第四話「地獄の炎を越えて」
「またいる……こんな朝っぱらから屯して、うちを乗っ取る気じゃないでしょうね」
龍流神社の十二階段に吉備津マキナのブロンドの髪を見つけた龍流の巫女は、呆れたように声を掛けた。
「まさか。歩き巫女は根無し草。ただ地に足はつけたくなるのが人情というもので」
マキナは湖に浮かぶ龍ヶ島の街並みを見下ろした。見る分には日本のベネチア、絶景である。とはいえ余所者の彼女にはまだ水上生活に慣れ親しんでいなかった。
「だったら山にでも棲めば? 鬼ヶ岳も鬼狩りなら怖くないでしょう? ってあんたまさか、山に行く気?」
「そうなんですよミコト様」
マキナの隣にいた、眼鏡をかけた青年が割って入った。
「マキナ殿には我ら人間解放連盟の同志として龍ヶ島が誇る猟師達を守っていただこうと思いまして」
「また人間の自由とかなんてかって秘密結社ごっこ? 聞こえはいいけどねぇ。でも村山さん、あなたの眼鏡も風花商店の物でしょ」
「ううミコト様、それは言わないお約束で……」
村山と呼ばれた青年はしょげた。彼の言う人間解放連盟とは鬼の人間牧場と化している龍ヶ島から鬼を追い出し人間の自立を促すことを目的とする組織だったが、実質彼一人であった。本気で人間の自由を求めた者は鬼に食われてきたからだ。それと比べ彼のはお遊びサークルにすぎず、鬼にも見逃されていた。
しかしここに鬼狩りのマキナが加われば話は別である。村山青年は目を輝かせていた。
そこに二人の漁師が通りがかった。村山が声を掛ける。
「あっゴサクさんヒコジロウさん。紹介します。今回御二人を護衛する鬼狩りの吉備津マキナ殿です」
「あああの風花に負けた……」
若い方の漁師が口を開くと、ベテランの方がこれヒコジロウ、と窘めた。
「吉備津とか言ったか。狩りの邪魔はしてくれるなよ。本当は護衛なんざいらねえんだ。鬼なんてこれでズドンよ」
そう言ってゴサクは猟銃をマキナに向けた。彼は心底嫌そうな顔をしていた。
とはいえ村山は龍ヶ島の長の倅で、その頼みとあれば断れないのがゴサクであった。
マキナは微笑む。銃などで鬼に対抗しようなどという人間を嘲笑っているのか、ただ能天気なのかは横から見てもわからない。
足早くゴサクとヒコジロウの二人は龍流神社の裏口に向かって行った。猟師はいつも神社を起点に山に入る。その後をマキナは足音立てずに追った。
「邪魔はしません。安心して狩りをなさってくだせい。鬼はあっしが狩りますれば」
「よっよろしくマキナさん」
若いヒコジロウは返事をしたがゴサクは無視した。気難しくなる年頃なのである。
山の中は天然の迷路であった。
人が踏みならした道らしき道はあったが、うっそうと生い茂る木々によって複雑怪奇となっていた。
しかし猟師達は道を知る。道中仕掛けられた罠を一つ一つ確認していきながら進む。彼らの獲物は主に兎や狸、猪だ。熟練者は鳥も狩る。どこへ向かえば獲物を得るか、彼らは知っている。頭の中には地図がある。
猟師は最低でも二人一組で行動する。一人が獲物を追い立て、一人が網を張るためでもある。もう一つ、鬼ヶ岳での猟ならば鬼に出くわした時に一人が囮になって一人が逃げる為でもあった。猟師達は鬼が出た時仲間に知らせるための笛も持ち歩いている。
今日は罠の方はざるだった。こういう日もある。ヒコジロウは代わりに山菜やキノコを採集していた。一度山に入れば手ぶらで帰ることは許されないのだ。リスクに見合うリターンがなければ、と猟師も猟師の家族も考える。
「兎の鳴き声がしない……素人の気配で逃げているんじゃあないか」
ゴサクは顔をしかめる。後を付けるマキナのことを快く思っていない。
「平和な一日だなぁ」
ヒコジロウは遠回しに嘆いた。日が傾いている。そろそろ山を下らなければ空が闇に覆われる時間であると気付いた。
その時二人は獣の気配を察知した。足音が大きい。猪か、鹿か。熊かもしれなかった。仕留めたら大金星だ。
ヒコジロウの心が湧きたつ。ゴサクは冷静に猟銃を構える。
突如、袁叫のような唸る音が山中に響いた。これは狩りの合図であった。人ではなく、鬼の。
二メートルは悠々と超える体格に赤黒い肌、頭部には長い角が一本生えている鬼が、ゴサクとヒコジロウの前に躍り出た。不意のあまり二人は声も出せない。あれだけ得意げに言っていたゴサクも引き金を引けぬ。鬼が手を伸ばす。
しかし斬られた。鬼の両腕がその場に落ちる。マキナの刃だ。
マキナは鬼を蹴り倒した。まず腕を奪い、動きを止める。そして角を折り首を刎ねるのが鬼狩りの定石であった。鬼を見下ろしながら腰を下ろし、マキナは小太刀を相手の角に沿わせた。
