エピローグ 証拠と余韻
研究室の窓の外は、まだ夜の気配が濃く残っていた。
街の喧騒は遠く、静まり返ったキャンパスに虫の声だけが細く響く。
松嶋は椅子に深く腰を下ろし、机上に置いた眼鏡を拭っていた。水滴の跡を見るたび、つい数時間前の暗渠での光景が蘇る。
「先生、これ」
岡部が差し出したのはタオルに包まれたカメラだった。機材はずぶ濡れになったが、幸いメモリカードは生きている。
二人はモニターを覗き込んだ。画面には、薄暗い水路とぼやけた影が写っている。
青白く光るはずの鱗も、輪郭の外へ滲むようにぼやけ、ただの水の揺らぎのようにしか見えなかった。
「あれだけ危険を冒しといて、この写りですか」
松嶋が呆れたように言う。
「あの状況で撮れただけでも奇跡だろ。……まあ多少マズくても、先生の証言があれば」
「これじゃ怪異とまでは言えませんね」
松嶋は冷静に返した。
「……あんたには、あれが“ただの水”に見えたのか?」
「この写真しか証拠がないなら、そう言わざるを得ません。少なくとも、学会ではそう扱います」
「学会ってやつは、見たことをそのまま言っちゃいけねぇ場所なんだな」
「ええ、そういう場所です」
岡部は煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。ニュースは三件目の溺死を「老朽化した地下水道の浸水事故」と報じている。藍蛇の祠も、深きものどもも、一行も触れられない。
「まあ……記事にはできる。どう書くかは俺次第だ」
「くれぐれも、あなたが次の“現場”にならないように」
松嶋の声は穏やかだが、その奥に微かな圧があった。
岡部は紫煙の向こうで口を歪める。
「……で、また例の機関から依頼があったらどうする?」
「断れないでしょうね。研究者である以上、求められれば応じざるを得ません」
松嶋は小さく息をついた。
「だから、またどこかで顔を合わせるかもしれませんよ」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
窓の外を、夜の風がかすかに通り抜けていく。
——その風に、ありえないはずの潮の香りが混じっていた。
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