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音速催眠  作者: 逢空 懍太郎
第1章
9/14

1秒でできること

 受付から施術室を抜ける。早歩きで奥に進むと、すぐに診察室が見えてくる。

 カーテンが開いたままの診察室のなか、入ってすぐの戸口のそばに立ち尽くす百合子の横顔が見えた。


 百合子は口を手で覆い、小刻みに震えていた。


―――なあ、どうだよ! ああ!


 診察室の奥から、田原崎のどすの利いた声が響く。


 田原崎の声に重なるように、田原崎の妻が泣きながら、やめて!やめて! と叫ぶ声も聞こえる。


 診察室の戸口から中を見ると、仁王立ちする田原崎、その傍らにへたり込み田原崎を見上げるその妻。


 向かって左、田原崎は右手にサバイバルナイフのような刃物を握っていた。その刃先には血がしたたっていた。

 視線をそのまま右に移すと、長袖の作業着の左袖の肘から下が真っ赤に染まり、前腕の内側が斜めに20センチほど裂けていた。

 刃物につく血は、左腕前腕内側を切ったことによる返り血のようだった。


 作業着の左袖はまるで水に浸したように血がにじんでおり、そこから流れ落ちる血は袖口から手に流れ落ち、左手の甲が大量の赤インクをかけたかのように、血に染まっていた。

 血は左手の指先まで到達しており、中指と人差し指の先からぽたぽたと血が落ち、その血が床の上に溜まりはじめていた。


 傷は深いか……。


 文道(もんど)は田原崎に視線を置いたまま、一歩歩を進め診察室のなかに入り、百合子と並ぶ。

 そのままもう半歩、百合子の前に進みながら、後ろ手に百合子を自分の背後に静かに移した。


「ははは、先生、やっと来たかよ!」


 田原崎は文道が戻ったことに気づくと、大声を張り上げる。


「そこまでしたら、だめだって! 絶対、だめだってえ……」


 田原崎の妻が言葉を言い終わる間もなくまた号泣しはじめ、床にふさぎ込んだ。


「うるせえんだよ。先生言ったよなあ。どのみち、俺の病気は医者に診てもらった方がいいってさあ。

どうせ病院行くのなら、お医者さんもいっぱい治療するところがあるほうが、やり甲斐あるよなあ!」


 田原崎は顔を突き出し目を見開き、挑発するような顔をして、文道に向かって、はははは、と笑った。

 その目が鬱血していた。


「田原崎さん、あんた、自分で切ったのか」

 文道は平静な口調で聞いた。


「ああ、そうだよ。痛えよ、これ。わかんだろ? 結構ざっくりいったからさ。でもなあ、ずっとある全身の激痛は、これよりもっとひでえんだよ!」


 文道へのあてつけなのかもしれないが、そんなわけはない。

 線維筋痛症が苦痛なのはわかる。しかし、その痛みをまぎらわすために、別の個所を新たに自傷したところで、痛みがまぎれるどころか、痛みがより複雑化し、より苦痛になるだけだ。


「今日はもう休診にする。蜷川さんには今日は帰ってもらうように伝えてくれ。それが終わったら、包帯を持ってきてくれ」

 文道は体を少しだけ後ろにひねり、顔を横に向けながら、背後に立つ百合子に耳打ちした。


 百合子は、文道の服の背をつまむようにして震えていたが、文道の言葉を聞き、

「わかりました……」

 と小声で応え、早足で受付の方へ離れていった。


「聞いてんのかよ!」

「どうしたいんです?」

「俺は先生にこの身体の痛みを取ってほしいだけだよ!」


 田原崎の顔色がじょじょに青ざめているように見えた。これだけの出血なのだから、当然か。


 血はしたたり落ち続けている。床の血だまりがどんどん大きくなってきていた。


「こんな身体じゃ、何をするにも苦痛だし、なにより仕事がままならねえ。今回のおっきな仕事を逃しちまったら、まじで大変なんだよ」


 田原崎の顔が歪み、涙目になった。


「こんな状況のままだと、もう生きていくのも辛いよ。先生、俺はな、家族や会社、社員を守らなきゃなんねえ、社長なんだよ。しかもキラキラの正義のヒーローなんだよ。そんな俺が、役立たずの男として、医者行ってさあ、いつ治るともわからねえこんな痛みとちまちま戦い続ける? そんなことするくらいなら、死んだ方がましなんだよ」


 文道は何も答えず、田原崎の話を聞き続けた。


「俺には、生命保険だってあるんだ。ずっと払ってきた高い保険は無駄だと思ってたが、払い続けてきて正解だったわ。もう自殺特約も切れてる。ここで死んじまっても保険金はおりるんだよな。無駄じゃなかったってか。ははははあ」


