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歴史を変えるためif  作者: 零戦
3/3

三好in二週目(戦国編)

二週目は年表でやりました。

多分話が長くなるので(てかそうしないと三週目が出来ん)






三好in二週中(但馬√)

・197×年

 三好美鈴の孫の一人である日本海軍軍人三好将可みよし まさよしが行方不明となる。


・1185年

 将可、檀ノ浦の戦いの前の平家の家臣のところにタイムスリップ。檀ノ浦の戦いでは平家側に立ち、生き残った家臣らと平時忠の娘 蕨姫を警護しつつ但馬国二方郡に逃げ込み、居を構える。

・将可、蕨姫を正室とし三好家が誕生する。

・将可、婚姻政策で八木氏、太田垣氏等から娘を側室に迎えたり娘を出したりする。後に三好家の一門衆となる。


・1265年

 三好将可が死去


・1274年

 文永の役。対馬に平家の落武者を支援していたので当主の三好将良は全面協力して対馬の防衛に努めた。

・対馬防衛を聞いた北条時宗は三好家を褒め称え感状を出す。


・1281年

 弘安の役。将良は対馬にて兵を集めて防衛。時宗は褒美として七美郡、美含郡、城埼郡、気多郡の地頭に任じる。


・1372年から山名氏に仕える


・1390年

 山名氏清、山名満幸に攻められ三好家の分家が殿となり多数が討ち取られる。本家と分家の一族は山名時熙と共に但馬国を離れる。


・1391年

 明徳の乱にて本家の当主三好将恒が山名氏清を討ち取る。その功績で二方郡と七美郡を拝領する。


・1441年

 嘉吉の乱にて山名持豊は三好家の活躍に喜び、元の所領を与える。


・1467年

 応仁の乱に参戦。次当主の三好将成(15)が東軍の有力武将を多数討ち取る。その功績により持豊は庶子の娘を将成に嫁がせる。


・山名豊時の要請で分家を因幡に根付かせる。


・1500年頃から将成が山名家の政を担うようになる。


・1512年

 三好将成が山名致豊との協議により但馬からの下剋上をして山名致豊を因幡に追放する。


・同年 因幡に追放された致豊が山名豊頼と共に軍勢を率いて但馬に攻め込むも因幡の三好分家が離反して将成側に付いた事が戦況は一変。致豊と豊頼は捕縛され京へ追放される。


・三好将成は僅か半年以内で二国を保有する戦国大名に登り上がる。


・将成、1515年までに伯耆国の河村郡、久米郡、八橋郡の国人の調略に成功するが次期当主で嫡男三好将宗に怒られ1524年まで政務をする


・1524年

 尼子経久が伯耆国に侵攻。天神川にて尼子軍と決戦を行い、将成は一門衆等を失いながらも辛勝、尼子軍もほぼ壊滅させた(天神川の戦い)


・経久は伯耆から撤退、将成も嫡男将宗が討死し1526年まで伯耆国を完全攻略しなかった。


・大内義興、但馬三好家に興味を持ち将成と同盟を組んで1528年に出雲を攻めるが肝心の義興が死去したので将成も一時撤退


・1531年

 大内義隆と共に再度出雲に侵攻し東出雲を攻略し尼子氏は滅亡する


・この時点で将成は但馬・因幡・伯耆・東出雲を保有する


・同年 大物崩れを成功させた三好元長と赤松政祐だが将成はその隙を突いて播磨へ侵攻。宍粟郡、神崎郡、多可郡を攻略する


・1534年

 別所氏、三木氏等の協力で高砂城に籠る赤松政祐を討ち取る(高砂城の戦い)


・同年 三好将和が誕生


・1535年

 播磨全土攻略。将成は丹後にも攻め込み一色丹後は滅びる。


・1537年

 細川晴元、但馬の三好将成に脅威を覚え第一次三好家包囲網を構築するが大内義隆が直ぐに離脱したので瓦解。逆に将成は美作・備前に侵攻、攻略する


・1542年

 大内義隆の息子 晴持が病死。晴持を失った事で義隆は野心や関心を失い、相良武任らを重用するようになり陶や内藤らと対立していく


・1546年

 将成は丹波攻略のため丹波の八上城にて波多野氏と激突。細川支援も有り、三好将成は撤退(第一次八上城の戦い)


