拡張的白昼夢
五十年程前、AI、という言葉はArtificial・|Intelligence、すなわち人工知能を表す言葉だったらしい。Augmented・|Intelligence、拡張知能を表す言葉は、存在しなかったらしい。五年前の白昼夢事件の時に、それを初めて知った。
白昼夢。前頭前野の片隅にポツリと置かれたコンピューターチップ、誰にでもあるAIデバイス。それらに知能を与える各国の大規模サーバー。それらに一斉にサイバー攻撃を仕掛けた、未曾有のサイバーテロ事件。
大変な事になった人もいたらしい。頭がおかしくなった人もいたらしい。全部ニュースかネットで聞いた話だ。正直、実感は湧かない。何より俺は忙しい。この病院で看護師をやってる三十二歳というのは重宝、酷使するために重宝され、そんな白昼夢の被害者について調べている暇なんて誰も与えてくれない。他の暇もない。何も、何も。お陰様で婚期も逃したし、ただ病気を患った患者たちの世話を焼き続け、他の力仕事も回され続ける。それだけ。
仕事に疲れ、屋上のベンチに凭れ、空を眺めながらそんなことを思っていると、隣から声をかけられた。
「お兄さん」
ふと自販機の陰から誰かが見ているような気がするな、とかぼーっと考えていて反応が遅れたから、その声は繰り返す。
「お兄さん」
「どうした?」
振り向くと、そこには少年が二人。どちらもニット帽をかぶっている。二人は確か、事故か何かで後天的に知能障害が起き、子供ながらに頭にAIを入れてるんだったか。子供向けAIが脳に馴染むまで入院し、様子見状態の子だったか。こういう場合、子供は脳の成長に合わせ、定期的にAIを調整しなきゃならない、それは物理的な問題だ。つまり、手術。脳手術。
「そのコーヒー、美味しいですか?」
片方の少年が問う。ネームプレートによれば、名はコウタ。
「美味しそうだから、今度飲んでみようかと思いまして」
もう片方の少年が言う。ネームプレートによれば、名はレイト。
「いや、そんなにうまいもんじゃないよ、缶コーヒーなんて」
俺は手に持った黒い缶を掲げて続ける。
「大人ってのは結構な割合で軽度のコーヒー中毒だ。不味くてもとりあえず飲んじゃうんだよ」
「なんで?」
そうコウタは問いを重ねる。
「目が覚める、何と無くスッキリする、苦味が欲しくなる、全部何となくだし、週間になっちまってるからかな。少なくとも俺はそうだよ」
「そうなんですね」
と、コウタは納得した様子。
「おいしくないんだ、残念です」
と、レイトはどこか不満げな様子。その不満を解消しようとしてか、彼は代替案を探す為に俺に問う。
「じゃぁ、どれが美味しいですか?」
「そうだな、なんだかんだ言って素朴なサイダーが一番うまいと思うぞ」
「へぇ、成程。僕も今度からサイダー飲もうかな。そうだ、お兄さん。話は変わるんですけど」
レイトの言葉に俺は少し身構え、「おう」と呟く。彼は続けて、
「子供のうちにこれだけはやっといた方が良いよっていうことって、なんかありますかね。勉強でも、遊びでも、何でも」
人生相談、意外や意外。コウタにとっても意外だったようで、苦笑いしている。まぁ、ここは人生の先輩として答えてやるか、三十路らしくな。
「そうだな、勉強で言えば、とりあえず数学はやっといた方がいい。文系行っても理系行っても、結構使うからな。遊びはまぁ、好きなことをしときゃいいよ。勉強の邪魔にならない程度に好き放題したほうがいいぜ」
そう言うと、レイトは怪訝そうな顔つきで質問、反論に近い質問をしてくる。
「数学とか理科、それ以外でも答えのある問いって、AIあれば大体できちゃうじゃないですか。数式を視覚が受け取った瞬間、脳裏で答えがパッと浮かんじゃうんですよ。瞬間的に。勉強してもしなくても、あんまり変わんないように思えるんですけど」
そうか、そうだった。彼らの頭にはAIが入ってる。いや、しかし、そこらの同年代の少年よりも知的に見える。知能障害のある子供の脳味噌にAIを無理やり入れて、他より頭が良くなるなんて。人格も、言動も、知的に見える。ロボトミーと何が違うんだ、なんて哲学的な問いについて考えていては会話がダメになる。いかんいかん。
「ああ、そうか……じゃぁ、君が好きな学問をやればいいと思う。何の学問が好きだ?」
「哲学ですかね」
「僕もです」
と、コウタが付け足す。そうだよな、そりゃ哲学を好むよな。答えがある問いが全て簡単にわかるなら、答えのない問いを求めるよな。いや、そうとは限らない。理由が何かは分からない。訊いてみなくちゃ分からない。
「何で哲学が好きなんだ?」
「透ちゃんが、哲学が好きだから」と、レイト。
「つまり僕らは、透が好きなんです」と、コウタ。
トオル、トオル、トオル?誰だ?AIがメモリから入院者名簿を探し出すが、出てこない。俺の脳内で、高速で大量の名前が流れるが、出てこない。二人の見舞いに来る人だろうか、と俺は思う。
「それは、二人のお見舞いに来る人かい?」
「そう、そうだと思います」
思います、か。何故有耶無耶なのか疑問を持つと、構わずコウタは続ける。
「そうだと思います、という曖昧な表現に違和感を持たれたと思います。あの子は、透は僕らが事故に遭って入院してから、その後から知り合った人ですもの、僕らもよくわかってないんです」
