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音速催眠  作者: 逢空 懍太郎
第1章
7/14

奇跡なんてありません

「痛みはどうですか」


 ケーシー白衣を着る文道が、目の前に座る夫婦の夫の方に向け、ゆっくり問いかけた。 


「痛いってもんじゃないです。激痛です」


 田原崎が声を出すより先に、妻の方が口を挟んだ。


 問診票によれば、患者の名前は田原崎正吾たわらざきしょうご、同行の妻は患者ではないため問診票の記入はなく、名前はわからない。

 後ろ手で髪を結った妻は、目鼻たちのはっきりした整った顔立ちをしている。

 

 通常、診察室に同行者は入らないが、苦しそうな田原崎に寄り添う妻が親族であることから、2人を診察室に入れて話を聞くことにした。


 問診票で田原崎の生年月日を見ると、50歳半ばの年齢である。作業着姿で角刈りで引き締まった体つき、見た目はもっと若く見える。


 妻の方はそんな田原崎に比べてもさらに若く見える。初秋という季節柄、ベージュのニットにロングスカート。看病疲れのやつれた雰囲気であるが、それでも30代くらいに見える。


 疾患の苦労からか、夫婦にはともに疲れのあとがみられるが、どちらも見た目は若い、というのが、文道の2人に対する最初の印象だった。


 住所は横浜。職業は建設業とあることから、田原崎の体格については納得がいった。


 問診票は氏名、生年月日、住所、職業などを記入する欄があり、次いで、具体的な質問内容に移る。


 本日の施術希望の箇所、痛い箇所はどこか、いつから痛みがあるが、思い当たる原因、現在治療中の疾患、手術などによる体内の金属有無、など書く欄がある。

 途中に正面と背後の人体シルエット図があり、痛い箇所に○印を入れてもらう。


 最後の問は女性に向けて、妊娠の有無や授乳中かどうか、などを記入してもらうのだが、今回については関係がない。


 問診票を見ると、今回の患者の荒々しさと切迫感が見て取れた。


 Q1 治療したい(痛い)箇所はどこですか。

 全身!


 Q2 いつから痛みがありますか。

 忘れた


 Q3 思い当たる要因はありますか。

 ない


 などなど、質問の回答はすべて一言だけの殴り書き。


 人体図については、前面と背面が真っ黒になるくらい、がりがりと塗りつぶされていて、力を入れ過ぎていたのか、紙が少し破れていた。


 Q4. 現在治療中の疾患はありますか。

 繊維筋痛症


 繊維、ではない。線維筋痛症だと、文道は思った。


 線維筋通症はリウマチの一種で、典型的な症状は、強い痛みである。


 痛み以外の症状では、疲労感や倦怠感、睡眠障害、うつ状態などをはじめ、さまざまな症例が報告されている。


 線維筋痛症になる原因ははっきりわかっていないが、脳の機能障害の一種ともされているようだ。


 ごくまれに、文道のもとにもこの疾患を持つ患者が来院することがあるが、この疾患について文道は通常の施術をし、痛みを消去することはしなかった。


「ご主人、いかがですか」


 文道は、再度、田原崎に語りかけた。


「主人は線維筋痛症なんです。ご存知かわかりませんが、これは難病なんですよ。もうこれはなってみないとわからない。本当に激痛なんです。全身が針で突き刺されたようだと言ってます。もう苦痛で苦痛で仕事にならないんです。先生のところに来たら痛みが取れるって聞いたので、本当に藁にもすがる思いで―――」

「奥さん、ご心配なお気持ちはわかりますが、まずはご主人からお話を聞かせていただいていいですか」


 田原崎の妻は、気色ばむような顔をして目線を横に投げた。


「いかがですか」

「最悪だよ……」


 田原崎はうめくような小声でつぶやいた。


「針どころじゃない。もういまじゃ体が串刺しにされたみたいな焼けるような痛みだ。もう何も考えられねえ。頭もぼうっとしちまって、夜もまともに寝られねえ」

「なるほど」

「先生、主人の痛みは取れますよね。ずっと前から電話してて、予約がいっぱいでようやく今日こちらに来れたんです」


 津軽整体院は施術希望の患者が多く、現在、完全予約ですべての患者の施術を受け付けている。

 その内容によっては前倒しで受け付けることもあるが、通常の施術だと、初診については1ヶ月くらいは待たなければならない。


「線維筋痛症の大変さは理解できます。実際うちにも同じ疾患の方が通院されたこともあります」

  

 文道は続ける。

 

「今回は様子を見る意味で、そうだな、まずは骨盤や背骨を矯正して全身の歪みを取っていきましょう。骨の歪みが痛みを助長してる場合も多いですから、全身矯正でもいくらか痛みの改善につながります」

「え? ちょ待ってくれないか先生。改善って……いててて」


 田原崎は話すのも辛そうで、それに見かねた妻が、


「先生、改善というのは、痛みがまったくなくなるってことですよね?」

「線維筋痛症は原因がはっきりしていない複雑な疾患です。痛みがすべて消えるということはありません」

「話が違うじゃないですか!」


 妻が叫ぶ。


「末期の膵臓癌のおじいちゃんが先生の治療で痛みがなくなったって聞きました。膵臓癌って癌の中でも最悪で、最後はかなりの激痛だそうですね。その痛みを消せる先生が、主人の病気くらい消せないわけないじゃないですか!」


