第三章 眷属 1.心象風景
その心象世界は、砂漠だった。
いいや、砂漠という言葉すら生ぬるい。
彼の心の中は、何かもが死んだ終わりの地だった。オアシスが存在する砂漠のような素晴らしい土地と、彼の何の意味も価値も持たないその世界を同一視することなどあってはならない。それは地球に対する冒涜というものだろう。
そこは不毛の地。
何も育たず、何も生まれず、何も進まない終わりの土地。
楽園どころか、人々が暮らす地球すらからも見放された不毛異郷。
何も生まないのだから、進化することも前に進むこともない。だから、何もかもが死に切ったその土地に生きる風鳴修人もまた変わることも進むこともない。永遠に停滞し続けることしかできない。
何もないのだから、歩くことに意味はない。オアシスはない。どこへ行こうと灰色に濁った死んだ土が待っているだけ。
頬を撫ぜる風は一秒ごとに生きた彼の皮膚を腐らせていく。
ここに生者はいない。世界から拒絶され、隔離され、否定された咎人だけがここにいる。
何もないこの心象風景が変わることは、きっとこの先永劫に来ないだろう。
彼の深層心理は死んでいる。彼の心象世界は破綻している。
故に当然、風鳴修人という少年もまた死んでいることも自明である。
死の世界でただ一人、遠くに見える楽園を死んだ目で見つめる背中は、今にも消えてしまいそうなほど空っぽだった。
☆ ☆ ☆
本日の朝食の献立は実にオーソドックスであった。
トーストが一枚と目玉焼き、それにウィンナー二本とベーコン三枚というラインナップだ。目玉焼きにはブラックペッパーが振りかけてあり、黄身は当然半熟。ウィンナーとベーコンにも特に目新しい要素は見えず、トーストも至って普通であった。
修人は少し手を抜きすぎたかな、と心配してクリスを見ていたが、
「ほほう、なるほどな。ウィンナー一つをとっても焼き加減がとても良い。これほど簡易な料理であろうとも満足感は変わらない。さすがだな、美味い」
「そうか、それは良かった」
どうやら好評だったようだ。
クリスの評価に満足したのか、修人は自分の朝食を平らげると、リビングに無造作に置いてあったカバンを手に取った。スカスカの手提げカバンには何も入っていないが、教科書やノートの類は全て学校に置いてあるので問題ない。
制服に着替えて適当に寝癖を直すと、まだダイニングで朝食を堪能しているクリスに一声かけて行った。
「じゃあクリス、ちょっと学校行ってくるから留守番頼む。誰か来てもドア開けるなよ」
「は?」
「じゃあ行ってきまーす」
「いや待たんかいコラーッっ!」
「ぐげぼぉっ!」
幼女キックが高校生男子の腰を強かに打ち据えた。
「お前アホかッ? アホなのかッッ!? 昨日何があった! おい、こらてめえコラ! 昨日の夜なにがあったんだよ、えぇッ!? 一人で外で歩いて死にかけたんだろうが! だというのに、懲りずにまた一人でどこかへ行こうとしてるのか? お前は学習能力のない畜生か! 猿とかチンパンジー以下か!」
「い、あぅ……こ、こし……歩けねえ」
「学習せずアホみたいに外ほっつき歩くくらいなら、歩けないようになった方が百倍ましだ!」
「で、でも学校行けって言われたしよ……助けてくれた神父さんの頼みを断るわけには……」
「だからって一人で行くやつがあるか! 学校とやらがどんな場所かは知らんが、どうせ帰るのは夕方になるんだろうが。お前の場合どこかで寄り道でもして、どうせランプが消えるまで帰らないに決まっている」
「た、確かに……。で、でも学校……」
「……はあ」
頑なに言って聞かない修人。彼を外に出すのは危険だ。犯人に顔を見られているし、人助けとあれば目の色を変えて飛び出す悪癖もある。
