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五月の出来事B面  作者: 池田 和美
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五月の出来事B面・⑥



 サイドブレーキを引くギッという音が車内に響いた。

 その音で意識を取り戻したアキラは、顔を上げて運転席を見た。徹夜で運転してきたヒカルは、ハンドルに伏せるようにして、体の力を抜いていた。

「あー、疲れた」

 沼津から、ほとんどノンストップで東京まで走ったのだ。ヒカルの言葉に嘘は無いだろう。

 よっこらしょとばかりに上体を起こすと、疲れた顔を隠しもせずにアキラの顔を覗き込んできた。

「おつかれ」

「ああ、そっちもな」

 すっかり辺りは明るくなっていた。窓の外には見慣れた住宅街が広がっていた。

「帰って来たんだな」

「ああ」

 感慨深げにアキラが呟くと、それに合わせるようにヒカルが溜息のような物でこたえた。

 ここは、この前レンタカーを停めた、海城家近くのコインパーキングである。

 ほっとした空気が流れる中、ヒカルがアキラに顎をしゃくってみせた。

「で? そっちは、大丈夫か?」

「いてえ」

 左胸のあたりを紅柄色のシャツ越しに撫でる。布地越しに、胸へ貼った絆創膏の厚みが感じられた。

「マジいてえ」

「そら心臓を一刺しだからなあ」

 何を当たり前のことを言っているんだとばかりのヒカル。

「でも、その甲斐があったろ」

「ま、まあな」

 アキラの心臓から抽出した『生命の水』は、注射器一本分であった。それを重傷の男の腹へと打つと、男の容態はなんとか持ち直したようだ。外から見て劇的な変化は無かったが、内臓破裂の方は完治したみたいだった。が、体中の擦り傷だったり、打ち身の方は全然治る気配はなかった。

 そちらの方には、救急箱に入っていたありったけの包帯を巻いてやった。出来上がったのは、映画の中に出てくる怪物のような代物だったが、まあ必要あっての結果だから、本人には我慢してもらうしかなかった。

「これ、いつ治るんだよ」

 アキラは左胸を撫でながらヒカルに訊いた。

「あたしが知るか」

 朝日に目をしばたたかせながらヒカルが言い切った。

「アキザネが戻ってきたら、治してもらうんだね。それと『生命の水』の補給もしないとね」

「痛いだけじゃなくて、ちょっと吐きそうなんだが、これも『生命の水』が足りなくなってるからか?」

「それは車酔いじゃね?」

「たしかに。酷い運転だったからなあ」

「あれは、あいつが後ろからギャンギャン言ったからだろ」

 男を収容した二人は、そのまま東京へとワンボックスを走らせた。その途中、伊勢原付近で意識を取り戻した男が、なるべく早く書類ケースを『ネモ船長』へ届けるんだと、ヒカルを急かしたのだ。

 それからヒカルが見せた(アキラが見せられた)運転術は、あらゆる教範に反する事のオンパレードであった。無謀な追い抜きはもちろん、遅い車へのパッシングやら、一般道へ降りてからの信号無視やら、よく途中で警察の厄介にならなかったものである。

 男とは『ネモ船長』のオフィスがある新宿で別れた。

 男に注射した『生命の水』は、やがて食事などを取る度に薄まっていき、やがて排泄されて無くなることだろう。

「荷物、どうする」

 後ろを振り返りながらアキラが訊いた。

 浜松からそのまま乗って来たので、二人の装備だけでなく、エレクトラの色々な物まで積みっぱなしになっていた。

「貰っちまっても問題なかろう。返せって言われたら、その時に返せばいいし。載せておいて車上荒らしか何かに盗まれる方が、よっぽどやっかいだぜ」

「たしかに」

 チラリと剥き出しで置いてある自動小銃へ視線を走らせた。マニアが飾っておくために持って行くならまだしも、近所で銀行強盗なんて起きてほしくはなかった。

「この車も、河原かどこかに放置しに行かねえとなあ」

 男に無線機で確認させたところ、このワンボックスは借りたままでいいらしい。ヒカルはともかく『生命の水』を抜いたアキラの調子が悪そうだったので、そのまま好意に甘えることにしたのだ。