「俺らは自転車で一緒に帰ってる時に車に轢かれて」と、レイト。「五年前のことです。それで頭を強打しちゃって、こんなのになってしまいました」
名簿によれば、二人は今十二歳。五年前だから、七歳頃か。
と、レイトが時計を見つめた。
「すみません、つい話し込んだ。時間なので、戻りますね」
「また明日、会えたら」
コウタが付け足すと、二人は席を立って降りていった。そっくりだったな、と思った。まるで鏡写しのような性格の、人格の二人。その二人は、惚れる女まで同じで、その事実を当然のことのように受け入れているように見えた。
翌日の昼前、俺は二人のいる病室に向かう。サイダーのペットボトルを二つ持ってそこに訪れた。
ガラリと空いた、人のいない病室。偶然みんなどこかに出かけたんだろう。でも、二人はいた。二人と、もう一人いた。白い、長い髪が、ちょっとした風で揺れている。純白のワンピースは短く、細くて白い足が長く見える。彼女はニヒルな笑みを浮かべて、レイトとコウタが一緒に座るベッドに目を下ろし、何か話している。とても綺麗だった。美しい少女だった。俺が見惚れてしまうくらい。彼女は話す。
現実ってのは、どこにあると思う
レイトが答える。
世界全体に、じゃないかな
彼女はいいえと首を振る。
コウタが、じゃぁ、心の中かな、と、自身なさげに答える。
そう。現実は心の中にしかないし、それ以外のどこにもないの。その外側にあるのは事象だけ。いろんな人はよく言ってるよね、事象が現実だって。違う、そうじゃない。リンゴを赤いと思う心、それが現実なんだよ。私を私と、レイトをレイトと、コウタをコウタと思う心、それだけが唯、現実なんだよ
と、彼女は言った。
だから私は、私達は現実の存在なんだよ
まるで、耳の内側に直接語りかけるような声。無条件で、何だって信じてしまいそうになる声。
俺はサイダーを一旦別の人にあげておくことにした。彼らの、彼女らの空間は、まるで神域のような、入ってはならない異次元のように思えたから。
昨日、あの時サイダーをあげていたら、何か変わったかなと、俺はひたすらに悔やむ。食事で使うナイフで、二人の少年は同時に首を切り裂いた。理由は分かる気がする。今日の朝、病院前の地面には、白い死体があった。真っ白の長い髪。真っ白のワンピース。真っ白の肌。赤い赤い赤い、血。きっと飛び降りたんだろうな、多分そうだ。でも誰も彼女の死体を見ても悲鳴をあげないし、人を呼ばないし、きっと誰も見てもいない。
俺は聞いていた。彼女の言葉を、昨日。
だから私は、私達は現実の存在なんだよ
心の中だけの存在。AIが、拡張知能が知覚するだけの、知覚の中の少女。夢の中の白い羊。
それは、知覚の中で、はっきりと「死んだ」。
死んだ夢の羊を追って、あの二人は夢の世界へと向かったんだ、きっと。
屋上でぼーっと、そんなことを考える。あの二人が死んだ理由を、勝手に想像する。白昼夢にやられたんだ、と。俺も、彼らも。白昼夢被害者の主な症状は、集団幻覚。
少し調べてみて、わかったことがある。五年前に事故なんてなくって、彼らは先天的な脳機能障害の双子だって。
薄汚い廃病院の屋上で、あの男は空を眺めている。自販機の陰から、僕は彼を見つめる。
昨日なんかは隣に座った誰かの幻覚とかれが喋っていたから印象的だった。
何とか形成された健康者コミュニティの中で、俺は肝試しのような仕事を任された。白昼夢被害者、つまり幻覚を見ている成人たちの監視、および調査。
成長期の終わった人間、目安としては二十歳の大半は脳にAIを入れる。五年前、白昼夢が起きた時、僕はギリギリ19だったからよかった。
彼がおもむろに立ち上がる。飲料入りの筒形の物体を形取った霞、それを乱暴に投げ捨てた。
何をする気かとこっそり見ていると、その男はフェンス際にゆっくりと、力なく歩いて行く。嫌な予感がする。
「もし対象が自殺しそうな場合って、どうすりゃいいですかね。今朝と違って止めれそうなんですが」
何があるか分からない、接触は避けるべきだ、という冷酷な言葉が帰って来る。
男はフェンスに体を預け、ただぼーっと空を眺めている。今までもちょっとした動作とかの確認から鬱病傾向があるのはわかっていた。心理状態にはかなりムラがあるようだが。
男はフェンスをゆっくりと乗り越える怯える様子もなく、ちらりと見えた顔は唯ひたすらに、無、だった。
まるで歩くように、彼は前進した。奈落の底へと前進した。数秒後、衝撃音が響く。何かが潰されたような音だった。今日で二回目だ。
「対象が飛び降りをしました。どうすれば……」
今朝も言ったろう、接触はするな。たとえ何があろうとな。と、骨伝導イヤホンから聞こえる。
僕は自販機の陰を出て、フェンスから地面を見下ろした。死体が二つ。
看護師の服を着た男と、その周りに飛び散った血液。
昨日幻覚と喋ってる時の顔はとても優しそうだったから、きっと優しい人だったんだろうな。止めてあげたかったな。見てるだけじゃなくて、もっと寄り添ってあげたかったな。
白い髪、白いワンピース、白い肌、飛び散った血液。
まるで少女のような、綺麗な人だったな。珍しく、自分の幻覚を幻覚と認識した人。あの人の声も、話したことも好きだったな。現実は心の中にしかないし、それ以外のどこにもない、って。もっと話を聞きたかったな。