だが、修人はこう見えて頑固である。ここ二日で分かったことだが、彼の狂い方はその強固な頑固さからも来ているように思える。
よって、折れるのならば最初からクリスでしかありえなかった。
「分かった、分かったよ……行きたいなら行けば良い。どうせ言っても聞かんのだろう?」
「ほんとか?」
「ああ、ただし――」
そこで一度言葉を切って、クリスはずいと修人に顔を寄せた。
「私も一緒に連れて行くこと。それが条件だ」
「は……?」
間の抜けた声が、少年の喉から漏れた。
☆ ☆ ☆
「付いて行くってそういうことか」
『そうだ、驚いたか? 吸血鬼はこういうことも出来るんだぞ?』
愛用の自転車をたった一人でこぎながら、修人はここにはいない誰かに話していた。
『ふふん、吸血鬼は夜の生き物であると同時に影の生き物でもあるからな。私たちは鏡には映らんし、写真に写るには本気を出さなければならんのだが――』
「本気を出したら映るんだ」
『その代わり、こうやって許可してくれた人間の影に入ることが出来る。ちょうど今、私がお前の影の中で遊んでいるようにな』
「なるほどな……ただ変な感じだけどな。自分の影の中に謎の幼女がいるってのは」
『おい興奮するな』
「してない」
『お、おオオオオオオオオオオオッッ!? ☆5キタァア! 新鯖引いたぞ!』
「ほんとか? ていうか石そんなにあったか?」
『ああ、財布に三万入ってたから課金して石増やした』
「何してんねんッッ! それ生活費やぞッッ!」
『何だその突然の訛りは。それがカンサイベンというやつか?』
「冗談言ってる場合かよ! 別に俺は今のピックアップ引こうとも思ってなかったのに!」
『まあまあ、そう喚くな。いざとなれば神父に金を恵んでもらえばいい。聖職者なんだから』
「その神父さんへの過度な期待は何なんだ!?」
修人の家から学校までの道はさして複雑ではない。自転車で二分ほど進むと川沿いに作られた大通りに出る。それを南へ下って行けば二十分ほどで辿り着いてしまう距離だ。
いつもはイヤホンをして死んだ目つきで自転車を漕いでいるのだが、今日はクリスと会話をしながらの通学だ。とはいえクリスは現在修人の影の中で彼のスマホにあるソシャゲで遊んでいるため、端から見れば修人が一人で虚空へと話しかけているようにも見えるだろう。もはや病気だ。
昨夜から降り始めた雪はやむ気配がない。見上げればいつも見える夜空も、今は分厚い雲に遮られてしまっている。
降り積もった雪の上を、細い轍を作りながら自転車で進んで行く。転ばないように速度だけは気を付けてママチャリを走らせながら、彼はぼうーっと街の景色を眺めた。
地面は凍っていて、しんしんと落ちてくる雪は少しずつだが確実にその高さを増していく。車道を車が安全に走れるよう早朝に除雪作業をしたはずだろうが、午前八時過ぎの今の時点で既に轍を除いてアスファルトの黒色は見えない。
疑似日光を放つランプも天気に合わせてその輝きを曇らせており、全体的に寂しげな雰囲気を与えてくる。
「むぅ、もう石がない」
「いや、もう引いたからいいだろ。これ以上やると飯がなくなる」
「その時は血を貰うから大丈夫だ」
「血は吸われるけど飯は食えないって、それもう俺死ぬよな」
「まあそう言うな」
そうしている内に彼が通う西條高校が見えてきた。実は地元では有名な名門校であり、ここに通う修人は頭が良かったりする。
校門が近付くにつれクリスとの会話を減らして良き、駐輪場に自転車を止めるころには完全に無視していた。
『おいおいおいおい、無視するなしゅうと。私は真祖だぞ。無視するなー。返事しろー』
しきりに話しかけてくるが、頑なに無視する。というか、これは絶対わざとだ。修人が学校の中で『目に見えない友達』と喋るという状況を作るためにあえてうざ絡みをしているのだ。
