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音速催眠  作者: 逢空 懍太郎
第1章
10/14

4つの条件

ーーーあー、痛ててて!


 文道(もんど)は診察室の回転椅子に腰掛け、机上のPCでデジタル処理されたカルテを整理していた。

 

 後ろの壁越しの施術室から田原崎の声が聞こえると、回転椅子を施術室の方に半回転させた。


 壁掛けの時計を見上げる。


 田原崎をさきほど眠りに落としてから、30分ほどが経っていた。


 時間は午後3時過ぎ。


 文道は立ち上がり、カーテンを開けて診察室を出た。


 診察室は田原崎が眠っている間に、百合子と掃除した。


 血まみれだった床は、モップで拭き取り、消毒した。

 床材がクッションフロアであったことが、汚れを取るのに幸した。

 表面がビニールなので、耐水性があるため、色が染みることもなかった。


 ただ、まだそれほどしっかり拭き取れていないので、アイボリーホワイトの床面にはほんのりと薄く赤黒いしみが広がる。

 よく見れば、ここが汚れていることはわかる。


 わずかながら壁に飛び散った血の跡も、拭きはしたものの完全に消しきれず、白い壁にうっすらと斑点を残している。


 田原崎は自傷に用いていたナイフを、眠りに落ちた間も握り続けていた。

 その指をほどいてナイフを取り、血を拭き取ってから、田原崎の目の届かない棚に保管した。

 

