五月の出来事B面・①
★登場人物紹介
海城 アキラ(かいじょう -)
:本作の主人公。周囲にいる人間がことごとく非常識のため、ツッコミ役である。春に交通事故に遭って、人ではない『創造物』とやらに『再構築』された身の上。
御門 明実(みかど あきざね)
:自称『スロバキアと道産子の混血でチャキチャキの江戸っ子』の天才。そして変態でもある。アキラの体を『再構築』した張本人。
新命 ヒカル(新命 ヒカル)
:自分を『構築』してくれた『創造主』の仇を追ってアキラたちと出会った『創造物』。二人の護衛と引き換えに、自分の体のメンテナンスを明実に任せている。
海城 香苗(かいじょう かなえ)
:この物語のメインヒロイン(本人・談)その美貌に明実の心は虜になっている。今回はあまり出番がない。
藤原 由美子(ふじわら ゆみこ)
:清隆学園高等部一年女子。アキラのクラスメイト。外伝なので、出番が少ない。
真鹿児 孝之(まかご たかゆき)。
:同じく高等部一年男子。由美子とはクラスで「仲良くケンカする仲」である。
佐々木 恵美子(ささき えみこ)
:同じく高等部一年女子。そんじょそこらの読モを軽く凌駕する美貌の持ち主。
サトミ
:ヒカル曰く「超危険人物」。本人は清隆学園高等部に所属していると言うが、本当かどうかは分からない。今回は主に敵役。
ネモ船長
:ヒカルのバイトの雇用主。
エレクトラ
:ネモ船長のもとで「船員たち」を束ねる女性。
ごく一般的な夫妻は、ごく一般的な家庭を築き、ごく一般的な子供を授かり、ごく一般的な日々を送っていた、はずだった。
その「ごく一般的な」という形容は、海城家ではこの春より、残念ながら過去のものになりつつあったが。
注文住宅二階にある自室で、授業の復習をしていた海城アキラは、一段落がついたところで、ホウとため息をついた。
アキラが進学した清隆学園は、最近では珍しくなった幼年部(幼稚園)から大学院まで揃っている、一貫校であった。付属高校から大学への進学もできるが、他の有名大学への進学率もそれなりに高い進学校であった。普通の公立中学校から進学したアキラでは、授業について行くのが大変なのである。
わざわざ進学校へ入ったぐらいだから、地元ではそれなりのレベルのつもりだったが、清隆学園高等部では、やっと普通ぐらいなのである。
(しかし。やっと静かな生活に戻れたな)
春に起きた大騒動と打って変わって、この五月連休は静かなものだった。家族そろって旅行ができたほどだ。受験勉強で目の色が変わっていた去年とは大きな違いである。
(このまま何事もなく…)
そこまで考えたときに、隣室から悲鳴のような声が響き渡った。
「ぬああああああああああ」
「はあ」
今度は、言葉として溜息をついたアキラは、小学生のころから愛用している学習机に頬杖をついた。
「短い平和だった…」
そうボヤいた瞬間に、ドカンという衝撃波が家中のホコリというホコリを舞い上げた。と言っても、毎日しっかり者が掃除しているので、大掃除でも拭かないような天井板の隙間などからの砂ぼこりがせいぜいだったが。
続いてガトリングガンを連射するようなドカドカドカという重低音が遠ざかって行った。
「やれやれ」
どうやら災厄は自分に向かった物ではないと悟ったアキラは、自室の扉を眺め、そして諦めたように立ち上がった。
階下から言葉にならない、猛獣の雄叫びのような物が聞こえてくる。
アキラは経験上急いだ方がいいと察して、足を速めることにした。
廊下に出ると、隣室の扉は開けっ放しになっていた。おそらく最初の衝撃波は、ここが発生源のようだ。
どうやらアキラの想像通りに、同居人に何事かおきたようだ。
部屋の中にカラフルな物が散乱しているように見えた。そのどれもが、まだ自分が見慣れない小さな布地でできた物と気が付いたアキラは、慌ててそっぽを向いた。
人の部屋を覗き込んでも失礼かと思い、扉を閉めて階段を降りる。もちろん幼いころから躾けられたように静かにだ。先ほどのガトリングガンのような足音なんてさせたりしない。
降りた先の居間に、アキラと同じような背格好の者が、顔を真っ赤にして立っていた。
「どうした? ヒカル?」
同居人の名前を呼ぶと、赤い顔のまま彼女はアキラを振り返った。
髪の毛も黒ければ、瞳も黒い彼女は、新命ヒカルといって、この春から海城家に居候することになった女子高生である。
動きやすそうな黒いロングパンツに、白黒のボーダーのTシャツを身に着けたヒカルは、何やら緑色の布切れを固く握りしめ、瞳孔の中に青い光が燃え盛っているような表情をしていた。
「どうしたも、こうしたも!」
そのままダイニングキッチンの方を指さすと、超音波のような裏返った声でなにやら喚き散らしはじめた。解析は不能だ。
(はあ、またか)
だいたいのトラブルを察知したアキラは、そこで自分用の湯飲みから茶を飲んでいる人物に顔を向けた。
そこに座っていたのは、もう一人の同居人である海城香苗であった。
張りのある肌をした頬には微笑みを浮かべ、家事の邪魔にならないように短くした髪にはキューティクルの輝きを持ち、茶目っ気が多そうな大きめの瞳には深い落ち着きを持った女性である。
身長は、いまのアキラよりちょっと高いだけで、顔の造形はとっても良く似ている。それは当たり前の話しで、ヒカルとは違い、名字が示す通りアキラとは血の分けた家族であるからだ。
アキラが小学生の時は年の離れたお姉さん、長じて中学生になった頃は話の通じるアキラの姉妹。そして最近はその“姉妹”という単語から姉という文字が外れかかっていた女性である。しかしてその実態は…。
「また、なにやったの? かあさん?」
そうなのである。このどこから見ても中学生に間違われる海城香苗は、正真正銘のアキラの母親なのであった。
「なにって」
事も無げに香苗は言った。
「お洗濯だけど?」
小首まで傾げて見せる。その表情といい、仕草といい、高校生を子に持つ女性のソレではなかった。
「~~~~~~~~!!」
まだ声が言葉になっていないヒカルを振り返る。
「で? ヒカルは何が気に入らないんだ?」
春に同居が始まってからというもの、こうした家庭内のトラブルが絶えないので、慣れっこになっている自分がいた。
ヒカルは、バッとアキラを振り返り、香苗を指さしなおすと、口を何回か空振りさせた。
どうやらアキラに言おうか言うまいか迷っているらしい。ただ手の中の緑色した布切れを、一層握りしめるのみである。
「?」
ヒカルの目の端に小さく光るものすら見て取れた。
どうでもいいが、キュウっと血圧が上がっているヒカルの顔を見ていると、冬場のストーブに置いた大きい真鍮の薬缶を連想してしまうアキラだった。
「かあさん。ただ洗濯しただけで、こんなにヒカルがおかしくなることは、無いと思うけど?」
と香苗に訊きながらも心の中では(まあ、ヒカルがおかしくなかったことも無かったけどな)と考えているあたり、アキラも相当である。
「だから、お洗濯」
ニッコニコの笑顔で香苗は言った。
「少量を分けてするより、まとめてやった方が効率いいから。ヒカルちゃんの分も一緒にやっただけだけど?」
「だからって! 人のパンツまで一緒に洗うなあああ!」
(あ、それで)
間髪入れずに叫んだヒカルは、手にしていた緑色の布切れを振り回した。
「ヤだった?」
それに対して、とても不思議そうな顔をする香苗。
「ちゃんとネットに入れて洗ったし、干す時だってタオルで隠して…」
「そういう問題じゃねえっ!」
ベリッとマジックテープを剥がす音をさせると、ヒカルは後ろ腰に巻いていたウエストポーチ風のホルスターから黒い拳銃を抜いた。
「ばか」
慌てて横からアキラが銃本体を掴んで止めた。これがオモチャなら冗談で済むかもしれないが、あいにく彼女の手元には本物しか無かった。
こんな一般的な家庭に本物の拳銃がある理由は、アキラの幼馴染のせいという言葉で説明がつく。物騒なことに、この春に命を狙われたアキラとその幼馴染が、その道に慣れていたヒカルに護衛を頼んだことから、この同居は始まっていた。
もちろん護衛に必要な武器として、この黒い自動拳銃は用意された。調達した幼馴染によると「便利なネット通販」だったらしい。
ただ無事に事件が解決し、こうして命を狙う相手がいなくなった今では、物騒なオモチャとしてしか機能していなかった。だいたい普通の日本の家庭には、一〇ミリAUTO弾なんか飛び交わない。
「安心してヒカルちゃん」
思いつくことがあったのか、香苗の声色が変わった。
「女の子の下着ですもの。女の子の分は、女の子の分だけと。三人分まとめて洗ったから。ツヨシさんの分は別にしたわ」
ツヨシさんとは、香苗の伴侶であり、そしてアキラの父親である海城剛氏のことであった。春の九州出張を終えた現在、今度は北関東の群馬県に出張していた。
「こいつの分が入ってるじゃねえか!」
「うわっ」
今度は自分に銃口を向けられて、アキラは慌てて身を反らした。
プルプルと細かく振動する銃に彫刻された「GUILTY」の流し文字が、居間の照明を複雑に反射していた。
「そうだけど?」
キョトンとする香苗。
「まさかアキラちゃんだけ仲間外れ? イジメ・カッコ・悪い」
「こいつは男だろうが!」
そうなのである。この意志の強そうな目元に黒眼がちな瞳を持ち、小振りな鼻はチョンとつつきたくなるような可愛らしいさを演出し、薄い唇は程よく湿っていてどこか蠱惑的な魅力にあふれているという、どこから見ても美少女としか捉えることのできない海城アキラは、男の子なのであった。
ただし、「元」という冠詞がつく。
かつての海城彰は、学ランの似合うそれなりの体格をした男の子であった。背だって香苗を見おろすぐらい伸びていた。
しかし清隆学園高等部の合格発表日に起きた交通事故で、彼の身体は徹底的に破壊されてしまった。
普通ならばそのまま死亡するところを、その事故現場に居合わせた例の幼馴染が手を尽くして『再構築』とやらをしてくれた結果が、この女の子のような姿というわけだ。