「何奴!? 邪魔をするなぁ!」
「人様の狩りの邪魔をしちゃいけませんなぁ」
角を斬る。そして首に横一文字。あっという間に鬼は塩と化した。マキナはクルクルと小太刀を回す、いつもの癖で。
「おっ鬼が、出た……」
助かってからヒコジロウは声を漏らした。
「大丈夫です。私がついてますんで」
「なんでい、獲物が逃げちまったじゃねぇかよぉ」
責めるようにゴサクは言う。彼は素直にありがとう助けてくれてなど言えない性質であった。だが気にするマキナでもない。
腰を抜かしたヒコジロウをゴサクが立たせた矢先だった。また音がした。笛の音だ。鬼が出たという合図。微笑んでいたマキナの表情が変わる。
行けよ、とゴサクがぶっきらぼうに言った。しかしマキナは困る。鬼に襲われたばかりの二人を置いてはいけないと。
「ぐずぐずすんな。あんたの仕事は鬼から人を守ることなんだろ? あんたがいなくても山を下りるくらいすぐだ。おらは始めっからあんたなんかあてにしちゃあいないんだ!」
それは強がりだろうとは言わないマキナであった。
「かたじけない。ヒコジロウさんを頼みます」
マキナはすぐに駆けた。道のない道を、生い茂る木々を避けつつ。真っ直ぐ笛の鳴る方へ。近づくにつれ凄まじい瘴気と焦げ臭いにおいを感じ取る。煙が上がっているがただの山火事でない、マキナは警戒する。
そして打ち上がる煙の下に辿り着いた彼女が目にしたのは、燃え盛る二人の猟師の姿であった。火柱に包まれて丸焼けになり、すでに息はないか動かない。それにしても奇怪な光景であった。まるで猪を調理するかのような炎は燃え広がらず集束している。
人間業ではなかった。マキナは殺気を感じて振り向く。すると何者かが木の上に座り込んでいた。
燃えるような赤い髪に紅葉柄の着物を着ていて、角は一本、額から生えていた。この鬼から受けるプレッシャーは風花イバラのものに近いとマキナは感じた。
「飛んで火にいる夏の虫かい?」
角さえなければ少女にも見える鬼が訊いた。マキナは質問で返す。
「鬼ヶ岳四天王か?」
「いかにも人はそう呼ぶ。そういうお前は鬼狩りの虫」
四天王、漁火クレハは無邪気に足をパタパタさせた。その無防備な体に向かってマキナは小太刀を投げた。クレハはするりと後ろに回転しながら木を降りる。この機を逃さずマキナは駆ける。手にはまた別の小太刀を握りしめて。
しかし刃を掛ける直前、マキナとクレハの間に炎が燃え上がった。その灼熱の壁に遮られ、マキナは飛び退く。だがそれを火柱が追いかけてくる。まるで意思を持った蛇がごとく。
山一帯が火事に見舞われる。マキナとクレハとの距離はどんどん開く。炎髪の鬼の笑い声が木霊した。
「キャハハハ鬼道・狐火。だからお前は虫なのよ! それ焼ーき虫!」
火の手が迫りくる。マキナは観念したか、足を止めた。いや、その堂々とした顔つきに諦観はない。彼女は高速で小太刀を振り回す。すると風を巻き取り、炎をも巻いた。あたかも小太刀に火が宿ったかのように、刀身だけが燃えていた。
「なっ、鬼道!?」
「いや剣の舞よ、こんなのは」
クルクルとマキナは回る。纏う、火を。燃え盛るは必殺の小太刀。マキナは逃げ回るのをやめ、炎の渦に突っ込んでいく。
クレハは後ろに飛ぶ。距離を取りながら炎を撒く。しかしそれらはマキナの小太刀に吸い寄せられ、巻き取られた。縮地の足運びでマキナは一気に接近する。
これは狩りだ。逃げ回るクレハ、追い立てるマキナ。マキナの方が早い。
「燃え散れ、この、この!」
己の鬼道には絶対の自信を持っていたクレハは破られたなど認めない。木が燃えて炭になる。それが切り倒された。マキナの刃は近い。
「炭はいい。持ち帰ろうか」
「こいつ、ウジ虫がぁ!」
「捉えた」
「舐めるな!」
マキナの右手首をクレハが掴むと、一瞬で燃えて灰になった。しかしマキナはいつの間にやら小太刀を左手に持ち替え、全身に燃え移るまでに自分の右腕を斬った。その勢いで相手に斬りかかる。クレハは炎で防ごうとするがマキナの斬撃が早い。
刹那の攻防。果てにクレハの立派な一本角を斬り落とすマキナ。流石の鬼ヶ岳四天王も命運尽きたか。その細い首に鬼狩りは刃を振るわんとする。
だが下にズレて肩に刺さった。一体何が起こったのか。マキナは目線を下に落とす。すると足元が沼に浸かっていた。
一気に沼に引きずり込まれる。マキナは跳躍して逃れんとしたができなかった。決してマキナのミスではない。鬼道だ。
「これは……」
クレハの鬼道ではない。強烈な鬼の気配が土の中から這い出してきた。