 田原崎を抱きかかえる際に血が付着したケーシー白衣は、替えのものに着替えた。


 診察室から施術室に入ると、整体ベットの上で、仰向けのままで田原崎はうめいていた。


「あまり動くと、台から落ちますよ」


 幅が80センチほどしかない整体ベッドは、シングルベッドよりも小さい。


「ああ、先生……ここは……」

「施術室ですよ」

「家内は?」

「待合室でお待ちです」


 田原崎の妻のことだ、ほっておけば、夫の声を聞きつけた今ごろ、とっくに施術室に飛び込んできていただろう。


 しかし、先ほどの田原崎の声は待合室にも届いていただろうが、田原崎の妻がこちらに来る気配はない。


 今回ばかりは()()()()を聞いているのだろう。


 田原崎が眠っている間、文道は田原崎の妻に、田原崎が目覚めても施術室には入ってこないよう、釘を刺しておいた。


 彼女は最初、その指示に難色を示していたが、そうしなければ、田原崎の希望を叶えない、という文道の言葉を聞くと、文道の指示に従うことを約束した。


 施術室に来れば希望を叶えない、ということは、来なければ希望が叶う、という意味に解釈したのだろう。


 文道は決して希望を叶えるとは言ってないが、田原崎の妻が待合室に大人しくしているに越したことはない。


 百合子は受付にいる。

 受付は待合室の目の前にあるため、百合子と田原崎の妻は、同じ場所にいるようなものだ。


 いま、また田原崎の妻ががちゃがちゃ言っているなら、百合子もやっかいだな、と文道は思った。


「痛って……」


 田原崎はかけられた毛布をまくり、整体ベットから上半身を起こしながら、痛そうに包帯が巻かれた左腕をさすった。


 田原崎の左袖が切り裂かれた作業着は脱がし、下に来ていたTシャツのままである。

 Tシャツは鮮やかなブルーで、大きく有名アメリカ企業のロゴが派手にプリントされていた。


 左側が血まみれの作業着は、紙袋に入れ、診察室に置いたままにしている。

 あらためて血の跡を見て、暴れられても困る。


「傷が開いてます。形成外科に行って、縫合してもらってください」


 田原崎の腕の傷は、片仮名のキの字のようなあとになり、一部は表皮全層が切れ、皮下脂肪がのぞいていた。


「これも病院に行けってか」

「応急的に止血して包帯を巻いていますが、深い傷は血が止まりにくい。病院でしっかり止血し、その後の感染症など考えれば抗生剤などを処方してもらってもいいでしょう」


 整体ベットで上半身を起こす田原崎の足元に立ち、文道が冷静に話す。


「その腕の痛みで、全身の痛みはまぎれてますか」

「いや……もっと痛くなっちまった。でもな、先生。俺は形成外科かなんだか知らないけど、行かないよ」

「今日ここで痛みが取れなかったら、死ぬ?」

「そ、そう! その覚悟で、俺は今日ここに来たんだからな!」

「田原崎さん、お子さんは?」

「来年中学に上るんじゃないかな……。前のカミさんのところにいるから……」


 田原崎の威勢が弱まり、少しきまりの悪そうな顔をした。


「いまの奥さんは……」


 文道は話をそこで止めた。そこまで人の事情を聞く必要もなかったか。

 余計なことを言ったかと思ったが、田原崎はそのまま応えてきた。


「自分、再婚ですよ。俺ももう50も過ぎて、20歳以上も歳の離れた嫁さん、もらってね。俺らの見た目みれば、わかったでしょ」

「いえ、見た目の若い奥さんはたくさんいらっしゃるから」


 文道は実際、そこまで深く考えてはいなかった。


「へえ、でも、うちのカミさんは本当に若いよ。俺が苦労させてるから、世帯じみた見た目になってるかもしれないけど、ちゃんとおめかしすりゃ、まだまだイケてる女よ、マジで。親バカっつうか、夫バカ、かもだけど」

「奥さんはお綺麗ですよ」

「でしょ」


 田原崎がにやける。


 たしかに、田原崎の妻は、世間的にみて美人といっていい見た目だ。いまは化粧もそこそこで、生活感のある雰囲気になっているが、よく見れば、かなり容貌に優れている。

 

「先生だけだから言うけど、実は俺、会社もあるけど、やっぱ、カミさんに一番いいカッコしたいんだよ。前の女房と別れて、縁あって、いまのカミさんと一緒になれてね。やっぱ、いい女に苦労させたくないじゃないですか。だから、必死に仕事頑張ってたんだけどさ、こんなことになっちゃってね……」


 文道は、妻が田原崎のことを熱烈に思っていると思っていたが、どうやら田原崎もまた妻を、それ以上に思っているようだった。


「奥さんが、田原崎さんをとても思ってらっしゃるのは伝わってきましたよ。いまの病気も2人で力を合わせれば、きっと乗り越えていけます」

「だから、そのために、まずは今回の仕事をなんとかしなきゃならない……」

「何か、田原崎さんしかできない仕事とか」

「まあ、細かい話しても伝わらないと思うけど、今回、プラント解体の工事を何社かで受け持っててね」

「工場ですか」

「そう、工場。工場っていっても、普通の工場じゃなくて、超巨大工場。解体業って、そんな金になんないんだけど、今回の仕事は規模がでかいから、ウチくらいの会社にとっては大きな案件になる」


 田原崎は続ける。


「今回だけの話じゃない。今回の元請けの仕事をこなせば、おぼえめでたくなるっていうかさ、次の信用にもつながる。発注元が旧財閥系グループの重工業企業でね。ほんとなら、うちの会社に仕事が回るようなレベルの会社じゃないんだ」

「今回の仕事には先がある、と?」

「先もなにも、大ありさ。これがうまくいきゃ、うちの会社も上場射程距離、なんつってね」


 田原崎は親指を立てて、笑みを浮かべる。

 やや知性に欠けるところはあるが、憎めないところもある男だと文道は思った。


「俺もこのレベルの話が元請けから回るの初めてだったんだけど、今回の仕事は工期がはっきり決まってて、そこでうちのターンのワイヤー切断を、俺がやれないとまずい。そういう話」