いまは歳相応の家で過ごす格好…、ジャージ姿であり、体のラインがそれなりに分かるが、出るところが出て、引っ込むところが引っ込んでいる体である。
もちろん記憶や経験が書き替えられたわけではないので、頭の中身は男の子のままであった。今はそれによって要らぬ苦労を重ねる毎日なのだ。
思春期の男の子として、こんな存在は何にも増して手に入れたい魅力的な美少女であろう。が、まさか自分自身がその姿になろうとは、一年前の自分に告げても笑い飛ばされるだけ…。いや、その原因が自分の幼馴染にあると告げたら一発で納得するかもしれない。
「まあまあ」
ちょっとイントネーションのおかしい声が居間に響いた。
「ヒカルも、そんな物騒な物を仕舞って。カナエさんのお茶を楽しもうではないか」
「明実! いつの間に!」
長めのボブカットといった髪を乱してアキラが振り返ると、そこに当然の顔をして、隣家に住む御門明実が立っていた。
身長は高い方である。髪から肌、そして瞳に至るまで日本人にしては色素が薄く、堀の深い顔立ちと合わせて、どことなくエキゾチックな雰囲気を纏っていた。
それもそのはずである。彼は「道産子とスロバキアの混血でチャキチャキの江戸っ子」を自称するという身上なのだ。深く考えてはいけない、一事が万事こんな調子の少年なのだ。
ただ生まれてからこの方、日本人として一般的な暮らしをしてきたはずのアキラが持つ幼馴染としては、特異な人物であった。
まだ高校一年生という若輩ながら、複数の工業的パテントまで所有するずば抜けた天才的頭脳を持っており、その優れた知能は、小学生の段階で大学卒業までのカリキュラムを終えてしまったほどなのだ。
大人たちの間では『明日のノーベル賞受賞者のその候補』といった評価がついていた。
これが日本以外の国ならば飛び級制度で、どこかの研究所に就職しているのだろうが(アメリカならばNASAとか)官僚主義が横行する日本では無理な話であった。ちなみに制度としては、一六歳から大学への飛び級は可能となっている。
そのためアキラと同じ中学校に在籍しながら、清隆学園の研究所に所属するという方法で、彼の叡智は利用されていた。それは彼が清隆学園高等部に進学した今でもそうだ。
今年の誕生日を迎えると一六歳となるが、飛び級制度は利用せず、本人はこのまま順当に学年をすごしていく気であるようだ。
そして、その片手間な勤務体制でも一定の研究成果を上げているのが、彼が天才と呼ばれる由縁だった。
先ほど説明したアキラの『再構築』もその研究成果の一つだ。
明実は、そのまま自分の分の椅子を引いて、香苗の横に着席した。
「あらアキザネくん。アキザネくんもお茶いかが?」
アキラの幼馴染ということで、もちろん明実を幼稚園のころから知っている香苗が、突然現れた彼に微塵も動揺せずに、自分の湯飲みを傾けてみせた。
「いただきます」
軽く頭を下げる明実に、卓上にフキンをかけて伏せてあった湯飲みを用意し、脇のポットからドバーッと急須の中身を追加する。
「アキラちゃんも、ヒカルちゃんも、座ったら?」
二人へ手招きしながらも、目線が食器棚の方へずれていく香苗。おそらくお茶請けの買い置きがあったか脳内で検索しているのだろう。
「いや! けっこうだ!」
怒鳴り散らすヒカルに対し、余裕のある態度を崩さずに香苗は、一層強めた笑顔で手招きを続けた。
「そんな照れなくていいのよ。家族なんだから」
そのさりげない一言が、彼女に大きな変化をもたらした。のけぞって耳まで真っ赤になって、足までよろけてみせる。
「さあさ、座って。たしか頂いたオセンベがあったはず…」
「けっこうだ! えんりょする! じたいだ!」
腰を浮かせかけた香苗に向かって、ヒカルは立て続けに捲し立てると、手にした銃をしまって、階段の方へ戻ろうとした。
「おい」
自分の母親が見せた懐柔する姿勢を、頑なに拒否する態度に、アキラはヒカルの腕を取った。
ギロリとワニが素足で逃げ出すような目で睨まれた。いや、そもそもワニは元から素足ではあるが。
「落ち着けって。なに怒ってんだよ」
「いいから放せ」
腕を振り切ることなく、丁寧に反対の手で自分をつかむアキラの手を外しながら、ヒカルが告げた。そこには先ほどまで超音波で喚き散らしていた元気な姿は無かった。
「?」
ヒカルの変化に戸惑ったアキラは、彼女を放した。ゆっくりと階上へ戻っていくその背中が寂しそうで、アキラに不安感が押し寄せてきた。
「アキラちゃん」
食卓から声がかけられた。そこにはアキラの分の湯飲みと、どこから出したか分からないが、煎餅が一山ほど木鉢に用意されていた。
パタパタとする香苗の手招きに誘われるように、アキラはいつもの自分の席へ着いた。
「はい、どうぞ」
「うん、ありがとう」
ちょっと熱めのお茶が喉を潤した。
そのタイミングで、頭の上からバタンと乱暴に扉を閉める音が聞こえてきた。
「まったく。なんだってんだ」
天井を見上げて言葉を漏らすと、香苗が楽しそうに口を開いた。
「恥ずかしいのよ」
「なにが?」
「家族って言われたことが」
「家族ねえ」
「あら? アキラちゃんはイヤだった?」
ちょっと考えるような声だったのを、香苗が聞きとがめるように確認してきた。
一家の大黒柱が出張中の海城家では、もちろん現時点では香苗が一番の権力者である。その彼女がヒカルの事を家族と言うのならば、家族なのだろう。
大事故で『再構築』されたアキラと同じように、今は亡き『創造主』とやらに構築された『創造物』。それがヒカルの正体である。こうして一緒に生活していて、ふとした雑談の折に彼女が世界中を旅してきた身であることも何となく分かっていた。
そんなアキラとはまったく違う世界に生きてきた、人間ではなく「女の子のような物」。
しかし春の大騒動で一緒に死線を潜り抜けた仲である。たとえ正体が人間ではなかろうが、拒絶する理由はアキラには無かった。
それに、横でズーッと茶をすすっている幼馴染のせいで、自分も「女の子のような物」になってしまったアキラとしては、一種の親近感すら持っていた。
母親である香苗が、ヒカルを家族と呼ぶことに抵抗感はなかった。
「いや。この歳で家族が増えるって、ちょっと不思議な感じがしただけだよ」
「そうよねー」
香苗は自分の頬に手を当てながら小首を傾げた。
「アキラちゃんに花嫁さんが来るには、まだはやいものね。さらに赤ちゃんなんて…」
「あ、あのう…」
初孫を想像している母親に、アキラはだいぶ赤くなった声をかけた。
「それには、オレが男に戻ることが第一条件だけど」
「心配するな」
堂々と腕を組んだ明実が、無駄に胸を張った。
「オマイを元に戻す方法については、研究が進んでいなくは無いとも言えないことも無いかもしれないし、あるかもしれない」
普通の男の子だった海城彰を「女の子のような物」である海城アキラにした張本人が、ここまで堂々としているってどうかと思う、などと考えたところでハタと気が付いた。
「それって、全然進んでないってことだよな」
「大丈夫だ。安心しろ」
わざとらしい咳払いの後で明実は無責任に言った。
「『再構築』には成功したのだから『再々構築』だって、いずれは可能になるかもしれない、と思う」
「これだよ」
アキラが不満げに頬杖をつくと、ふんぞり返ったままの明実は言い切った。
「まあ、任せておけ。未来の息子を見捨てることなどせん」
「未来の息子ねえ」
ジト目になって、他人より知能の高い幼馴染を睨んでおいた。
「そっか。アキラちゃんが花嫁さんになって、お婿さんを迎えるってのもいいかも」
今度の香苗は、ウエディングドレスに憧れる女の子の顔になっていた。ちなみに息子であるアキラがすでに生まれて、高校生にまでなっているのだから、香苗はとっくに結婚式でソレを着た身である。家族の記録を残しているアルバムにだって、その写真はあった。
「カナエさんがそう望むなら、そうしますが」
「バカやめろ!」
性癖的には極めてノーマルなアキラは、自分が男から性的に近づかれることを想像しただけで鳥肌を立てた。ここで香苗が冗談にも「そうしましょう」などとコメントしたら、二度と男に戻れないような気がした。
「オレは男なの! はやく元に戻す方法を見つけろよ!」
「なにをいう!」
対する明実も声を荒げた。
「愛する未来の妻であるところのカナエさんの要望が、一番の優先度だろうが」
そうなのである。知能の発達が人よりも早かった明実は、精神の成熟も早かった。そこに美人で隣人という香苗の存在である。初恋の相手が幼馴染の母親というのは、ごく自然の流れではある。ちょっと違うのは、昔から香苗に想いを寄せていると公言していることだ。
だが考えてほしい。幼稚園で息子の友だちに「おいら、おばちゃんとケッコンする」と言われた女性の反応を。普通では「そっか。じゃあ大きくなったらね」と答えるのが当たり前であろう。しかし明実はいまだにそれを持ち出しては、香苗とは想いが通じていると言い張るのだった。
もちろんアキラの父であり、香苗の夫である剛の耳にもソレは入っているが、とくに動じる様子を見せていない。アキラが自分の父親の大きさを感じるエピソードでもあるのだ。
「でも…」
人差し指だけで頬を支えた香苗は、ちょっと眉を顰めて言った。
「アキラちゃんを他の家に取られちゃうのは悲しいかな。でも孫の顔も見てみたいし…。やっぱり男の子に戻って欲しいかな」
「了解いたしました」
即答であった。
その豹変にアキラは呆れた顔を隠せなかったが、まあ話を変えるのには好都合と、言葉を発することにした。
「だいたい洗濯物一つで、なにを大騒ぎしてるんだか」
「そうよねえ、同じ女の子なのに」
と、さりげなく自分も女の子の範疇に入れる高校生の母。
「まあ、ほら。自分が女でないことを自覚するからであろう」
「はあ?」
明実の物言いに違和感があったアキラは、頬杖をついたまま彼を振り返った。
