鳴尾 ― その野球に関する記憶と、資源の有効活用から導くまちづくりの私案 ―
兵庫県西宮市鳴尾。その西端には甲子園球場がある。
私はその地に育ち、その地の小学校、中学、高校を卒業した。
私の少年時代の野球に関する記憶と、鳴尾をベースボールタウンにしようという私案について綴った文章です。
2002年に執筆。
筆者が所属している「野球文化學会」の会誌
「ベースボーロジー7」に、投稿、収載いただいた文章です。
鳴尾
― その野球に関する記憶と、資源の有効活用から導くまちづくりの私案 ―
私は昭和33年3月26日、岡山県久米郡柵原町で生まれた。父は昭和4年生まれ、同和鉱業の柵原鉱山に勤務していた。母は昭和6年生まれ、昭和26年生まれで学年では6年上になる姉との2人姉弟だった。
昭和38年1月8日、4人家族は引っ越した。父が尼崎工場に転勤することになったからである。当時、柵原はまだまだ活気があったが、父は、今後、発展していくことはないだろう、と考え、自ら希望しての転勤であった。
その日、私は片上鉄道吉ヶ原駅で、通っていた幼稚園の先生、友人のお見送りを受けて柵原をあとにした。
一家の新しい住居は西宮市若草町二丁目34(現在は二丁目6-1)の同和鉱業若草社宅。
甲子園球場から大人なら歩いて20分程度の距離であり、西宮球場は歩くには遠いが、電車、バスを使わなくても自転車があれば、充分に行くことのできる場所であった。そして南に3分程度歩いたところに県立鳴尾高校があった。
社宅は4階建てと2階建ての2棟あり、それぞれ16世帯、8世帯の家族が暮らしていた。4階には、やはり同和鉱業に勤務していた父方の祖父の一家が暮らしており、そこは祖母、父の4人の妹の6人家族であった。4人の叔母は上2人は、既に社会人となっており、3番目の叔母は鳴尾高校2年生。末の叔母は学文中学2年生だった。
祖父の一家は祖父の影響で全員阪神ファン。父は巨人ファンであり、その影響からか、私も巨人ファンであった。私は昭和51年、大学入学のために上京し、その年の日本シリーズが巨人対阪急となったとき、突然地元意識に目覚めて、阪急を応援するときまで、巨人ファンを続けた。
日本シリーズについては、東京と西宮のチームの対決なのだ、と思ったとき、その年の春、単身西宮から上京してきた私は、どうしても東京のチームを応援する気にはなれなかったのだ。何故、シーズン中の阪神対巨人の時にそう思わず、日本シリーズになって、突然そのような気持ちになったのかは、分からない。
祖父の家、社宅の4階の南に面したベランダからの眺望は素晴らしかった。周りには田圃、畑、空き地がいっぱいであったし、何より高い建物が無かった。南に3階建ての鳴尾高校の校舎があり、遠景には阪神パークの飛行塔、そして甲子園球場が一望できた。目を左の方に転ずると尼崎の臨海地区、活気あふれる工場地帯の煙突が連なっていた。
社宅は建ってからまだ数年しかたっておらず、敷地は広かった。最近1,900平方メートルあまりあったことが分かった。
4階建てと2階建ての社宅の間には広々とした空間があり、その広さは小学生が野球をするのにちょうどよい程度の空間だった。私はこの空間で毎日野球をした。
社宅は30代の両親が中心で、あとは40代、例外的に50代が少しだったから必然的に小学生、小学生未満の子供は多かった。
2人集まれば、もう野球の試合をする。ピッチャーとバッターである。キャッチャーがいない、と思われるかもしれないが、社宅のその空間の東端近くに、高さ2メートルちょっとで、幅が3メートル弱×5メートル程度のコンクリートの建物があり(あの建物は一体なんだったのだろう。通常は鍵がかかっており、建物の内部には入れなかった。多分、社宅内の電気か水に関係する建物だったのだろう)、ピッチャーはそこに球をぶつければ良かった。
私の最大のライバルで最もよくいっしょに野球をやったのは悦ちゃん、学年は一年下だが生まれたのは数日しか違わないという阪神ファンの男の子だった。彼は右利きでありながら左で打っていた。
野球をする相手が誰もいない時でも、私はグローブとボールを持って、上記の建物にぶつけて、ピッチングをして、社宅の壁にぶつけてゴロやフライを取る練習をした。私の練習は屋外にはとどまらない。家の中でもグローブとボールを持って、壁にぶつけては取っていた。家の中も軟球の跡だらけであった。
4階建ての社宅。私は今でもその時住んでいた16世帯を覚えている。階段は2つあり、その階段の両方に世帯があったわけだが、
一番東は、1階石戸さん、のちに岩谷さん。2階長崎さん。3階半田さん。4階千田さん。
その隣は、1階中村(我が家)。2階西村さん。3階富谷さん。4階森田さん。
その隣は、1階高見さん、2階若松さん、3階鈴木さん、のちに楢原さん。4階中村(祖父の家)。一番西は1階遠田さん(悦ちゃんの家)。2階鈴木さん、3階大久保さん、4階湯原さん。
前述した鳴尾高校。のちに私の母校ともなるこの高校は、創立されたときは日本唯一の村立中学(旧制)だった。鳴尾高校の創立記念日11月21日は村議会で、村に中学をつくることが決定された日である。
戦後、鳴尾は日本で一番人口が多く、一番税収が多い村だったそうだ。2階級特進で、一気に市制を敷くことも検討されていたそうだが、ジェーン台風により大きな被害を受け、その話しは消えた。そして、尼崎か西宮か、どちらかへ編入されることになり、住民投票の結果、昭和26年、西宮市に編入されることとなった。
昭和26年という年を見てピンとこられる方もいらっしゃるだろう。この年は鳴尾高校が選抜大会に出場して準優勝した年である。
この時の鳴尾高校のメンバーがすごい。三番ショート鈴木武。四番キャッチャー山田清三郎。六番サード藤尾茂。九番ピッチャー中田昌弘。のちにプロ野球に入った選手が4人いる。
このうち近鉄に入団した山田選手については、私は知らないのだが、
中田は阪急に入り、ホームラン王のタイトルを取った。
藤尾は森の前の巨人のレギュラーキャッチャーであり、昭和30年の南海との日本シリーズで、語り継がれる、1勝3敗から、若手を起用して逆転劇を演ずることになったその立役者のひとりである。さらに森にキャッチャーのレギュラーの座を奪われてからも外野手としてレギュラーの一員であったし、五番を打つことも多かった。
鈴木武については、私は近年までよく知らなかったのだが、平成10年に横浜ベイスターズが優勝した際、昭和35年の大洋ホエールズの初優勝が様々なメディアで取り上げられ、そのチームにおいてショートのレギュラーだったということを知った。
これだけの選手によって構成されていたわけだから、高校野球史上でも特筆されるべき大型チームであり、決勝戦でも下馬評では、鳴尾優位とされていたようだが、鳴門高校に3対2。サヨナラ逆転負けを喫した。
翌年も鳴尾は選抜に出場してベスト4まで進出したが、また相手も同じ、鳴門高校に敗れた。鳴尾高校の甲子園出場はこれで全て、成績は通算5勝2敗である。
ところで、今年(平成14年)の選抜大会の決勝戦は報徳学園対鳴門工業だった。
