第二章 現場検証
現場は渋谷から各停で二十分、さらに駅から十分歩いた住宅街の奥にあった。
昭和の香りを諦めきれない二階建てアパート——その一階角部屋に、黄色い規制テープが張られている。
入口に立っていた警察官が、岡部の顔を見て軽く会釈した。
怪異専門の調査機関から、すでに“根回し”が入っているのだろう。
民間協力者である岡部は、こうしてすんなり中へ通されることも珍しくない。
先に来ていた男が、分厚い資料ファイルを抱えて振り向く。
丸顔に眼鏡、どこか人畜無害そうな柔らかい空気——松嶋瑛人、民俗学者だ。
「お疲れさまです、岡部さん」
「先生、こんな現場もフィールドワークに入るんですか」
皮肉混じりに声をかけると、松嶋は肩をすくめる。
「いいえ。ただまあ、断りにくい筋からの依頼で。……あの、仁科さんのこと、残念でした」
岡部は短くうなずいた。
仁科——半年前に取材した都市伝説マニア。
最後に届いたメッセージが脳裏をよぎる。
——岡部さん、変なんです。ここ数日、地下から水の音がするんです。でも、この建物に地下なんてないはずなんですが。
それは世間に言えば笑われる類いの言葉だった。
けれど取材時の印象からしても、無闇に嘘をつく男ではなかった。なのに、何もしてやれなかった——その事実が、胸の奥に小さな鉛の玉みたいに沈んでいる。
警察の許可を受け、二人は室内へ。
玄関から、ぬかるんだ音がした。
遺体はすでに搬出されていたが、床全体が冷たい膜に覆われ、湿気で壁紙がめくれている。
古井戸を思わせる生臭さの中に、潮の匂いが混じっていた。
岡部はその匂いを深く吸い込み、胸ポケットから黒いノートを取り出す。
濡れた足跡が点々と残っていた。
サイズは成人に近いが、形がどこか歪んでいる。指の本数が合わず、踵は浅い。玄関から寝室まで短い往復だけで途切れていた。
「発見時の状況ってどんな感じだったんですか?」岡部が警官に尋ねる。
「全身ずぶ濡れで、口腔から青藻が大量に。死因は溺水で間違いありません。室内に水を浴びる要因はなし。給排水管も異常なし、浴室設備もなしです」
岡部は要点をノートに刻み、視線で松嶋を促した。
松嶋はしゃがみ込み、足跡にライトを当て、指の広がりを物差しでなぞる。
「……不自然ですね。ただ、浸水経路を確認しないことには。床下から上がった可能性もあります」
「先生、潮の匂いがするんだぜ。ここ、海じゃない」
「この地域は昔、用水路が発達してました。潮位の影響を受ける区画も一部——」
「深きものども、って言葉を知ってるか」
松嶋が、困ったように笑った。
「研究者がそんなフィクションの固有名詞に頷くと、職を失いますよ、岡部さん」
「まあな。でもあいつらは海底に都市を持ってる。人と交わり、時には陸に上がって血を混ぜる。水辺に足跡を残し、呼ばれた者を底へ連れていく……そういう話、先生の棚にもあるだろ」
「……伝承としてなら確かにあります。ただ現実の事件に当てはめるには、証拠も因果も不足しています」
「不足してるのは現場を覗く目だよ」
松嶋は、あえて言葉を飲み込んだようだった。
「まずは冷静に。床下、マンホール、近隣の地盤。順番に見ましょう」
合理的な提案だ。特に反対する理由はない。
潮の匂いが消える前に、床下も、この街の声も、全部確かめる必要を感じていた。