「オマイと同じで、ヒカルは『女の子のような物』だからな」
平然と湯飲みを傾ける明実。
「人間の女性と同じ生体反応はしていないはずだ」
「せいたいはんのう?」
「一番違う点は、それこそ子を成すことができない事だな」
「???」
自分が「女の子のような物」になっても、細胞的には染色体がまだXYであるアキラには、ピンと来るところがなかったようだ。頭の上に?マークを生やしている元・息子に、ちょっと照れた顔を作った香苗がフォローを入れた。
「女の子としてのお勤めが無いってことよ」
「あ~」
「男だって、朝起きたらパンツが汚れてた、なんてことがあるぐらいだ。オマイも覚えがあろう」
「そ、そんなことあるかい」
否定はしても動揺していては認めているような物である。
「オイラはそんな時、一人さびしく風呂場で手洗いするが。オマイはそうじゃなかったのか?」
「あうあう」
口を空振りさせたつもりで変な声が出た。
「それとはまったく反対の事だ。ヒカルはそれで自分が『女の子のような物』ではあっても、決して人間ではないことを自覚するのであろう」
「い、いや…」
せめてもの反撃に語気を強めてみる。
「服は汚れない方がいいだろ。洗濯するんだって楽だし」
「まあそうよね。任せてくれてもいいのにね」
香苗は事も無げに言った。海城家にもちゃんと洗濯機があるので、二人分も三人分もそう大して変わらないと言いたいようだ。
ずーっと茶を啜ってから言葉を繋いだ。
「ちゃんと食費も入れてくれてるから、そのぐらいいいのに」
「…」
嫌な沈黙が三秒間だけ訪れた。
「しょくひ?」
どことなく裏返った声でアキラが確認した。
「ええ」
事も無げに香苗。
「なんだ? 食費も知らないのか?」
眉を顰めた声を出す明実。
「い、いや。食費ぐらい知ってるけどよ。だって高校生じゃん」
口を尖らせたアキラに、ちょっと心配げな顔をして見せる明実。
「忘れているかもしれないから言うが。本当のヒカルは、高校生じゃなく大人だからな」
「あ」
アキラは自分の口元に手を当てた。ついそのガラッパチな態度で「女の子のような物」としての印象が強いために忘れがちだが、ヒカルはとっくに成人した女性なのである。アキラや明実と同じ清隆学園高等部に生徒として在籍するのは、二人を護衛するという仕事をやりやすくするためであって、実際の年齢はもっと上である。
大人が他人の家にやっかいになるのならば、食費を入れるのもごく自然なことと言えた。
「私もツヨシさんも要らないって言ったのよ。でも、それじゃあ居づらいって」
「ど、どのくらい?」
「実際の金額を言っちゃっていいの?」
アキラには母親のニコニコ顔が怖く見えた。
「いや、やっぱやめて」
親の脛を齧っている身として、とても耳に痛い話題であった。
「なんだアキラ。親に『これで好きな物でも食べなよ』って小遣いぐらい出さないのか?」
「バイトすらしてないんでね」
怒りのあまりに一言一句区切るように力がこもった。
「そういう、おまえはどうなんだよ」
「オイラか?」
そんなものは朝飯前だという顔で明実。
「毎月のお給料は、全額を母親に管理を任せているが?」
「お給料って…」
ちょっと声を詰まらせてから、自分の幼馴染が研究所に椅子を持っていることを思い出した。アキラから見て明実はソコへ遊びに行っているように見えるが、そこに研究員として在籍するからには、給料が支払われているはずである。
今まで、そんなお金関係のことまでに考えが回っていなかった自分が恥ずかしくなって、アキラの頬に自然と赤味が増えた。
「使うのだったら相談してくれと言ってあるが、そんな話は一切ないな。まあさすがに、この家のローンを払いつつ、家族を食わせていくほどは貰っていない些細な金額だがな」
すでに香苗との明るい未来を見据えた発言ではある。ただし海城家のローンは現在進行形で、夫であり父である剛がちゃんと払っているのではあるが。
「なんだ。親不孝者だな、オマイは」
アキラに眉を顰めてみせる明実。
「いいのよ、アキラちゃんは」
そこへ香苗の援護射撃。
「学生の本分は勉強ですものね。勉強して大学行って、ちゃんと就職してからお願いするから」
「うっ」
その勉学において、自信はまったくないアキラなのである。よって何かのアルバイトに割ける時間の余裕ができる予定もない。
「で? 英語の小テストがあったってアキザネくんから訊いたんだけど…」
「ご、ごちそうさま」
アキラは、ほうほうのていでダイニングを逃げ出した。
海城家では、階段を上がって二階にいくと、まず手前に四畳半に続く扉がある。アキラの部屋は、それより奥の六畳間であった。
この部屋はかつて利用者がおらず、アキラが物心ついたころには物置として使用されていた。そこをヒカルが居候することになった際に片付け、彼女の部屋となった。
香苗の追求から逃げ出したアキラは、何の気のなしにその前を通り過ぎようとした。
カチッ。カチッ。
「?」
ヒカルの部屋から聞きなれない音がしたような気がして、足が止まった。
カチッ。カチッ。
金属同士を打ち合わすような音である。
居間で自動拳銃を抜くようなヒカルであるから、室内で何をしているのか、まったく想像できなかった。
(まさか、やばい爆弾とか取り扱ってるんじゃないだろうな)
先ほどの拳銃ならまだしも、対戦車地雷なんか持ち込んでいるかもしれない。何事も無ければいいが、それが暴発でもしたら、木造モルタル構造の海城家など一発で消し飛ぶかもしれない。
(確認しておくか)
先ほど扉を閉めた時に、眺める気も無く視界に入ったヒカルの部屋には、そんな物騒なものは見当たらなかったが、アキラは隣室の扉をノックすることにした。
「ん? なんだあ?」
居間で大騒ぎした時とは違って、とても落ち着きを取り戻した返事があった。
「いやあ、あのお」
「アキラか。入っていいぞー」
気安い声で許可が出た。
アキラは自室に入るような気楽さで扉を開いた。
物の少ない部屋である。右にテーブル、左にクローゼットとベッドがあるだけだ。
ヒカルはテーブルの前に置いた椅子に着いていた。
「なにやってんだよ」
「ん?」
声をかけても、背中で生返事であった。ヒカルは座った状態で、両手を使って銃を構えていた。
狙いは窓の外である。
ピタリと止まったその銃は、先ほど居間で抜いた自動拳銃ではなく、銀色に光る大きな回転式拳銃であった。女の子の細腕では持ち上げるのも困難に見える銃であるが、ヒカルは軽々と構えていた。
鋭い目で銃口が向いている先を睨みつけている。呼吸は浅く、肩を動かさないように腹式呼吸だ。先ほどまでは咥えていなかった、世界的に有名な柄つきキャンディの白い棒が、ピコピコと口元で上下していた。
居間で見せた激情を、どこかへ落したように、静を体現していた。
見ているアキラの呼吸まで遠慮させられるような一瞬だった。
引き金が絞られ、撃鉄がカチッと落ちた。先ほどから扉越しに聞こえていた音とまるで同じだった。
銃は、撃鉄が落ちているのに、発砲はされなかった。一目で分かるが、中心部である弾倉が外されて、向こう側の景色が見えるようになっているからだ。
見ている間に親指だけで撃鉄を上げ、再び引き金が絞られた。
どうやら声をかけてもいいようだと理解したアキラは、もう一度訊ねることにした。
「なにやってんだよ」
「こうやってドライファイアでもしとかないと、カンが鈍っちまうんでね」
何を狙っていたのだろうかと、アキラはまるでツル植物のような字体で「INNOCENCE」と刻まれた銃身の先へ視線をやった。
いつもの見慣れた町並みである。
次にカチッと撃鉄が落ちる音がした時に、家並みの向こうに見える、遠くの位置にある電信柱を狙っていることに気が付いた。
おそらく太陽光を反射しているガイシを狙っていたのだろう。
「ほんとは週一にでもシューティングレンジに行きたいんだが」
不満そうな声になって、ヒカルは銃をおろした。
「エアガンのレンジなら、場所は知ってるけど…」
アキラがそれに答えて言った。もちろんそんなところで実銃を発砲なんかしたら、お巡りさんがすっ飛んでくること間違いないことは分かっている。
「まあ、無い物ねだりしても仕方がないしな」
ヒカルはテーブルに振り返った。その上にはレンコン状の部品が散らかしてあった。銀色の銃から抜いてあった弾倉である。
同じものが二つ用意してあり、そのどちらも弾がこめられていた。
その内一つをヒカルはテーブルから手に取り、銃の元あった位置に合わせると、銃身の下にあるレバーでセンターピンをスライドさせて装填した。
「だから、そうやって遊んでいるのか?」
「あそんで?」
ちょっと心外そうに眉を顰めてみせる。
「自分が扱う道具ぐらいは、自分で整備しないと、いざって時に酷い目を見るぜ」
不敵に片方の頬で笑って、口からキャンディを抜くと、それでアキラを差しながら歴戦の傭兵のようなことを言う。とはいえ「女の子のような物」で、さらに女子高生を演じているが、あくまでアキラと明実の護衛が本職なのだ。傭兵というのもあながち間違いではないかもしれない。
「ふーん」
アキラが納得したような声を漏らしていると、再びキャンディを口へ放り込んだヒカルは、組み立て終わった銀色の銃をホルスターに入れ、テーブルの横のフックへとかけた。
「で? なんの用だよ」
手元を再確認してからヒカルが振り返った。
「いや、あの」
いまさら不審な物音を聞きつけたとも言い出せない。なにせこの春に、ヒカルの銃の腕前に助けられた身だ。
アキラの口から、とりあえずの言葉が出た。
「どうよ」
「は? どうとは?」
ヒカルが小首を傾げた。
「いや、その…」
「身体の方か?」
指先についた油膜を、テーブルの端に置いたティシューペーパで拭きとりながらヒカルが聞き返してきた。
「うん、まあ」
「まあ悪くはないな」
右腕を曲げて力こぶを作るような仕草をしてみせる。
「あたしのマスターが作っていた『生命の水』とは、やっぱりちょっと違うみたいだが」