「大事なあなたが死んだら、なんの意味もないのよ。 ばか!」

 田原崎の妻が叫んだ。田原崎は妻を一瞥してから、あらためて文道に生気なく視線を向ける。


「先生に見捨てられたら、俺の命もここで詰みなんだわ」


 田原崎は、へらへらと右手に握るナイフを振った。


「そもそも先生が悪いんです。本当は主人を治せるくせに、もったいつけて。病院で治療する? やってますよ。それでも辛いんだから、わざわざここに来たんでしょう?」

「病気で辛い思いをしているのは、ご夫妻だけではないですよ」

「口ではなんとでも言える! かっこつけてんじゃないわよ!」

 文道を見上げる田原崎の妻が、鬼のような形相で吠えた。


「田原崎さん、あんたのやっていることは、犯罪だ。いますぐ警察に通報してもいいんですよ。ここで収めてもらえたら、警察には通報しません。だから、少し落ち着きましょう」


「警察に通報したけりゃ通報すりゃいいだろ! でもな、警察が来るまでには俺はもうこの世にいないからな。先生さ、これは脅しじゃないんだよ。俺は本気だ。先生が治療してくれないっていうんなら、俺はここで自分の体を切り刻んで、死ぬよ!」


 田原崎は右手を上げて、また左腕にナイフを立てた。

 そのまま、すでに縦に切り刻まれた上腕内側にナイフを勢いよく突き刺す。


「ぐおおががががが!」


 深く突き立てたナイフで、今度は横から腕を切り裂いていった。


 ナイフを左腕から抜き、右手をまたぶらんと垂らし、

「先生、俺が本気なことはわかるかい?」


 左袖ににじんでいた血の色が一瞬明るくなったように、明るい新たな鮮血が服の上に湧き、重なって染まった。


「腕だけじゃないぜ。ここまでやっても先生がノーってことになるなら、俺はこのまま、自分の首を掻っ切って死ぬ」

「それはだめえ!」

 田原崎の妻が叫ぶ。


 田原崎はどうやら本気だ。


「先生、お願いします!お願いします!」

 田原崎の妻がふたたび土下座してきた。

「お前はもうそんなことするこたねえ。いまは、先生がやってくれるか、俺が死ぬかのどっちかの勝負になってんだよ」

「先生が治してくれるって、決まったわけじゃない。だから私は、先生が首を縦に振ってくださるまで、何度でもお願いします。どうか先生、お願いたします。主人がこれだけお願いしているんです。お願いいたしますう!」

 田原崎の妻は床に額をすりつけ、また土下座をはじめた。


 この夫婦は、勝負の意味もお願いの意味もはき違えている、と文道は思った。


「それでも私は何もしない。と、言ったら?」

「もちろん、ここで死んでやらあ!」


 文道が脅しに屈することはない。

 ただ、田原崎の思いは十分伝わってはきた。それが独りよがりなそれであるとしても、田原崎の切なる希望はわかった。


 人の絶望を治癒すること、それが津軽家でこれまで受け継がれてきたことだ。


 人の苦しみや痛みは主観的なものだ。

 誰もが絶望する苛烈な苦しみを耐えるものもいれば、人によっては克服できる苦しみでも、それに耐えきれず、絶望するものもいる。


 田原崎のいまの苦痛は、彼の絶対価値においては絶望そのものだ。


 それを救えるのは、もしかすると文道だけかもしれない。


 絶望を絶望でなくす。癒し、救済する。


 痛みや苦しみ、不幸は、人と比べられるものではない。


 ただ、文道だけが田原崎を()()()としても、少なくともそれはいまのこんな状態のときではない。


 とにかく、田原崎を落ちつけさせないと、何も話にならない。


 こういう極限的な感情の高ぶりで、自らの壁が取り除かれるという経験は、田原崎の癒しにはなりがたく、彼の後の人生にとっても、決して正しいものにはならない、と文道は思った。