兵庫県対徳島県ということで、51年前の鳴尾対鳴門も取り上げられていたが、それは昭和49年の選抜の決勝戦、報徳学園対池田と並べての扱いであった。
しかし筆者としては、もう一歩踏み込んでほしかった。
報徳学園は西宮市。池田高校は池田町。
今年の報徳学園対鳴門工業の決勝戦は兵庫県対徳島県の28年ぶりの決勝戦という以上に、西宮市対鳴門市の51年ぶりの決勝戦だったのだ。
ともに県庁所在地というわけでもない市同士が学校を変えて、再度決勝戦の舞台で相まみえる。他に例があるのかどうか、筆者の知識では分からないが、いずれにしても相当に珍しいことなのではないだろうか。
我が母校に甲子園の全国大会で勝った経験をもつ高校があるのは唯一鳴門市のみ。その母校の敵討ちはちょうど半世紀ぶりに報徳学園が果たしてくれた。
私が鳴尾に引っ越してきた頃、昭和39年に巨人に入団した上田武司選手を輩出しているとはいえ、鳴尾高校は既に甲子園の全国大会出場を望めるような学校では無くなっていた。しかし、鳴尾高校の普段の練習や校庭で行われる練習試合の時など、近所の野球好きの小父さんたちが見学していたのを記憶している。私自身も練習試合を見に行ったことがある。
昭和38年の春、この時から私の甲子園球場での野球観戦は始まったはずだ。この春の選抜の優勝は下関商業。下関商業は強い。池永はすごいピッチャー。そのように感じていた自分がいたことは記憶にある。だが、その夏の優勝校、明星については記憶がない。この年代ではまだ定まった記憶はないということかもしれないし、見る野球に関しては、まださほどの意識はなかったのかもしれない。
プロ野球に関しては、この年の巨人―西鉄の対決が、私が日本シリーズを見た、最初の記憶だ。初戦は西鉄が勝ち、3勝3敗となって巨人が最終戦で勝った、という記憶があるし、前年不調だった長嶋がこの年は復活。あわや三冠王、という活躍をして、その長嶋を描いた映画を祖父に連れられて見た記憶がある。
ただ、その翌年あたりから両親に買ってもらっていた巨人のユニフォームの背中には「3」を付けたが、引越し初年度のこの年は「2」を付けていた。広岡が好きだったのだ。
阪神対巨人を見に行き、広岡がヒットを打った際、ユニフォームを着て観戦していた私はかつぎあげられて周りの観客から拍手してもらった。このとき一緒に行ったのは父ではなく、祖父だったと思うのだが(あるいは何人かで行っていたのかもしれない)、祖父は贔屓チームの応援より、孫の喜びを優先してくれたことになる。
39年の春、徳島海南が優勝して、決勝の相手が尾道商業だったのは覚えている。この大会では市立西宮高校が出場していた。開会式を見に行き、行進する「いちにし(と地元では呼ばれている)」の選手たちに拍手した。
39年の夏、優勝は高知。大会途中負傷した有藤のことは記憶にない。祖父母、父の出身地は山口県の周防大島の久賀町なのだが(私も自分のルーツを忘れないよう本籍地は久賀から移していない)、準優勝した山口県の早鞆を応援した。
40年の春、我が出生地である岡山県の岡山東商業が優勝した。岡山県は夏の全国大会での優勝はまだ無いので、今に至るも岡山県が全国制覇した唯一例である。このころから私の中に記録に対する興味が生まれてきていたと思う。市立和歌山商業の藤田平が1試合で2本のホームランを打ったのを、すごいこと、と思っていた。岡山東商業のエース平松は準決勝までの4試合を全て完封していたが、こちらの記録については認識はしていなかった。が、決勝戦を投の平松と打の藤田平のスター対決という目で見ていたように思う。
40年の夏、春夏連覇を期待された岡山東商業は初戦で日大ニ高に敗れた。優勝は三池工業。準優勝は銚子商業。この「ちょうし」という発音が7歳の私は変わった音という風に聞いていたのだが、この銚子商業には面白い発音の姓の選手が多かったという記憶があるのだが、エースの木樽以外は覚えていなかった。だが、一昨年、日本スポーツ出版社から出た、「甲子園優勝投手物語」を読んで、私が、子供心にどういう姓を変わっていると感じていたのかが分かった。阿天坊だ。それ以外には特に変わった姓の選手はいないから、阿天坊という姓が強く印象に残り、変わった姓の選手が多い、という風に記憶に刻まれたのだろう。
昭和41年。中京商業が春夏連覇を達成する。中京商業には、四天王とでも呼ぶべき選手がいた。ピッチャー加藤。キャッチャーで三番を打っていた矢沢。ショートで一番を打っていた平林。外野手で四番を打っていた伊熊と思っていたが、前述の「甲子園優勝物語」を読んで、平林はショートではなく、サードだったことが分かった。この四人は、加藤は近鉄。矢沢は巨人。平林は阪急。伊熊は中日といずれもプロ野球に入るが矢沢が一時期、ポスト森の、レギュラーの座を吉田と争ったくらいで、プロで大成した選手はいなかった。
42年春は津久見が優勝。この大会では市立和歌山商業の野上がノーヒットノーランを演じている。優勝した津久見のエースは吉良。私の記憶では津久見にはもうひとり浅野という好投手がいたように思うのだが、もしそうなら忠臣蔵で、話しがうますぎるので、これはきっと記憶違いだろう。
42年夏は習志野が優勝。この夏は、私にとっては特別なことがあった。鳴尾高校である。
この年、私は小学校4年生になっていた。私が通っていた鳴尾北小学校は、道路を挟んで、鳴尾高校の隣にあった。
鳴尾北小学校は、2年毎にクラス替えを行ったので、3,4年とクラスのメンバーは同じだったのだが、私はクラスの野球チームのエースだった。
私は実は運動が苦手である。ちょうど、3,4年生になるころまで良く泳げなかったこともあり、体育はだいたい2で、たまに3が取れたという男子としては情けない状況だった。
ただ、好きな相撲と野球だけはクラスの中でも、強かったし、上手かった。
相撲については、技を良く知っていたからであるし、野球については、豊富な練習量がそうさせたのだろう。とにかく暇さえあれば、グローブとボールを持っていたのだから。そして、帰宅後、宿題以外の勉強をしたわけでもないから、たいてい遊んでいたのだ。
3年生の時、いつもの社宅内ではなく、当時建ったばかりの小学校近くのマンションの敷地で試合をしたとき、その試合の審判をやってくれた上級生が私の投げる球を見て、「へえ、5年生くらいの球を投げるね」と言ってくれたのがとても嬉しかった。
だが、クラスの野球チームは弱かった。校区の中の里中町に、里中公園をホームグラウンドとする、「里中チーム」があり、このチームはクラス横断的なチームであり、同じクラスの中でも野球の上手い何人かはここに住んでおり、里中チームの方に入っていた。里中チームと我がクラスのチームは、月に何度か対戦したが、全敗に近い成績だった。クラスの中でも野球が上手い数人が、里中チームに入り、残ったクラスメートでチームを作っていたわけだから、やむをえないわけだ。ただ、我がチームのキャッチャー藤戸君は背も高く、なかなか上手かった。温厚な性格で、コントロールが決して良いとはいえず、またすぐふてくされる性格であった私を上手くリードしてくれた。
