第00話
ここは絵本の世界、不思議の国.
星が手に届きそうな夜の出来事です.
王立魔導図書館地下99階の最奥.
準1級危険物封印書庫から、1羽の白いウサギの手によって、1冊の絵本が盗まれました.
それは『黒い絵本』と呼ばれる、世界に悪い影響を及ぼしたと言われる書物です.
『黒い絵本』は禁書に指定されていますが、しかしその絶大な影響力は、他の正しい物語を生み出す基礎にもなっていました.
もし黒い絵本が世の中に浸透してしまうと、絵本の世界は狂気に染まり、いつかは現世にも悪い影響を与えてしまうでしょう.
現存の物語も本質が変異し、新たな物語が作られなくなる恐れがあります.
事態を重く捉えた不思議の国の女王様は、1人の少女を呼びました.
少女は、名前をアリスといいます.
女王様はアリスに言いました.
「シロウサギを追いかけなさい」
女王の手足であるトランプ兵でもなく、シロウサギと関係の深い猫でもなく、『アリス』にシロウサギの追跡の命を与えた事は、この世界のこの国において重要な意味を持っていました.
「ーー物語を始めましょう」
その号令は、既存の物語を作り替えるということです.
絵本の世界そのものを変えてしまう事と同義でした.
慌ただしくなる城内で、アリスだけはその場から動かず、何かを言いたげに目を泳がしていましたが、しかし結局は何も言わずに、静かにその場を立ち去りました.
女王様には、アリスが言いたかった事が手に取るように分かっています.
分かっている上で、女王様はそれでもアリスに応えることはしませんでした.
行き場を亡くした言葉や想いの代わりに、女王様の口からはただただ細く長く、ゆっくりとゆっくりと溜め息が漏れ出ていきました.
ここは絵本の世界.
現実を基盤に、誰かの想いを歴史に証明するための世界.
恐らくは読者不在で誰も知り得ることのない、そんな物語が始まろうとしていました.