 使い終わった後で、無線機なりネットなりで連絡を入れておけば、『船員たち』の回収班が仕事をする段取りのようだ。

「ここじゃマズイか?」

「マズイな」

 そうこたえたヒカルの袖をアキラは握りしめた。

「でも、今日は帰ろう。疲れているんだろ」

 ヒカルは、掴まれた左腕を見た後に、アキラを睨みつけた。が、すぐに優しく微笑んだ。

「そうだな。今日は疲れた」

 アキラがホッとして手を離した途端、何を考えたのかヒカルは背中から銀色の銃を抜いて、まっすぐアキラの顔へ向けた。

「やめてもらおうか」

「へ?」

 いまさっきの笑顔とは対照的な、固い声が出ていた。

「オモチャでふざけると、火傷するぜ」

 銃口を少しも揺らさずに、左手でパワーウインドの遠隔操作スイッチを入れる。するとアキラの後ろで、ズーという作動音がした。

「遊んでいるつもりは無いのだけれど」

 第三の声がして、慌ててアキラは振り返った。

 そこに見慣れない女のバストショットがあった。

 長い栗色の髪は緩くウェーブを描き、白い肌に目鼻立ちがはっきりとした女だ。わざとであろうか、くっきりと描いた真っ赤な口紅が印象的な化粧をしていた。

 ただ、そのアーモンド形をした赤茶色した目に、見覚えがあるような気がした。

 ヒカルの銃口は、まったくぶれずにその女の眉間を狙っていた。

「だ、だれ?」

 狭い助手席のシートの上で、なるべくドアの外に立つ女から距離を置こうと、アキラは身を捩った。

「サトミだよ」

「えっ?」

 アキラは驚きの声を上げてしまった。『ネモ船長』のオフィスで出会った時とは、また別の女にしか見ることができなかったからだ。ただ、その中性的な声だけは変わっていなかった。