ヒカルの言う『生命の水』というのは、明実がアキラの『再構築』に使用した魔法のような効能を持つ液体である。それ自体が青く発光しているという、とてつもなく怪しげな物なのだ。が『創造物』となったアキラは、ソレを定期的に注射しないと死んでしまうらしい。
それは同じ『創造物』であるヒカルも同じで、彼女が二人の前に現れた理由も、自分に注射する『生命の水』を確保するためだった。
その時、別の人物から狙われていたアキラと明実は、彼女に『生命の水』を提供する代わりに、身辺の警護を任せることになったのが、関係の始まりであった。
「え、じゃあ。やっぱりどこかヤバいのか?」
ざっと見ただけでは異常は感じられないが、なにか含む物の言い方にアキラは心配げな顔になった。
「いや。普通に生活している分には問題ないと思うぞ」
と笑顔を見せられても、アキラから不安は拭えなかった。なにせ御門明実という変人が扱う技術である。彼と幼馴染ということで、今まで色々な実験台とされてきた海城彰としての記憶が、眉を顰めさせた。
「心配するなって」
明るい笑顔を向けられて、その表情を真っすぐ見ることができなかったアキラの視線が泳いだ。
といっても狭い四畳半である。ヒカルが着いているテーブルの他には、クローゼットとベッドぐらいしか無い。まあ「女の子のような物」で、女子高生は演じているだけだから割り引くとしても、独身女性の部屋と見ても置いてある物が少なすぎた。花の一輪すら飾っていないのだ。
テーブルの上に散らかっているのは、銃の手入れに使っていたと思われる、アキラには何に使うか分からない工具のような物。それと目につくカラフルな物は、散らかしているキャンディの包み紙だ。
あとは時代を感じさせるほど傷が入った旅行用のジェラルミンのケースぐらいだろうか。
ベッドの下に無造作に放り込んであるソレは、同居が始まってしばらくしてからヒカル自身が持ち込んだ物だ。
「?」
その戸惑っているようにも見えるアキラの態度を誤解したのか、しばし訝しげな顔をしていたヒカルは、笑顔を作り直した。
「いや、さっきは騒ぎすぎちまって悪かったな」
「ま、まあ。かあさんも、おまえのプライベートに踏み込むようなことしたわけだし…」
「あー…」
バリバリと髪を掻いてみせてから、ヒカルが思い切ったように告げた。
「どっちかっていうと、カナエの態度はありがたいさ」
まさか何にでも噛みつくような態度を取るヒカルが、そんな一歩譲ったことを言うとは思ってもみず、アキラは目を丸くしてしまった。
「ただ、そのう…」
ちょっと顔を赤くさせたヒカルは、頬を指で掻いた。
「あんな家庭的な人がいると、こっちも無防備にされるような気がして、怖いんだ」
「こわい?」
アキラの目がさらに丸くなった。ヒカルからは「銃さえあれば、象が出ようが、ライオンが出ようが、世界中渡り歩いて行けるぜ!」とかキャンディを咥えたまま言って、豪快に「がっはっは」と笑い出すイメージしか湧かないアキラにとって、新鮮な反応だった。
「今まで必要だから、たくさんの命を奪った」
壁にシミでも見つけたのか、そっぽを見たままの視線を動かさずにヒカルは告げた。しょぼんとキャンディの柄が下を向いた。
「もちろん無駄にそうしたことは無いつもりだ。だけど、あたしが生きるため必要だったから殺した」
ちょっと殺気立った顔になってヒカルが振り返った。
「だから、こんな幸せな時間を過ごしていいのか、分からなくてな」
「オレは平和に暮らしてきたから、言う権利は無いかもしれないが…」
アキラはそう前置きして言った。
「必要だったんだろ。じゃあ、そうしてよかったのさ」
何か言おうと眉を顰めるヒカルを制して告げる。
「そうじゃないと、オレたち出会えなかったものな」
途端にヒカルの顔が真っ赤になった。
「ば、ばか」
「?」
意外なヒカルの乙女反応が理解できなくて、アキラはキョトンとした。
「あたしは、いつまでもココにいるわけじゃないんだぞ」
「いきなり居なくなるなよ」
その言葉に、ふらっとヒカルが消える印象がして、アキラは慌てて告げた。
「かあさんだって寂しがるだろうし、オレだって嫌だ」
「そ、そうか。イヤか」
ヒカルは小さく含み笑いをした。
その横顔は、女子高生を演じている「女の子のような物」ではなく、外見によく似合った物だった。
「な、なんだよ。アホみたいに半口開けて」
どうやらアキラは、意識せずに見とれてしまったらしい。ヒカルに指摘されて、今度はアキラが慌ててそっぽを向いた。
「いや、その…」
話題を探して目線が泳いだ。
「かあさんが、ちゃんと食費入れてくれて偉いって褒めてたぞ」
「普通の事だろ」
事も無げに言う。そして思いついたようにテーブルの上に置かれたスマートフォンを手に取った。
「だが、そうも言ってられないか…」
「あ、おまえ、いつの間にスマホなんて…」
「この情報化社会には必要だろ」
と、簡単に言ってから、何事かを検索し始めた。
「手続きなんかどうしたんだよ」
携帯電話を契約するのには、色々な手続きが必要なはずだ。それに必要な身分証などをどうやって用意したのか、アキラには想像がつかなかった。なにせヒカルは、国籍すらちゃんと持っているか分からない「女の子のような物」なのである。ちなみにアキラの女の子としての戸籍は、明実が住基ネットをちょっと弄って誤魔化した。
「ま、蛇の道は蛇ってやつだよ」
小さな画面から目を離さずに答えが返って来た。
「新しい生活ってやつを始めると、物入りになっちまうもんで…」眉が顰められた。「…だいぶ減ったな」
どうやら自分の口座残金を確認しているようだ。
「そんなに贅沢してるのか?」
改めて室内を見たアキラが不思議そうに訊いた。なにせ家具などは、香苗がどこからか調達してきた中古である。そしてヒカルが派手な服など着ているところを見たこともなかった。食事だって、護衛という仕事のためだろうが、一人で外食に出かける様子もない。
「んー、まあな」
形の良い眉を顰めたヒカルは、独り言のようにこたえた。
「新しい下着買ったりなんだり…」
ハッと我に返ったヒカルは、軽くアキラの向う脛を蹴った。
「なに聞いてんだよ」
「いてえ。おまえが勝手に答えたんじゃねえか」
足を抱えて痛がるアキラをギロリと殺人光線が出そうな目で睨んでから、ふたたび困ったような顔で、スマートフォンの画面を見つめる。
「バイトでもするか」
「バイト?」
「こらあっ」
清隆学園高等部一年一組の天井を突き抜けるような大声が響き渡った。
「逃げようとするなぁ! 真鹿児ぉ!」
終業の学活が終わるのと同時に、そっと教室から抜け出そうとしていた男子生徒が、首をすくめた。
それにしても印象の薄い少年である。こうして背後から怒鳴りつけられなかったら、一生他人の背景として霞んでしまっていることだろう。
背は高からず低からず。面差しもイケメンと騒ぐほどでは無く、そして不細工ならばそれはそれで特徴となるが、そうでもなく。姿勢も真っすぐしているというよりは少し猫背だが、酷く悪いわけでも無かった。
そんな目立たない彼に、背中から声をかけた、意志の強そうな切れ長の目を持った少女が突撃した。
「くおらぁ!」
「で、でんちゅう…、いや、きょうしつでござる」
と、その男子が変な言い訳を口にしている間に、二人の影が揉みあって重なった。
「また始まった…」
教室の後ろで始まった、ここのところ毎日繰り返されている騒動に、教室最前列という席のアキラは、席に着いたまま頬杖をついて振り返った。
もう夕方の方が近い時間だというのに、昨夜の寝ぐせをピンピンに残している男子は真鹿児孝之といって、しがない天文部員である。
クラスの女子の間では、学校ではずっと寝ぼけた印象しかしない、忌避するほどでは無いが好意を持つほどでもない男子という評価である。
声をかければそれなりに会話が成立するが、クラスの中での立ち位置を一言で表すなら「部外者」といったところである。誰とでも一線引いたところがあり、自分から積極的に会話に参加するタイプではない。唯一のとりえは清潔感に不足していないところか。
あれで身長が高ければ「孤高の男」なのにとは、女子更衣室で行われた、派手なグループに所属する女子たちの評価である。
その彼にヘッドロックのやりそこないで、首に腕を回す形で捕まえているのは、この四月に、なんの縁かアキラと同じ班になったクラスメイトの藤原由美子である。
彼女は孝之と真反対といった性格で、なんにでもエネルギッシュに取り組む、元気な女の子である。そんな彼女に女子たちがつけたアダナは「王子」であった。
捕らえられたまま、孝之はやる気のない声で喚き始めた。
「いや、後生だ。今日はISSの日面通過が見られるはずだから、はやく観測体制を構築しないとだな」
「そんな言い訳が通用するか!」
キリキリと眉を寄せた由美子は、孝之の首に回した右腕へ左手を添えて、これまたキリキリと締め上げはじめた。
「図書委員会で、あたしが副委員長に選ばれたンだから。同じクラスの男がサボってたら、全体に示しがつかないだろ!」
一年一組の図書委員に、由美子は積極的に手を上げた。逆に孝之は嫌々ながらクジ引きで負けて選出された過去を持つ。どうやら精力的な由美子は、一年生ながら図書委員会で役職に就いたようだ。
「いや。ほら」
孝之は少しでも気道を確保するように、由美子の右腕に両手をかけた。
「そこは藤原さんが、オレの分も二倍頑張るってことで」
「そんな問題じゃないのよ!」
「毎日、飽きないもんだねえ」
半ば感心した声を漏らしていると、視界の半分が白くなった。授業中すら制服の上に白衣という姿の明実が、自席からアキラのところでやってきたのだ。
捻りが無いことに、アキラと彼は同じクラスであった。これというのも学園内部の権力者に意外と顔が利く彼が「お願い」をした結果だ。
「まあ、二人のコミュニケーションのような物じゃろ」