私は変化球は投げられない。ストレートのみである。三振か四球。前に飛ばされれば、内野ゴロでアウトというのは、まず、望めなかったから、出塁を許す。外野に飛ばされたらその時点で打者がホームまで帰ってくることを覚悟しなければならなかった。一塁にとどまった場合も、いかに藤戸君がなかなかの技量の持ち主だったとしても、内野がその送球をちゃんと受けるレベルには達していなかったから、盗塁はフリーパスだった。
私の住んでいた社宅、2階建ての方の1階にこの時、鳴尾高校の野球部員がいた。蔭山という姓だった。蔭山のお兄ちゃんはそれまでも時々、一緒に野球をやってくれたが、そのお兄ちゃんが、彼自身はその時はまだ下級生でレギュラーではなかったか、あるいはレギュラーの一角を占め下位打線に名を連ねていたか、記憶は定かではないのだが、鳴尾高校のレギュラー、そのラインアップを教えてくれたのだ。
当時は全て暗記していたのだが、今は、一番利根川しか覚えていない。
が、野球が大好きな小学校4年生の男の子にとって、自分の最も身近にある野球チームのメンバーの名前を知るということは、そのチームに熱を入れることに即つながる。私はこのとき、校庭で行われていた鳴尾高校の練習試合も見た。
私は自由課題の作文で、鳴尾高校のメンバーを列挙して「がんばれ鳴尾高校」と題したものを書いたりもした。夏の県予選が始まる前だった。
予選前、新聞についていた県大会特集の別版には出場全校のベンチ入りメンバーが紹介され、各校毎の寸評も載っていた。私は、何度も何度も読んだ。それによると鳴尾高校はレギュラーに2年生が多く、むしろ来年が期待されるチームとのことだった。
鳴尾はシード校という訳ではないし、1回か2回勝てれば上出来という評価だった。
その鳴尾が勝ち進むのだ。
この年は、姉が鳴尾に入学した年でもある。多分、試合が休日に当たった時だったのだろう。私は姉に連れられて学生応援席から観戦した。甲子園球場である。当時の兵庫県予選は現在と同様、いくつかの球場に分かれて開催されていたが、甲子園球場も使われていた。
私が応援に行った日も鳴尾は勝利した。
校歌が流れる。
紫の 紫の
六甲の峰に輝よえる 朝の光を仰ぎては
精気溢るる 樟樹台
永遠に 栄えん 楠木の
ゆかしき 香り 慕いつつ
希望に 燃ゆる 若人は
青春の気を 謳うなり
緑なす 緑なす
学文の野に 草萌えて
理想の道は 続きたり
見よ勤労の 風薫り
誠実の花 咲きいでぬ
ああわが友よ いざや立て
不屈の意気を 培いて
若き生命を 羽ばたかん
鳴尾は勝ち進む。当時も、多分、優勝するには、7回勝つ必要があったと思うのだが、その計算でいけば、鳴尾は4たび勝利した。ベスト8。その一角を鳴尾高校が占めたのだ。
もしかして・・・・・・私の心の中に甲子園の全国大会に出場する鳴尾高校の姿が浮かんだ。鳴尾は夏の全国大会の出場経験は無い。
だが、鳴尾が報徳学園や三田学園に勝てるのか。
淡い期待も空しく、鳴尾は、ここで敗れた。相手は……、きちんと覚えていないのだが、赤穂で、シード校だったと思う。が、いずれにしても戦前の期待を大きく上回る大健闘である。
(期待された翌年、鳴尾は初戦か第二戦で早々に敗れた。その後、鳴尾が夏の予選で、ベスト8の一角を占めたことはない。数年前の春の県大会で一度、ベスト8になったことがあり、予選展望号で有力校のひとつとして、文末近くではあったが、「鳴尾」の名前があった)
既に鳴尾は敗退したが、県大会の決勝戦も姉に連れられて見に行った。ベスト8校として閉会式に参加したのだったと思う。決勝戦は当時の定番で報徳学園対三田学園。結果は報徳学園が勝ち、三年連続四度目の出場を決めた。この閉会式で鳴尾は最優秀応援高校に選ばれた。
昭和43年の春、私は初めて個人的に応援する高校野球の選手を持った。福島県磐城高校のエース、サウスポーの村山強投手である。
我が一族は福島県とは縁も所縁もない。なぜ、村山投手を応援することになったのか。この春休み、母方の田舎に行っていて、そこで新聞のスポーツ欄を読んでいてたまたまその日、紹介されていたのが村山投手だった、というだけの話しである。特に好投手として注目されていたわけではない。
この大会前、愛読していた少年サンデー(ライバル誌、少年マガジンでは「巨人の星」が連載されていたにもかかわらず、私が読んでいたのはサンデーだった。私が最初に読んだ野球マンガがサンデーに連載されていた寺田ヒロオ作の「スポーツマン金太郎」であり、その連載終了後も、次に同誌に連載されていた貝塚ひろし作の「九番打者(途中から「ミラクルA」に改題される)」を愛読していたからである。もっとも悦ちゃんは少年マガジンを読んでいたから、時々は借りて読んでいたので「巨人の星」も筋は追っていた。尚、この時、少年サンデーで私が最も好きだったマンガは野球マンガではなく「あかつき戦闘隊」。
次に好きだったのが、川上哲治を主人公として描いた「弾丸児」である)の選抜の予想記事で好投手としてあげられていたのは、平安の左腕、池田投手。広陵の左腕、宇根投手。初出場箕島の右腕、東尾投手の三人であった。
池田、宇根については私には既にお馴染みの名前だった。池田は41年の夏の時点で、一年生でありながら、三年生のエース門野投手に次ぐ二番手投手としてベンチ入りを果たしていた。二年生でエースとなった42年春は、1回戦で好投手桜井を擁する初出場桜美林を5対0で圧倒。結局2勝して準々決勝で鎮西に敗退。42年夏は全国大会出場は果たせなかったが、既に甲子園で実績を残している投手である。宇根は前年夏の準優勝投手である。が、東尾という投手は私には馴染みがなかった。
大会前、優勝候補としてあげられていた高校はどこだったのか、私に確たる記憶はない。しかし、今、サンデー毎日の選抜展望号に必ず載っている過去のトーナメント表で出場校を確認すれば推測はつく。前記の平安、広陵。出れば必ず、優勝候補として名前があがる中京(春夏連覇の翌年に中京商業から名称変更)。そして好投手左腕小山を擁し、前年の春初戦で優勝した津久見に2対3で惜敗し、同年夏は、1回戦を勝ち、2回戦で強豪中京に2対3で惜敗した倉敷工業。小山は前年からエースだったから、最上級生となってさらなる快投が期待できた。
私にとっては、既に前年、前々年から知っている選手が何人も出場してきたわけだから、スター集結、わくわくする大会であった。また40回の記念大会であり、前年の選抜が24校の出場だったのに対して6校増の30校出場するというのも嬉しいことだった。
だがこのときの私の最大の関心は言うまでも無く、磐城の村山強投手である。磐城は初戦で、強豪高知商業と戦うことになった。
もう時効だから書いてしまうが、父が勤務する会社が、有志により優勝校を当てるゲームを実施していた。父は息子のたっての頼みを聞いて「そんな聞いたこともない東北の学校が優勝するわけないだろう」と思いつつ、投票した数校のうちのひとつに磐城高校を選んだ。もし優勝したら大穴である。
1回戦、平安は5対0で博多工業を破り、屈指の好カード、広陵対中京は3対1で広陵が勝った。箕島は5対2で苫小牧東を破った。
