第六章 水底の儀式
青い光が消えた闇の奥へ、二人は足音を殺して進んだ。
水路は幅を広げ、天井も高くなっている。足元の水はくるぶしから、膝へとじわじわ深くなっていった。
「……さっきの影、まだ追うつもりですか」
「せっかく顔を見せてくれたんだ。行かない理由があるか?」
「危険すぎます。もうこの辺で引き返すのが正解です」
「正解ばっか選んでたら、オカルト記事は書けねぇんだよ」
そのとき。
前方から、低く響く音が聞こえてきた。波でも風でもない。何十という喉が一斉に響かせる、祈りのような声——。
岡部は懐から防水ケースに入れたカメラを取り出した。
「……聞こえるか、先生」
「ええ……。まるで合唱のような……いや、違う。声というより、水が鳴っているような?」
「細かいことは後だ。先に目で確かめる」
壁沿いに進むと、視界が一気に開けた。
そこは巨大な地下空洞だった。四方を黒い水が囲み、中央に石組みの祭壇が突き出している。
その周囲で、半魚人めいた影が十数体、胸まで水に浸かりながらゆっくりと揺れていた。背は丸く、皮膚は青白く透け、背骨や鰭のような突起が光を反射している。
長い指の先には、藻や海草の房が絡みついていた。
松嶋が息を呑む。
「……これが、あの『深きものども』……?」
「お、ついに先生の口からその名前が出るとはな」
「確証はありません……ただ、以前見た文献にあった描写によく似ていると」
「そりゃ十分な理由だ」
祭壇の上では、さらに異様な光景が繰り広げられていた。
中央に置かれた黒い石壺から、絶え間なく水が溢れ出している。それは祭壇を伝って水路に流れ込み、周囲の水位を押し上げていた。
半魚人たちはその水を両手で掬い、頭から浴び、低く唸るような声を合わせている。
「あれが儀式……ですか」
松嶋の声は震えていた。
「何をしてるにせよ、あの水の量はおかしい。あまりに超常現象すぎます。一体どこから湧いてるんだ」
「きっと、海だ。ここを通して、深淵と繋ごうとしてやがるんだ」
岡部がカメラを構えた瞬間、松嶋が慌ててその腕を掴んだ。
「待ってください! 光で気づかれたら……!」
「証拠がなきゃ、俺たちの話はただの与太だって思われる」
「生きて帰れなければ、話すことすらできません!」
岡部は一瞬だけ黙り、視線を外した。
「……あいつも、そう言えば良かったんだろうな」
その声が不意に真剣味を帯びたことに気づき、松嶋は掴んでいた腕からそっと手を離す。
「それ、仁科さんのことですか」
「ああ。あいつ、最後のメッセージを俺に送ってきた。助けを求めるでもなく、ただ『水の音がする』ってな。……俺は、それを単なる記事のネタ提供としてしか受け取らなかった」
低く笑うが、その声音にはどこか苦味が混じっていた。
「だから今度は俺が、最後まで見届ける。このまま引き下がったんじゃ、目の前のものが何であれ、あいつの無念は踏みつけられっぱなしだ」
松嶋は言葉を飲み込んだ。ここから無事に生きて帰るためにすべき正解は、この場から直ちに撤退することだ。
だが、目の前の男の背中には、確かに“引き返ない理由”が刻まれている。それが彼にとっての正解であるのも、また事実だった。
「……無事に帰れる保証はできませんよ」
「だから言ったろ、身の安全なんて最初から期待してねぇ」
その時、儀式の声が一段と高まった。水面がぐらりと揺れ、冷たい波が膝上まで押し寄せる。
遠くで排水口のような音が響き、さらに水位が上がっていく。
「……先生、選べ」
岡部の声は低く、真剣だった。
「妨害して止めるか、証拠だけ確保して逃げるか」
何をどうやって止まるのかを聞き返す余地もなく、岡部は続けた。
「どちらにせよ、長くはもたない……」
闇と水の中、二人はほんの数秒後に決断を迫られるのことになる。