身長の高い彼を席から見上げると、苦笑のような物が右側に浮かんでいた。
「騒がしいコミュニケーションだな」
わしゃわしゃとキャンディの包みを開きながら不機嫌そうな声を出したのはヒカルである。
ヒカルも捻りが無いことに、同じクラスであった。これというのも二人を護衛しやすくするためであったりする。
いまも両腿にホルスターを巻いているのが、スカートの裾からチラチラと見え隠れしている。大人たちは明美が手を回したのか特に注意しないし、クラスメイトたちは、それこそ「孤高の女」であるヒカルにはノータッチであった。なにかのファッションアイテムとでも思っているのかもしれない。
アキラは素直に「おまえが言うな」と思いながらも、ここで騒ぎを追加してもつまらないと、表情にはなにも出さないようにした。
「図書室の当番は毎日あるが、ISSの日面通過は、そうないんだぞ」
と謎理論の孝之に対し、由美子が牙を剥く。
「生命は誰だって一つしか持ってないンだからな。ここで落としたいか?」
「ぐええ」
両手での抵抗も空しく一層首が絞まったのだろう、孝之の口から舌が飛び出した。
「ほら。今日は真面目に当番をやりますって、言え!」
「…」
孝之の唇は空振りするだけである。
「きこえない!」
耳元で由美子がガナると、それまで首を絞められて苦しんでいた態度が演技だったとばかりに、とても冷静な孝之の言葉が返って来た。
「藤原さんって、意外に胸あるよね」
バッと、赤面した由美子が孝之から飛びすさった。無意識なのか、両手で自分の身体を抱きしめていたりする。
「そうゆーことで、当番よろしく」
その隙に、自分の荷物を小脇に抱えた孝之が、敬礼一発残してから教室から飛び出していった。
「あ、まて!」
慌てて、ちょっと伸びすぎた黒髪をなびかせて、由美子が彼の後を追い駆けて教室を出て行った。
「んー」
細目になったアキラがボヤくように言った。
「せーしゅんですな」
「青春だねえ」
こちらも呆れたように、咥えたキャンディを零しそうな顔になっているヒカルが答えた。
「まあ、男も女もそういった相手を求める時期ではあるな」
と明実だけは普段と変わらぬ様子。なにせ彼の「香苗LOVE」は揺るがない物なのだから。
「まあ王子も悪いよね」
ふと四人目の声がして、アキラは黒板の方を振り返った。
そこに、コンピューターが自身の持つ最高の計算能力で、黄金律を導き出した結果、空間に立体映像を投影したかのような、究極の美が立っていた。
白い肌に包まれた肢体は、紺色のブレザーという野暮ったい制服に覆われていても、どこまでものびやかであった。その指一本取っても、神の造形物の中でも一、二を争うほどの曲線であり、世に数多ある美の女神を描いた絵画すら超えていた。長い黒髪は腰のあたりで、毛先があるかないかの微風を受けてさざめいていた。
コンピューターグラフィックも、ついにここまで来たかと思わせる程の完璧な美少女。というのはもちろん比喩で、彼女には血も肉もちゃんとあった。
四月から生徒会が定期的に行っている学年(裏)投票において、二か月連続で『学園のマドンナ』に選出された程の美少女、佐々木恵美子嬢である。
彼女の馴れ馴れしい態度には理由がある。彼女は由美子と同じで、アキラやヒカルと同じ班なのだ。
「突然男に抱き着いたら、そりゃあなあ」
頭一つ身長が違う恵美子をヒカルも見上げた。ヒカルが特に低いわけでも無いのだ。恵美子はこんな美貌を誇っている割に、一年生ながら剣道部でエースと目される程の実力者。運動で鍛えられた身体はスラリと伸びて、平均的な男子すら追い越しているのだ。もちろん『道産子とスロバキアの混血でチャキチャキの江戸っ子』である明実ほどではなかったが。
「男なんて、八割が性欲でできているモンだから」
「オイラを入れないでくれよ」
ヒカルの言葉に明実が予防線を張った。
「またヒカルちゃんは、分かったような口をきくぅ」
出るところが出て、引っ込むところが引っ込んでいる恵美子である。小柄なヒカルと並ぶと、それこそ大人と子供のような差があった。が、ヒカルの事情を知っている二人には苦笑しか出てこない。
もちろんクラスメイトたちには、アキラとヒカルが『創造物』であるということは内緒だ。理由は、この技術がうまく実用化されれば不老不死も可能だからに他ならない。
しかし一〇〇年先を先取りしているような明実の研究室でも、実験の再現率が著しく低いため、胸を張って世間に発表することは、まだできなかった。
さらに幼馴染の危機とは言え、アキラに対してその技術を使用したことなんかは、絶対の秘密だ。そうでないと確かな技術でもないのに人体実験したのかと、世間から非難されることもありうるからだ。
明実がアキラに対してこの技術を使用したのは、あのままではアキラの死が確実だったからであり、いまこうしてアキラが生きているのは奇跡に近い僥倖なのであった。
「まあフジワラには似合いの相手じゃないか?」
天体観測以外には無気力無関心な孝之と、何にでも精力的な由美子の取り合わせに、そう違和感はなかった。毎日のように先ほどのような夫婦(ド突き)漫才を見せられている一年一組のほとんどが、ヒカルの意見には賛成であろう。
「あら、ダメよ」
細い腰に自分の拳を当てた恵美子が、ちょっと怒ったように言った。
「王子には、お似合いの相手がいるんですからね」
「えっ」
その意外な言葉に、全員が彼女を見た。
「まさか藤原には、もう彼氏いるのか?」
アキラの問いに、ちょっと艶っぽい顔を作った恵美子が答えた。
「『まだ』だけど、ほぼ決まっているんだから」
「へえ~」
ヒカルが感心した声を漏らした。
「東京ドームのマウンドに置かないとな」
「???」
なにを言っているのだろうとアキラと恵美子が目を点にしていると、一人意味が分かった明実が、苦笑のような物を声に紛らして言った。
「隅には置けないってことだな」
「あ~」
アキラが感心した声を漏らす隣で、恵美子がちょっと困ったような声を出した。
「やだヒカルちゃん。ウチのお父さんみたい」
「はあ?」
自分とは同い年という設定の恵美子に言われて、今度はヒカルが目を丸くした。
「ちょっとした言い回しじゃねえか」との文句に「お父さんも『小粋なトーク』って言ってる」と笑顔。
「藤原にカレシかあ」
アキラは頬杖をつきなおした。
「…想像できない」
素直な感想に、腕組みをした明実が何度もうなずいて同意を示してくれた。
それでも一応想像してみた。
もやもやとした物が脳裏に浮かぶ。クラスで見慣れているためか、由美子の隣に立つのは孝之という映像。そこに謎の人物が飛び蹴りで入ってきて、事もあろうか由美子を画面外へ蹴り出した。残るは仲良く腕を組む男子高校生二人。
「…」
あまりの事に眩暈すら感じて、アキラは目頭を覆った。
「そんなことでどうする」
「は?」
胸を張った明実に意味の分からぬことを言われて、アキラは彼を見上げた。
「男が男とつきあったっていいではないか。もちろん逆もだが」
明実は良くも悪くも科学者であった。彼は偏見や先入観と言った物を排除する傾向があるため、性的マイノリティでも違和感なく受け入れられるのであろう。
まあ彼の場合は、何度も言うが、興味がただ一人に向いているということもあろうが。
「人の頭の中を覗いたようなことを言うな。テレパシーでも使えるのか」
アキラが眉を顰めると、明実が事も無げに言った。
「オマイの考えそうなことなど、お見通しだ。何年のつきあいになると思っているのだ」
幼稚園に同じクラスになったから、と頭の中で指折り数えようとしたところで、恵美子が叫び声を上げた。
「えっ! アキラちゃんと御門くんって、そういう関係だったの?」
「は?」
三秒だけ思考が停止した。
「だって、つきあってるって!」
なぜか真剣な表情になった恵美子が、座ったままのアキラに被さるように乗り出してきていた。
「まてまて」
背中に汗をかきながら、アキラは慌てて説明することにした。
「こいつとは家が隣なだけで、そういった事は一切無いから」
「そうよねぇ」
たった一言でホッとした顔になった恵美子は、胸を撫で下ろした。
「アキラちゃんは、ヒカルちゃんと、つきあってるんだもんね」
…。
ヒカルの鉄拳が炸裂した。
「いてえ! なにしやがる」
殴られたアキラは椅子を蹴って立ち上がった。
「てめえのマヌケ面に気が立ったからに決まってんだろーが!」
怒りのあまりか顔を真っ赤にしたヒカルは、一歩も引かずに牙を剥いた。あまりの勢いに咥えたキャンディを噛み砕きそうな表情である。
「ササキよ…」
明実が賢者の様に落ち着いた声で訊ねた。
「なぜ二人が付き合っていると?」
「だって、いつも一緒にいるしぃ」
イタズラが成功して喜んでいる小学生男子のような笑顔になった恵美子が、唇の端から舌を出して言った。キラリと光るのはトレードマークの八重歯だ。
「おまえだってフジワラと二人でいるだろうが」
頭の上から湯気が出そうな勢いのまま、ヒカルが恵美子を睨みつけた。
「それは、二人の邪魔をしちゃいけないと思って」
手を打ち鳴らして恵美子。ちなみにアキラの班は、由美子を班長として、アキラ、ヒカルそして恵美子の四人で構成されていた。
「それに二人して、二人だけの分からない話ししてるし」
「あー、それは…」
アキラとヒカルがする二人だけの話しというのは、主に『創造物』として『再構築』関係のおおやけにできない話である。そんな会話に、美貌は常人離れしているとはいえ、一般人の恵美子を混ぜることはできなかった。
「なにを騒ぐ?」
恵美子の指摘に二人の勢いが無くなったところで、明実が首を捻った。
「アキラとヒカルのペアに不思議なところなどあるのか?」
とたんにワリバシをまとめて三本ほどへし折った様な音がした。
アキラが元は男だとか、染色体で言えば現在進行形で男だとか、そういったことを言い出さないように、慌ててアキラが明実の足を踏んづけたのだ。
