プロローグ
いつもと変わらぬ朝、いつも以上に暑い夏。
通っている大学の秋学期が始まって、もう二週間が過ぎていたが、そんなことは正直どうでもよかった。夏休みと同じようにベッドに身を預け、ノートパソコンを開いて無為に時間をつぶす日々。高校ほど厳しくない大学には、さぼることを咎めてくれる人もいない。やりたいことがあって入学した大学だったはずなのに、一年通った頃には、それが幻想だったと気づいてしまった。
それからというもの、やる気は急速に失われ、家にこもる時間が増え、単位もままならなくなっていった。留年だけは避けたい──そう頭では分かっていながら、「休めるだけ休もう」という甘い考えが、自分を破滅へ導くこともなんとなく理解していた。それでも、どうしても足が大学へ向かわない。
……留年だけは嫌だ。
深くため息をつき、パソコンをカバンにしまい、身支度を整えて、ようやく学校へと向かう。
不思議なことに、勉強そのものに対する自信はまだあった。多少休んでいてもついていける、という根拠のない自信が。偏差値が高いわけでもなければ、特段いい大学に通っているわけでもない。それでも、小さい頃は確かに努力する意味を信じていたし、結果も出していた。しかし、努力の意味を見失ってからは、ただなあなあに過ごすだけになってしまった。
日本はよく「人材が足りない」「若者が少ない」と言う。おそらくそれも、自分が努力をしなくなった理由のひとつだろう。別に国を批判したいわけではない。ただ、他の国と比べてしまえば、可能性がなくてもどこかが受け入れてくれるだろう、という甘えが心のどこかにあるのかもしれない。
もっとも、スキルがないわけではない。帰国子女であるおかげで三か国語を話せる。世界の八割以上の人とコミュニケーションが取れる──そのはずだ。こんなにも優れた才能を持ちながら、自分に可能性を見いだせないのだとしたら、むしろ自分の目こそ節穴なのかもしれない。
まあ、そんな調子で留年しても大丈夫だとすら思ってしまう自分がいる。自分を改めるべきだと考えたことは何度もあったが、なぜかその最初の一歩だけはどうしても踏み出せなかった。
プログラミングに興味を持ったのも、ただゲームが好きだったからだ。けれど今になって思えば、あれは全くの別物だった。実際には、暇な時間をただ快楽を与えてくれるゲームに費やしていただけに過ぎない。もしかすると、ゲームですら本当に好きでやっていたわけではなく、単なる暇つぶしの延長だったのかもしれない。
進路だの、夢だの──そんな言葉を嫌になるほど耳にしてきた。若いうちに挑戦すべきだとか、失敗してもいいから動けだとか、誰もが口を揃えて言う。しかし、挑戦する以前に、自分が何をしたいのかさえ分からない。やりたいことが見つからないまま、若さという時間だけが無駄に流れていく。
だが、おそらく今日で終わる。学校に行くと決めて、こうして足を運んでいるのだから。本来なら自分を少しは褒めるべきなのかもしれない。けれど、平日ごとに当然のように仕事へと向かい、疲れた顔をしながらも帰宅する両親の姿をずっと見てきた自分にとって、その言葉はあまりにも軽い。自分だけが特別なことを成し遂げたかのように、やすやすと自分にかけていいものではないと思ってしまう。
努力して当たり前、頑張って当たり前。そうやって日常を積み重ねてきた人たちを知っているからこそ、自分の一歩はただの気まぐれにしか見えなかった。心の中で「これで変わる」と思いたいのに、どこかで「どうせまた戻る」と冷めた声が囁いている。
けれど、それでも歩みは止まらない。駅に着く足取りは重いが、確かに前へと進んでいる。それだけは、嘘じゃなかった。