 妻は甲高い叫びで、抗議の声を上げる。

 田原崎も体を押さえながら、恨めしそうな目をして睨んできていた。


 待合室には、予約時間より早めに来院してしまった次の患者がすでにいる。

 田原崎の妻の張り上げる声を、文道は気にした。


「誰から聞いた話かわかりませんが、根も歯もない話です」

「嘘おっしゃい!」


 もちろん、嘘だ。


 文道はたしかに患者の痛みを除去できる。

 しかし、その術を使う時、文道は常に患者にこのことは口外しないよう話している。


 しかし、人の口に戸は立てられない。

 実際、ネット掲示板などでは、誰が発信源かわからないが、津軽整体院が奇跡の楽園のような、さまざま書き込みがあるようだ。


「父さんは神の手を持つキリストの生まれ変わりなんだって。そうなると、私は神の子だあ」


 以前、そんな軽口を叩く春夏を文道はたしなめたが、ネットに親しんで育った春夏は、その手の話に詳しかった。

 春夏によれば、今の時代、スマホを使えば、そんな噂話が掲示板と称されるところにいくらでも転がっているという。


 掲示板には、尾ヒレがついたようなエピソードもたくさんあるようだというのも、春夏から聞かされた。


 たしかに膵臓癌は重篤な病で、その末期ともなると、痛みも相当なものとなる。


 ただ、ここ何年か文道は膵臓癌の患者を施術していないし、かつて診た膵臓癌の患者は家柄のいい老婆で、他人に施術内容を吹聴するとも思えない。

 そもそも、当時80に近かったその年齢を考えれば、ネットの掲示板とやらに書き込むことなど到底できない。


 今回、文道が痛みの除去を行うつもりがない理由は、この夫婦を拒みたいからではない。


 無論、線維筋痛症に自身の術が効かない、というわけでもない。


 今回、文道が痛み除去の処置を見送るのは、もともと余命が宣告された末期の病にしか、痛みの除去を行わないと決めているからだ。


 文道の行う痛み除去は、世間の噂通り、その痛みを完全に除去する。

 その状態は、自身に疾患などなく、完全健康体だと錯覚するほどだ。


 それがまずい。


 治療余地のある病において、そういう状況を生み出すことは、その患者本人にとっていいことなどなにもない。


 痛みがあるから人は身体を労わる。

 特定の箇所に痛みがあれば、そこに負荷のかからないような動きもするし、薬も飲むし、治療も熱心に受けるだろう。

 健康的な生活も心がけるだろう。


 だからこそ、人は病気から回復してゆく。


 例えば、足を骨折した時、足にギブスをし、松葉杖をつく。

 ギブスで患部が固定されてるとはいえ、そこに負担がかかれば痛むし、それを避けるために、自然と骨折した足を労わるような動きをする。


 だから完治してゆく。


 これがもしも痛みを全く感じないなら、骨折した足を労わることはせず、松葉杖すら使い忘れることがあるかもしれない。


 そうなれば、負傷した足に負担はかかり続け、場合によっては骨がより損傷し複雑骨折のような状況となり、足が治るどころか、変形してしまうかもしれない。


 痛みは治癒が必要なことについて知らせてくれるし、痛みが自己の治癒を進めているシグナルのときもあるのだ。


 しかし、不治の病の場合は違う。


 その痛みは死へ向かう道につきまとう伴走者のようなものであり、その痛みにはいかなる期待も希望もない。この場合の痛みは、死神のようなものである。


 文道は、近い将来、黄泉の国へ向かうしかない人への絶望を取り除くためだけに、術を使いたいと考えているのだった。


 文道が取り除く痛みは、すなわち絶望と等しい意味をもつ。


「ご主人の病気は、やはりしかるべき病院でしっかり治療することがまず肝心だと思います。整体での施術がまったく意味をなさない、とまでは言いませんが、いまのおふたりが期待されるほどの効果は、望めないように思います」


 この患者について、今回は、帰ってもらおう、と文道は思った。


「せっかく遠方から来られて期待はずれな結果となり申し訳ありません。施術をご希望されないなら、今回のお代は結構ですので」

「ちょ、ちょ、待ってください!」

「先生、たのむ。俺は、建築会社をやってるんだ。下請け仕事ばかりの、ちっぽけな会社だけど、久しぶりに、大きな仕事が入ったんだよ」


 田原崎は息も絶え絶え話を続ける。話をするだけでも苦しそうだ。相当な痛みなのだろう。


「今回の仕事で動かさなきゃならない重機は、俺しか扱えねえんだよ。そうしないと、今回の仕事も、うまく回らねえんだ」

「先生!」

「たのむよ、先生……」


 夫婦は2人して頭を下げた。


「無理です」


「お願いします! 先生」


 妻がいきなり椅子から立ち上がり、土下座してきた。


 その態度に一瞬、田原崎も驚いた顔をしたが、すぐに田原崎もよろよろと椅子からすべり下りながら、土下座してきた。


「おふたりとも、やめてください!」


 いきなり診察室に、文道の妻、百合子が入ってきて、2人のそばに駆け寄った。


 診察室での大きな声を気にして、受付からこちらの様子を見に来ていたのだろう。


「うううう」


 土下座する妻が嗚咽を上げる。泣いているのか……。


「あなた……」


 百合子が土下座する夫婦のそばにかがみ込み、妻の背中をさすりながら、文道を見上げる。


「どうお願いされても、無理なものは無理なんです。ご主人の疾患は、私でなくとも専門の医療機関で治療を受ければ必ず改善します。お引き取りください」


 文道は立ち上がり、百合子の顔を見下ろした。


「今日はお帰り願え」


 百合子にそう言い残し、文道は診察室の外に出た。



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