「ワイヤー切断ですか」


 文道は建設業界の事情にはまったく明るくなかった。


「正確には、ダイヤモンドワイヤーソー工法って言うの。簡単に言っちゃえば、ダイヤモンドのワイヤーでコンクリートを切断する作業」

「それを田原崎さんだけでやるんですか」

「いや、俺だけじゃないよ。何社かの下請けが引き受けてるんで、他社さんでもやる」

「田原崎さんの会社の話です」

「あ、そういうことね。俺の代わりになる人間はいたよ。ちょっと前にね。でも、そのベテラン職人がいろいろあって、今回の仕事を受けた後に、いきなり辞めちゃって。若い奴ばかりの会社だから、今回ばかりは、俺しかやれないんだ」

「新しい人を雇うというのは」

「そりゃ、いつかはそうしたいと思ってるよ。でも、いまはもう間に合わない。外注で頼もうにも、いまは人手不足でなかなかね……」


「こちらをどうぞ」


 田原崎が話しているところに、百合子が白湯を入れた紙コップを持って入ってきた。


「あ、すみません」

 田原崎は整体ベットに長座位姿勢のままで、紙コップを受け取り、白湯を口にした。


 田原崎は申し訳ないのか、百合子に目を合わせなかった。


「奥さんのほうは?」

 文道は施術室を出ようとする百合子に小声で聞いた。

「待合室で待ってます」

「そうか」


 百合子は小さく頭を下げて、施術室を出て行った。


「話は大体わかりました。田原崎さんが動けないと、会社が回らない、ということですね」

「そう」

「田原崎さんが現場に出なければならない期間はどのくらいですか」

「そうだな、2〜3日。うちの工期自体は1週間ほどあるんだけど、そこをしのげば、あとはうちの職人らでなんとかなると、思う」

「いまの状態で、機械は動かせないんですか」

「こんな全身の痛みで、機械は回せないよ」

「自分の腕は切れるのに?」


 文道は少し嫌味を言った。


「はは、先生、やめてくれよ。たしかにさっきの俺ならやれたかもな。でもな、先生、さっきの俺でもやっぱ難しいわ。ワイヤーソーの仕事は、もっと細かいからさ」


 照れ笑いしながら軽口を叩ける田原崎を見ていると、いま精神状態はほぼ落ち着いてきていると、文道は感じた。


「冗談抜きでさ、ワイヤーソーやるときは、集中力いるんだよ。そもそもいまの体じゃ、痛くて重機持つのも辛いし、持てたとしても、いまの痛みって波があって、いきなりどかんとすごい痛みがやってくる。そのときに手をすべらせても大変だ」

「その工事は、いつからですか」

「来週の火曜から」


 今日は金曜、あと4日後の話だ。


「田原崎さんの事情は飲み込めました。では、田原崎さんは、来週の2〜3日、痛みがなければ、いい。それでいいですか」

「まあ、言ってしまえば、そうだけど、もちろん、できれば、ずっと痛くないのがいいよ」

「これだけは理解して欲しいんですが、私は医者でも魔法使いでもない。いち整体師です。私は病気を治すことはできない。私のできることは、痛みや苦しみを一時的に遠ざけることだけです」

「遠ざける? 消せるんでしょ?」


 文道は田原崎の問いを無視する。


「病気の本質的な治療は医学にしか頼れません。麻酔を考えてください。たとえば歯が痛い時、麻酔をすれば痛みはなくなります。しかし、そのまま治療をしなくていい話ではない」

「先生のやることは麻酔って言ってるのか?」

「もし、私が田原崎さんの痛みを取り除けるとしても、田原崎さんの治療は今後も必要です。田原崎さんの病気はリウマチです。リウマチは完治する可能性のある病気です。末期がん、とは違う。だから、治療をすべきです」

