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第五章 地下水路への潜行

 夜の住宅街は、昼間の人いきれが嘘のように静まり返っていた。

 遠くで環状道路を走る車の音がかすかに響き、空気は湿り気を帯びている。


「ここが、祠の跡地か……」


 岡部は足元のアスファルトを軽く踏んだ。昼間に古地図で見た印、その真上だ。今は区の管理地として柵が張られ、立入禁止の札がぶら下がっている。


 松嶋が懐中電灯で足元を照らす。

 柵の向こう、雑草の奥に古いマンホールの蓋が半分埋もれていた。

「これは戦後の型ですね。この下はおそらく江戸期の暗渠を改修したものです」

「こんなの見ただけで戦後の型とか、さらっと出てくるあたりが先生っぽいな」

「それ、褒め言葉ですか?」

「もちろん皮肉だよ」


 岡部は鼻をひくつかせた。

「……この辺の空気、潮を含んでるな」

「本当に?」

 松嶋は半信半疑だ。


「間違いない。俺、江ノ島の生まれなんだ。潮の匂いは、子どものころから嗅ぎ慣れてる」

「なるほど。それなら説得力があります」

「それならってのが余計だろ。先生の出身はどこだ?」

「長野です。山と川ばかりで、海は修学旅行で行ったくらいですね」

「そりゃこの匂い、ピンとこねぇわけだ。にしても、海なし県の男が今回みたいな調査をしてるのも面白いな」

「笑うところではないと思いますが」


 岡部は工具を取り出し、蓋の縁に差し込む。鉄のこすれる音とともに、蓋がわずかに持ち上がった。

 下から、冷たい空気が吹き上がってくる。潮の匂いに、古井戸の湿気が混じっていた。


「おい、降りるぞ」

「……本気で言ってますか? 何の備えもないのに。あまりに危険すぎる。何か安全対策は?」

「怪異に安全策なんて通用しねぇって、言ったろ」

「いえ、私は怪異より足を滑らせるほうが怖いです。革靴だって台無しになりそうだ」

「嫌ならそこで留守番でもしてな」


 そう岡部が言って穴を降り始めると、松嶋は諦めたようにため息をつきながらも後へと続く。


 靴底が水に触れた瞬間、冷たさが骨の奥まで染みた。ライトが照らす壁は古い煉瓦とコンクリートが入り交じり、目地には苔が張り付いていた。


「えーと、これがさっき先生が言ってた、江戸時代の暗渠ってやつか?」

 岡部が辺りを見渡しながら尋ねる。


「ええ。川や用水を地中に埋めて覆った水路です。当時は洪水防止や衛生のために暗渠化されました。今はそのまま下水道に組み込まれた例も多いですね」


「つまり、この下は昔の川の名残ってわけだ」

「そういうことです。痕跡を辿れば、昔の水脈も見えてきます」

「へぇ……ただの水路にしては、雰囲気がありすぎるがな」

「雰囲気という言葉ほど、不確かなものはありませんよ。……何が言いたいんです?」

「直感が全ての世界もあるんだよ、先生。つまり……虫の知らせとか悪い予感ってやつだ」


 岡部は蛍光スプレーを取り出して、水路の壁に矢印を描いた。

「帰り道は生きてるうちに覚えとけってな。この光る印は、先生の言う安全対策みたいなもんだ」

「……岡部さん、ここ区の管理地って聞いたでしょ。勝手にこんなことして、あとで苦情が来たらどうするんです」

「そのへんは先生がうまいこと理屈つけてくれるだろ」

「なぜ私に丸投げするんですか」

「だって先生、教育委員会の人脈もあるし、理屈っぽいし」

「褒められている気がしません」

「いや、今回のはちゃんと褒め言葉だ」

 岡部は笑いながらスプレーを吹き足した。


「ほら、行くぞ」

「……後で本当に説明を求められたら、岡部さんも来てもらいますからね」


 水路は緩やかに下っていく。遠くで水が落ちる音がしていた。単なる水滴ではない、もっと重く、ゆっくりとした落下音。


「先生、あれ聞こえるか?」

「……ええ。何かが水の中で動いていますね」


 進むにつれ、壁に刻まれた模様が目に入った。波と鱗の中間のような曲線が連なり、時折“目”のような窪みが挟まれている。


「これは……古い信仰の印か、あるいは……」

「何かの封印、ってとこだな」

「証拠は?」

「長年こういうのを見てると、直感が証拠になるんだよ」

「……そんなもの、学会では通用しませんよ」

「怪異相手に学会通してどうすんだ」


 その時、奥から水が裂ける音がした。二人は反射的にライトを消す。闇の中、重いものが水面を押し分ける気配が近づいてくる。


 息を殺し、耳を澄ます。水を裂く音が右から左へ移動し、やがて遠ざかっていった。


 岡部がライトをつけ、前方を照らす。

 わずかに見えたのは——人の形をしているが、人ではない影。背が丸く、腕が長く、頭の形は魚を思わせる。皮膚は半透明で、反射する光が青く揺れていた。


「……今の見たよな、先生」

「何かは確かにいました。ただ、人間の可能性も——」

「ない、な」


 二人の視線が再び闇の奥へと吸い込まれていった。

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