・1548年

 三好将和と大内義隆の娘 珠光との婚約が決定。


・1551年

 大寧寺の変が発生。大内義隆は自刃し娘珠光らも行方不明となる。


・同年 鉄砲購入のため堺の商人のところを訪れた将和だがその屋敷にて行方不明の珠光と右田隆次、下女の小倉を発見


・義隆を警護した右田隆次は義隆から「珠光を落ち延びさせろ」という最後の命令に従い珠光(夕夏)を落ち延びさせるが途中で問田と弘中の手勢に追跡されるも何とか振り切る事に成功し堺まで落ち延び懇意にしていた堺商人のところで世話になる


・陶が珠光が堺に逃げ込んだ事を知り引き渡しを要求


・堺商人、のらりくらりと交わしつつ落ち延び先を検討中に鉄砲購入に来た将和が登場


・堺商人、珠光の落ち延び先を但馬に指定


・将和も受け入れて三人が但馬に落ち延びる


・織田と堺商人の結びが可能となる


・ついでに珠光の世話をする事に(後に正室)


・珠光、右田隆次、小倉がそれぞれ夕夏、長谷川清、美鈴が精神憑依している事が判明する。


・右田は存在を消すために長谷川清と名前を戻して将和の家臣となり但馬三好水軍の創設と運用に携わる。


・1553年

 但馬三好による第二次八上城の戦いが発生。(阿波三好の八上城攻撃を含むと第三次)将和が黒井城の赤井直正と一騎討ちをして直正が敗退、捕縛される。(後に将和の家臣へ)

 なお、八上城は陥落せず三好軍は引き揚げるも丹波に布石を打つ事に成功する。


・1555年

 厳島の戦いが発生。毛利元就が陶晴賢を自害させる。なお、将成はこれに乗じて西出雲・石見を平定し石見銀山を占領し但馬三好家の資金を蓄える事に成功する。


・1558年

 毛利家と但馬三好家で不可侵の同盟が成立。同盟の証として元就の娘(側室 中の丸の娘。史実は子はいない)が将和の側室となる。


・1559年

 第三次八上城の戦いが発生。八上城は落城し松永長頼は丹波から追い出され但馬三好が占領する。

 同年 織田信長が上洛し義輝に謁見する。たまたま京の山科の元へ来ていた将和と会談をする。


・1560年

 三好将成死去。葬式には将成と関わりがあった関係者達からの御悔やみの書状が多数届けられて将和が頭を抱える。

 同年 桶狭間の戦いが発生。将和、混乱の渦にある今川の家臣へ次の任官先の一つに招待する書状を送る。これに食いついたのが井伊家であり代理当主の直虎自らが任官に来る程である。