「だから、病院に行く気はないってーーー」

「田原崎さんのその痛み、来週までなら、完全に消すことができます」

「え? 本当? やってくれるのか、いや、やってくれるんですか、先生!」


 田原崎は急に丁寧な口調になり、身体を起こそうとしたが、痛てて、と動きが止まった。


 文道は、田原崎のそばに近づき、


「無理しないで」


 田原崎の左肩に右手を添えた。


「ただし、条件があります」

「条件? 言ってくださいよ!」


 田原崎は身を乗り出してきた。肩に添えた文道の手に田原崎の力が加わる。


「条件、というか、約束ですね」

「なんでも言ってくれ。いや言ってください、先生」

「条件は4つ。まず1つ」


 文道は左手で握り拳を作り、田原崎の前に差し出しながら、人差し指を出す。


「いま言ったように、田原崎さんの痛みが消えたとしても、病気は治っていません。だから、病院の治療は続けてください。たとえ痛みがなくても、病院には行く。特に腕の傷については、今日明日にでも形成外科にかかって、縫合してください。傷口が広がると、それはそれでやっかいです」

「腕は痛いんだ。行きます。行きます」

「その腕の痛みだと、仕事に差し支えるんでしょう」

「そうだよ。やりすぎたよ……」

「今回は、仕事のために限定的に行います。仕事に支障のでることはすべて取り除きます」

「まさか、腕の痛みも消えるんですか!」

「痛みがないなら、病院にかかることを忘れるかもしません。ただ、包帯の下の傷口はぱっくり割れてますよ。しっかり縫合しないと、傷口は腕に確実に残ります」

「行く! 行きます!」


 田原崎は大きく頭を上下する。


「2つめ」

 文道は人差し指に次いで、中指を出す。


「田原崎さんが痛みを避けられる期間は、来週の木曜までとします。つまり、金曜には、必ず当院に来院してください。そして以後は痛みが再び戻ることを理解して、ちゃんと治療に向き合ってください」

「来週の金曜になったら、また痛み出すということですか」

「そうです」

「まじか……」

「それを理解してもらえないなら、施術は行えません。来週、また刃物を出しても、もう無理ですよ」

「やめてくれよ……」

「冗談ですよ」


 文道は、来週、痛みが戻っても、もう田原崎がナイフを振り回すことはない、と思っていた。

 人は極限的な心理だからこそ行えることがある。

 田原崎の話を聞く限り、来週の今頃、田原崎が同じ精神状態であるとは思えなかった。


「うん、俺も男だ。覚悟した。今回、先生に痛みを取ってもらったら、それでいい。もし痛みが戻ったとしても、次はちゃんと治療する。痛みからも逃げようとしない。約束します」


「いいでしょう。では、3つめ。これが最も重要なことです」


 文道は田原崎の目の前で作った左手のピースサインに、薬指を加える。


「田原崎さんの痛みを遠ざけるため、これから全身整体の施術を行います。時間は30分。ここで、私は田原崎さんの全身の歪みを調整し、症状の改善を促すようにします。施術終了後、もし痛みが取れたとしても、それは施術の結果、田原崎さんが自立回復したものであり、私の力ではありません」

「どう言う意味だ? 先生の力だろう?」


 文道は無言で首を振る。


「田原崎さんは何度も同じようなことを言ってますが、私はいち整体師です。私の力ではない。私は田原崎さん自身の回復力を促すだけです。だから、うちで施術すれば誰でも回復する、とは吹聴しないでください」

「どう考えても先生の力だろう……。わかりました。ここでの治療はよそに言わないです」


 文道はうなずいた。


「絶対言わない。なんなら、痛いふりしててもいいや」


 文道は苦笑いした。


「これで3つ。最後の4つめはなんです?」


 文道は田原崎の目の前で、さらに小指を出す。

 そのまま4本指を出した、左の手をゆっくりと隣の診察室の壁に傾ける。


 文道の手の動きに、田原崎の視線もその壁の方に向く。


「隣の診察室のクリーニング代をいただきます」


 文道は小さく微笑む。

 田原崎は爆笑した。


 




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