金環日贖
梅田の書店には行列ができていた。みんな同じ商品を持って、ほんと、バカみたい。それは蟻の行列みたいで、ただ無能で、本能に従っているだけ。知性が無駄に付加された本能を働かせているだけ。なにも考えちゃいない。
僕は日食レンズを持って、レジへの列に加わった。ほら、僕も蟻だ。……むしろ本当にそうならいいのに。レンズは手の平を少し超えるくらいの大きさだ。僕が持っているレンズは、きっかり五つ。ひとつで千円以上もする。お金を払うのは僕ではないけれど、ほんの二分だけのためにそんなにお金を浪費するなんて、考えられない。
「いんじゃん、ほい!」
金曜日の放課後、僕らはじゃんけんをした。僕は乗り気ではなかったのだけど、半ば強引に参加させられた。ひとつの机を囲って、六人一緒に。
結果、僕が負けた。
書店でこんなもの売るなんて、一体消費者をなんだと思っているんだろう。そういう気持ちも込めて、五つのレンズとともに、一冊の本もレジに置いた。なぜか店員は一瞬だけ迷惑そうな顔をして、だけどすぐに取り繕った。明らかに、今の忙しい状況下での変化球を嫌っているようだった。みんなレンズだけ買っているのだから、今は本を買わないでほしい。そう言いたいのなら、言えばいいのに。言えないだろうけど。
数枚の千円札と、小銭を差し出す。一人一人が自分の分のお金を預けてきたから、数えるのが面倒臭いぐらいの小銭の数になっていた。店員の顔の変化を窺いながら、僕はビニール袋を受け取る。本にカバーをつけるかどうか訊いてこなかった。
――明後日の月曜日、日本で金環日食が見られる。金環日食というのは、金星が太陽を通り過ぎること……ではなくて、月が太陽面のちょうど真ん中を通ることだ。現代社会の先生は誤解していたようだけど。確かに来月の六日には、金星が太陽面を通過しはするけど、そんなの、見ていてもあまり格好のいいものではない。きっと天文マニアしか観察しようとしないだろうし。現代社会の先生が、「金環日食っていうのは、金星が太陽を通ることだよ」って誤謬してしまったから、誤解してしまっている生徒が多くいた。後に生物の先生が訂正してくれたから、どうにかなかったけど。
「お、橋本が負けたんやな。んじゃ、レンズの準備すんのは橋本に決まりな」
クラスメイトが、そう言った。六人でじゃんけんをして、僕だけがパーを出したのを見て。
僕は自分の手を眺めた。なんてバカげた手なのだろう。そう叱責してやろうにも、もう勝敗はとっくについてしまっていた。今頃遅いんだ。
天王寺駅に着いた。本当はこの駅にある書店で買おうと思っていたのだけど、既に売り切れになっていた。探し歩いてもひとつもなくて。僕は仕方なく、梅田にまで遠出していた。
明日の日曜日に、みんなと集合することになっている。レンズを受け取るという名目で、遊ぶらしい。どこに行くのかは詳しく聞いていないけれど、どうかカラオケには行きませんように……。
天王寺の、あるアパート。そこが僕の家だ。つい先月から住んでいる。
うちの母親は整理が苦手で、というか家族みんな苦手で、まだ廊下にはダンボールが積み重なっている。いい加減どうにかしないと、人も呼べない。
日曜日。五月二十日。僕は難波にやってきた。既に五人は待っていた。「遅っせーぞ」とか「めっちゃ待ったやんけ」とかいう言葉が飛んできた。なるべく当たらないように避けたけど、ほとんど命中していた。
みんなにレンズを配る。みんな興味深そうにレンズを眺めていた。いくら眺めても、僕にはどうしても、それが重要なものだとは思えない。だけどみんなは顔をほくそ笑んで僕にお礼を言っていた。「おおきに」って言うのかなと思っていたけれど、意外にもみんな「ありがとう」だった。
「あれ? 橋本、お前のは?」
五人のうちの一人、武田くんが、空っぽのビニール袋を見てそう話しかけてきた。気付かなくてもいいことに気付く。いちいち訊く。
「別に僕は、いらない」
「……なんで?」
「なんでって……いらないから」
「だから、なんでいらないんだよ」
堂々巡りだ。僕は面倒臭くなって、その話が続かないように唇を噛んだ。
沈黙が少しだけ流れて、すぐさま他の子が話題をふる。町中でなにやってるんだろう。僕はだんだんそう思うようになってきた。こんなところにたむろしていないで、どこかに行けばいいのに。近くに見えるファーストフード店とか。
「……じゃ、カラオケ行くか」
誰かがそう言った。僕はもっと困った顔をしていたと思う。武田くんが僕の顔を覗きこんできた。背が高いからって、その行動は鬱陶しかった。それが要因になっているわけではないのだろうけど、僕は「もう帰るね」と言って、そのまま駅に駆け込んでしまっていた。
改札口を通ってから、やっぱり戻ろうかと頭をよぎった。だけど、もう切符には小さな穴が開いてしまっている。
……東京にいたころも、最初はそんな感じだった。
――あの人、高橋ナントカさん。なんで女子なのに「僕」って言ってるんだろうねえ。
――あーそれ。私も思ってた。フツーにおかしいよねえ?