そしていよいよ磐城対高知商業である。このゲーム、序盤で、なんと磐城が4対0で高知商業をリードした。村山投手は強豪高知商業をゼロに抑える。この途中経過を聴いた父は「いやあ、淳一はたいしたもんだ。高知商業を相手にして4点リードしてしまうような高校に目をつけていたのか」と思ったそうだ。
が、中盤以降、高知商業が地力を発揮。結局10対4で高知商業の逆転勝ち。意気消沈してしまった息子は帰宅した父に小さな声で頼む。「夏も磐城はきっと出てくるから、また磐城に投票してあげてね」父は黙って頷いた。
2回戦、1回戦は対戦が無かった倉敷工業が登場、清水商業を3対0で破りベスト8へ。平安は7対3で仙台育英に勝つ。広陵は3対1で今治西を破る。箕島、1回戦で磐城に勝った高知商業に2対1で辛勝。
準々決勝は、大宮工業対平安。広陵対箕島。尾道商業対名古屋電工(愛工大名電の前身)。銚子商業対倉敷工業。ここまで波乱は無く、有力校が実力どおりに勝ち進む大会だった。
第一試合、平安対大宮工業。この対戦は順当であれば平安のものだろう。大宮工業は1回戦は防府商業を5対4で破り、2回戦は浜松工業を9対5で破った。打力は凄いが、エース吉沢が点を取られすぎる。だが、結果は6対3で大宮工業の勝ち。
第ニ試合は広陵対箕島。宇根と東尾の好投手対決は意外なことに高得点試合となり、7対3で箕島の勝ち。池田、宇根というビッグネームがここで消えた。
第三試合、尾道商業2対1名古屋電工。第四試合、倉敷工業4対0銚子商業。小山は残った。
準決勝では残る好投手2人が共に負けた。
第一試合、大宮工業5対3箕島
第ニ試合、尾道商業3対1倉敷工業
決勝は大宮工業対尾道商業という意外な顔合わせ、平穏だった大会は準々決勝、準決勝で大きく動いた。
決勝戦では勝敗以外に大きな注目があった。大宮工業の主砲布施がここまでで2本のホームランを打っていたのだ。夏の大会では戦後まもなく、倉敷工業の藤沢が3本のホームランを記録していたが、選抜大会ではまだ誰も3本のホームランは記録していなかった。
藤沢のことは良く知らなかったから、私にとっては、当時、ホームラン3本と、パーフェクトゲームは高校野球における夢の記録、と認識していた。
決勝戦、3対2で大宮工業の勝ち。大宮工業の優勝は、埼玉県における春夏合わせての初優勝だった。
布施に3本目のホームランは出なかった。ここまで点を取られた優勝投手というのも当時としては珍しいことだった。
さて、父はどうだったろうか。実は大宮工業に投票していたのだ。慧眼、だったわけではない。出身地、山口県の防府商業に投票したつもりが、間違って、トーナメント表のひとつ下、対戦相手の大宮工業に投票してしまっていた、というだけの話しである。
昭和43年にはどういうことがあったろうか。この年のトップニュースは札幌医大の和田壽郎教授による我が国初の心臓移植手術であり、川端康成がノーベル平和賞を受賞した年である。さらに小笠原諸島が日本に返還され、紀宮清子内親王が誕生された年である。
世界に目を向ければ、民主化を求める運動が大きなうねりとなった年である。フランス第5共和制の初代大統領であるドゴールは国民投票の結果、その座を去ることになった。 アメリカ合衆国では、歴史的な接戦の結果、共和党の大統領候補ニクソンと副大統領候補アグニューのコンビが民主党のハンフリー、マスキーのコンビを破った。その前にロバート・ケネディ。キング牧師が暗殺された年であり、プラハの春が侵攻するソビエト社会主義共和国連邦の戦車の前にあえなくついえさった年である。
スポーツの世界ではメキシコオリンピックが開催された年である。私は子供心に女子体操のクチンスカヤの美しさに胸をときめかした。
オリンピックの前、アメリカの国内大会で、ハインズ、グリーン、スミスの3人が人類史上初めて100メートル走で10秒の壁を破った。
個人的なことをまた書く。春に私は小学校5年生となった。クラス替えである。新しいクラスでも私はエースになれるだろうか。
新学期、放課後の校庭に新しいクラスの男子生徒の大半が集まった。投手を希望する者は何人いただろう。10人まではいなかったと思うが5人は超えていた。希望するものが各々3球ずつ投げてピッチャーを決めることになった。「たった3球で決まるのか」緊張が大きくなる。
数人が投げ終わり、私の番になった。最後に近い。これまでのクラスメートのピッチングを見て、スピードでは上回る自信があった。だが、ストライクが入るだろうか。
初球、全力で投げた。スピードボールがストライクゾーンに決まった。「おお」というどよめきがおきた。
二球目、やはりストライクゾーンに決まった。三球目はボールだったが、私はそれまでの2球でエースの座を勝ち取ったことを確信した。
「ピッチャーは、中村だな」もめることもなく、すぐに決まった。
3,4年も同じクラスだった生徒を除いて、野球と相撲以外は、私は運動がからっけしだめなことは、まだ知られていなかったのだろう。
昭和43年の夏休み。私にはこれまでの人生で最大のイベントが待っていた。東京への旅行である。
一家4人で、東京都青梅市に住む、父方の祖父の弟で、彫刻家中村青田の家を訪れ、そこを宿に5泊6日の旅行だった。大叔父の3男1女の兄弟が旅行中ずっと相手をしてくれた。末っ子で、この時、一番私の面倒を見てくれた豊お兄ちゃんは、その後、本当に私の兄になった。8年後、私の姉と結婚することになるのだ。私の父と従兄弟の関係になる豊兄はこのとき高校一年生。姉よりひとつ年下だ。
8月3日、新幹線で東京へ移動。開業後まもなく4年が経とうとしていたが、私が新幹線に乗ったのはこれが初めてである。
4日、私の強い希望で後楽園の野球博物館に行き、午後は西武園で遊んだ。
5日、暁闇の中、青梅を出発。富士スバルラインで5合目まで車で行き、日帰りで富士登山。頂上まで上るのに6時間。頂上から5合目まで降りるのに2時間かかった。
6日、一日中青梅の家で休む。
7日、東京タワー、霞ヶ関ビルに行く。
8日、新幹線で帰る。
私にとって、その夏の最大のイベントは終わってしまった。寂しそうにしている私を翌日、まだ休暇が残っていた父が連れ出した。行った場所は甲子園球場。
8月9日、その日は、第50回全国高校野球選手権大会の開会式当日であった。
通常の夏の大会であれば出場校は30校。だが、記念大会であるこの大会では全都道府県から48の代表校が集結した。
開会式直後の第一試合、マウンドには最も高校生らしいと言われるアンダーシャツも含めて純白のユニフォームに身を包む、倉敷工業の小山投手の姿があった。
それまでの10年間の私の人生の中で、最も長い夏は、まだ終わってはいなかった。
以上は平成14年4月26日午前3時37分 了
(前夜の電話で、家内から、私が小学生時代、学校の行事として、年に春秋2回の写生大会が行われ、当時は遊戯施設と動物たちで満ち溢れ、私にとって甲子園球場と並ぶ夢の世界であった阪神パークの来年の閉園が決定したニュースを聴く)
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個人的なことに終始してしまっては本学会の主旨にも反するので、取ってつけたようではあるが以下のことを書く。
