第一章 どS幼女とお節介少年 1.ろりばばあ
昔から、人と違うということが嫌だった。
みんなの輪の中に入りたかった。
『普通』に憧れた。『平凡』を願った。『当たり前』に焦がれた。
だけど、風鳴修人はそんな自分がもっと大嫌いだった。そんな想いを心の奥底に溜めたまま人を助ける自分が気持ち悪かった。
そんな想いを持ちながらの人助けなど、人を利用して自らの欲求を満たすエゴでしかない。
どこまで醜いのだろう。
どれだけ汚れれば気が済むのだろう。
何かを守ったり助けたり救ったりするのに、見返りなんて求めてはいけないのに。
そんなこと、何回も何回も繰り返して言い聞かせてきたのに。
なのに、彼は止まれない。
今日も人のためだと自分に言い聞かせながら、意味もなく毎日を走り続けるしかできない。
☆ ☆ ☆
「先輩、ラッキースケベから入るラノベってどう思います?」
「突然何の話だ」
疑似日光を発するランプが街を照らす中、黒髪の少年と白髪の少女が暗い空の下を並んで歩いていた。
少年の方は長い髪を首の辺りでしばっており、寝癖直し程度にしか髪をセットしていない。顔立ちはよく優しげな雰囲気を持っているため異性にモテそうな印象であるが、少年自身は己にそこまで価値を置いていないのか、特段飾り立てようという意思も感じられない。
対して少女の方は浮世離れしていた。白い長髪はツーサイドアップにまとめられており、雪のように透き通っている。肌もまた神々しさすら感じさせるような白。感情をうかがわせない瞳の色は鮮やかなサファイアの青で、まるで吸い込まれてしまうかのような美しさであった。ただ、身長が145センチに届くかというレベルで低く、かつ胸が薄いうえに童顔であるため、あまり女性としての魅力は期待できない。
少年の名を風鳴修人。少女の名を天川白奈という。
「いえいえ、先輩的にラキスケってどうなのかなと思ってしまたんですよ。先輩キモオタですよね」
「違うが」
「けどそんな黒髪長髪キモ=オタクの先輩でも、やはりこだわりはあるでしょう? ほら、先輩、どんなラキスケが良いんですか?」
「……風呂かな」
「……………………キモっ」
「てめえコラ」
正午直後の腹がすく時間帯、二人は人工の光によって明るく照らされた大通りを、軽口を交わしながら歩いて行く。街の至る所に設置された人工太陽光街灯には毛ほどの興味も示さず、二人は下らない話を続けていく。
「では、なるほど。じゃあ今日先輩の家でお風呂に入りますね。覗いちゃだめですよ。襲ったりしたらもっと駄目です」
「いや来んなよ」
「そうですね。まあ、胸くらいなら」
「お前ほんと何の話してるの?」
「見てくださいこれ」
「なんでOK枕なんて持ってるんだよ」
「それよりも――」
下らない話もほどほどに、白奈は立ち止まると修人を半眼で睨んだ。
「先輩、何回入院すれば気が済むんですか。いい加減にしてください。毎日お見舞いする可愛い後輩の気持ちを考えたことはないんですか?」
白奈は修人よりも年齢が一つ下である。その薄い胸や童顔から小学生と間違われることもしばしばあるのだが、今回彼女がご立腹なのはそういう理由ではなかった。
感情を表情に出さないため分かりにくいが、彼女は意外にも短気なのである。
「先輩をお見舞いに来た時に看護師さんたちから『まあ、お兄ちゃんのお見舞いに来たの? 偉いわねえ』と頭を撫でられる高校生女子の気持ちを」
「知らんがな」
「まあそれは置いておきましょう。それよりも……入院のことです。まだあのことについて怒っていないですよね」
「うっ」
実を言うと、修人は大怪我を負って入院しており、今日は退院ということで白奈が手伝いに来ていたのだ。
「聞きましたよ。何でもイジメられてる下級生を守るために上級生五人に喧嘩を売ったんですよね」
「いやー……なんというか……」
「しかもその後輩、先輩が殴り合ってる間にとっとと逃げたらしいじゃないですか。それで助けに入った先輩だけは全身骨折? 馬鹿なんですか?」
「か、返す言葉もない……」
「先輩はもう少し自分の体を大切にしてください。本当にいつか命を落としますよ」
「はい……」
「分かればいいんですよ」
うな垂れる修人を見上げる白奈はそこでひとまず満足するも、心の中ではどうせ無駄だろうと考えていた。この少年は自分の身体を軽視し過ぎるきらいがある。人には『普通が一番』『平凡に暮らすべき』『当たり前な日常が大切だ』だとか何とか言っておきながら、その実彼が最もおかしい。