――あの人、ちょっとズレてるよね。
――この前とか、待ち合わせに遅れたくせに、「ごめん」の一言もなかったんだよ?
――うわ……。なんでそんな人を待ち合わせに呼んだの?
――あの人、顔だけはいいからさ……。
――あー。ってことは、やっぱ男たちが呼んでる感じ?
――そういう感じ。
――でもいい加減、男の連中も諦めるんじゃないの? あんな性格じゃあ。
――って、え、橋本さんいるじゃん。
――え? マジ?
――隅の席だから、気付かなかった。
――聞かれたかな?
――まあ、とりあえず退散……っと。
あれが今度は、関西弁になるのかも。そう思いながら、電車を待っていた。
「よっ」
肩を掴まれた。ひっ、ふいのことに、はっきりとした声が出ない。体が硬直するのを感じた。振り向こうにも首がうまく動かない。
肩を掴んだほうが、先にこちらを覗きこんできた。武田くんだった。
「え……」
「来ちゃった」
武田くんはそう言って笑った。僕が変な表情を見せていると、武田くんはふいに、僕に差し出した。月食レンズを。
「これ、やるよ」
「へ?」
「やるって」
半ば強引に押し付けられて、そのまま武田くんは、反対車線への階段を進んでいってしまった。
「え? でも」
「大丈夫やって。少しならそのままでも見れるやろ」
電車がやってきた。武田くんはそのまま、階段を進んでいく。僕は電車に乗った。
月曜日。その日は、授業は二時限目から。金環日食だからって、学校側もはしゃいでいるんだ。バカみたいだけど、授業が減るのは純粋に嬉しいからそれでいいのだけど。
母親がなにか言っていたけど、僕はその瞬間に立ち会うつもりはない。レンズは僕の鞄の中で、静かに眠っている。どうせもう目覚めない。
金環日食自体は、そんなに珍しいことでもない。そう思う。実際、来年も五月と十一月の二回に金環日食は起こる。それが日本ではないというだけで。
稀に見られることだから見る、という考えは確かに正しいのかもしれない。だけど、今の人たちはどうなんだろう。みんなただ、金環日食がすごいものだという情報に踊らされてるだけなんじゃないの。
みんなが見るのなら、見ないことがステータスになるんじゃないの。ついには僕はそう思っていた。でもそれも、僕を形成する上で大切な要素のひとつなんだと思う。僕は見ない。見たければ見ればいい。僕は見たくないから見ない。
――あの人、ちょっとズレてるよね。
いつになっても痛みはひかない。言葉は消えることなく僕の頭を漂って、そして染み渡っていく。浸透したらまた湧き出てきて、僕の体を蝕んでいくんだ。徐々に真ん中もくり抜かれる。
武田くんは、遅刻するらしい。担任の先生が言うには、病院に行くそうだ。
目が、火傷したって。
――橋本、橋本ナントカ。あの子って結局なんなん?
――さあ。
――なんか、怖い。
――え……なんで?
――だって……武田くんからレンズを奪ったのって、橋本なんやろ?
――え? それホンマなん。
――ホンマやって……。ほら、担任にこの前、呼び出されてたやん。
――うわー……それってそういうことやったの。
――気味悪いわ。東京から転校してきたんも、向こうで問題あったからなんやろ?