この日本という国の中で、もしベースボールタウンを作るとするなら、それに最もふさわしい場所は鳴尾であると思う。主観的な願望であると言われてしまうであろう。そのとおりだ。しかし、客観性はある。
何故なら、甲子園球場は高校野球の全国大会が開催される球場であり、特に夏の大会においては47都道府県全てから代表校が集結し、地元校の応援に野球ファンが集まる。甲子園は既に、全てのプロ野球選手を含めて、あらゆる野球選手にとってその高校時代の憧れの聖地であり、全国の野球ファンが必然的に集結する場所になっているのだ。
鳴尾は、今は西宮市の一部となっている。かつて西宮市は四十万人程度の人口の市でありながらプロ野球の球団を2つ持っていた。それが親会社の営業政策上の結果であったとしてもすごいことだと思う。
阪神タイガースはプロ野球界において読売ジャイアンツと並ぶ2大人気球団である。タイガースはことごとに東京に対抗しようとする関西人のシンボルとなっている。
今、私情は別にしてある種の客観性をともなって東京には負けていない、という気概をその地の住民が生来のものとして持っているのは唯一関西の住民のみなのではないかと思う。(ここは、本来は関西ではなく、歴史上の用語である畿内の人間と書きたいが、便宜上、関西としておく)経済力ではもうどうしたって東京にはかなわない。
そうなると関西人はすぐに歴史を持ち出す。はるか大和・飛鳥時代よりこの国の中心は関西だった。関西が王城の地であったとき、東京には草しか生えていなかった。
関西人はこのような物言いで東京に対する自らの土地の優位性を主張する。東京というだけで、おそれいることはなく、すぐに対抗しようとする関西人。そういうところが東京人には鼻持ちならないようだ。
筆者に言わせれば、関西人が東京に対して対抗意識をもつ必要はないと考える。対抗意識とは、自らと同等、あるいは同等に近い力をもつ相手に対して抱く感情だ。先に述べたことの繰り返しになるが、経済力というものを重んじることなく、歴史・文化に高いウェイトをおく価値観をもてば、東京に対する関西の優位は自明のことであり、東京は関西人にとって対抗意識を持たなければならないような相手ではない。
コンプレックスの裏返しとして歴史・文化を主張するのでは話しが逆だ。歴史・文化の優位性をしっかりと心に刻み込んでおいて、あえて相手をしない。これが東京人に対する関西人の正しい在り方であると考える。(ここのところの文章は、そうは受け取れないかもしれませんが、筆者としては冗談のつもりで書いております。念の為。筆者は対抗意識をもつ関西人を鼻持ちならないとする東京人にも、東京に対抗意識を持ってしまう関西人にもいささか反発を感じる部分があり、無益な感情と思うので書いてみました。というのは建前で、本音のところはこういう心情があるから世の中は面白いと思っています。世界中の人がみんなコスモポリタンであれば、それは平和になるでしょうが、退屈で面白くない世の中になるでしょう。お互いに相手の悪口を言い合う(限度はありますが)からこそ面白いのだと考えます)
ただ関西ではなく、ここの部分を大阪に変えてしまうと筆者には言っておきたいことがある。大阪が関西の中心であり、東京への対抗意識が最も強いのが大阪人であり、阪神タイガースが大阪人にとって反東京のシンボルに祭り上げられているように感じるがちょっと待ってほしい。
阪神タイガースは大阪の球団ではない。大阪人が東京に対抗するためのシンボルとしてかつぐのであれば、今は大阪に唯一残された球団である大阪近鉄バファローズであるべきであろう。
兵庫県西宮市の球団である阪神タイガースを反東京のシンボルとしてかつがれては困る。西宮は西宮で自足し、東京対大阪の戦いからは超然としていてほしい。
阪神タイガースを地元の球団として意識すべきは西宮市民。さらに範囲を広げれば尼崎、芦屋、宝塚、伊丹、川西。世上阪神間と呼ばれるこの範囲までであろう。
神戸には西宮から去って行ったオリックスブルーウェーブがある。
大阪にも神戸にもれっきとしたプロ球団が存在するのだから、どうかそちらを応援して下さい。セリーグと巨人が偏重されている日本のプロ野球を客観的に見ておかしいと感じる筆者はそう思う。
もちろん、地元以外の人も阪神タイガースを応援するというのはありがたいことだ。しかし大阪府民、神戸以西の兵庫県民は、ビジターとしての意識を持って阪神電車に乗り、甲子園の駅で降りてほしいと思う。(この部分も冗談です。念の為)
鳴尾より範囲を広げたこの西宮市がベースボールタウンとなるチャンスは過去においては存在していた。繰り返すが、プロ野球の球団が2つあり、そのうちの、ひとつの球団の本拠地は高校球児の憧れの聖地、甲子園だったのだから。
このとき、かつてニューヨークにヤンキース、ジャイアンツ、ドジャースと3つの球団が存在しながら、地区、所属する階層によって贔屓球団が分かれ、各球団が繁栄していたように、阪急ブレーブスが阪神タイガースに負けないだけの人気球団になっていれば、西宮はベースボールタウンとして確固たる地位を築いていただろう。
阪急ブレーブスがいかに強くとも人気球団になれなかったのはパリーグの球団であったこと以外に、西宮市の阪急沿線が芦屋からつながるそれなりの高級住宅地であったことによるかと考える。
日本人はアメリカ人と違って、ある程度以上の階層は野球を観戦する、あるいは贔屓球団の応援に熱狂するという人は少数派で層が薄いように思う。
ええとこのボンボン、あるいは良家の子女と目される人たちに、野球を愛好するという、分厚い風土があれば違っていただろう。
さらに、さきほど、階層という誤解を招きやすい表現をしたが、例えば西宮の中で、南北問題があって、お互いに対抗するような背景があれば、ひとは遠い相手より、先ずは身近な相手に対抗意識をもつものだから、東京、関西という意識よりも先に、山の手の阪急、下町の阪神としてそれぞれの地区に存在する球団の応援もヒートアップしたであろう。
が、まだまだ階級の差がなく、貧富の差も少ないこの国では、西宮市でも南部は比較的庶民的な街、北部は比較的に高級住宅地という程度で、ことさらに対抗意識をもつような土壌はないように感じる。
いずれにしても、西宮市がベースボールタウンとなる機会は過去においてはあったが、最大のチャンスは既に過ぎ去ってしまった。
今ここでもう一度鳴尾という土地を考察して見る。
鳴尾は西宮市の東南部を占め、南は海。東は武庫川をはさんで尼崎市と向かい合っている。かつては鳴尾の北端にあたる場所で、武庫川からの支流が南西あるいは南南西の方向に向って流れておりこの支流は枝川と呼ばれていた。
つまり鳴尾は元々は海と武庫川、枝川に周りを囲まれた大きな洲だったのだ。
今、付近の地図を見てみると西宮市を東西に横断する国道2号線から甲子園球場に向って甲子園筋と呼ばれる道路が走っているがこの甲子園筋が枝川の流域にあたっている。
