語り継がれるもの
田原崎夫妻を診察室に残し、施術室を抜けて、入口にある受付に文道は移動した。
津軽整体院は、入り口から入ったところに待合室兼受付、次いで施術室、診察室、というレイアウトになっている。
最小規模の整体院の場合は、1つの空間ですべてがまかなわれることも多い。
受付の先がすぐ施術空間となっていたり、診察室もなかったりもする。
しかし、津軽整体院は、それぞれの空間にパネル壁を設け仕切っているため、動線上で最低限の視覚的なプライバシーは守られるレイアウトとなっていた。
いわば街の内科医院という雰囲気である。
とはいえ津軽整体院も決して広いとはいえず、防音までは考慮していなかった。
だから、田原崎の妻の嗚咽する声がいまでも受付にまで届いてくる。
彼女をなだめることは、もう百合子に任せておくことにした。
「先生、いったいどうしたんだい?」
待合室で次の診察を待つ患者、蜷川が声をかけた。
予約時間から45分も前から来院している蜷川は、暇を持て余し待合室の新聞を、膝にのせていた。
蜷川は腰痛治療のため、津軽整体院に3か月ほど前から通院していた。
年は70を過ぎたころだ。子供もすでに離れて久しいようで、仕事もリタイアし、妻と二人で近所のマンションで暮らしている。
「すみません」
文道は苦笑いして、意味もなく受付デスクにある予約者ファイルを開いた。
「私が随分早く来ちゃったのも申し訳ないんだが、あちらの患者さん、痛いだなんだって叫んでたね。重病なのかね?」
蜷川は、文道の背後、奥の診察室の方に向かって指をさした。
「聞くつもりもなかったけど、あちらさん、男も女も大声上げてさ。痛いだなんだとか、なんとはなしに話が聞こえてきちゃうよね。夫婦かい?」
「ええ」
文道はファイルに目を落としたまま、応えた。
「先生も腕がいいから、いろんな患者もひっきりなしなんだよなあ。私もちっと小耳に挟んだが、先生、重病患者の抱える痛みを、瞬時に消せるってのは本当かい? そうだとしたら私の腰痛も、一発で治しておくれよ」
蜷川は、がはは、と笑い飛ばす。
「蜷川さんの腰痛は、そんな簡単に治るもんじゃないですよ。ここまでリハビリしてきてようやく改善してきたじゃないですか。ちゃんとがんばらないと」
文道は顔を上げて蜷川を見て、
「こういうのはちょっとさぼると、回復が遅れるもんですよ」
「それは言わんでくださいよ。たしかに違いないや。最近ずいぶん腰も楽になってきたもんで、養生も、疎かになってるかもしれないなあ。来月、かみさんと温泉行くんですよ。かみさん楽しみにしてるんだろうね。へへ、久しぶりの旅行だから、最近は機嫌がいいや」
「では、もうひとがんばりしていきましょう」
「へい。よろしくお願いしますよ。先生」
蜷川は肩をすくめて舌を出しおどけた。
文道は口もとだけで微笑んで見せる。
「しかし、ほんと大丈夫かね。奥さん、さっき血相変えて診察室にいったきりだよ」
「ご心配おかけしてすみません。大丈夫です」
「先生もいろんな患者がきて大変だねえ。ああ、でもようやく落ち着いたのかな」
確かに、奥の診察室から聞こえていたすすり泣くような声が、いつのまにか止んでいた。
百合子がうまくとりなしてくれたのかもしれない。
田原崎夫婦に帰ってもらった後、少し時間は早まることになるが、蜷川の施術に入ることにしよう。
蜷川は膝に置いていた読みかけの新聞を広げ、それを読み直していた。
文道は、受付の椅子に腰かけ、腕を組んで目を閉じる。
田原崎は、どこから噂を聞きつけて、うちに来院したのか。
春夏の話ではないが、やはりネットの情報からか。
テレビや雑誌などもしばしば取材を頼んでくることも、そういったところなのかもしれない。
文道は自分が魔法使いだとか、場合によっては神だの奇跡だのと崇められることは、迷惑でしかなかった。
俺は医師ではない。
マッサージ、指圧、針、鍼、灸などのいわゆる整体業は医療類似行為と呼ばれる。
医療類似行為は、医療行為ではないため、今日の法律では、その医療類似行為の範囲でのみ許され、これら施術以外の行為は、医療行為として、医師法で禁じられている。
その意味では、心理療法、催眠療法、神経治療などという、医療類似行為を超えるものについて、整体師がそれを行うことは、違法である。
メンタルケアのような範疇であれば、これは心療内科医などの治療となる。
巷で噂されているような奇跡の技術で文道が患者を施術したとする。