クリスの誘惑を無視して教室へと向かった。
そうして、教室の扉の前で立ち止まる。ゆっくりと深呼吸をして、覚悟を決めた。
『どうした?』
「別に」
校舎内に入ってから初めて返事を返した。それから扉に手を掛けて、自然にスライドさせた。
そうして、教室の中に入る。
しんっ……と。修人が教室に入った瞬間、クラスメイト達が一斉に修人へ視線を注いで、そのまま黙ってしまった。
敵意も害意もない、ただの視線だ。だが、ある少女がこんなことを言った。
――あ、今日は来たんだ。
その一言で、クリスは修人がクラスでどんな立ち位置にいるかを理解した。
修人にも聞こえていたはず。だが彼はそれを無視して教室の窓際の一番後ろの席に座った。
そうして、寝たふりをすることもせず教室を遠くから俯瞰するように眺める。まるで、どこか遠い世界を見ているかのように、テレビの向こうの外国を見ているかのように。現実を見ているという目ではなかった。
こんな状況になった原因は、修人にある。ただ彼はそれを、後悔などしていない。
風鳴修人は隔離されている。この世界から弾き出されていて、誰もが当たり前に手を繋いで作った輪の中に、彼だけは入っていない。その輪を、遠くから見ていることしかできない。彼らとは、全く違う場所で生きている。
いいや、そもそも生きてすらいないのかもしれない。このように全てから疎外された彼が、何も望まずただ狂ったように人助けをするだけの人生が、生きていると言えるだろうか。
『無駄なことを聞くが……いいのか、あの輪の中に入らなくて』
「…………うん」
きっぱりと言い切った彼の声は、震えていなかった。
それから授業が始まるまでずっと、教室の端から明るく優しい世界をたった独りで眺めていた。
☆ ☆ ☆
名門私立校ということもあり、授業のレベルは高い。が、修人は勉強が得意なため、特に苦労することもなくすらすらとノートに板書を書き記していく。板書に追われずしっかりと内容も理解している。この調子ならば次のテストも問題ないだろう。
午前の授業が滞りなく終わり、昼休み。修人は作ってきた弁当を手に取ると一旦机の上に置いた。
手を洗おうと席を立ちトイレに向かう。その間、クリスは何も話さなかった。同情しているのかと最初は思ったのだが、時折話しかけてくる感触から少し違うようにも感じた。
どちらかと言うと、彼女自身が落ち込んでいるような……。
とはいえ彼女の過去をさわり程度しか知らない修人が何を言っても彼女の心には何も響くものがないことは分かっている。これまでは軽口を言い合ったりして適当なやり取りをしていた二人の間に、今は嫌な沈黙が流れていった。
そんな時のことだった。
「あ、いたいた。どうも、二日ぶりですね、先輩」
正面から白い幻想的な少女が歩み寄ってきた。天使のように純白で編まれた儚げな少女。髪といい肌といいどこまでも穢れのない美しい白の少女だ。身長と胸部が残念なことになっているが、それを補って余りあるほどの神性さがあった。
天川白奈。
この学校で唯一修人に絡んでくる少女である。彼女は抑揚のない声であまり表情を変えないまま、しかし確かに怒ったような表情で言葉を重ねてくる。
「どうして昨日は学校を休んだんですか? 無断欠席は不良のやることですよ」
「ああ、まあ昨日は色々あってな。退院直後っていうのもあって弛んでたかもしれない」
「しれない、じゃなくて弛んでるんですよそれは。先輩は本当に世話が焼けますね。さあ、お弁当を持ってきてください」
「え、は……? なんで?」
「何でって……」
白奈は呆れたように息を吐くと、
「先輩また一人で昼食を食べるつもりでしょう? さすがに花の高校生活がそれでは可哀想なので私が一緒に食べてあげます」
「ああー」