「二人して仲が良くて微笑ましいではないか。あれだ。仲良きことは美しきことかな」
平然と明実はしていた。利いていなかったのかと足元を確認したが、学園指定の安物の上履きにアキラのカカトがクリーンヒットしているのが見られただけだ。ちなみに反対側の足にはヒカルのカカトがクリーンヒットしていた。
「友情でも愛情でも、仲が良いことに勝ることは、ないんだよなあ」
と生活指導の先生のようなことを言いつつ、平然としたまま一人納得したようにうなずいていたりする。
「ま、あれよね」
明実の足元に気が付いていないのか、それともわざと無視しているのか、恵美子は両腕を使ってガッツポーズを作って見せた。
「私も負けてちゃいけないってことよね」
「ほー」
反撃の時が来たとばかりに、ヒカルの目が細められた。ピコンと口元の白い柄が跳ね上がった。
「ササキにも気になる男がいるんだ」
「それはまだ」
とても真面目な顔で返答が来た。
「でも、彼氏は欲しいとは思ってる」
「まあ、お年頃だからなあ」
「なによ。まるで近所のオバサンみたい」
ヒカルの老成した者が漏らすような感想に、恵美子が吹き出した。
「留年なんかしてないでしょ。何月生まれよ? ヒカルちゃんは」
たしかに日本の高校生でクラスメイト同士ならば、年齢が違うということのほうが稀である。お姉さんぶりたかったら生まれ月が早いか遅いか程度の差しかない。
「え…」
のけぞるぐらい動揺したヒカルは、ゴニョゴニョと言葉を口の中で転がした。
「一月とも四月とも七月とも十月とも…」
「またまた誤魔化そうとしてぇ。誕生日は一つしかないでしょ」
と恵美子が笑うが、話しは少しややこしい。ヒカルは既述の通り『創造主』に構築された『創造物』であった。
だが、事故で身体を破壊された海城彰から『再構築』されたアキラとは違い、ヒカルはヒカルの『創造主』により、五人分の死体と魂を集めて『再構築』されたらしい。よってヒカルの生前の記憶は、五人の物が入り混じっており、どれが正しいなどと他の人間が言えない状態であるからだ。
「佐々木は、どんな男が好みなんだ?」
慌ててアキラがフォローに入った。そんな見え透いた話題転換にも、恵美子は気をよく乗ってくれた。
「ん~。私を守ってくれる人かな?」
「それは難しいんじゃ…」
アキラの目が遠い物になった。
すでに高等部全体には、恵美子の武勇伝が広まっていた。剣道部の先輩たちが、新入生たち入部直後に行った「シゴキ」において、逆に全員を叩きのめしたというのだ。
最近じゃあ、その剣道の腕前と名字からの連想で「コジロー」と彼女の事を呼ぶ生徒が多くなってきたほどだ。
「それとも守ってあげたくなる人?」
自分の事なのに「う~ん」と唸って、恵美子は空中で頬杖をついて悩み始めた。
「じゃあ…」
意地悪気にヒカルが教室後ろの出入り口を目で差した。
「それこそマカゴなんてどうだ?」
「普通の子よりは、賑やかな方がいいかな?」
「おっとぉ」
恵美子の言葉に明実が一歩飛びすさった。
「オイラにはすでに決まった人がいるので、好意だけ受け取っておくことにするよ」
「うわあ」
アキラが苦い物を呑んだような顔になった。
「自意識過剰ぉ」
「じゃあ」
キョトンとした恵美子が明実に訊いた。
「御門くんにはカノジョがいるってこと?」
「もちろんだ」と胸を張る明実の横で「ウソをつくな」とアキラがゲッソリした顔になる。
「えー、えー。どんな人? 画像ある?」
「もちろんだ」と取り出したのはスマートフォンではなく、なぜか生徒手帳であった。
「?」
いぶかしむ恵美子の前で、とあるページを開いてみせた。
そこには一枚の硬質紙が挟んであった。
「写真なんて古風~」
最近じゃ見ることの少なくなったデジタルでないアイテムに、かえって乙女心が刺激されたのか、恵美子が多めに感心して見せた。
「いい?」と許可を得てから明実の生徒手帳からその写真を手に取り、興味津々といった態度を隠さずに覗き込む。途端に「え?」と硬直した。
写真には、エプロン姿をした女性のバストショットが捉えられていた。シーツを干しているのだろうか、長い物干し竿に向けて両手を上げている。
黒い髪は家事で乱れたのか、ちょっと手入れを怠ったようなボブカットであり、前髪が少しかかった瞳は黒目がちで可愛らしかった。
小振りな鼻は指で突きたくなるほどで、蠱惑的な湿り気を感じさせる唇と相まって、恵美子とは別のタイプの、どこから見ても「美少女」に分類されるような女の子であった。
「これって…」
指先に挟んだ写真を振るわせた恵美子が、忙しそうに丸くした目を動かして、目の前の人物と写真を見比べた。
「?」
そんな反応に、理由がわからなかった三人が顔を見合わせる。
「これって、アキラちゃんの写真? やっぱり二人は…」
…。
ヒカルの鉄拳が炸裂した。
「いてえ! なにしやがる」
殴られたアキラは、殴られた頬を押さえて怒鳴り返した。
「あたしにササキを殴れって言うのか、てめえは!」
牙を剥くヒカルに、アキラはちょっと冷静さを取り戻した。
「それもそっか」
「ササキよ…」
明実が人差し指だけで前髪を掻きながら説明を始めた。
「それはアキラではない。カナエさんと言ってアキラの…」
「あ、おねーさん」
写真の中と、殴られた頬をマッサージしているアキラを改めて見比べながら、恵美子は感心したように言った。
写真の中で微笑んでいるのは海城香苗であった。明実がこんな写真を持ち歩いていることを承知していたアキラには驚きは無いが、たしかに香苗の存在を知らない者から見れば、アキラの写真を持っていると誤解しても不思議では無かった。
息子であった時代は、これでも父と母の中間ぐらいの容姿をしていた彰であった。が、こうして「女の子のような物」になった今は、体のサイズを含めて母である香苗に近い容姿になっていた。
その母親を姉と勘違いされるのは、香苗のアンチエイジングが為せる技なのだろうか。
「へええ」
明実に丁寧な手つきで写真を返却しながら、感心した声を漏らした。
「幼馴染のお姉さんなんて、御門くんロマンチストぉ」
「まーな」
なぜか偉そうに腕を組み直した明実が胸を張った。
「いいなあ、いいなあ。御門くんにすら相手がいるのかあ」
「む? オイラ『にすら』とは」
「まあ、いいじゃねえか」
ヒカルが明実の肩を叩いた。
「あ、ごめんごめん」
自分の失言に片手だけで拝むようなポーズをとって謝罪の意思を示す恵美子。いつもはあまり感情を見せないタイプの明実がブスッとしていたが、写真ごと生徒手帳を内ポケットへ戻すと、平常運転の顔に戻った。
「あー、私も頑張って、相手見つけよ~ぉ」
伸びをするように体を伸ばした恵美子は、足元に置いていた自分の荷物を取り上げると、壁にかけられた時計を確認した。
「さてと。部活に行きましょうかね~」
「佐々木も見た目が良いんだから、剣道部でいい男が捕まえられるんじゃないか?」
アキラの軽口に、恵美子は眉を顰めた。
「剣道部の人たちかあ…」
数秒だけ考えるふりをしてから、明るい声で言った。
「部活の人には、そういった事は感じられないかな」
「どして」
「じゃないと、叩きのめせないでしょ」
サクッと怖いことを言った。
「オレ、剣道部は絶対やめとく」
「え~、いいじゃん剣道。一緒にやらない?」
わざわざ荷物から手を放して、恵美子はアキラの手を取った。
突然始まった美少女からの勧誘に、男のままだったらコロッと引っかかったのだろうが、残念ながら今のアキラは「女の子のような物」だった。女としての性欲はまったく持ち合わせてないし、男としてのソレも、こんな存在になってから希薄になっていた。
なにせ女の裸を見たければ鏡の前に立てば見放題になってしまったのだから。それでも中身が男の子だから、恵美子のような美少女に手を握られたら頬を染めてもよさそうなものなのに、そのような気配はない。もしかしたら『再構築』の影響もあるのかもしれない。
「いや、佐々木に叩きのめされたくないから、やめとく」
「それって…」
わざとらしく頬を染めた恵美子が、ぐっと握った手に力をこめた。
「アキラちゃんからの告白っていうことで、いい?」
途端にヒカルの鉄拳が炸裂した。
「あー、いてえ」
唇の端が切れて喋りにくくなったアキラが、冷やすために当てていた濡らしたハンカチをずらした。
目の前に置かれた灯の入っていない液晶ディスプレイを鏡代わりにして、殴られたところがどうなったかを観察する。
どうやらみっともない痣などには、なっていないようだ。
「てめえのは自業自得だ」
向かいで椅子を前後逆に座り、咥えたキャンディの柄をピコピコ上下させているヒカルが指摘した。もちろん制服姿であるから、そんなことをすれば大きく開いた足のせいで、両腿に巻いたホルスターどころか、秘密の布地が覗き放題である。
今日は紺色であった。
「なんでオレの自業自得になるんだよ」
相手の下半身を極力視界に入れないようにしながら、アキラが納得いかない声を上げた。
「ああ?」
機嫌悪そうにドスの利いた声を上げると、ヒカルは右のホルスターから銀色の銃を抜いた。その電光石火の早業は、常人には知覚できない程である。
ピタリと机越しに向けられた大口径の銃口は、小揺るぎもしていなかった。さすがである。
どうせ発砲することはないと見切っているアキラは、面倒くさそうに言った。
「ここじゃあ誰も見てないからいいけど、教室では抜くなよ」
二人が学習椅子に座っているのは、もう教室では無かった。
舞台は変わって、高等部C棟の狭い個室である。
広さは細長い八畳ほどの空間である。幅の狭い一方に、潜水艦から外してきたような気密性の高いドアがあり、反対側には窓が開いていた。側面はすべてコンクリートの壁であった。
そんな室内では、窓際には使わなくなった棚や段ボールが寄せられており、どこから拾って来たか分からない事務机が一つと、以前から放り込まれていた椅子が数脚あって、小さな事務室といった雰囲気を醸し出していた。