枝川は埋め立てられ、その埋め立てられた土地に建てられたのが甲子園球場である。ゆえに歴史的にみれば甲子園球場は純粋に鳴尾に属しているとは言えず、鳴尾とその西隣今津地区の境界線上に存在していることになる。
鳴尾は古書にも出てくる古い地名である。一方甲子園は周知のとおり甲子の歳にできた球場であることから名付けられた大正時代以降の新しい地名である。
もちろん現在は全国的に見れば鳴尾より甲子園のほうがはるかに知名度が高い。何故ベースボールタウン甲子園ではないのか。筆者の考えでは甲子園という名称では高校野球及び阪神タイガースのイメージが強すぎて普遍性を持てないと思うのだ。
ところでベースボールタウンという言葉を先行させたが、その地に集結する施設は具体的にどういうものであろう。これは、今は手元にないのだが「ベースボーロジー2」にこのことに関しての記述があったと記憶しているし、一部私の思いも加えて列挙してみる。
先ずは中心となるべき球場。
東京ドームの一角などという限定された場所ではない堂々と独立した建物である野球博物館。
古今東西、野球に関するあらゆる図書、文献を集めた野球図書館。
野球をテーマとしたテーマパーク、ベースボールランド。
野球グッズのみを扱う商店が軒を連ねるベースボールストリート。
草野球場が何面もある広々としたベースボールパーク。
野球に関わることを生涯の職業と決めた若人が集う野球大学。
それら全てのものを含む鳴尾の街を想像することは楽しい。
ひとびとは鳴尾に集う。昼はベースボールタウンで楽しみ、夜は甲子園に行きタイガースを応援する。あるいは高校野球で地元の代表校を応援するためにやってくるひとびとはその前後何日間かをベースボールタウンの観光に費やす
だが、もしこのようなベースボールタウンが生まれたとして、その維持、運営は可能だろうか。野球を取り囲む文化の、この国の現在の土壌では困難であると思う。特定球団の応援にとどまらず、野球というスポーツのその全てを愛するひとびとの層がもっともっと厚くならなければ、ベースボールタウンは夢物語の域を出ない。
例えば、上記のベースボールランドだが、日本において、東京ディズニーランドとユニバーサルスタジオジャパンの2つを除いて、テーマパークの経営は相当に苦しいようだ。もし、野球のテーマパークが出来たとしても、それが、TDLとUSJに並ぶだけのスケールをもち、リピーターとなるべき、数百万あるいは数千万人単位の固定ファンを持つことができなければ、赤字経営となることは目に見えている。
野球というだけのテーマでそういうものが作れるのか。仮にアイデアは出来たとして誰が作るのか。TDLやUSJのように女性ファン、子供ファンを持つことができるのか。
こういうことを考えれば、上に列挙した他の施設も含めて「作るべきではない」というのが筆者の結論だ。
バブル期に全国の様々な地方で、豪華な会議場,展示場,あるいは美術館,博物館等が出来たが、その現状はどうだろう。今筆者の手元に詳細な資料はないが、おそらく多くの施設が、維持・運営するだけでも赤字になっているのではないだろうか。
塩野七生の「ローマ人の物語」によれば、シーザーは構想し、オクタヴィアヌスは建設し、ティベリウスは維持した。と言うことができるようだ。この日本にシーザーの時代があったのか、と考えると首をかしげざるをえないが、バブル期が近年における建設の時代だったとすれば(スケールはずいぶんと小さいが)、今は、出来あがった施設を維持する、メンテナンスの時代であるといえよう。
(長野オリンピック、サッカーのワールドカップで新たに作られた施設の今後の稼働率はどうなるだろうか。幻に終わった大阪オリンピックで、作られるはずだった施設の代替にどういうものが構想されるのだろうか)
しからば、鳴尾をベークボールタウンとする、ということは夢物語にすぎないのか。もし、そのことばが豪華な建築物や施設を意味するのであれば、夢物語である、いや、夢物語であるべきだ、と考える。
だが、筆者は別のことを考えている。
今、鳴尾が持っている野球に関する資源を確認してみる。
甲子園球場。
甲子園球場の一角を占める阪神タイガースに関するミニ博物館。
球場周辺にある応援グッズ、野球土産を扱う商店(プロ野球開催時、さらに高校野球開催時ににぎわう)。
球場南で、車道と歩道の境に、高校野球の歴代の優勝校名が刻まれた40~50cm程度の高さの黒いポールが立ち並ぶ歩道のある道路。
かなりの割合で西宮市内他地区及び市外に行ってしまっているが、高校野球の全国大会開催時に球児が泊まる旅館、宿舎。
鳴尾臨海公園内にある、全都道府県の代表的な木を植樹した白球の森。
鳴尾浜球場、独身寮等阪神タイガース二軍関連施設が集まるタイガーデン。
こうやって書き並べて見るとなかなかのものだ。これらは全て「鳴尾」地区が持っている資源である。
付け加えると鳴尾の中でも南部地区、甲子園球場以南に集中している。これらが他の地域から訪れる人を滞在させるだけの魅力のある観光資源かどうかは疑問だが、筆者が取りたてて書かなくとも、既に鳴尾はベースボールタウンであると言ってしまって良いであろう。
しかし住民に、例えば、静岡県清水市の住民がサッカーの街と意識しているほど、野球の街という意識は無いように思う。
実は筆者がターゲットにしているのは観光客ではなく、地域住民なのである。
阪神電鉄、朝日新聞社に頼らない、行政当局の広報、宣伝活動にも期待したいが、筆者としては地域住民の中から、そういう意識が自然にわきあがってほしいと思う。
ここにあげた野球資源が集まる鳴尾の南部地区だが、その場所には戦後、昭和30年代に米軍の進駐施設の跡地に建設された浜甲子園団地。そしてその東、埋立地に昭和50年代に建設されたレインボータウンという2つの大規模団地がある。
さきごろNHKで千里ニュータウンの住民の高齢化の問題が取り上げられていたが、これは筆者の推測だが、浜甲子園団地でも今後、同様の事態が起こってくると思う。(既にこの地区で、小学校の統合は実施されている)
また、建設されて20年が経過したレインボータウンでは、入居率の低下が起こっているそうだ。後者の原因についての筆者の推測は(推測ばかりで恐縮ですが)、今、西宮市内もマンション等新築ラッシュで、筆者の家にも膨大な量の新聞の折込広告が入ってくるが、総じて感じるのは、それらのマンション、一戸建てが、安くて広いことだ。
筆者が30年ローンで家を購入したのは、平成6年から7年にかけてであった(ちなみに平成7年1月14~16日の3連休で引っ越して、新居で初めて寝たその日に震災に遭遇しました)。
当時もバブル期に比べたら、随分安くなっていたが、今はさらにさらに安くなっており、「えー、この場所に、この広さで、この値段で買えるのー」といつも思っている。(もっとも壁にひびがはいったとはいえ、家が残っただけでも当時は有り難かったので、不平は言いません)
要はお買い得感もあり、新規購入のトレンドがそちらに向っており、中古物件となってしまうレインボータウンには需要が向わないということであろう。
しかし、もし街としてのコンセプトをはっきりと打ち出せば、浜甲子園団地のある土地及びレインボータウンはなかなかに魅力的な場所だと思う。