それを聞いて、修人はどう断ろうか迷った。普段ならば断わっていない申し入れだが、今日はクリスと屋上で昼食をとる約束をしている。とはいえ、修人のことを思っての提案であることは分かっているため無下にすることもできない。というか断りづらい。
ただ、彼女が現れてから息遣い一つ修人に気取らせないクリスもまた気になる。
「……? 何を迷っているんですか。よく分からない人ですね……はい、では行きますよ。お弁当を持っていないようですし、教室まで付いて行ってあげましょう」
そう言って白奈が修人の手を掴んだ瞬間のことだった。
『わかっているよな? しゅうーと』
低くドスの利いた声が修人の鼓膜を震わせると同時、影から伸びた手で右足の小指を力の限り殴られた。
「――ッ! ……!? !? ぁッッ、っ!?」
「え、急に変な声を出してどうしたんですか……怖いんですけど。どこか悪いんですか? 熱とかあるのでは。まだ退院して二日ですしね。そう考えれば体調を崩していてもおかしくは……」
そう言って、小指の痛みを必死に我慢する修人の額へその透き通るような手のひらを当てた。
『――――ふんっ』
「――――ッッ! ッっ!? ッっッッ、!」
脛にスマホの角を力の限りぶつけられた。
「ああ、ぁぐ……す、すまん……き、気持ちは嬉しい、け、ど……その、えっと……今日は一人で食べたい気分だから」
「そう、ですか。それは残念です。なら今日はやめておきましょう。また別の機会に」
「あ、ああまた今度一緒に食べ――、ッっ!?」
「……? 今日はいつにも増して意味不明ですね。では私はこれで」
「ああ……」
そう言うと、白奈はぺこりと一礼して去ってしまった。
少女の背中が見えなくなった頃になってようやく、修人は自分の影を恨めしそうに見る。
「お、」
『だれだ』
「え?」
しかし、修人が声を掛けるよりも早く、金髪の幼女が影から目が見える程度だけ頭を出して半眼で修人を睨んだ。
「さっきの白髪は誰だと言っている」
「後輩だ。それよりも、」
「ずいぶん仲が良かったな」
「え、いや、そうか?」
目だけを出して文句を垂れるクリスの姿は、お風呂に口まで浸かってぶくぶくと喋る子供のようにも見えた。
「別にただの後輩だよ。俺が一人なのを気遣って話しかけたりはしてくれるけど」
「本当だな」
「え? ああ、本当だ」
「そうか」
そう言うと、金髪の幼女は影の中へと入っていく。修人には何が何なのかさっぱり分からず、とりあえず弁当を取りに行くことにした。
廊下を一人で歩いて、本来は解放されていない屋上へ向かう。修人のクラスがある校舎には、唯一鍵が壊れている屋上への扉があるのだ。
冬の冷たい風を全身に受け肩を抱きながら震えて歩き、彼は風が凌げる場所に腰を下ろした。
「いいぞ、クリス」
『む、遅かったな』
少し不満そうな声と共に影から飛び出してくるクリス。その右手には修人手製の弁当箱が掴まれている。
二メートルほど跳んだ少女は華麗に着地すると、修人の隣で胡坐をかいた。
「ちめたっ」
「大丈夫か?」
「む……あまり座り心地が良くないな。しりが冷たくてかなわん。おいしゅうと」
「うん?」
先に弁当を箸でつついていた修人に声を掛けると、自然な調子で彼の胡坐の上に腰を下ろし、すっぽりと収まってしまった。
「うむ、満足だ」
「いや満足じゃない。どいて」
「断る。ここは座り心地が良い」
修人の胸を背もたれにしたクリスは、さらに上を向いて修人の顔を意地悪な笑みで見上げた。クリスの赤い目と修人の平凡な黒い瞳が交わる。
「どいてほしくばさらに課金させろ」
「じゃあどかなくていい」
適当に返し、食べにくそうに食事を再開する修人。
その顔をしばらく見ながら、クリスは一度表情を真面目なものに変えると口を開いた。
