Ⅱ・東京都練馬区関町のアツアツおでん
最近すっかり冷えてきた。
そろそろクローゼットに眠っているロングコートを取り出す時期か。
防寒具……子供の頃は年がら年中薄着で過ごしていた俺が、今では冬になると誰よりも早く身に着けるパートナー。
腕白小僧も今ではすっかりオジサンだ。
冬到来。
今年は何を食おうか。
鍋もいい。寄せ鍋チゲ鍋もつ鍋カレー鍋トマト鍋、食材の宝庫を熱く煮えたぎった出汁とともに頂く。
日本酒がすすむな。
そして冬の定番といえば……やっぱり。
「ん……この匂いは」
民家に囲まれた住宅地。
長引いた商談の帰り道で小腹が減った俺の嗅覚を猛烈に刺激するコイツは。
歩くこと3分、この暖簾の奥からだ。間違いはない。
「よし。店が俺を呼んでいる」
◇◆◆◆◆◆
西武新宿線 武蔵関。
上石神井と田無に挟まれた各駅地帯。
特に目立った名所も思い浮かばない。
今日は田無で大きな商談が決まり浮かれていたせいで、間違えて降りてしまった。
うっかりついでに少し散策をしていたところだ。
住宅地の中にある閑古鳥が鳴くその店からは、俺の胃袋を鷲掴みにする懐かしくも暖かい香りが充満していた。
料亭のように広いカウンター席だが客は誰もいない。
おもむろに席に座る俺。
老婆が小さく「いらっしゃい」と声を掛けてきた。
愛想がなく、サービス業としてどうなのかと怪しくなる。
「生を一つ」
俺の静かに響き渡る注文に対し、腰痛に苦しみながら老婆が答える。
「すいませんね、ウチ生はないんですよ。瓶でいいかな?」
「……ぁ、ああ、構わないよ」
予想外な返事に驚く。
そして、今気付いたがこの店、看板もなかったが……
――メニューが見当たらない。
カウンターにも、壁にも、何も置いていない。
「おばあさん、メニューは?」
「ぁあ、ウチメニューも置いてないよ。あるものだけ」
冷えた瓶ビールをグラスに注ぎながら、老婆がさも当然のように言った。
「はいよ。これサービスね。昨日作り過ぎちゃった」
そうビールと一緒に出されたのはお通しなんて言うのは烏滸がましいほど大量のおでん。
これこれ。このおでんの香りが俺をここまで引っ張ってきたんだ。
大きな大根は一目見ただけでよく染みているのがわかる。
ちくわぶ、はんぺん、昆布、こんにゃく、卵。
大漁だ。……今日は大漁だ。
「おばあさん、いいのかい」
「いいんだよ。男だったらこんくらい食えるだろう?」
「これで、ホントにサービス?」
「勿論、置いといても捨てちゃうだけだしね。それにこの大根、聖護院大根を貰ってねぇ」
「なんと、この大きさはそれでか……」
聖護院大根。京都名産の丸みを帯びた大きな大根、それを贅沢にも丸々使い、そして丁寧に下茹でしてあるのが分かる。
割りばしがスッと吸い込まれ、力を入れることなく簡単に切れる。
口に入れると雪解けのようにさっと溶け、出汁の香りが爽やかに広がってくる。
……なんてサービスだ。
「おばあさん、このお店長いのかい?」
こんな採算度外視の経営、いったいどうすれば成り立つのか疑問に思い尋ねてみた。
「いやね。ウチの旦那が生きてた頃は、ここも小料理屋として毎晩賑わってたんだけどね。子供たちも独立して、あとはわたし一人で片手間にやってるのよ」
余生の道楽……とまでは言い切れないが、なるほどと納得できた。
メニューがないのも、不親切ではなくただ単純に老婆の手が回らないだけか。
しかしこのおでんは美味い。
だがこれだけでは少々物足りないな。
「おばあさん、焼酎。それと何品か軽いものをお願いしたいのだが」
「はいよ。なにが良い?」
「そうだな。刺身系と、さっぱりしたものであればなんでも」
「ちょっと待っててね」
先ず運ばれてきたのは麦焼酎。フラスコ型の小洒落た瓶に5-600ミリは入っているだろう。そして氷とグラス。これだけで7杯はいけるだろう。
そして、待つこと数分。
マグロのやまかけ。トロロに海苔、少量のワサビが鮪と混ざり合い、美しい色合いを醸し出す。
そして、冷奴。刻み葱、生姜、鰹節が添えられた豆腐。
もうこれさえあれば他には何もいらない。
よし、呑むぞ。今日はとことん呑むぞ。
この大量の焼酎も、老婆がお代わりの煩わしさを回避するための知恵と言えるだろう。
味も大満足だ。口の中が幸せ一杯で満たされている。
そして、気付けば焼酎をお代わり。
リットル換算で瓶一本分以上。
まぁたまにはいいだろう。
夕方早くに店に来てから時間も大分経ち、テレビに映るのは火曜の夜おなじみ「どこでも鑑定団」だ。
先程から老婆が「これいくらだろーね」とか「羨ましいね」と楽しそうに話しかけてくる。
俺も気分が乗って、たまにオープンザプライス前の予想を伝えたり、合いの手をいれるが……。
――ちょっと待てよ、俺以外今日この店に誰も来てないぞ?
メニューがない=会計金額が不明だ。
少し怖くなり、老婆にそっと「おあいそ」と呟いた。
……一体いくらだ。
量的に考えると5,000円くらいか。いや、客が俺だけだから10,000円は持って行かれるか?
緊張に包まれながら、老婆の計算を待つ。
「はいよぉ、ありがとさん」
老婆から手渡された請求金額の紙を見て目が点になる。
――\2,200-
「おばあさん、いくらなんでもこれは……」
「お酒がビール1本と焼酎2本、おつまみ2つだから間違ってないよ」
「そ、そうかい」
堂々と答える老婆にしどろもどろで戸惑いながら俺は納得し、席を立った。
大分温まり、暖簾を潜って冷たい外気を浴びながら俺は思う。
余生の道楽ではない。おそらく老婆の生き甲斐なのだろう。
住宅地のオアシスに幸あれ。
そろそろ夏なのに冬到来の物語。。。お察しください。