「どうすんだよ、先生! 何か言ってくれないとわかんねえだろ!」


 田原崎は、また自らの左腕を切りつけた。


 自身を切りつけた痛みで田原崎はまたうめきごえをあげる。

 それを見た妻が顔を上げ、また号泣する。


 どんどん顔が青ざめてくる田原崎だったが、目は血走り、口からはよだれを垂らしていた。

 もはや自分に酔ってさえいるともいえるが、ドーパミンがあふれまくっているような状況で痛みに鈍くなっているのだろう、もはや病的な状況だ。


「先生、俺はいくぜ! やっちゃうよお、マジで。いやマジで!」


 田原崎は、血まみれのナイフをぺたぺたと自分の首筋に当て、へらへらと笑った。


「ここにざくっといったら、むしろ一気に楽になるかもなあ……」

「ダメええ!」


 仕方ない……。


 文道はすっと下にうつむいた。


 息を鼻から吸って、口からはく。

 超短の腹式一呼吸---時間にして1秒。


 肺に酸素を送るため、ここだけは最低1秒必要になる。


 目を閉じる。


 (りん)(びょう)(とう)(じゃ)(かい)(じん)(れつ)(ざい)(ぜん)

 

 9つの文字、九字法を唱える―――その時間、0.1秒以下。


 次いで、追字1字。


 (ごう)


 十字法の完成。


 呼吸からここまで―――ほぼ1秒。


 文道は目を開き、顔を上げ、田原崎を見る。


 田原崎と目があった瞬間、術話を伝える。時間にして1秒未満のゼロコンマ数秒。


 呼吸から、文道が頭を下げ田原崎の目を見て彼に術話を語り掛け終えるまで―――

 すべて合わせても、わずか1秒強しかかかっていなかった。


 当然、田原崎夫妻はともに、この1秒と少しの時間の前後で起こった差異を何も感じてはいないだろう。


 無意識にまばたきを繰り返している間、わずかであってもたしかに時間は過ぎている。

 まばたきの前と後、それは人の目にとって意味がある。

 しかし、その差異を、人は意識もしない。それと同じだ。


 1秒のブランクが会話中に起こったとしてさえ、何かを感じる人は少ないだろう。

 ちょっとした違和感を感じる人はいるかもしれないが、その違和感もすぐに忘れる。


 田原崎を見つめながら、文道が軽く息を吐く。


 田原崎の目は焦点が定まっていない。

 またたくまに、さらにうつろになる。


 文道が見つめてから10秒もたたないうちに、田原崎は体の支えを失ったかのように、ふらふらとしはじめた。


 文道が田原崎に歩み寄る。体がそのまま倒れこみ、文道は正面からそれを抱きかかえた。

 文道に覆いかぶさるように倒れる田原崎のあごが、文道の右肩の上に乗りかかった。


 文道の耳元で、田原崎の寝息が聞こえた。


 田原崎は完全に眠りに落ちていた。


「え? え?」

 床に座り込む、田原崎の妻が、あっけにとられたような顔をして文道を見上げた。


「傷が大変なことになってる。まずは手当てしましょう」


 田原崎をかかえる文道が、かかえながら、かがみこむ。

 田原崎を診察室の壁にもたれかからせるように、床の上に座らせ、両足をまっすぐに伸ばしてやる。

 そこに戸口の外で控えていた百合子が、救急箱を抱え、そばに寄ってきた。


「百合子、まずは、傷口を止血してここで手当てする。それから、診察台で休ませよう」

「はい」

 百合子は救急箱を開き、文道のそばにそれを置いた。


「な、なにが起こったの? 主人はどうなっちゃたんですか?」

「出血性のショックで気絶してしまったのかもしれません。少し休ませましょう」

 文道は適当なことを言って、誤魔化した。


 百合子も少し落ち着いてきたのだろう。田原崎のそばに歩み寄った。

「ご主人は大丈夫です。奥様も体を起こしましょう」

 百合子の言葉に、ひざまづいたままの彼女もようやくよろよろと自力で立ち上がった。


「止血が終わったら、私がご主人を隣の施術室に運びます。奥さんは待合室で少しお待ちください」


「さあ。ゆっくり歩いて」

 百合子にうながされ、田原崎の妻も戸口まで進んでいった。


「先生、本当にすみません。ここをこんなことにしてしまって……」

 診療室を出る間際、田原崎の妻は思い出したように文道の方をむき、気弱な声で言った。


 血だまりが、床にむごたらしく広がっている。


「床の汚れですからきれいになります。大丈夫ですよ」

 実際は、ぷつぷつと血の跡が、壁にもいくつか飛び散っていたし、なにより田原崎を抱きかかえた、文道のケーシー白衣には、返り血がべっとりとついていた。

 文道は、田原崎に向いたままで、それを見せないよう背中を向けたまま、黙って戸口のほうへ手をかざした。


「すみません……」

 田原崎の妻は頭を下げ、申し訳なさげに百合子とともに診察室を出た。


 2人を見送った後、小さくため息をつき、壁にもたれかかる田原崎の顔をあらためて見る。


 田原崎はさっきまでの凶行が嘘だったかのような穏やかな顔で、すやすやと熟睡していた。

 

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