私が鳴尾という街を気に入っていることのひとつに大阪と神戸の中間にある(やや大阪が近いが)ということがある。
大阪に、あるいは神戸に住んでいれば、そこでほとんどの用が足りてしまうから、遊ぶにしても、はっきりとした目的がなければ、神戸市民が大阪に、大阪市民が神戸に日常的に行くということはないだろう。しかし、鳴尾は中間であるだけに、その日の気分だけで、大阪に行くか神戸に行くかを決めることができる。
また海に臨んだ場所であるから、ウィンドサーフィン、釣りなどの海洋レジャーも楽しめるし、西宮ヨットハーバーも近い。
これらの魅力を打ち出したこの場所には、先ず、自分たちの子供が成長して巣立っていった高齢者の家庭に住んでいただく。そして、結婚したばかりで、豪華なマンション、一戸建てを購入するには資金不足という新婚家庭を住民としてのターゲットとしたい。
子供が大きくなって、もっと広い家がほしくなるまでの数年間あるいは十年程度を過ごす街としての住みやすさを追求するのだ。家を購入してこの街を離れても、子供が巣立って、大きな家が不要となったとき、またこの場所に帰ってくる。そういうサイクルを生むだけの魅力のある街にするのだ。
その魅力の大きな付加価値として野球を考える。
先ずは甲子園球場が近い、という絶好の立地条件がある。
さらに方法論のひとつとして、阪神タイガースの二軍が各種イベント等で地域住民とのつながりを深め、この街に住む人の心をとらえ、わが街のチームという意識を持ってもらうこと。
阪神タイガース自体に、地元のチームである、という意識を持っている住民の分布を見れば、むろん鳴尾にとどまらず、西宮、阪神間、さらには大阪市民、神戸市民も越えてしまうだろう。鳴尾の住民が「わが街のチーム」という意識を持つには阪神タイガースは巨大な存在でありすぎる。
しかし、二軍であればそういう意識も持てるだろう。そのためには湘南シーレックスやサーパス神戸に習って、二軍はチーム名として鳴尾を名乗り、ニックネームも鳴尾にゆかりのあるものを付けてもらえれば(筆者が以前考えたのは「鳴尾パイロッツ」、かつて存在した鳴尾飛行場に由来する)、とも思うが、この文章は既存のものを有効利用しようという基調で書き進めている。新しい酒を新しい革袋ではなく、古い革袋に入れるということで、チーム名は単に「阪神タイガース二軍」というのが渋いと思う。
もうひとつは行政当局に考えてもらう必要のあることだが、野球の強豪校を作ることである。少子化の時代であるし、新設の高校は求めない。鳴尾にある私学としては、武庫川学院があるが、女子校である。この学校の男女共学化も求めない。
例えば、市立船橋が公立でありながら、野球の強豪校になっているように、必要であれば、県の制度の改革を図り、公立校に体育科を設置して、野球の強豪校を作ってほしい。
西宮には既に報徳学園があるが、報徳学園は市内でもかなり北にある高校である。
鳴尾地区には3つの公立高校がある。県立鳴尾、県立西宮南、市立西宮東である。
ぜひ鳴尾をその対象に、と書くべきところだが、鳴尾は鳴尾地区の中では北部にあたる場所にあり、前述の野球資源の場所からは遠い。
所在地から言えば、西宮東か西宮南。可能であれば、その両校が甲子園出場可能なくらいに力をつければ、西宮東は浜甲子園団地のすぐ北に、西宮南はレインボータウン内に位置する学校であるから、地区住民の間にもライバル意識ができ、そのうちに住民カラー、学校カラーというものもできるであろうからより良い。
(ここで、筆者の母校である「県立鳴尾高校」をあえてはずしたのは、もうひとつ筆者の個人的な理由がある。もし、我が愛する母校が、常に全国大会出場を狙うことができるだけの強豪校になったとしたら、高校野球という興味の尽きない一大ドラマは、観客である私にとって明確な主人公をもつことになる。
それは高校野球というドラマの本質が私にとっては変容することを意味する。
すなわち純然たる観察者に徹することはできなくなるということだ。
ある対象に熱狂し、その対象と自己同一化を図ることによってしか生むことのできないスポーツの醍醐味があれば、純然たる観察者に徹することによってしか得られないスポーツを見る愉悦も存在する。どちらを選択するかは、むろん、そのひとの性格、趣味によりおのずから決定されることであり、そのひとの生き方にも関わってくることであろう)
この土地が野球の強豪校を持ち、スターを夢見る若者たちのチームを持ち、さらに全国的な人気球団を持てば、さきのサイクルにさらに遡って、この街に育った少年、少女に「僕が、私が育った街には、常に身近なところに野球があった」
そういう街の風景、街から匂いたつものが、その子の成長過程において潜在意識にインプリンティングできよう。その子たちの中でそれを快く感じた子は、懐かしさをともなって、またこの街に帰ってきてくれるのではないだろうか。
以上は平成14年5月15日 了
平成14年7月24日 一部修正
参考文献:
・町名の話 -西宮の歴史と文化― 山下忠男氏著 西宮商工会議所発行
・甲子園優勝投手物語 日本スポーツ出版社
・週刊朝日増刊 第83回全国高校野球選手権大会特集号 朝日新聞社
・センバツ2000 第72回 春の甲子園 公式ガイドブック 毎日新聞社
本原稿を書くに当たって、上記の4冊を参考にした以外は全て筆者の記憶にて記述しております。従って、歴史的事実等での間違った記述がございましたら、どうかご指摘下さい。また上記4点の参考文献によって確認可能なことでの記述間違いがございましたら、それは筆者の確認不足によるものであり、文責は全て筆者にあります。
筆者紹介
中村 淳一(なかむら じゅんいち)
1958年3月26日生まれ。
1992年4月。NHK、クイズ難問即答「大相撲」ベスト10。
1992年7月。NHK、クイズ難問即答「オリンピック」3位。
1993年2月。フジテレビ、カルトQ「大相撲」優勝。
「ベースボーロジー3」で「野球スコア時系列記録法」を著わした○○ ○○氏とは、早稲田大学の同期で、相撲同好会にて一緒に相撲の稽古をした仲。
アイドリアン(アイドル史家)である○○氏には及びもつかないが、アイドルの愛好者でもある。
架空のプロ野球球団「鳴尾パイロッツ」と、鳴尾に住む野球少年を描いた小説「鳴尾物語」を一昨年執筆。原稿用紙1,000枚以上の予定が、根気が続かず、200枚程度であっさり終了。
上に記述した拙稿を送付いたところ、○○会長より以下のご返事をいただいた。
「鳴尾ベースボールタウン試案」の部分が最高に面白いと思います。
どこかで「野球町おこし」をすべきなのです。
鳴尾、ぴったりです。
けっして主観的な願望ではありません。
客観性充分です。
「野球都市建設」、我々、「野球文化学会」のテーマに育てましょう!
毎年「野球エキスポ」も可能です。七月八月に開催とかね。
「野球モール」は1年中盛るでしょう。審判学校も設立しましょう。
野球研究所、野球図書館、などなど。可能です。
具体的な提案として、やってみませんか?