「その物騒な物、こちらへ向けるの止めて下さる?」

 サトミが微笑みながら言った。

「それには、そっちが、そのオモチャを仕舞うのが先だ」

 ヒカルの声は固いままだ。

「せっかく手に入れたオモチャですもの。使ってみたくなるのが、人の心理ってやつじゃない?」

 おどけたサトミの手には、小さな自動拳銃が握られていた。ドア越しに車内へ向けていた銃口をずらし、その握った手で頭を掻き始めた。

 その様子を見て、ゆっくりとヒカルも銀色の銃をおろした。

「で? なんの用だ?」

「そう警戒しないでよ」

 半ば笑って、サトミは反対の手に持っていたクラッチバックへ銃をしまった。

「空港でやりあってから、まだ一日と経っちゃいねえ。あの続きをやりに来たと思うじゃねえか」

「え?」

 アキラはヒカルを振り返った。いまだ右手に銀色の銃を握ったヒカルは、つまらなそうにアキラへ視線をずらした。

「あの時、救急車のハンドルを握っていたのは、コイツだ」

「まさか…」

 アキラの脳裏に、昨夜の風景がフラッシュバックのように再生された。救急車に乗っていたのは、クラスメイトと…。

「言うと思った」

 サトミは肩を竦めると、二人に分かるようにクラッチバックのジッパーを閉めてみせた。どうやら、もう敵意は無いと言いたいようだ。

「お互い、仕事みたいなものでしょ。もう、あの紙ぺらは届けられたんだから、ノーサイドってやつよ」

「まあな」

 ニヤリと嗤ったヒカルは、銃を背中のホルスターへ戻した。

「あ、その顔…」猫の様に目を細めてサトミは笑った。「自分が勝ったと思っているでしょ」

「違うのか?」

「残念でした。あの男が持って行った書類ケースの中身は、偽物。本物は、藤原さんのお父さんに、ちゃんと届いたわ」

 ヒカルは探るようにサトミの顔を見た。サトミは改めて笑顔を作った。

「どうやら本当のようだな」

「えー」

 声を上げたのはアキラである。

「あんなに苦労したのにぃー」

「まあ、こんなマヌケが足手まといじゃな」

 チラリとアキラを見てから、ヒカルはつまらなそうにハンドルへ寄りかかった。

「で? 勝鬨を上げにわざわざ来たとは思えないんだが?」

「それなのよ」

 我が意を得たりとばかりに、サトミは両手を打ち鳴らした。

「あなたたちは知らないかもしれないけれど、こちらで、そちらの下端を五人ほど預かっているのよ。その待遇をどうしようかと思って」

「下端なんか知るか」

 ヒカルは冷たく言い放った。

「あたしの部下じゃない」

「でも、あなたの雇い主の身内でしょ? 彼ら」

 何が言いたいんだとヒカルの左眉が額の方に上げられた。

「彼らを取り戻す仲介をしたら、得点稼ぎになるんじゃない?」

 ヒカルは長く鼻息を噴き出した。そして改めて品定めするように相手を見た。

 細く長い首に、血が透けるような肌をした美女である。白いポンチョ風チェニックブラウスの大きく開いた襟からは、摘まめるような鎖骨が浮いているのが見えた。

 細いウエストを強調するように幅広の革ベルトを巻き、下は七分丈のウォッシュドデニムにヒールサンダルであった。

 脇のブランド物のクラッチバックといい、どこかのOLが休日に近所へ出かけたようなスタイルであった。

 これが現役の男子高校生とは思えない姿であった。

「やっぱ、おまえは信用ならねえ」

「そう? あなたは雇い主に対して得点を稼げる。雇い主は手下を無事に回収できる。いいことずくめじゃない」

「社長側の利点は?」

「どうせまともな情報なんて、あんな下端は握ってないんでしょ? 無駄飯食わせたり、自分の部下に、錆びたドラム缶やらコンクリートで、手を汚させることもないじゃない。それに、ここで一旦、休戦にしようっていうメッセージにもなるし」