 なお、直虎=タチアナと発覚するのは珠光と面会した時である。


・1563年

 越前朝倉家と不可侵の同盟締結。朝倉の若狭侵攻支援のために6000の兵を丹後から侵攻させ若狭を攻略。若狭は朝倉が所有する。


・1564年

 三好長慶死去。


・1565年

 永禄の変が発生。義輝が弑逆されたのを機に将和は摂津攻略に乗り出す。

 同年 内紛状態の阿波三好家から松永久秀、長頼兄弟と三好義継が但馬三好家に降伏。将和は承諾して配下に加えて摂津を占領。


・1566年

 河内及び堺(和泉)を占領。なお、三好三人衆は蹴散らされて阿波に逃走する。

 この時点で但馬三好家は但馬・因幡・丹波・丹後・出雲・伯耆・美作・石見・備前・摂津・河内・和泉・山城の13か国を所有する。

 同年 越後滞在の足利義秋から上洛要請に来るも将和は無視。

 尾張の織田信長からの同盟締結の要請を受諾する。なお、同盟の証として側室にお市が輿入れをして将和が頭を抱える。


・1567年

 信長の北伊勢侵攻に合わせて南近江へ侵攻して六角を滅ぼす。これによりほぼ畿内を但馬三好が掌握する。


・1568年

 足利義秋、第十五代将軍に就任。同時に義昭へ改名。


・1570年

 淡路島・讃岐を占領する。信長、南伊勢も掌握して尾張・美濃・伊勢を所有する。

 同年 義昭による但馬三好・織田包囲網の形成。越前朝倉も包囲網に参戦し不可侵同盟が破棄される。

 同年 石山本願寺が挙兵。(野田城・福島城の戦い)この戦いで一門衆三人が討死する。

 比叡山が挙兵、大津を火攻めにする。

 伊勢の長島にて一向一揆が発生、織田信興が自害する。


・1571年

 将和、比叡山焼き討ちをする。

 同年 毛利元就死去。


・1572年

 将和と信長、浅井・朝倉連合軍を姉川で撃ち破る(姉川の戦い)

 同年 但馬三好が越前へ侵攻し朝倉義景自害、一族は保護される。

 同年 信長が北近江へ侵攻し浅井長政自害。


・1573年

 武田侵攻で将和は三万の援軍を送り三方ヶ原の戦いで武田信玄が討死。

 第一次包囲網が瓦解する。

 武田家で内紛が発生する。


・1574年

 第二次但馬三好・織田包囲網が形成。毛利水軍と但馬三好海軍が瀬戸内で激突する。(1580年まで第八次海戦が発生)

 越前で一向一揆が発生。守護代桂田長俊が自害。

 長島一向一揆が鎮圧される。


・1577年

 雑賀衆が但馬三好に降伏し紀伊を掌握(後に攻略)する。

 手取川の戦いで将和と上杉謙信が一騎討ちを行い謙信が負傷、敗走する。

 将和、右大臣に就任。信長も左大臣に就任する。


・1578年

 上杉謙信死去。

 将和と信長、それぞれ右大臣と左大臣の職を辞任。

 武田勝頼が将和の元に亡命する。甲斐武田家は仁科盛信が継ぎ武田晴盛と改名。

 島津への支援を行う。


・1580年

 毛利攻めを開始。

 第八次瀬戸内海戦で村上水軍が壊滅する。

 石山本願寺が焼失し石山合戦が終わる。顕如以下の本願寺門徒は山科で山科本願寺として再興する。


・1582年

 甲州征伐、甲斐武田家滅亡。

 関東北条家、但馬三好家に臣従する。臣従の証として将和の元へ側室が嫁ぐ。

 大友の救援依頼が来るが無視、島津支援を継続し島津との同盟が締結。


・1583年

 毛利降伏、安芸安堵される。但馬三好家、中国地方と四国地方を制圧する。

 但馬三好軍先遣隊が博多に上陸。(大友征伐が密かに開始される)


・1584年

 沖田畷の戦いが発生。


・1585年

 天正地震が発生。


・1586年

 三好・島津・織田連合軍が岩屋城を攻略し高橋紹運が自害。

 正親町天皇が譲位し後陽成天皇が践祚、後に即位礼が行われる。

 大友征伐が終了し大友宗麟が自害する。大友家が滅亡するも庶流の立花家は生き残る。

 将和の元に立花誾千代(後にシャーリーと判明)が側室に嫁ぐ。(誾千代は宗茂の元に嫁がず家督だけ譲っていただけ)

 島津義久、三州安堵を条件に降伏。将和も要求を受け入れ島津は但馬三好に臣従する。

 バテレン追放令が公布される。


・1587年

 奥州征伐が行われる。

 伊達政宗が降伏し但馬三好家による日ノ本統一が完成する。

 足利義昭、将軍職を返上。室町幕府が滅亡する。

 石山本願寺の跡地で建築していた大坂城の改築が行われる。

 関東の江戸城の改築も大規模に行われる。


・1588年

 天正検地が全国で行われる。

 将和、征夷大将軍に任じられ大坂にて幕府を開き大坂幕府を開府する。

 刀狩り、海賊取締令が発布される。

 琉球占領。


・1591年

 ガレオン船が就役して海外貿易が活発化する。

 蝦夷地開発が行われる。

 台湾出兵、占領。


・1593年

 済州島占領。


・1596年

 幕府陸海軍を創設。

 小笠原諸島やマリアナ諸島を占領。以後統治下に置く。


・1597年

 信長死去。


・1618年

 将和死去。

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