本気で!自治体も巻き込む。
あの部分を生かしてみたいと思う次第です。
いかがでしょうか。
ベースボールタウン鳴尾の夢
― 及び、その実現へ向けての提言 ―
拙稿では、豪華な建築物や施設を意味するベースボールタウンの実現は難しい、としたのだが、○○会長より、上記のようなお返事をいただくと、「野球町おこし」をする場所として「鳴尾」はぴったり、とのお言葉はその地で育ったものとして、これほど嬉しいことはありません。
また、野球文化学会のテーマとして本気で、具体的な提案として、というご記述については、何か武者震いするような思いも致します。
で、さらに標題につき、書きたいと思います。
先ず、具体的に3つのことを提案致します。
1.ベースボールタウンが持つべき諸施設。
2.阪神タイガースニ軍の独立と地域球団化。
3.野球の強豪高校作り。
いずれも、先の拙稿で既に記述していることではあるが、本稿においては、時に先の拙稿とは異なる観点からも見てみたい。
では、先ず、1.ベースボールタウンが持つべき諸施設、から。
これについては、今は大きなチャンスがある。何故なら、甲子園球場のはす向いにある、阪神パークの平成15年での閉園が決定しており、それだけの大きな跡地が生まれるからである。が、この跡地は、どうやら三井不動産グループが入手して、イトーヨカドーを中心とした商業施設が建設されることに決まったようだ。その意味では、また、大きな機会を見逃してしまったのかもしれない。
しかし、先日、新聞の地方版で、そこに、上記の商業施設とは別に、「高校野球の記念館」が建てられることも、構想されているとのことであった。朗報である。
それに、商業施設の建設が決定済みであるとしても、その内部の詳細まではまだ、決定していないかもしれないし、決定していたとしても、変更可能かもしれない。折角、高校野球の記念館が、構想されているのであれば、それに対応、あるいは、それを統合するかたちでの、野球博物館の建設を望みたい。
また、商業施設についても、野球に関する商品を専門に扱う、ベースボールストリートあるいは会長の言われる野球モールの建設もまた望みたい。そのモール内には、会長の言われる「野球エキスポ」や、野球をテーマとした諸々のイベントを開催できるようなスペースもほしい。
要は、その商業施設建設についての責任者(多分、三井不動産とイトーヨーカドーの最高経営責任者)、及び西宮市長に、その気になっていただけるかどうかではないか、と思うのだが、立地の特異性を主張して、「野球」というコンセプトを持った施設の建設を訴えたい。全国どこにでもあるような特長のない商業施設を作るというのでは、その場所がもったいなさ過ぎる。あるいは、既にその施設の企画立案者がそういうことを考慮済みであれば、などとも考える。
将来的には、会長の記述された、野球研究所、野球図書館、審判学校等を統合した、野球大学あるいは野球アカデミーの建設も望みたい。実技、トレーナー志望者等も含めて、野球に関係するあらゆることが学べる場となってほしい。
球団経営や、野球の楽しみ方もカリキュラムの中にいれたい。
文化としても野球。野球史も当然、含まれる。
野球図書館は、野球に関する図書、文献を全て網羅することは勿論だが、この中に野球漫画、野球ゲームも含めれば、来訪する少年も多くなり活気を呈するのではないだろうか。
さらには、草野球場が、最低でも五面、できれば十面程度以上ある「野球パーク」。
野球のテーマパーク「ベースボールランド」の建設も望みたい。
「ベースボールランド」のアトラクションは色々考えられるだろうが、筆者の考えるのは、「バーチャルベースボール」。
およそ、野球が大好きな少年で、高校野球の、あるいはプロ野球のマウンドや、バッターボックスに立つことを夢見ない少年がいるだろうか。
舞台は、勝ったほうが優勝決定という試合。九回裏二死満塁。先攻チームが1点リード。この場面でリリーフに立ち、三振を奪う。あるいは打席に立ち、逆転サヨナラホームランを打つ。それをリアルに体験できるアトラクションはどうだろう。自らが、超満員の甲子園球場のグラウンドの中に立つ。観客の応援も含めて、そういう臨場感あふれるアトラクションを作ることも現代のテクノロジーなら容易であろう。私であれば、是非、映画「メジャーリーグ」のラストシーン。「ワイルドシング」の応援歌の中、マウンドに歩いていき、三球三振に切って落としたい、と思う。
さらには、登録したメンバーが、シーズン前に、一定の予算内で、任意に選手を選択してチームを作り、その選択した選手の実際の成績により、メンバー間での順位を週間単位で決めて行き、シーズン終了の際に優勝も決める、といったようなゲーム(パソコン要か)のセンターも作り、そのゲームに関するイベントも定期的に開催する、というのはどうだろう。選手の成績のポイント化が難しいだろうが、本学会であれば、この種のことに堪能で、アドバイザーと成り得る方はいくらでもおられるのではないだろうか。そのゲームが3年、5年と続いていけば、メンバーの中で、有名な強豪も生まれるだろう。
次ぎに、 2.阪神タイガースニ軍の独立と地域球団化。について
これについては、先の拙稿でもふれたが、チーム名は単に「阪神タイガースニ軍」で良いとしたが、こうなれば、やはり鳴尾を名乗ってほしいし、ニックネームも新たに名乗りたい。鳴尾にちなんだニックネームとしては、パイロッツの他に、アイビーズ(甲子園球場の蔦から)、ストロベリーズ(かつて鳴尾はイチゴの産地であった)。パイン(古書でも有名な「鳴尾の一本松」から)。レオポンズ(かつて阪神パークにいた珍獣から:ライオン(母)とヒョウ(父)の間に生まれた)。ベースボールボーイズ(高校球児から)等、考えて見たが,鳴尾にちなんだニックネームにこだわらなければ、阪神タイガースからの連想で「鳴尾キャッツ」が良いだろう。猫は若い女性に人気のある動物だし、可愛いマスコットが、デザインできれば、キャラクターグッズも人気を生むことができるかもしれない。鳴尾キャッツが地域に密着する球団となるためには、マスコミへのアピールも大切だろう。個々の選手の個性、その選手のもつ背景を周知させることが重要と思う。できれば個々の選手に、ニックネームも付けたいところだが、押付けがましいニックネームは、定着は難しいと思う。使う側を照れさせ、反発を買うように思う。しかし、ファンの間で、自然にニックネームが付けられるに足るだけの情報提供を怠ってはいけないと思う。
何より「鳴尾浜から甲子園へ」「猫から虎への変身」という、一軍昇格へのサバイバルゲーム自体がドラマとなるであろう。
最後に 3.野球の強豪高校作り である。
このことについても先の拙稿で触れたが、ここではさらに考えを進める。
最終的な目標は、全国の野球少年に甲子園出場と別の、それに並ぶに足るだけの夢を与える、ということである。
大学野球において、かつてほどではないにしろ、早慶戦に対する憧れはまだ存在する。早稲田も慶応も今は、その実力において、決してNO1の大学ではないが、早慶戦は一種特別のものだ。
そういう学校を鳴尾に作るのだ。すなわち、高校時代を、ベースボールタウン鳴尾で野球をする、ということ自体が憧れになるような、そういう受け皿を用意するということだ。
これには、鳴尾がベースボールタウンである、というだけでは不足だ。
鳴尾に存在する、県立鳴尾(筆者注:もう含めてしまいます)。市立西宮東(以降「東」と略する)。県立西宮南(以降「南」と略する)。この三校を野球の強豪校とする。
行政当局のバックアップを受け、年に各々10~15人の野球特待生を入学させる。3校の野球部監督に、既に実績のある有名監督(元プロ野球の選手で高校野球の監督を志望する人というのも面白いだろう)を招聘する。
三校は、春と秋に各々三週間かけて、その週末に、
東 対 南、 鳴尾 対 南、 鳴尾 対 東、 の鳴尾三校リーグ定期戦を、鳴尾浜球場で実施する。
この定期戦は地元マスコミが大々的に取りあげる。地域住民もできれば満員になるくらい応援してほしい、と思う。
各校野球部は、それぞれスクールカラーを持ち、それにもとづいたユニフォームを着る。
例えば、鳴尾は紫。東は青。南はスカイブルーという風に青色系統でまとめるのもさわやかか、と思う。あるいは、鳴尾は黒。東はグレー。南はブラウンというのも渋いかもしれない。
そのうち、例えばスマートさをモットーとする鳴尾。バンカラの東。茫洋たる南(むろん、このとおりでなくても良い)というようなイメージができてくれば、より良いと思う。
鳴尾の三校いずれかの野球部に入学すること自体が非常に困難(定員は決まっているので)であり、その野球部にいる、ということだけで、野球エリートであることの証しということになれば、最優秀な野球少年がこの地に集うことも望めるかもしれない。
レベルがどんどん上がっていけば、三校合わせて各学年、最低5人。できれば10人のプロ野球選手を生み、その半数以上は常に鳴尾キャッツに入団する、というサイクルを生むことができれば(その時点でプロ野球選手となれなかった選手は、鳴尾野球大学実技科に入学してもらえれば、大学野球においてもメジャーの地位を占めることができるであろう)、鳴尾は施設だけではなく、幾多の野球ドラマを生むステージともなり、名実ともに「ベースボールタウン」にふさわしい場所となるであろう。
平成14年9月24日 記述。