「無傷で返しておけば、貸しとして、あとあとアドバンテージとして利用もできるってか?」

「ま、ある程度、事情聴取はさせてもらってからになるけど」

 ヒカルは大きなため息をついた。

「五体満足で返してくれるって事だな」

「ま、ある程度、事情聴取はさせてもらうけど」

 同じことを繰り返してサトミはニッコリと笑った。ヒカルは面白くなさそうに言い返した。

「誤差範囲ってヤツか?」

「そんな感じ」

「ちぇ、わかったよ」

 口では了承しながらも、納得いかない様子で、ヒカルはハンドルの根元を蹴った。

「今回は、そっちの話しに乗るよ」

「ありがとう」

 まるで同僚に仕事を押し付ける事に成功したOLのような笑顔でサトミは言った。

「断られたらどうしようかと思ってたの」

「嘘つけ」

 ギロリと睨んでからヒカルは忌々し気に言い返した。

「どうやっても、あたしらに押し付ける気だったろ」

「うーん」

 ちょっと考える振りをしたサトミは、しれっととんでもないことを言った。

「断られても、あと三通りの方法は考えてたかな? 一番早い方法で取引が成立して、ラッキー」

「いっぺん死んで来い。死んで地獄を味わってこい」

 ヒカルが睨みつけると、氷の微笑が返って来た。

「オレが地獄を見た事が無いと?」

「…」

 その瞬間だけ、声が男の物に代わっていた。まるで洋画の吹き替えをリアルで体験したかのように、姿形はそのままで、すべてを呪うような声に変っていた。

 二人が絶句していると、サトミはいつもの笑顔を取り戻した。

「それじゃあ、私はこれで。あとで連絡するわ」

「ああ」

 気を呑まれた返事をすると、サトミは小さく手を振りながらコインパーキングの出入り口へと歩いて行った。道にはスモークシールドを貼った高級車が待っていた。

 そのハンドルを握っている男に、アキラは見覚えがあった。

「あれ…」

「指さすな」

 すぐにヒカルに注意された。

「成田とか言ったな。まあ、五人預かっているっていうのは、本当みたいだな」

 サトミは当たり前の様に後部座席へ乗り込み、二人が注視している間に高級車は静かに発車した。

「さて、行くか」

 荷物を纏め、ワンボックスをロックする。片手のアキラは、肩にかけられるガンケースと、小さな緑色のバッグ。ヒカルは残り全部だ。

「ったく、覚えてろよ」

 自分で荷物を渡したくせに、ヒカルがブツブツと文句を言った。

 朝日の中を、疲労からトボトボと二人は家に向かって歩いた。

 海城家は、出かけた時と同じ様子でたたずんでいた。

 日曜日とはいえ、もう家族は起きているはずの時間である。案の定、ヒカルが玄関のドアに手をかけると、施錠はされておらず、素直に開くことができた。

「ふー」

 靴を脱いだ時に安心感からか、アキラからは溜息のような物がでた。それを聞きつけたのか、ダイニングから香苗が顔を出した。

「おかえりなさい」

 そのにこやかな笑顔を見ているだけでも癒しを感じてしまうアキラ。

「ただいま、かあさん」

「まあ、また手が取れて。大変だったのね」

「うん、まあ」

 アキラが言い淀んでいる横を、荷物を背負いなおしたヒカルが通り過ぎた。

「た、ただいま」

 不器用にそう言って、二階へと上がって行った。

「おかえりなさい。ヒカルちゃん」

 嬉しそうに香苗はその背中を見送った。



 青空に高く白い雲が浮いていた。

 透明度は氷よりもあるという触れ込みのガラスは、なんら邪魔することなく男へ眺望を与えていた。

 遠くに見えるのは、テレビ塔としては世界一の高さを誇る建造物。もちろんそれを除くが、このタワーマンションの周囲に、同じ以上の高さを持つ建造物は無かった。

 男は下界をしばらく見下ろし、自分の優越感を満足させた。

 それにしても特徴的な男である。年のころは中年に差し掛かった程であるが、中肉中背の体に、まったくたるみなど見られない。がっしりとした顎は、精力的な性格と、そして自信に満ち溢れた立ち回りを象徴していた。

 髪も含めて全体的にこざっぱりとしており、オフの日だというのに、無精髭の一本も見当たらない。これは、いつ飛び込みの仕事が入ってもいいようにと、男なりのポリシーの顕れでもあった。

 最近、白髪が多くなってきたと言われた以外、どこを取っても健康で、そして活動的なエネルギーに溢れていた。

 男の立っている場所には、一面の天然芝が植えてあった。趣味と、商談の場という実益を満たしてくれるゴルフの練習ができるようにと、わざわざ業者に張らせたものだ。

 地上二〇〇メートル以上に設けられた、空中庭園。このスペースは、男と、彼と同居する者の占有スペースであり、招かれた者以外で踏み入ることはできなかった。

 もちろん、こんな贅沢をするには、それに見合った財力が必要だ。男には成功者として、それだけの力が備わっていた。

 角に植えられた観葉植物に、耳触りの良い水音を奏でる小川。そんな物まで備えられた空中庭園に、六角形の日影ができていた。特注で作らせた小型テントである。その下に白くて丸いテーブルと、二脚のデッキチェアが置かれていた。

 日曜の午前は、ここで朝食を摂ると決めていた。

「キヨシさーん」

 テーブルへ食器を並べている女が手を振った。

 その呼びかけに手を上げてこたえる。

 栗色の長い髪をした女は、キヨシと呼ばれた男と比べると、まるで娘と言っていいような若さだった。確かにキヨシには、妻との間に一男一女が存在したが、彼女は娘ではない。公式には、彼が経営する商社の秘書ということになっていた。

 もちろん日曜日のプライベートスペースで、ファーストネームで呼びかける女が、ただの女であるわけがない。

 キヨシは、このタワーマンションに入っているトレーニングジムから帰って来たままのスウェット姿で席に着いた。そして当たり前の様に、彼と彼女はキスを交わした。

 テーブルに並べられたのは、エッグベネディクトにオレンジジュースという優雅な食事であった。皮ごと絞ったオレンジジュースは器械の能力もあるだろうが、エッグベネディクトの方は、オランデーズソースからして彼女の手作りであった。

 最近はハムだけでなく、シュリンプやカリカリに焼いたベーコンなど、具材のバリエーションも豊富になって来たところである。

「いただきます」

 女は行儀よく手を合わせてからナイフフォークを手に取った。キヨシの方は、それよりは不作法であったが、慣れた様子でマフィンへナイフを入れた。

「お。ミキの腕もなかなかになったな」

 キヨシのあからさまなおべっかに、すでに頬張っていた女…、ミキは目を細めてこたえた。

 こんな高層階だというのに、礼儀知らずの風は、ほとんど吹き込んでこない。それというのも、空中庭園を囲んでいるガラス壁のおかげである。空力的な設計を施されたガラス壁は、よっぽどの暴風でないと、空中庭園へは無粋な風を吹き込ませないようになっていた。