心の中では妙にドキドキしていたが、思ったよりもあっさりと駅にたどり着いた。外に出ること自体が久しぶりだったから、すぐに疲れるのではないかと心配していたのに、案外すんなり歩けた。──これくらいで音を上げるようでは困る、そう自分に言い聞かせる。
財布を取り出し、改札横の機械で交通系カードの定期を購入する。三ヶ月ほど更新されていない定期券。画面に表示された料金に一瞬ためらいながらも、いつからか財布に眠っていたぐしゃぐしゃの三万円を取り出した。
つたないながらも画面の指示に従い、一連の流れをこなしていく。硬い音を立てて券売機から吐き出された新しい定期券を手に取り、そのまま改札にタッチした。軽い電子音とともに扉が開き、わずかに胸の奥がくすぐったくなる。たったそれだけのことなのに、久しぶりに社会へ戻っていくような奇妙な感覚を覚えた。
ホームに降り立つと、朝の空気に混じって鉄の匂いと人々のざわめきが耳に届く。学生や会社員がスマホを見たり、無言で立ち尽くしたりしている。みんな同じように一日の始まりに備えているはずなのに、その中で自分だけが少し場違いな存在のように感じられた。
電光掲示板には「次の電車、三分後」の文字。息を整えるように深呼吸し、肩にかけたカバンの重みを確かめる。逃げ場はもうない──そう思いながら、迫りくる電車の音に耳を澄ませていた。
久しぶりの電車。久しぶりの満員電車。
人の波に押され、圧迫されながらも、どこか社会に自分が再び組み込まれたような感覚があった。窮屈で息苦しいはずなのに、不思議と安心に近い気持ちが胸をかすめる。
ドアに背を押しつけながら、窓の外に流れる景色を眺める。高層ビルの隙間に青い空がのぞき、街の雑多な音がガラス越しに薄れていく。周囲の人々は無言でスマホを見つめ、イヤホンを耳に差し込んで自分の世界に閉じこもっている。そこに混じる自分もまた、きっと誰からも気づかれない一人の乗客にすぎない。
それでも、ここに立っているという事実だけが少しだけ誇らしかった。昨日までベッドに沈んでいた自分が、今こうして同じ方向へ進む群れの中にいる。小さなことだが、その小ささがかえって心に響いた。
大学に着くまでの道のり。見慣れているはずの景色なのに、どこかが微妙に変わっているように感じられた。新しくできた店の看板、少し色あせたポスター、街路樹の葉の色合い。変わらないはずの日常が、ほんのわずかに自分を置き去りにして進んでいる。そのことに、胸がざわめく。
講義についていけるかどうかは正直わからない。積み重ねてきたものがあるわけでもないし、ブランクが簡単に埋まるとは思えなかった。けれど、不思議と「今日の自分なら大丈夫かもしれない」と思える。昨日までの自分なら決して抱かなかった感覚だ。
足取りは軽くはない。それでも、確かに大学へと向かっている。遅すぎる一歩かもしれないが、その一歩を今、ようやく踏み出しているのだ。
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大学を終えた後、胸の奥に残ったのは久しぶりのやり切った感だった。
ほんの一日講義に出ただけなのに、自分へのご褒美をあげたい気分になる。行く前はあれほど緊張していたのに、今は解放感で胸がいっぱいで、むしろ自分のことを少し誇らしくさえ思えた。
講義の内容も思ったほど難しいものではなく、ブランクがあってもどうにか理解できた。ノートをとる手も自然に動き、周りに遅れをとっている気配もなかった。その事実がまた、自信をほんの少しだけ取り戻させてくれる。
浮ついた気持ちのまま、思わず小走りで階段を駆け下りる。軽快な足取りが、身体よりも心を弾ませているようだった。鼻歌でも歌いたくなるほどに、今日は「自分がちゃんと存在している」と実感できる一日だった。
