第一話「参上、吉備津マキナ」
穏やかな水面に上弦の月が映る。
山中の湖に浮かぶは箱舟、のみならず。
月が照らす。湖の上に密集して建つ木造建築の群れを。
かつて明治33年のことである。谷間の小さな村を記録的な大雨が襲った。雨は一ヵ月降りやまず、ついに村は水没し湖となった。
しかし人々はなおもこの地に残り、家の上に家を建て始めた。増築を繰り返した集落は再び村の体裁を取り戻した。それも水に封鎖された稀有な楼閣である。
この日本アルプスベネチアは、龍ヶ島と呼ばれるようになった。
龍ヶ島の家屋の多くは、一階が水に浸かっている。そして人々は二階に上がって生活していた。家から家への移動は一階から舟に乗るか、二階以上に設けられた橋を使う。出入りは主にその二通りだ。
であるからして招かれざる客は、月明りの届かぬ一階の水面から這い出る。
舟が転覆する音に、二階の住人は驚いた。男が一人女が一人、そして小さな命一つ。つい数日前産声を上げたばかりだった。だから両親は音に敏感になっていた。
子供が生まれたら注意せよ。龍ヶ島に住む者なら小さい時から耳にタコが出るくらい聞く話だった。父親、あるいは母親から。その話には続きがある。
鬼が出るぞ。一人生まれたら一人、鬼は攫い、食うぞ。
招かれざる客が階段を軋ませ、鈍い音が上がってくる。そしてついにはその若い夫婦の前に姿を現した。
身長は二メートル前後。筋骨隆々としていて、肌が異様に赤い。それから頭には二本の角のようなものが突き出ていた。人間でないのは見て明らかだ。
母親は叫びそうになった。でも口が開いても声が出ない。恐怖のあまり。陸地に揚げられた魚のごとし。
鬼が、鼻息を立てて口を利いた。
「父親にするか。母親には他にも子供を産んでもらう。いや母親にするか。父親には他の女に種付けしてもらおうか。悩むところだ。それとも……」
「こ、この子だけは……この子だけは見逃してくれえ」
父親がやっとのことで懇願する。鬼は意地が悪そうに赤子を凝視していた。子供の肉は柔らかいが面積が少ないので鬼としては選ぶ理由はなかった。だが品定めは行う。
その方が、面白い。人の恐怖と絶望ほど鬼にとって面白い物はない。人を選んで食うのは待ちに待った瞬間であった。
「食うなら、俺に、俺にしてくれ……」
そう言う父親だが目には涙を浮かべている。そこで鬼は赤子を抱く母親の方に顔を向けた。口元から涎を垂らしながら。
「では……こっちにしようかな」
「ひぃ、お助けを!」
母親は恐怖に顔を歪ませる。だが抵抗しない。できない。夫も誰も。思い知らされている。龍ヶ島の人間は鬼には勝てないのだと。
この二人だって片親に育てられた。親の片方は鬼に食われている。そのサイクルを今、繰り返す。
「待った」
だがもう一人、客人が呼びかけた。鬼は聞き流し、両手を挙げて哀れな母親を料理しようとする。
しかし確かに待ったがかかった。鬼の両腕が体から離れ、ストンと落ちた。
斬ったのだ。鬼の背後から忍び寄った気配が。そいつはいつの間にか若い夫婦と鬼の間に割って入って立っている。
腕が床とぶつかった音で寝ていた赤子が起き、おぎゃあおぎゃあと泣きだした。その大声に負けじと鬼は声を張った。
「な、何者だ!?」
「通りがかりの歩き巫女でございますれば、名乗る名など」
もう一人の客は腰にぶら下げた刀鞘に手を置いて答えた。巫女と言った通り白い着物に赤い袴のいで立ちの少女で、日本人離れをしたブロンドの髪をしていた。顔立ちは人並み外れて端正でギリシャ彫刻のよう。一度見たら名前はともかく忘れられないだろう。
「ならばどくがいい。言っておくが」
「腕を斬られたくらいじゃ死にゃしない。わかっているよ」
鬼の斬られた傷口はいつの間にやら血も止まっていて、かざせば雨後の筍のように手が生えてきた。見る見る元通りである。
それから剛腕を振るおうとした矢先、ブロンド巫女が踏み込んでいた。姿勢が低く掴めない。それでも鬼が掴もうとした時にはすでに小太刀を抜かれていた。
崖から岩でも落ちたかのような音が赤子の鳴き声を遮った。床に転がる。斬られた鬼の角が。
「ば、馬鹿な! 鋼より硬い角を!」
「折れば鬼は神通力を失う。その状態で」
女剣士はその刃を鬼の首にかけ、迷いなく断ち切った。すると鬼の身体はたちまち砕け散り、細かい砂のように変化した。
「首を刎ねれば塩になる。これ、鬼狩りの基本なり」
小太刀を器用にクルクルと回して見せた後、鞘に納める巫女。この技に感嘆したのか、赤子は泣くのをやめた。