「そういえば」

 ミキは唇を果汁で湿らせながら語り掛けた。

「ヒロシさんが面会を求めているようでしたけど?」

「ああ、珍しく会いたいというものだから、僕もビックリしたよ」

 キヨシは、自分に似なかった息子を思い出した。

「お会いになったの?」

「いいや」

 ちょっと不機嫌になったのを誤魔化すように、白身の部分を口へ詰め込みながらキヨシは首を横に振った。

「子供のくせに、大人の仕事に首を突っ込もうとしおって」

 忌々し気に呟いた後に、その言葉を飲み干すようにタンブラーを傾けた。

「ヒロシさんも、もう高校生ですもの。色々と出来ることと、出来ない事が見えてきているのでは?」

 ミキの取りなすようなセリフに、キヨシはバカにするように鼻息を一つ吹いた。

「だったらなおさらだ。僕が『企業』から依頼された件に首を突っ込んでくるなんて。同級生だか何だかが関わっているか知らないが、親に逆らうなんて」

「でも、嬉しいんでしょ?」

 そうミキに語り掛けられて、キヨシは意表を突かれた顔になった。

「僕が嬉しい?」

 ミキはその表情がよっぽど楽しかったとみえて、静かな笑い声を漏らした。

「ま、まあ…」タンブラーを置いて腕組みをしてキヨシは言った。「引きこもりのダメ男だった中学校に比べたら、なんぼかマシだが」

 まだ笑い止まないミキを見て、少し赤面したキヨシはちょっと早口になった。

「アレも僕の後継ぎとして自覚が出てきたのかもしれんな」

「あら」

 わざわざ鳩が豆鉄砲を食らったような表情を作って見せて、ミキは言った。

「キヨシさんを倒す男になるかも」

「ふん」

 そっぽを向いたキヨシは機嫌悪そうに言った。

「男の子だったら父親を乗り越えてこそ一人前だ。僕だって、父親に泥を啜らせる真似までさせたんだ。ぜひともそうしてもらいたいもんだね」

「そういうことにしておいてあげる」

 再び笑い出しそうな気配でミキは言ってのけた。

 程なくして二人は朝食を食べ終わった。

 食器の片付けをミキに任せ、キヨシは丸テーブルに散らかしてあったタブレット型端末へ手をのばした。

 情報は何にも増して重要な物である。こうした優雅な生活が送れるのも、様々な情報を集めて先回りできた結果であった。

「飲み物は何にします?」

「そうだなあ」

 画面へだいぶ気を取られた声に、ミキは少し膨れてみせた。

「オフの日ぐらいは、それを置いて」

「ん? ああ、わかっているとも」

 ミキの言葉を認識していないようで、キヨシの目は画面に釘付けだった。

「もう」

 と怒った振りをしてみせるが、彼女だってただ若くて美人という女ではなかった。彼の仕事には情報が重要だということを充分に理解している。

 木の盆に乗せた食器を持って、彼のためにお茶を淹れに立った。

 キヨシの好みはダージリンである。この時期であるからセカンドフラッシュとなるが、そこら辺の喫茶店では手に入らない最高級茶葉なので、ストレートで淹れても独特の甘みを感じることができた。

 ポットに用意した紅茶と、茶受けにと小さなクッキーを添えて、キヨシの前に並べる。そんな甲斐甲斐しいミキの給仕に気づかない様子で、キヨシは画面に釘付けになっていた。

 画面には、今回仕掛けていた敵対的買収の失敗を告げる報告が並んでいた。

 合法的な札束の戦争はすでに完敗であった。それならばと、その手の業界では有力なコンサルタントに依頼した。そちらの合法的でない方法も、どうやら今朝失敗が確定したようだ。

 自分の仕事が失敗に終わったことは腹立たしかった。が、どうやらその失敗とやらには自分の息子が一枚噛んでいるらしい。息子の成長を喜ぶ父親としての感情が、どこからか湧いてきた。