「なあしゅうと」
「うん?」
「私は諦めているように見えるか?」
「え?」
それは、全く意味の分からない質問だった。抽象的すぎて意味が分からないし、なぜそんな質問をしようとしたのかも推測できない。
ただ、こちらを見上げるクリスの瞳を見れば、それが揶揄いや思い付きでないことはすぐに分かった。
「昔ある男に……いいや、隠す必要もないな。オルガに言われたんだ。私は諦めていると。自分の道を閉ざしていると」
「…………っ」
何となくだが、修人にはオルガの言いたいことが分かった。
クリスティア=アイアンメイデンという少女は、どこか一歩引いたような印象を与えてくる。何事にも冷淡な笑みを向け、まるで達観したように自分のことは語らない。
最初に自分を悪く見せたことからも分かる。
彼女は、諦めている。
救われることを、諦めている。
千年を生きる真祖の半生がどんなものだったのかなど、所詮想像の範疇でしか測れず、その時にクリスがどんな思いをしたのかなど分かるはずもない。分かってはならない。
「ただな、私は別に諦めたわけではないんだ。それは、ただ私の答えを見つけたという話だったんだ」
「――――」
それは、確かに彼女にとっては諦めではないのかもしれない。彼女にとっての譲れない信念や何かで、それはきちんとした答えだったのだろう。
だけど。
ただクリスがそう信じたいだけだったのだとしたらどうだろうか。
だとすればそれは――彼女が出した答えは、諦め以外の何物でもないかもしれない。
「そう、思っていた。……だが、しゅうと。私は……私はお前を見ていると不安になるんだ。お前のその態度や目を見ていると……」
いいや、きっと、彼女は諦めている。
そう――――こんな場所で北風に身を凍えさせる風鳴修人と同じく。
修人がクリスと波長が合っていたのは、つまりはそういうことだろう。
似ていたから。同じだったから。
諦めた者同士、救いも求めずふらふらと浮浪する者同士、息が合った。
――本当にそうか?
――本当に、同じか?
だけど、心の中から誰かがそんな声を投げてきた。彼の心の風景、心象世界の中――草木も水も、澄んだ空気すらない乾き切った不毛の地で、ぼろぼろに擦り切れた残滓のような存在感しか持たない修人と同じ姿をした誰かが、背後からそう問う。
――お前はまだ、醜悪にも、あの優しい世界にしがみ付こうとしていないか?
「俺は、クリスの事をあまり知らないから分からない。けど……」
「…………」
「少なくとも、クリスは俺を助けてくれたり心配したりしてくれるくらい、優しいとは思う」
それはまるで、拒絶をしているかのような声音だった。クリスはそれにショックを受けることもなく、「そうか」とだけ返した。
「俺からも一ついいか?」
「なんだ」
「お前、オルガ=ディソルバートの選択を聞いてどう思ったんだ」
「…………ノーコメントだ。私は良い女だからな、昔から良い男に好かれるんだよ」
「そうか」
それだけで、修人は全部を察した。
きっと、クリスの|答え(諦め)と、オルガの|諦め(答え)は相容れないモノなのだろう。修人とオルガの道が離れていくように、クリスとオルガの道は平行線のまま、交わることはないのかもしれない。
「しゅうとはどうだ? オルガと仲良くできたりするのか?」
「そんなわけないだろ。あいつとは相容れない。あいつの考え方は気に食わない。何かを助けるのに殺すなんて方法を取ることは間違ってる。それこそ諦めだ。あいつは、正しくなんかない。だから俺は、あいつをもう一回……いや、何回だってぶん殴る。そしてクリスを守る」
「――――っ、そ、そうか……」
「うん? どうしたんだよ。ていうか顔が赤くないか?」
「ふん、ちょっと暑かっただけだ」
「この気温でか」