階段を下る──そんな折に、ふいに足が滑った。いや、気のせいだったのだろうか。ほんの一瞬、誰かに押されたようにも思えた。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。このままでは顔面から着地して、首があらぬ方向に曲がってしまいそうだった。
人々の動きが遅れて見える、とはこういうことなのだろうか。そんなことを考えていても、落下の軌道を瞬時に変えることなどできない。耳に届いたのは、後ろから上がる女性の悲鳴。
そして、視界が一気に暗くなった。
気絶して気を失い、目を閉じる。その刹那、最後に見えたのは、パソコンの入ったカバンを取ろうと、必死に伸ばしているつもりの自分の右手だった。
──暗闇に沈んでいく感覚だけが、やけに鮮明だった。
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トントントン──肩を叩かれるような感覚がした。誰だ、と反射的に思う。
重たいまぶたを持ち上げると、一面に広がっていたのは、見慣れぬほど澄んだ青い空だった。
はっとして、慌てて自分の体を確かめる。驚いたことに、傷一つなく、血も流れていない。さっきまで階段を転げ落ちていたはずなのに、痣すら見当たらなかった。
周囲を見回すと、そこは舗装もされていない土の道。田舎によくある素朴な道といえばそうだが、俺の知っている田舎と比べても、どこか文明が追いついていない印象があった。
遠くに見えるのは、茅葺き屋根のような古めかしい家屋。縁側に腰をかけていた数人の人影が、こちらを珍しいものを見るような目でじっと見つめている。着ている服装も、俺の世界では博物館でしか見ないような、時代劇の衣装に近い格好だった。
──ここは……どこだ?
確かに階段から落ち、気を失ったはずだ。それなのに、今は傷一つなく、こののどかな田園に立っている。
朗報といえば朗報だが、理解を超えすぎている。しかも持っていたはずのカバンもなく、手元に残っているのは土埃にまみれた自分の身体だけ。
現実感のない光景だが、どこかで見慣れているような錯覚にとらわれる瞬間があった。
そうだ──いつか見たファンタジー世界のアニメで、たしかこんな風にのどかな田園風景が描かれていた。
となれば、これは……異世界転生、というやつなのではないか?
ふっと小さく笑いが漏れる。さすがに無理があるだろう、と自嘲気味に思う。
これが夢だ、と自分に言い聞かせる。なかなか覚めないだけの夢。きっと今頃の自分は救急車にでも運ばれて、どこかの病院で手術か何かを受けているに違いない。
階段から転げ落ちただけで、これほどの大ごとになるなんて──考えたくはないが、その可能性も否定できなかった。
ただ、夢にしては妙に感覚が鮮明すぎる。
土の匂い、頬をかすめる風、遠くで鳴く鳥の声。それらすべてが、自分の知る現実世界のものよりも濃密で、質感さえ違って感じられた。
目を閉じても、暗闇は訪れず、代わりに鮮烈な風景がまぶたの裏にまで焼きつく。
──夢にしては、あまりにもリアルだ。
胸の奥に、じわじわと不安と期待が入り混じったような感情が広がっていった。
……夢の中だとしても、こんな道端に横たわっているのはどうだろう。
吸い込む空気の澄みきったおいしさに思わず感動する。
夢というものは、人が求めているものを見せるのか、それとも恐れているものを見せるのか。
周囲の状況を見る限り、ここはどう考えても悪夢ではない。
個人的な見解だが、夢とは内なる願望の顕現だと常々思っている。
だが……さすがに俺が田舎暮らしを切望していたなんてことはないだろう。
そんな取り留めのない考えを巡らせていると──。
遠くから足音が近づいてくるのに気づいた。
最初はかすかな音だったのが、やがて規則正しいリズムとなり、地面を通じて体にまで小さな震動を伝えてくる。
馬の蹄……?