たしかにこれだけ閉鎖的な部屋ならば、たとえ出入り口が開けっ放しとなっている今でも、本物であるヒカルの銃を目撃されることはないだろう。
「あ?」
相手から、とてもガラの悪い声が出た。
「おまえ、あたしがどれだけ我慢してるか、分かってんのか?」
目を血走らせたヒカルは、右手だけで保持した銃の撃鉄を一動作で起こした。
「おまえのマヌケさだけでなく、あのヘンタイのマヌケさにも飽き飽きしてんだぞ」
「やめろって」
怒りのあまりか、銃口がプルプルと震え出したのを見て取ったアキラは、小さく胸の前で両手を上げた。
「あんな見栄えだけいいだけの、ケツの青い女にダラしない顔しやがって。キンチョウカンが無いんだよ、おまえらは」
「そう言ってもクラスメイトだしなあ」
言い返したとたんに、ヒカルは液晶ディスプレイ越しに、銃口をアキラに押し付けた。
「マヌケなこと言ってんじゃねえって、言ってるんだよ」
「なにが気に入らないんだ?」
ヒカルがそこまで怒る理由が分からずに、アキラは首を捻るばかりだ。
「ササキがクロガラスに買収されていないと、誰が保証してくれるんだ?」
クロガラスというのは、春にアキラたちの命を狙った『創造物』を作ったとされる『創造主』の名前らしい。そのクロガラスは、アキラたちの身体を『再構築』した技術の独占を狙って、他の『創造主』たちを殺してまわっているらしい。その延長で、ヒカルの『創造主』も殺害されたらしい。
全ての情報が「らしい」のは、その全てがヒカルの口からの情報しか無いからだ。
「そうはいってもなあ」
銃口が突き付けられているというのに、呑気な調子でアキラは後ろ頭を掻いた。
「そんなこと言いだしてたら、なんにもできなくなるぜ」
一瞬、額に浮かぶ青筋が増えたような気がしたが、何かを言う前に我を取り戻したのか、ヒカルは銃口を引いた。
「油断するなって言いたいんだよ。あたしは」
「油断も何も、敵の居場所すら分からないんだから、こちらとしては何もできないだろ」
「だから、何を仕掛けてくるか分からねえんじゃねえか」
ヒカルはバカにするように鼻息を一つ吹いた。
「世の中、洗脳から脅迫まで、他人に言うこときかせる方法は色々あんだぜ」
「たとえば銃を突きつけたり?」
アキラはヒカルの脳の辺りから「プチッ」という音が聞こえた気がした。
「マヌケなてめえには、これでも充分なくらいだ!」
ペッとキャンディの白い棒を床に吐き出すと、そう喚いて、ヒカルはアキラに向けて、本当に引き金を絞った。
「わあっ」
咄嗟に頭を抱えて身を丸くし、液晶ディスプレイの向こうへ首を引っ込めたアキラの耳に、ヒカルの銃がカチッという撃鉄を落とす音が聞こえた。
いっこうに銃弾が発射されないのを感じ取ったアキラが、恐る恐るディスプレイ越しに相手の顔色を覗いた。
「ばん!」
「ひっ」
ヒカルの口効果音に、再び首をすくめる。その無様な格好を見て気が晴れたのか、ヒカルは見事なガンスピンを決めると、銃を右のホルスターへ戻した。
「弾、入ってないのか?」
「入ってて欲しかったのか?」
「いやいやいや」
とんでもないと頭を振って否定する。
「まあまあ」
半分笑ったような声と共に、明実が室内に入って来た。
「二人とも仲良くお願いするよ」
言いながら、両手に抱えてきた山ほどの書類を、液晶ディスプレイの横にドサリと置いた。
「仲良くったって、相手がこんなマヌケじゃ、限度があんぞ」
とのヒカルの悪態に、こらえきれなくなったのか少し吹き出した明実は、何の感情も入っていない科学的な声で言った。
「嫉妬はみっともないぞ」
「はぁ?」
さすがに生身の明実には遠慮があるのか、咄嗟にヒカルの右手は再び銃把にかかったが、抜かれることはなかった。
「で? コレはなんだよ」
またヒカルが吠えだすのを制するように、アキラは目の前に積み上げられた書類の一端を摘まんで持ち上げた。
明実はアキラを振り返ると、ニヤリと片頬だけで嗤った。
「これが、オイラの進める『科学部』だ」
明実が口にした『科学部』というのは、この春に清隆学園高等部へ入学してから進めている悪だく…、計画である。
文武両道を目指す校風の清隆学園高等部には、公認非公認を含めて、数多の部活が存在した。
分かりやすい例だと、それこそ恵美子が所属する剣道部などの運動会系部活があり、ちょっと珍しいところでは憲法研究会などと名乗っているアングラの文化会系部活もあった。本当に活動しているかどうか分からないが、七六年ごとに集まるというハレー彗星鑑賞同好会などもあるらしい。
全国大会がある競技を行う運動会系部活は、部費を請求する時に有利に働く。翻って化学部や天文部、生物部などの文化会系部活は、それぞれが知識を競う全国大会があるとは言うものの、知名度の点から不利は否めなかった。
よって毎年の予算配分において、運動会系部活が潤沢な資金を確保するに対し、文化会系部活は、予算不足にあえいでいた。
少ない予算では派手な活動はできず、さらに地味さに拍車がかかり、予算獲得でのアピールが不足するという悪循環に陥っていた。
清隆学園高等部に進学し、化学部に在籍することにした明実には、それは甚だ許せない事であった。アキラの前で地団駄を踏んで悔しがったほどだ。
それだけならば普通の高校生である。しかし御門明実という少年は、行動が伴う存在だった。
まず幽霊部員ばかりの先輩方を差し置いて、自分が化学部の部長を名乗り実権を握った。そして同じC棟一階で活動しているという理由で、物理部へ予算の統合を持ちかけたのだ。
似たような部活であるから、使用する備品などや消耗品も似通ったものになる。それを同じ財布にしてしまえば、個々で使用するよりは大きな金額が使えるという魂胆であった。
明実の言う「化学部と物理部とを統合する(仮称)化物部計画」は、しかし頓挫した。
バイタリィあふれる明実のキャラクターに食われ、物理部の個性が失われると、向こうの部員が恐れたからだ。
そこで明実は変化球を考えた。けっして化学部は物理部を乗っ取るつもりはないと納得させようとした、苦し紛れの手であった。
予算の統合が難しいのならば、備品の共同購入から始めようと言ったのだ。
例えばコピー用紙を購入するとき、六〇枚使用したいときでも、最低単位が一〇〇枚であれば、一〇〇枚買わなければならない。残りの四〇枚が綺麗に保管されていればいいが、たいていの場合は汚損したり、日に焼けて黄色くなってしまったりして使い物にならなかったりする。
そこで他に四〇枚必要な部活と共同で購入すれば、ロスは全くなくなる。
もちろん化学部のあまりが必ず物理部の需要とあう可能性は限りなく低い。だがそこで明実は、数を増やすことで対応することにした。
二つの部活でうまくいかなければ、三つ、四つと分母を大きくすれば、だいたい帳尻があってくる。料理を作る時、一人分だけ神経質に分量を細かく気を付けて作るより、一〇〇人分を豪快に作った方が、分量の誤差が誤魔化されておいしくなるのと同じ理屈である。
ここに至って明実は、文化会系部活の上部団体を立ち上げることとし、その名を『科学部』とし、自らその『総帥』の地位につくことを宣言した。
といっても説明した通り、備品等を共同購入する予算管理団体が実態なのだが。
その明実の「活動」を、護衛のためにいつも横にいたアキラとヒカルも自然と巻き込まれる形となっていた。明実のそばにいる女子二人ということで、学内ではすっかり彼の秘書扱いである。
けっして他の部活を乗っ取るつもりはないという建前がある以上、科学部の活動は、化学部が活動拠点としている化学実験室では、行うことができなかった。
その問題が持ち上がった時に、明実がどこからかこのC棟北西の端に位置する小部屋の鍵を手に入れてきたのである。ここならば右手が化学実験室となり、化学部としての活動にも移動距離が少ないので影響は少ないと考えられた。ただし左手は非常口という名目の、校舎裏側へ抜ける通用口という、微妙な位置でもあるのだが。これから暑くなっていく時期だからいいが、寒い時期には北風が吹きこむこと間違いなしだ。その非常口という性質上、最終登校時間まで、扉は開けっ放しなのだ。まあ鉄筋コンクリート製の壁に仕切られているので、外の音や風などは、直接関係が無いと言えば無い。
逆にD棟の自販機コーナーや、トイレなどに近いし、渡り廊下で繋がっている体育館などにも近く、さらに階段室もすぐだ。交通の要所と言っても過言ではない。
考えれば流石と言っていい場所を、明実は見つけてきたことになる。
明実が鍵を手に入れたその日から、この部屋は『科学部事務局』の看板を掲げ、主に文化会系部活の予算に関する諸問題が持ち込まれる場所となっていた。
「各部活から届いた共同購入の申し込みだ」
試しにアキラが一枚手に取ってみると、要請元が生物部で、欲しい物は部誌を発行するためのコピー用紙六〇〇枚と書いてあった。
「品目ごとに書いてもらったら、こんなになってしまった」
明実は全然悪びれずに言い切った。そこで嫌な予感を感じていたアキラは訊くことにした。
「これ、どうするんだよ」
「まとめてくれたまえ」
「…。だれが?」
「オマイたちが」
即答してくる明実から視線を天井にやって、問題点を整理する。視線を戻してから恐る恐る訊いてみた。
「なんでオレたちが?」
「オマイたちも『科学部』だろ」
「…」
再びアキラの視線は天井へ行った。
「こんなの、おまえの助手にやらせればいいだろ」
ワシャワシャと新しいキャンディの包みを解いていたヒカルが、横から酸っぱい物を噛んだような顔で言った。
明実は清隆学園の研究所にも籍を置いており、彼の研究を手助けするために、女性の研究員が助手としてついていた。
「いやいや。彼女はあくまでも研究所におけるオイラの助手であって、学校生活には関係が無い」
「だからって、おまえの仕事をあたしらに投げるな」
「だがオイラには、やることが一杯あってな」
残念そうに両手を開いて、やる気はあるんだという態度を取って見せる。