もしそれが科学を超えた魔法であり、医療を超えた奇跡的な効果を生んだとする。
しかし、それでも、文道の行為は、我が国の現在の法律では、違法となるのである。
長年、整体師をしている文道は、そういうことを理解していた。
では、なぜ文道が患者の痛みを完全除去する術を、内密に行おうとするのか。
それは代々受け継がれ守られてきた、我が流派の使命から、であるといってよい。
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文道の用いる術は、江戸時代までは、療術と言われていた。
それは、今日、催眠術と言われるものに類似している部分も多い。
この術は、かつて、咒術もしくは呪術、妖術などとも呼ばれた。
咒術は、主に敵を殲滅するために進化してきた術である。
これに対し、療術は違った。
療術は味方を治療するために受け継がれてきた。
文道の祖先は、代々、療術の継承者であった。
明治維新以後、明治新政府は西洋の科学技術を積極的に取り入れる選択をした。
医学、建築、工業、交通、美術に至るまで、あらゆる分野で西洋化が進められた。
そこで切り捨てられていったのは、非科学的なあらゆる伝承分野である。
こうした近代化の流れのなか、敵攻撃においては、西洋の軍隊制度を取り入れることとなった。
咒術もそれ以降、必要とされなくなり、その継承者の多くが働き場を失い、衰退消滅した。
そうしたなか、唯一生き残った術―――それが療術だった。
文道の家系のもとの姓は、この流派の血筋のひとつ杉山を名乗り、江戸末期まで弘前藩藩主の津軽家に仕えていた。
杉山家は代々藩主の家を療術で守った。
敵との戦いでの負傷時はその後の生死にかかわらず、すべての痛みを除去した。
主家のうち切腹を命じられたものがいたときでも、その痛みをまったく感じさせないようにした。
津軽家の切腹は、諸藩のそれに比べて、勇ましく高潔で、その死にざまは美しくすらあると評された。
その陰には、実は療術の力も大きかった。
明治維新以後、国の近代化とともに咒術のあらゆる流派が消滅してゆくなか……
文道の家は、主君より療術の継承のために家の存続が願われ、内々に津軽姓を賜った。
主君と同姓を賜った津軽家は、明治期も厚遇された。
文道が家から受け継いできたものは、療術だけではない。薬草を調合する薬術にも長けていた。
文道は療術のみならず、現在の治療にも通じるあらゆる薬方の技術にも明るかった。
しかし、これは先に述べた通り、法律に触れることから、津軽整体院では、薬を処方することはない。
文道は、療術を使うとき、文道の家が属していた流派のうち、文道の家のさらに1人の直系継承者しか使えない、神技を会得していた。
それは、被術者の耳にその声を直接届けることなく、自身の声を、被術者の耳に届けるという神業である。
しかも、その到達スピードと術話は、被術者の認知速度を遥かに超越しており、被術者は療術をかけられたことを認識する時もないままに、術にかかる。
その時間は1秒もかからない。
結果、被術者は顕在意識で文道の術話を意識しないうちに、潜在意識が術話のすべてを受け止める。
文道が受け継いだこの神技は、江戸期より、千里馬之術または、神速術とも呼ばれ伝えられている。
千里馬とは、1日で千里(およそ3900キロメートル)を駆けるといわれた伝説の馬。時速にしておよそ160キロである。
江戸時代の最速ともいわれた飛脚でも時速6キロほどだったというから、その速さはけた違いで、当時の人々にとっては想像もできない速さである。
津軽家がこうして現在まで継承してきた、療術と神技の源流となる流派の名は、甲賀流志能便。
いまに伝わる、甲賀流忍。
津軽文道は、その末裔であった。
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しばらく瞑想のように目を閉じていた文道が目をあけると、5分近くが経っていた。
蜷川は変わらずゆっくりと新聞を読んでいる。
院内に響くのは、ばさばさという、蜷川が新聞をめくる音だけ。
ずいぶん静かだ。
さすがに診察室に様子を見に行った方がいい。
文道が椅子から立ち上がろうとしたとき―――
診察室から、大きな悲鳴と叫喚が響いた。
「な、な、なな」
二人の女性の突然の尋常ならざる叫び声に、蜷川がソファーから転げ落ちそうになる。
「百合子!?」
文道は、受付から診察室に駆けていった。