✞ Ⅰ. 最期の筆跡
やけに気持ちの良い朝だった。夏だって言うのにやけに涼しいし、やけに静かだし。この頃蝉の鳴き声で目が覚めてたって言うのに、今日はそれも全くと言って良い程聞こえてこない。遠くの方でちょっと鳴いてるけど。
目覚まし代わりの蝉が鳴いてないって言うのに、寝坊しなかったのも奇跡だ。低血圧で朝は天敵な私が、こんなにすっきりとした目覚めを体験出来るなんて思ってもみなかった。と言うか、朝ってこんなに気持ち良かったんだね。
朝ご飯を食べたのも何日ぶりだろう。この頃暑さと女の子に一ヶ月に一回のペースで訪れる死の一週間とでなかなか寝付けない日が多かったから、ギリギリまで寝てて朝ご飯をろくに食べてなかったんだよね。おかげで貧血気味だし、イライラ収まらないしで最悪だったもん。
でも今日はそんなのぜーんぶ吹き飛んじゃって、本当に気分が良い!!
ああ、もしかしたら、ここは昨日までの世界じゃないのかもしれない。もしかしたら、異世界にトリップしちゃったのかな。だとしたら、何不自由なく、快適に日々を過ごせる素晴らしい世界だと良いな。ううん、きっとそうだわ、だってもう既にこんなに素晴らしいんだから!
あー、幸せ。
そう呟きながら洗面所の鏡を覗いてみると、そこには真っ黒な瞳の私が、口をジェリービーンズみたいな形にしながら薄ら笑いしていた。
今日日が昇ってから、まだ誰も通っていないであろう道を、ちょっと色褪せてきたローファーで駆け抜ける。今日初めてここを踏んだのは私なんだよ、コンクリートの道くん。帰りも通ってあげるから、お願いだから熱を反射しないでね。
何だかどこぞの国の王様になった気分だった。毎日通り飽きてるこの道が、私だけの特別な道になったみたいだ。
普段は憂鬱な通学路も、今日はまるで花の迷路。くすんで見える灰色だらけの道は、鮮やかなピンクや水色、紫、黄色や白の花で溢れ返っている。
どうしてこんなに素敵な気分なんだろう! 私何かしたかな。何かご褒美貰えるような事したっけ。
ううん、きっと見返りを期待しないで何かをしたから、ご褒美を貰えたんだわ。神様なんてクソくらえって思ってたけど、本当は良い人なのかもね。
うふふっ、この幸せ、中川さんにも分けてあげたいな。
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まだ誰も居ないひっそりとした校庭を歩く。いつも通りなのはここだけかな。でもまあ、誰よりも早く学校に来るのは、結構好きなんだよね。
誰も居ない学校は、私達だけの世界だから。
今日も、タイムリミットが来るまでの数分間が何分なのかは、まだ分からないけど。
下駄箱で上履きに履き替えて、薄暗い階段を駆け上がって、教室の前に立った。電気はまだ点いていないみたいで、薄暗い。
……あれ、まだ来てないのかな。おかしいな、いつもは私よりも早く来て、その日ある授業の予習をしてるのに。
まあ、そんな日もあるよね。私だって今日は珍しく絶好調だし。
そう自分を納得させて、ドアを開けた。
「――――?」
私はその光景を目にして、目を見張った。
「なんで」
目の前、って言う程の距離でもないけど、そこには天井からぶら下がった二本の棒が揺れていた。
本当に微かに。よく目を凝らさないと揺れている事は分からないくらいだった。
あれ? もしかしてこの棒、脚?
細くて、白い。脚に見える。
そこから視線を真下に移すと、薄汚れた上履きがそっぽを向き合いながら落ちている。再び視線を上にやると、その脚は靴下を履いていなかった。
……ざわざわざわ。胸の辺りで蝉が鳴いた。
朝、聞かなかった分の蝉の大合唱が、今頃やって来たんだ。
さっきまでの天国のような気分から、一気に地に突き落とされたような感覚だった。
ざわつく胸を両手で抑えながら、足首で止まった視線を更に上に持っていく。すると、そこには思った通りの顔があった。
毎日見ていて、いつでも思い出せるくらい覚えてる顔の筈なのに、ここにあるその顔は、まるで別の誰かみたいに見えた。
「中川さん……」
私は、その名前を無意識に呟いた。
なんで?