「この気温でだ」
そんな話をしている内に、二人とも弁当を食べ終わってしまった。寂しい話ばかりになってしまい残念だったが、それでも味は良かった。こんな寒い場所にいつまでもいる理由はないので、クリスは修人の影に入り、そして本人は教室へと向かった。
廊下は未だ慌ただしく、他クラスの女子がワイワイと騒いでいる。
学校という場所は若者たちの生きる場所だ。彼らは青春の大半をこの大きくて狭い施設の中で暮らす。それはつまり、この場所が様々な情報が集まる場所であることも示している。
だから、ただ歩いているだけで、こんな事も耳に入ってくるのだ。
「てかさー、あの協会ヤバくない?」
「分かるー。あの神父絶対妖しいって」
「てかさ、昨日あの辺で事件あったって噂マジ?」
「うっそ。でも死体見つかってなくない?」
「ああー……それがさ」
――――警察署からも消えたって噂だよ、死体。
速度を緩めず彼女たちの横を通り過ぎた修人は、遠ざかっていくその声から意識を外して、クリスに小さく尋ねた。
「どう思う」
『どうもこうもないだろう。あんな眉唾の噂を信じているのか? 聖職者があんな事件を起こして何の意味がある』
「だけど」
『意味などない。その可能性だけはないとだけ言っておこう』
「どうしてだよ」
『仮にあの神父が吸血鬼だったとして、吸血鬼が神職などやると思うのか? それも人の血を吸わねば毎日を生き抜くことすらできない脆弱な個体が。私のような上位吸血鬼だからこそ教会の中に簡単に入れたが、並みの奴なら聖堂どころか敷地に足を踏み入れた時点で苦悶の内に絶命する。事実私だって、力が封印された直後の弱り切った時に教会に入ったら死にかけたことがあったしな。ほら、前に言っただろう? 私がUKVのクソ共に嵌められて今みたいな雑魚になってしまったという話は』
「そういえば……」
『力を奪われ弱り切った状態ではあったが、それでも最高位の吸血鬼であるのは変わらん。それでも死にかけた。……教会という神が宿る場所は、それほどまでに私たち吸血鬼にとって毒なんだよ』
神に呪われた者であるとか、人の無意識が生み出した『人類の敵』であるとか、吸血鬼の起源についての説は様々存在するが、どれも共通して言えることは『神と人類の敵』であること。
故に彼らは教会や十字架では弱体化し、神の武具や聖の属性を帯びた聖遺物に傷付けられればその再生能力は著しく低下する。
『教会の中にいることに関しては百万歩譲ってまだいい。上位の吸血鬼ならば我慢はできる。辛くても耐えられるだろう。だが、聖遺物で付けられたかすり傷ですら凄まじい激痛を発するというのに、聖職者となればミサ中に様々な神具に触れるのだ。これはさすがに駄目だな』
例えば洗礼の儀式では神父は聖水を用いるし、ミサ中においては神の子の肉と血と定義されるパンとワインを信徒の前で体に取り入れる『聖餐』と呼ばれる儀式を行わなければならない。
神の敵たる吸血鬼が、仮とは言え神の子の体の一部をその身に取り込むなど、自殺行為だ。
「ならこの線は無しか?」
『無しだろうな。というかキャソックを身に着けている時点で既におかしいだろうよ』
呆れたような口調で結論を出すクリス。
『それに、あの神父とは私と出会う前から知り合いだったのだろう? ならば奴がそのような事をする者かどうかはお前が最も分かっているはずだ』
「それは、確かに……」
フェルミン神父は食えない所があるが、それでも善人だ。特別深い繋がりがあるわけでもないのに、こうして修人に学校へ行くよう促すなど世話を焼いてくれる。
「そうだな。確かにその通りだ」
『まあ、所詮はメスガキの戯言だ。そう重く捉えるな』
「若さへの嫉妬か」
『死ぬか?』
小さく軽口を叩きながら、修人は教室へと戻った。