「鬼塩は半分頂きます。それが報酬ということで」
先程まで鬼だった塩を手で掬いながら彼女はニコリと微笑んだ。ホッと胸を撫で下ろす父親。助けられた母親は自分より若く見えるこの巫女に向かって尋ねた。
「あなた様は一体……」
「吉備津マキナ、鬼を狩ること生業とする者、でございます」
人に対し、少女は名乗った。
「見かけない顔だねぇお嬢さん、外から来たのかね」
「ええ、根無し草なもので」
渡しの舟を漕ぐ男に、客は朗らかに答えた。
風も吹かず、水面は荒れず日の光を反射して煌めく。穏やかな天気だった。晴天の空をマキナは見上げた。雲が動かない。動く舟に追いつかれる程度にしか。
「鬼狩りは鬼のいるところに現る……」
「そいつはいい。湖を囲う山々は鬼ヶ岳っつって鬼の楽園なんですわ。龍ヶ島なんて聞こえはいいが、こんなとこぁ人間牧場っすわ」
船頭は自嘲気味に言った。
龍ヶ島の成立に鬼が関わったなんてのは古くから言い伝えられる話だ。一説によれば湖に魚を放流したのは鬼とされる。それには鬼の思惑がある。人間を湖に閉じ込めて、いつでも食えるようにしておく。龍ヶ島の人口が千人を超えることはない。彼らは鬼ヶ岳から度々にじり寄っては人を攫って調整しているのだ。
酷い有様だ、とマキナは思う。
ブロンドの髪の巫女を載せた舟は家屋の密集地を抜け出して広い湖に出たと思えば、水上に立つ狭い鳥居を潜り抜けた。一本、二本、三本と。すると小さな浮島が見えた。
いや、よく見れば岬だ。盛り上がった崖を切り崩して供えられた階段の先を見上げれば、船頭の言っていた鬼ヶ岳らしき山へと通じていた。
「着いたぁ、龍流神社といえばここさ。巫女さんが神社に行くのは当たり前かい」
「あっしはしがない歩き巫女でございますがねぇ」
「ミコト様によろしくなぁ」
船着き場に寄せれば、軽い足取りでマキナは舟を降りた。目を引くブロンドの髪がふわりと舞い上がっては重力に引っ張られる。
龍流神社へと続く十二階段はすぐ傍だった。社は龍ヶ島と鬼ヶ岳の境界に立つ。マキナがそこへ行こうとしたのは完全に気の赴くままだった。あまり深い考えはない。ただ行ってみて、考えることにした。この先の身の振り方を。
階段の真ん中で立ち止まり、腰掛けるマキナ。彼女は今朝方塩と交換で焼き魚を手にしていた。その串を顔の前に掲げて一口かじる。二口、三口。止まらない。
「あんたねぇ! 吉備津マキナってのは!」
突然声が降ってきた。マキナは見上げる。すると十二階段の一番上から見下ろす少女がいた。
マキナと同じような装束だが袴の色は青、手にはお祓い用の棒大幣を持ち、綺麗な長い黒髪を流していた。その表情は少し怒りっぽい。
龍流神社の巫女、龍流ミコトとは彼女のことである。
「いかにもそうでございますが何か」
マキナは生返事をした。するとミコトは眉を吊り上げ、騒ぐ。
「営業妨害なのよ! 噂になってるんだから。鬼退治しちゃって信仰集めて、その分うちが廃れちゃうじゃない!」
なんという言いがかりであろうか。しかしマキナの知ったことではなかった。挑発的に焼き魚の串を上に向ける。
「では龍流の巫女も鬼狩りをやればよかろうに。人の為ならずして何が巫女か。でなくて廃れるのはやむなし」
「はぁ? あんた何にもわかってないのね。人の祈りを神に捧ぐが巫女の領分よ。龍神様に雨を乞い、雷を魔除けとする。あんたモグリでしょ!」
ミコトは大幣を振り回して見せた。その動作は流麗で無駄がない。怒っている人間のそれとは思えない。ミコトの体に染みついている龍流の舞だ。
代々龍流の巫女は龍神に祈りを捧げてきた。雨よ雷よ、鬼を遠ざけよと。その祭祀によって巫女は食べてきた。
マキナとは根本から違う存在といえる。マキナの方がここでは異端だった。巫女の格好をしているだけで、神事の仕方もわからねば信仰心もない、ただの鬼狩りであることは彼女も承知の上で。
「まどろっこしいなぁ。鬼はこの刃で殺した方が早いじゃあないか」
小太刀を抜いてクルクルと回し、鞘に戻す。
「話が噛み合わないわね……」
「ならば仕舞いにしましょうか」
やれやれと肩を竦め、マキナは魚を食みながら十二階段を降り始める。ミコトのふくれっ面を拝むことはなかった。
ミコトは去り行くマキナの背中を睨み、なおも不満で声を張り上げる。
「一つ忠告しておくから、よく聞きなさいよ!」
それから呟くように言った。
「風花イバラには手を出すな」
風が吹き始める。マキナのブロンドの髪がなびいた。
新連載です。よろしくお願いします。