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?
なんで?
「死んだって、逃げられる訳じゃないんだよ?」
口角が無様に吊り下がった上下の唇の隙間から不意に零れた言葉と一緒に、涙がぶわっと溢れてきた。
体に力が入らなくて、上半身を折り曲げながら、泣いた。
声なんて押し殺せる筈がない。私はとにかく、お腹の底を絞るように、声を張り上げて泣き叫んだ。
中川さんの死体なんて、見たくないよ!
どうして中川さんがこんな目に遭わなきゃいけないの!? どうして私はあんなに幸せな気分になってたのに、その間、中川さんはこんな風になっちゃってたの?
酷い。あんまりだ。やっぱり神様なんか最低のゴミクズ野郎だ。死ね。死ね。殺してやる。人が感じ得る全ての痛みを味わわせてから、死ぬ直前まで追い詰めて、一生死に際で苦しみながら生きていけ、ふざけんな、害虫、死ね、死ね、死ね!!
実在するかどうかも分からない神様に向けて、私は私が持ち合わせている語彙力を最大限に駆使して悪口を言ってやった。
そう思いながら涙で霞んだ床を睨んでいたら、近くに白くぼやける何かがあった。あ、あれは――紙切れ?
「遺書?」
その紙切れには、細い細い書体で、白井さんへ、って書いてあった。
私に?
それを拾って、半分に折り曲げてあるそれを開けてみる。
そこには、小さな小さな几帳面な文字の列がずらりと並んでいた。
いつもと変わらない、彼女の字で。
『白井さんへ。
伝えたいことがたくさんあるけど、
本当に伝えたいことを厳選して書きます。
まず、私と友達でいてくれてありがとう。
私がいじめられてからも、ずっと仲良く
してくれたのは、白井さんだけだよ。
それから私が死んでも悲しまないで。
白井さんを悲しませるために死んだんじゃ
ないから。
それから、何度も励ましてくれたよね。
私は死にたいんじゃなくて、
今の状況から抜け出したいだけだとか、
他人が喜ぶから死ぬとか、他人が悲しむから
死ぬのを我慢するとかじゃなくて、
自分のために生きるか死ぬか決めろって。
私、その言葉があったから、今まで生きてこれた。
でも、もう限界になっちゃった。
状況は変わらないし、今の状況から抜け出せるなら
何でもいいの。
だから、さようなら。
その文字が、じんわりとぼやけた。ぽたぽた、と涙が零れた。
私の涙が、中川さんが一所懸命書いた文字を滲ませた。
よく見たら、乾いているのにところどころ濡れたような跡があった。
中川さんも、泣きながら書いたのかもしれない。
強く、生きて。』
手紙は、それで終わった。
しばらくの間、静寂が訪れた。
中川さんが私の為に書いてくれた最後の言葉を、硬いものを噛む時みたいに、ぐっと噛み締めた。
喉の奥が詰まったように痛くなる。我慢していた声を、一気に押し出しながら泣いた。
泣き声を上げながら、中川さんを見上げる。
中川さんの白く綺麗な頬には、赤い線が何本もあった。
……涙の跡。
死ぬ直前まで、泣いてたんだ。
そうだ、私は中川さんに寄り添っているつもりでいたけど、実際に彼女がどれだけ苦しんでいたのかなんて、ちゃんと考えられていなかった。
『もう限界になっちゃった』
の文字が目に入る。
もしかしたら、私の言葉も――中川さんを、苦しめていたのかもしれない。
ぎゅっと手を握り締めた。何日も切っていなくて伸び切った爪が、手のひらの肉に食い込む。
その手で、目を強く、強く擦った。
泣いてなんかいられない。泣いてる場合なんかじゃない。中川さんは、今の私の何億倍も苦しんで死んだんだ。意識がなくなる直前まで、心臓が止まる直前まで。
だけど、私は生きてる。生きてるから、中川さんが出来なくなった事だって、出来るんだから。
――罪滅ぼしだと言われたらそれまでだけど。
私に出来る事と言ったら、もうこれしかないの。
中川さんの苦しみ、全部……
“あいつら”に、返してやろう。