第一章 三度目の異変
八月の終わり、都心の熱は昼の残り香を捨てきれず、アスファルトの下でじわじわ燻っていた。
岡部圭太は、古びた革ジャンの袖口で額の汗を乱暴に拭い、胸ポケットから黒いノートを取り出す。ページの白に、ペン先で黒い円をぐるぐる刻みつけた。考えるときは、いつもこうだ。ヤニで黄色く染まった指、ヘビースモーカーの手慰み。だが目だけは、疲れた顔に似合わず妙に澄んでいる。
喫茶店のテーブルに置いたスマホが、青白い光で見出しを浮かび上がらせた。
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都内で3件目の「水無き溺死事件」
室内で発見された遺体、死因は溺死
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「……また出やがったな」
低く独り言を落とし、火をつける。紫煙は短い溜息みたいに天井へ逃げた。
記事の骨組みは前の二件と変わらない。密閉空間、全身ずぶ濡れ、周囲に水源なし。死因は溺死。警察は定型句の「原因調査中」で蓋をする。
だが岡部には、もっと嫌な面が見えていた。
三日前、今回の被害者——仁科という都市伝説マニア——から、こんなメッセージが届いていたのだ。
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岡部さん、変なんです。ここ数日、地下から水の音がするんです
でも、この建物に地下なんてないはずなんですが
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それが最後だった。既読は付かないまま、仁科は水を吐いて死んだ。
岡部は煙を深く吸い込み、肺の奥で握り潰すように吐き出した。
仁科の趣味は変わっていたが、無闇に嘘をつくような男ではない。地下からの水音——それは、この街で昔から囁かれる「水底に呼ばれる話」と同じ匂いがした。古い暗渠、埋められた水神の祠、そして……海の底に続く道。
「今度こそ、掴む」
指がノートの端を叩いたとき、見慣れた番号が震えた。
怪異専門の調査機関からだ。たまにネタを流し、たまに現場に呼ばれる。利害は一致している。
『岡部さん? 例の溺死、現場で協力お願いできます? 民俗学の松嶋先生も来ます』
松嶋——あの教授か。
全国を飛び回って伝承を漁る民俗学者で、人当たりは柔らかいが、怪異の実在には懐疑的。数年前に別件の調査現場で一度一緒になったことがある。あの時も、現象より構造や人為的背景を優先して見ていた。
真っ向から意見はぶつかったが、現場の歩き方は悪くなかった。何より、あの“胡散臭くない胡散臭さ”は、取材相手としてはやりやすい部類だ。
「例の先生もか。……行く」
短く答えて立ち上がる。革ジャンの裏地は汗を吸いすぎて重い。
それでも足取りだけは、妙に軽かった。