「まあ、いいさ。このぐらい、いつでも挽回できる」

 けっして負け惜しみじゃないさと、自分に言い聞かせるように独り言ちた。

「お茶、零さないで下さいね」

 いつの間にかミキが茶器を丸テーブルに揃えていた。最初の一杯分はすでにカップに満たされていた。

 もちろん淹れられているお茶も高級品だが、それを注がれた茶器も高級品であった。

 上品な青色をした本体に、金色の取っ手がついていた。

 キヨシはマイセンのブルーオニオンよりも、ウェッジウッドのジャスパーウェアのペールブルーの方が好みであった。

 普段使いなら、もっと安物の陶磁器でもいいだろうが、今日は休日ということで、ミキが陳列棚から出してきたのだろう。

「?」

 と、キヨシが見ているタブレットに、新しいウインドが表示された。どうやら外部からメールが着信したようだ。

「おとうさんへ。むすこより」

 タイトルは短いが、データ量がとても大きいようだ。キヨシはそれが癖になっている、ウイルスチェッカーでのメール診断の後、タッチパッドを操作し、データを開いた。

 小さな画面に、少し長めの髪をした少年が、どこか喫茶店のような背景の前でかしこまっていた。

「おとうさんへ…」自動再生で映像と音声が流れ始めた。「これ以上、ボクの領域に手を出さないで下さい」

「なんだ、子供のおねだりか?」

 カップを持ったまま苦笑いしてしまった。もちろん録画された映像である息子が、彼の独り言に返事をするわけがない。

「そうじゃないと、ボクも本気を出しますよ」

 段々と映像の中の息子の顔が険しくなってくる。アーモンド形の目が吊り上がってきて、瞳には危険な輝きが加わって来た。それを見て、さらにキヨシは愉快そうな表情を浮かべた。

「言うようになったじゃないか」

「ボクの本気がどれくらいかを知らないでしょうから、教えてあげます。授業料はジャスパーウェア一つでどうでしょうか?」

「?」

 息子が何を言っているのかが分からず、キヨシの顔が訝しげに歪んだ。その彼の前で、画面の向こうにいる息子が、指で鉄砲の形を作った。

 狙いはもちろんキヨシの心臓である。

「BANG」

 その途端に、彼の手の中でカップが砕け散った。

「!」

 見れば、人差し指に金色の取っ手だけしか残っていなかった。あとは価値のない欠片と変わって下へ落ちていた。

 下半身に、熱い飛沫がかかったことを自覚したキヨシは、デッキチェアから飛び退るように立ち上がった。

「次はどこに当たるか分かりませんよ」

 そう告げた息子の画像の、背景全体が後ろへ倒れて行った。どうやら演劇の舞台装置(カキワリ)のような物であったらしい。新しい背景は、どこまでも続く青空で、髙く白い雲が浮いていた。

「キヨシさん?」

 カップが割れる音を聞きつけたのか、空中庭園と同じレベルで続いているダイニングからミキが飛んできた。

 彼女は呆然自失となり立ちすくんでいるキヨシを見て、慌てて駆け寄った。

「どうなさいました?」

「いや、なんでもない」

 彼女の声で我を取り戻したのか、夢から覚めたような顔で、キヨシはミキへいつもの微笑みを向けた。

「あらあら」

 彼が持っていたカップが割れているのに気が付いたミキは、破片を集め始めた。そこでキヨシはスイッチが入ったように周囲を見回した。

 空中庭園は透明度の高いガラスに囲まれている。あらゆる気象条件で破損しないように、防弾ガラスと同じだけの強度を持っているはずだ。

 そして周囲に、ここほど高い建物はない…。いや、一つだけあった。

 キヨシは空中庭園の端へ歩み寄ると、語呂合わせで高さが決まったテレビ塔を見た。

 その上部展望台のさらに上あたりで、何か光ったような気がした。

「せっかくの物なのに、残念」

 芝生に散らかった破片は、あらかた拾い集めたのだろう、ミキが残念そうに言った。

「ああ、そうだな残念だ。諦めなければならないようだ」

 そう言ってキヨシは、手に残っていることに気が付いた取手を、丸テーブルの上に投げ捨てたのだった。



 おしまい



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