奇跡の診療所
日比谷線から茅場町で乗り換えて東西線へ。
そこから、千葉の手前、葛西駅で下車して徒歩15分あたりいったところに閔莝の自宅はある。
ガラス戸の下にあるシリンダーを回してドアを開ける。
もう看板はおろしてしまったが、透明のガラス面には「津軽整体院」と剥がしたダイノックシートの跡が残っている。
1年ほど前まで、閔莝は、父と母、そして姉の4人でこの診療所兼住宅でともに生活していた。
閔莝の父、津軽文道は、整体師として、同院の院長をつとめていた。
母の百合子は、事務や経理、雑務などをして、同院を支えていた。
津軽整体院は、東京の外れの住宅街の一角の小さな整体院にすぎなかったが、ここは知る人ぞ知る場所だった。
文道の施術が評価された同院は、日々、全国から患者が来院し、開院中の文道はほぼ休憩も取れないほど、忙しくしていた。
津軽整体院は、一般の施術においてもそれなりの評価はあったが、その評判を特に高めていたのは別のところにあった。
それは、文道の施術のみで、あらゆる患者の痛みや苦しみが取り除かれるという、これまでの実績からだった。
痛み、というのは医学において、疼痛といわれ、大きな研究テーマの1つである。
今日、痛みを取り除くことに特化した病院や医院、研究施設は日本にいくつも存在する。
こうした医療施設では、麻酔などの神経ブロック注射、レーザーなどによる除痛、薬物療法、リハビリ、さらには心療内科によるメンタルケアまで、身体と心、あらゆる医療分野の専門家が連携し、総合的、複合的に患者の痛みの克服に日夜あたっている。
言うまでもなく、これら治療はすべて現代医学で科学的に裏打ちされた理論や技術よるものである。
これに対して津軽整体院における施術は、文道の技術だけであり、しかも医師ではない文道は、施術において薬物や機器、器具を一切用いない。
それでありながら、あらゆる医療機関がなしえない、痛みの完全除去を行えるのだから、これが評判にならないわけがない。
痛みを訴える患者の病状はそれぞれである。
肩こりからくる頚椎症などの痛みからはじまり、
腰痛からの腰椎椎間関節症、脊柱管狭窄症、坐骨神経痛、神経の根症、肩肘膝股関節の変性疾患、神経障害性疼痛、頭痛、顔面痛、三叉神経痛、脊髄障害性疼痛症候群などなど……
疼痛の種類は多岐にわたる。
これら痛みを医療現場では、整形外科などを中心としながら各医療分野、専門職が学際的に連携して、その克服にあたるわけである。
ただ、医療による疼痛の緩和はあくまで緩和であり、痛みを完全に克服することはできない。
痛みがゼロになる、ということは、医学的には、その病気が完治したということと同じであるからだ。
疼痛の緩和治療と病気の治療とは意味合いが違う。
つまり、どれだけ医療技術が進化したとしても、苦しむ患者の痛みを、完全に除去することはできない。
しかし、津軽整体院は違う。
痛みを完全除去するのである。
病院で、モルヒネを使わないと対応できない、というほどまでに絶望的な痛みを伴う病気、例えば末期がん、特にこうした痛みにおいては、文道の施術は患者の救いとなる。
がゆえに、津軽整体院では、余命が告げられた末期がん患者が最も多く訪れていた。
抗がん剤治療などの治療も打ち切られ、緩和ケアとして病院治療から在宅療養に移った人々の苦しみの多くを、文道は救ってきた。
医学治療をほとんどを止め、在宅療養に移ったとしても、癌との戦いは終わるわけではなく、むしろより過酷となる場合もある。
余命の定まった病の痛みや苦しみとの戦いは、その人その人の人生の最期まで続くのである。
こうした毎日が絶望との隣り合わせともいっていい、苦痛や不安を少しでも和らげようと、文道のもとには、日々、患者たちが訪れていた。
閔莝が聞くところによれば、文道の施術はそんな患者たちの苦しみは和らげるどころか、消滅させていたという。
痛みをまったく感じなくなった患者のなかには、自身が癌であることを忘れてしまうものさえいるほどだった。
「あなたのお父さんの治療はまるで魔法のようだわ」
かつて、学校から帰宅した閔莝と鉢合わせになった高齢の女性が、涙ながらに話していたことを思い出す。
この女性は、その2ヶ月後に他界した。
もちろん、文道は患者たちの病気を治しているわけではない。痛みを取り除けたとはいえ、こうした患者たちは、長くない期間のうちに、ほぼ例外なく、永眠することとなる。
結局亡くなるのだから、文道の施術はひとときの安らぎに過ぎないかもしれない。
しかし、そのひとときの安らぎにより、どれほど多くの患者当人やその家族が救われたかは、院に直接訪れ伝えられる遺族の感謝の言葉を聞き、毎日のように届いてくる遺族らの手紙を見れば、説明するまでもないだろう。
そんな津軽整体院について「病院を超える病院」「奇跡の病院」とまで評するに人もおり、そんな評判を聞きつけたマスコミが、ことあるごとに文道のところに取材要請してきた。
文道はそうした取材をすべて断っていたようだが、それでも津軽整体院の患者は、途絶えるどころか、日々増えていくような状態だった。
そんなあるとき、ふいに来訪してきた夫婦の登場を境に、津軽整体院と津軽家すべてが激変することになる。