黒の魔法殺しの教え子たる矜持にかけて、絶対に受け入れられない。
追い詰められた意識が、たった一つのことに集中していく。
せめて、影の檻を、空間を破る。
「なに?」
嫌な予感に、琥珀の影絵使いは一気に刃を絞って、銀の少年の防壁を貫いた。押し寄せた圧倒的な衝撃が、ルディの意識を一瞬で刈り取る。
冷たい死の顎に全身が捕らえられる絶望を感じながら、ルディは闇に落ちていった。
致命的な刃が細い肢体に襲いかかったのに、彼はまずいと思った刹那で影を散らし、死に至る傷を負わせるのをギリギリで避けた。
「あっぶない、殺しちゃうとこだったわ」
自ら流した鮮血の中、深手を負って地に倒れたルディに、慌てて治癒魔法をかけて、琥珀の魔術師はついでに影の結界空間からフローネとエルを放り出した。
「琥珀殿」
二人の子供を逃がした異名持ちに、商人の風体をした男が不服げな声をかけるが、琥珀の魔術師はいいじゃないのと、とりあわなかった。
「アタシの攻撃を受けきった子へのご褒美よ。死体を作るのがアタシの仕事じゃないわ。それよりその子、さっさと持ってきなさいよ」
ひらひらと手を振る琥珀の魔術師に言われ、彼は視線で部下に指示を下した。
得物を仕舞い、大柄な商人を装った一人の男が、鞄から銀色の環を取り出し、別の男が血塗れの服に顔を顰めながら、抱き起こした意識のないルディの首にそれを嵌めた。
特別製の魔法封じの魔導具だ。装着した者が魔法を使おうとすると、魔導具に付けられた魔石が反応して魔力を吸い取り、放出してしまう。本来は魔術師の罪人に使う物で、もちろん違法品だ。
しかもルディに付けられたのは、普通一つである魔石が五つ、それも最高品質の魔石が使われている特別な物だった。
「ふうん、最高級の魔石五つか。今のその子なら取りあえず抑えられるわね」
魔石の数を増やすと干渉し合うため、五つまでを連動させるのが技術的な限界だ。
それでも異名持ちを封じるのは不可能だが、今のルディの魔力ならなんとか抑えられる物だった。
ルディの身体をざっと調べ、彼らは傷がすべて治っているのを確認する。
気絶しているだけであることを確かめ、体格の一番良い男が血に濡れた姿に躊躇しつつ肩に担ぎ上げた。
ルディの手から落ちたスモールソードは放置する。こんな一品物、所持していても処分しても足がつく代物だ。
彼らと一緒に、影の結界空間を維持したまま少し離れた場所に用意した拠点に向かって歩き始めた影絵使いは、意識のないまま担がれていく銀色の髪をした少年を見やった。
「それにしても、さっき」
嫌な気配を直感したから、つい一気に落としてしまったけれど、この子は一体何をしようとしたのだろうかという疑問が浮かんだ。
影の空間に干渉しかけたような感触だったような気もするが、いずれにせよ刹那の気配ではっきりとは掴めなかった。
「まあいっか。 あっちでゆっくり確かめれば」
取りあえずこの子はあの樽腹爺にはもったいないから、渡すことはやめようと琥珀の影絵使いは決めていた。
「ふふふっ可愛がってあげるからね。楽しみ楽しみ」
彼は綺麗な後輩を得たことで、久しぶりに楽しみが出来たと、すっかりご機嫌で足取りも軽く、鼻歌を歌っていた。