出所を確かめようと顔を上げれば、視界の奥から一台の馬車がゆっくりとこちらに近づいてきていた。
幌付きの、見慣れない造りの馬車。車輪がきしむたび、木の鳴る音が大きく響く。
かなりのスピードで近づいてきた馬車に思わず身を起こした。まだ頭がくらくらする。
横をすり抜けるかと思いきや、ぎしりと音を立てて馬車が目の前で止まった。
御者台から身を乗り出した男が俺を一瞥する。
行商人らしい恰好──布を幾重にも巻いた外套に、色褪せた革の帽子。背中には小さな木箱が積まれている。
「おい、そこの若いの。酔っ払いか?」
しわがれた声が響く。
「道端に寝転がってるんじゃねぇ。さっさと退け。王都のお偉いさんが視察に来てんだ。無礼だととられたら、お前の首が飛ぶぞ」
そう言って男は眉をひそめた。
……いや、ちょっと待て。
容貌はどう見ても日本人ではない。褐色の肌に濃い眉、鋭い目つき。
だが、その口から発せられるのは、まるで違和感のない流暢な日本語だった。
何だこれは。
ますます「夢」の可能性が強くなっていく。
ぽかんと口を開けたまま、俺はただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。
そんな俺を「変なやつだ」とでも言いたげに一瞥し、御者は舌打ち混じりに手綱を鳴らす。
馬車は砂埃を巻き上げ、あっという間に先へと走り去っていった。
残された俺の周りには、再び静かな田園風景だけが広がる。
……王都? 視察?
何だその単語。
混乱がさらに混乱を呼び、夢だと信じるにはリアルすぎる違和感が積み重なっていくのを、ただ呆然と見つめるしかなかった。
いつまでも覚めない夢──。
覚めるまでただ横になって待つのも退屈だ。
スマホもパソコンもない。時間をつぶす手段すらない。
なら、歩き回って周囲を知ることから始めるしかないだろう。
見たことがなかったからこそ、知りたくなったのもある。
俺は土の道に立ち上がり、服の埃を軽く払い落とす。
空気が澄んでいるせいか、深呼吸をすると頭のもやが少し晴れた気がした。
道は左右にゆるやかに続いていて、片側には小川のような水路が流れている。
その先には、木の橋がかかっていて、遠くに見えるのは先ほど馬車が向かっていった方向だ。
反対側には、段々畑のような緑が広がっている。
畑仕事をしているのか、腰をかがめた人影がちらりと見えた。
……夢だとしても、なんてよくできているんだ。
土の感触も、風の匂いも、すべてが妙にリアルだ。
どこへ向かえばいいのかわからない。
けれど、何もしないよりは動いた方がいい。
そう自分に言い聞かせ、俺は小川の流れる道沿いを歩きはじめた。
その時だった。
遠くで、風に乗って人々のざわめきが聞こえた。
笑い声や呼びかける声、金属が打ち鳴らされる音……。
どうやら、この道の先に村か、集落があるらしい。
遠くに聞こえていたざわめきは、歩を進めるごとに少しずつ輪郭を帯びていく。
祭りのような、いや、市場のような──人々の声と活気が風に乗って流れてくる。
足取りはまだおぼつかない。それでも俺は、まるで糸に引かれるようにその音の方へ向かっていった。
夢の中なら、恐れる必要なんてない。どうせいつか目を覚ます。
けれども。
頬をなでる風のやわらかさも、土を踏みしめる足裏の感触も、鼻先をくすぐる焼き立てのような匂いも──
そのどれもが、現実よりも現実らしく俺を包み込んでいた。
やがて視界の先に、茅葺きの家々と人影が現れる。
のどかな田園の中に息づく小さな村。そこに暮らす人々の笑顔。
俺は立ち止まり、深く息を吸った。
──これは本当に夢なのか。
それとも、俺はもう別の世界に足を踏み入れてしまったのか。
答えはまだわからない。
だが、ひとつだけ確かなのは。
あの階段を踏み外した瞬間から、俺の平凡な日常は終わったということだった。
基本的には<層彩のキャンパス ~異世界転移記~>の方をメインで書いていくこととなります。更新頻度はめちゃくちゃ遅く、月に一回あった方が珍しいと思っていただければと思います。そちらの作品を片付く次第いろいろと書いていきますのでよろしくお願いします。
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