――え……知らんかった。
――詳しくは知らんけど、カラオケルームでなんかしでかしたらしい。
――カラオケ? あー……そういえばこの前、カラオケ行こうってとき断られたな。
――なにがあったんやろう。
――ヤったとか。
――ありえるかも。男にはちやほやされとるみたいやし。
――でも、あの「僕」はないわー。
――ほんまそれ。
書店で買った本を開く。カバーはされていない。むき出しの表紙が晒される。だけど読めなかった。目ははっきり見えるのに、文字が進んでいかなかった。読めない本はただの不良品だ。買って損した。そう思って捨てた。
去年の十二月十日。その日、皆既月食があった。僕はそれに立ち会おうと、母親に断りを入れてから家を出て行った。外の空気は刺すように冷たかったけれど、空はそれほど冷たくは見えなかった。むしろ、いつもより滞っている。そのときはそう思った。
あんまり見えないな……それでも眺めていると、携帯電話が振動しだした。メールの着信音だ。
〈今から、いつものカラオケで会えない?〉
メールは親友からだった。僕が「僕」になったのは、この親友との約束事が原因だった。最初はお遊びのつもりだった。「これから一週間、『僕』で生活してみよう!」って、当時はまだ、そんな意味不明なことでも楽しめたから。
夜中にカラオケは少し気が引けたけど、親友だから行くべきだと思った。母親には出かける断りは入れてあるし、もし母親が、僕が数分で帰ってくるものだと思っていたとしても、ただ疎通に齟齬があったということにすればいい。既に僕は出かけているのだから。
井の頭公園を横切って、近所のカラオケに着いた。そこには親友がいた。……親友だけではなくて、他の子達もいた。
事情はよく分からないけど、親友は泣いていた。僕と顔を合わせようとしない。他の子達が、僕をカラオケ店の中に引き入れた。親友は入ってこずに、なぜか井の頭公園の方へ走り去ってしまった。
僕が呆然としている間に、僕はあるカラオケルームに押し入れられた。他の子達は入ってこなかった。僕だけが部屋に入れられた。中には中年の男がいた。
からがらになって逃げた。ドアは割とあっけなく開いてくれた。僕は走ろうとした。だけど男の腕のほうが速かった。僕は男に引き込まれた。腕で強引に引っ張られた。掴まれた腕がひどく痛かった。そのまま抱きしめられた。叫んだ。喚いた。大音量の音楽でかき消された。
……だけど、ドアを開けたまま大音量を流していたおかげで、店員が来てくれた。だけどそのアルバイト員は、僕の同級生だった。店員もグルだった。
「他のお客様の迷惑になりますので、ドアはお閉めください」
暴れた。視界が涙で抉れていた。ミラーボールの光が、ぼやけていた。紙に滲んだインクのようになっていた。髪を掴まれた。ドアに手を伸ばした。開いた。今度こそ逃げないと。その思いで脳が飽和していた。だけどやはり、男の腕は速かった。僕は叫んだ。誰か助けて。必死な思いで叫んだ。視界は完全にぼやけていた。なにも見えなかった。まるで火傷しているみたいだった。目が死んでしまったようだった。目ではなくて視神経だけでものを見ているような気分だった。
僕はすっかり「僕」だった。なにも見えないまま、「僕」になっていた。それは解放されてからも、永遠に消えないものだった。僕の「僕」。それは癒えない傷痕だ。
武田くんのお見舞いに行った。お見舞いといっても、それは病院ではなくて、彼の家のことなのだけど。
「やあ」って、武田くんは和やかに手を上げた。僕は目を伏せた。
みんな、みんなバカ。見られない状況なら見るのを諦めるべきだ。だけど存在を見くびって、どうせ一瞬のことだと決め付ける。一瞬の傷が、いつまで経っても癒えないことに気付くのは、いつだって手遅れになってからだ。
「目、見えるんだね」
僕はそう言った。武田くんは笑って、「アホ。見えるわ」って言い返した。
大阪の人がすぐ使う「アホ」という言葉に、僕はまだ順応できていない。純粋に心が傷つく。でもこれは、きっとすぐに治るだろう。
僕はどうせ、もう普通には戻れない。情報に振り回されてしまうような、大衆社会の一般人にはなれない。一般人にはとうてい及ばないような、それでいて一般人にも満たない僕。
僕はきっと「僕」のままだ。親友は「僕」をやめて、公園の池に、うつ伏せに眠ってしまったのだけど。
――ねえ、あの橋本。武田の家に行ったって。……やっぱ怖い。