「手伝ってくれ。お願いする」
ちゃんと頭までさげた。
幼馴染みとして長くつきあってきたアキラであるが、こんな真面目に人へお願いをする明実を始めてみた。
アキラに対してなんか、もう後戻りできないところまで巻き込んでから「お、スマンな」っていう一言があったらまともな方だ。
「言っておくが、書類作業はあまり得意じゃないぞ」
ヒカルはブスッとしながらも、キャンディを口に放り込むとの引き換えに、書類の山から一枚取った。
「とりあえず品目ごとに仕分けてくれ。何がどれだけ必要なのかを把握してから、各部との折衝に入るから」
「丸のみするわけじゃないのか?」
アキラも一枚手に取ってから確認した。
「それをやるなら部費の管理をすべてこちらに寄越せと要求する。あくまでも『科学部』は共同購入を効率的に行う組織だ。いまのところは」
「その『いまのところは』っていうのが怖いんだよ」
アキラの指摘に、ニヤリと悪い笑顔をして見せる。
「ちょっとまて」
明実の白衣の裾を引っ張って、ヒカルが二人の会話に入り込んだ。
「これには手芸部の毛糸(赤色)二〇玉ってあるが、こんなの他で必要とするか?」
「だからさ」
振り返って明実は芝居がかって両手を広げた。
「すべてをウチが管理するなら、それは予算の統合だ。あくまでも共同購入に絞って受け付けなければならない。そういう部活ごとに単独購入して欲しい物は弾いて、同じ品目だけを抜き出してほしい。それに、もしかしたらどこかの部活が実験用に毛糸を求めているかもしれない」
「これさあ」
事務机に頬杖をついたアキラは、手にした書類を眺めながらグチを言うように口を開いた。
「コンピューターでもないと、まとまらんぜ」
アキラの前に液晶ディスプレイが置いてあることはあるのだが、悲しいかなそれだけである。こんな生徒たちから忘れられたような倉庫に、貴重なコンピューターが放り込んであるわけもなかった。
「もちろん、それも用意してある」
ニヤリと言われるのを待っていたように片頬だけで笑うと、明実は入り口の方へ半分振り返った。
「数理研究会に協力を求めてある」
明実のセリフと共に、制服に腰道具を巻いた眼鏡姿の少年が二人、部屋に入って来た。
「おじゃましまーす」
背の高い方の眼鏡が、肩に通していた脚立を床におろした。
後ろでケーブルの束を同じように肩に通していた背の低い方の眼鏡は、ピョコンと頭を下げただけだ。
「eスポーツ研究会なんかにも頼んでみたんだが、ハードに関する工事は数理研だと言われてなあ」
「じゃ、さっそく工事に入るね」
背の高い方がざっと天井を見回すと、部屋の端に天井裏を点検するための点検口を見つけ、その下に持ってきた脚立を立てた。
背の低い方が、黙って束をクルクル回してケーブルを解き始める。
腰道具からマイナスドライバーを抜いた背の高い方が、それで点検口を開くと、身軽にも天井裏へと潜り込んでいく。それを笑顔で見送った明美は、二人に視線を戻した。
「ゲーム研究会からは、使わなくなったノートパソコンが後で届けられる予定だ。それで情報処理は早くできるだろ」
「ネットにも繋ぐのか?」
「そらそうだろ。このご時世、独立させたシステムじゃ不便だろ?」
「それって、やはり学内のサーバーなのか?」
ヒカルが興味深そうに訊ねた。
「もちろんそうだ。別のサーバーに繋ぐなんていう予算の余裕は一切ない」
機械と言えば銃しか扱っていないイメージのヒカルが、興味を持ったことが意外だったのか、明実はわざわざ振り返ってこたえた。
「学園のウイルス対策は?」
「基本はノートソ先生だ。他に、定期的に二つの専門業者がチェックに入り、不定期に国内大学同士のネットワーク機構NUKEがチェックしている。こいつは自衛隊の情報二課や、警察庁のサイバーフォース、他にもCCCからNISC、NICTなんかと合同した国の機関だから、大抵のウイルスは排除されているはずだ」
「自前じゃやらないのか?」
「我々は学校であり研究機関だ。その目的は学究にあり、ウイルス対策にかかりきりになるわけにはいかない。餅は餅屋ということで、専門の業者が一番頼りになる。とはいえ、たまに学内で詳しい者が独自でチェックしているようだが」
「なるほど。信用できそうだ」
「おいおい」
半分馬鹿にしたようにアキラが口を挟んだ。
「たかが高校の文化部の予算を、どこがハッキングするっていうんだよ」
「いや、まあ」
ヒカルが自分の頬を撫でながら窓の外へ視線を逃がした。
「なんかヤバめの物を持ち込もうっていうのか?」
アキラの問いに舌打ちだけが返って来た。どうやら図星だったようだ。
「そのヤバめの物って、コレか?」
明実は何でもないように、白衣のポケットから二つに折った茶封筒を取り出した。
「頼んだ覚えのない郵便物が、オイラ宛てに研究室へ届いておっての」
「よこせ」
ヒカルが険しい顔になって手を出した。その届く範囲から茶封筒を引いた明実は、イタズラ気な顔になって、それと彼女の顔を見比べた。
「渡すのはいいが、中身を訪ねても?」
「たぶんUSBが入っている。おまえが持っていても価値が無い物だよ」
「そのメモリの中身は?」
気に入らないというように明実の片方の眉が額の方へ上がった。
ムスッと唇を尖らせたヒカルは、言いにくそうな態度で、工事中の数理研の二人の背中を、視線で指差した。
それで分かったのか、分からなかったのか、ゆっくりと茶封筒の高度を下げる明実。ヒカルは自分の手が届く高さになったところで、それを彼からかっさらった。
バッと封を切り、中身を確認する。封筒の中からは、さらにビニール製のパウチがされているUSBが出てきた。パウチには八センチ程の小さな光学ディスクと、クレジットカードみたいなプラスチック製のカード、それと取扱説明書らしき英字の紙切れが一枚同封されているようだ。
「通信ソフトだよ」
ビニール越しに中身を確認したヒカルが、あっさりと言った。ただ、彼女が扱う物であるから、おそらく裏の事情があるようだ。
「いいのかよ、そんな怪しい物」
アキラが信用できない目つきでUSBを睨みつけた。
「ヒカルはオイラたちを守るために、あれだけ身体を張ってくれたんだ。これもオイラたちを守る一手なのだろ」
「ま、まあな」
らしくなく声を詰まらせたヒカルは、パウチされたままUSBを制服のポケットに落とし込んだ。
「できたぞ」
その時、上から声がした。
三人して振り返ると、脚立の上に座り込んだ数理研の背の高い方が、手からLANケーブルをたらしていた。その先をプラプラさせながら訊いてきた。
「ルーターはどこかに固定するか?」
「Wi-Fiじゃないのかよ」
「オイラは、あれを好かん」
ヒカルの言葉を明実が一刀両断にする。
「とりあえず、そこから垂らしておいてくれればOK。あとはこちらでやる」
「了解」
最後の仕上げとばかりに、天井の点検口を閉めて脚立を降りてきた。LANケーブルは、いつの間に工事したのか、そこから一番近い壁際にぶる下がっていた。
「じゃ、なんかあったら、また」
その間にさっさと片付けていた背の低い方が、まとめた荷物を持って先に出て行った。
「その時はよろしく」
明実はニコニコ顔で手を振って見送る。その二つの背姿が見えなくなってから、ふとアキラは気が付いた。
「いまの、もしかして二年生じゃないのか?」
「もしかしなくても二年生だが?」
年長者への配慮なんて物を気にしていない声で明実が言う。
「うわああ」
「?」
頭を抱えて悲鳴のような声を上げるアキラに、こちらも学生生活から遠ざかっていて、そういったことは気にしないようになっていたらしいヒカルが不思議そうな顔をした。
「大丈夫だ。あとでちゃんと礼はするぞ」
「にしたって、言葉遣いとか!」
自信たっぷりに腕を組んでいる明実に、アキラが青くなった顔を向けた。
「いや、オイラはこんな面だし、こんな言葉遣いだから、かえって敬語を使うと変な顔をされてなあ」
中学生の時から大人の間で仕事をしてきた明実である。そういった呼吸のようなものはすでに身についているようだ。それに混血ということもあり、顔立ちは日本人離れしていた。確かに、これで見事な敬語を使われる方が、違和感があった。
「口の利き方に気をつけろって怒られないか?」
「大丈夫のようだが?」
アキラはハアとため息をついた。目の前のヒカルに至っては「そんなことを、あたしに抜かす奴がいたら、はったおす」という顔をしていた。
その時、その雰囲気を和らげるようなタイミングで、開けっ放しの扉がノックされた。
「いいかな?」
三人して振り返ると、そこに今度はボロボロの道着を着た少年が立っていた。
「?」
高校の校舎で出くわすには、あまりにも異質な格好なのでアキラが目を丸くしていると、その視界の端で、ヒカルが右手をスカートのあたりへ伸ばすのが目に入った。
「ゲーム研の谷崎さんから、科学部に届けてくれって言われたノーパソ持って来たんだけど」
向こうも、背の高い混血の両脇に美少女二人という絵面に違和感を持っているのか、だいぶ腰の引けた声で訊ねてきた。
明実が堂々と一歩前に出て腕を組んだ。
「オイラが科学部総帥、御門明実である」
「あ、ども」
道着姿の少年はペコリと頭を一回下げると、脇に抱えてきたノートパソコンを差し出した。
「谷崎さんに頼まれたモノです」
「ありがとう」
受け取った流れで事務机に置きつつ、明実はお使いの少年に訊ねた。
「キミは、いつもそんな恰好を?」
「いや、これから日本拳法に行かなきゃいけないから」
「ああ、兼部?」
「ええ。じゃ、いいかな?」
もうちょっと女の子と話していたかったとばかりに、未練の視線を二人に送りながら、その少年は扉を右へ出て行った。日本拳法と言っていたから、渡り廊下から格技棟の方へ行くのだろう。
中古どころか、数世代前のノートパソコンを事務机におろした明実は、ニヤリと悪役の様に嗤った。
「それでは、取り掛かってもらおうか、諸君」
つづく