まるで強迫観念か何かに突き動かされるかのように自分の身を犠牲にして人助けをするさまは、いっそ狂人と言っても良いだろう。
「それにしても……今日も澄み渡るような黒空ですね」
「なんだよ黒空って。なにも澄み渡ってねえよ。むしろ墨をぶちまけたみたいな空だよ」
「おお、上手いじゃないですか先輩。座布団七億枚」
「宇宙まで届くわ」
「あの夜空の向こうまで行きましょうよ、座布団で」
「やかましいわ。なんも落ち着かねえよそんな高い座布団」
などと下らないやり取りを続けていく修人と白奈。
彼らが見上げる空は明けない夜だ。ただ、修人や白奈が歩く街の中は、まるで昼のように明るい。
それも全て、ビルの壁や街の道路に建てられた柱の先端、地面に埋め込まれ、あるいはふよふよと宙を浮く数多のランプが原因であろう。温かな光を放つその灯りは、魔術によって日光と非常に酷似した性質の光を放っており、二百年前から今日までの人々の日常と時間、そして精神を守り続けている。朝は鮮やかで始まりを告げるような金色、昼は街をしっかりと照らし、夕方になると哀愁を漂わせる橙色へと変わる。
このランプは選ばれた国だけに存在するというわけではなく世界各地に存在するらしい。強い国力を持った日本やアメリカを初めとした先進各国はもちろんのこと、科学力が大きく劣るアフリカ地域や、人の手が届かない大自然の只中にさえも存在しているらしく、その正体を暴こうとする熱心な研究者もいるようだ。
このランプが本当に太陽の光を放っているのかどうか、実際の所は修人にはさっぱり分からない。そもそも太陽の存在を知らない修人には判断できないのだ。
とはいえ最近の研究によると、あのランプが日光と酷似した光を放つという話は本当のようである。日常、時間、季節、心の安定……あのランプは、人々には欠かせないものだ。
昼のように明るい地上から見上げる空はいつも暗い。現時刻において星は見えないが、夜になると満点の星空へ様変わりする。
「先輩」
「ん? どうした?」
「どうですか最近……毎日は楽しいですか?」
「……どうだろうな。今は必死だから、楽しいとかそんなことを感じる暇はない、かな」
「そうですか……なら、いつか先輩が毎日を楽しいと思える日が来ると良いですね」
そう言って、白奈は淡く笑った。とても薄い笑みだったが、けれどそれは天使の笑みのようで、人の心に自然と力を注ぎこんでくれるような笑顔。
けれど、どこか寂しい冬の風が修人の頬を撫でて行った。
☆ ☆ ☆
その後白奈と別れた修人は、寄り道もせず真っ直ぐに家に帰った。途中でトラブルに巻き込まれることもなかったため怪我もせずに帰宅できたのは僥倖であろう。これで帰り道に怪我でもすれば、白奈がどんな顔をするか分からない。
五階建てのマンションに戻ってきた修人は、階段を使って四階まで上り、鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。
いつものように腕を右にひねり鍵を空けようとしたところで何か異変を感じた。
「…………」
音だ。何かを探しているかのような音。部屋の中にあるものをひっくり返している気配がドアの向こうから伝わってくる。
別に家の中に盗られて困るような物は置いていないため、放っておいても良い。だが、自分の家の中を漁られているのは良い気分ではないのも事実。
ただ、中に入れば命の危険があるかもしれない。
しばし考え、結局修人は部屋に入ることにした。
このまま放っておいて、他の住人の家にまで侵入するような事態は避けるべきだろう。それならばまだ修人一人が犠牲になる方がマシだ。
鍵を右に回しドアを開ける。侵入方法について考えるのは後回し。音を立てないようにゆっくりとドアを開けた。音は、台所の方から聞こえてくる。
「…………――」
音を立てぬようドアを閉め、靴を脱いでゆっくりと台所へと向かった。
廊下をまっすぐ進み、更に扉を開いてLDKへと入る。音はさらに大きくなった。右手にリビングがあり、左手にはダイニング。修人はドアを閉めず、ゆっくりとダイニングへと向かった。この部屋はリビングからダイニング、そしてキッチンへとL字を描くような間取りをしており、キッチンの壁に沿ってダイニングを進めば、中にいる人間に見つかることはない。
(なんで自分の家でスパイみたいな真似を……)
不満を漏らすも仕方がないだろう。これは生活を守る戦いなのだから。
キッチンの端まで辿り着く。音はすぐ近くから。ここまで来てようやく気付いたが、空き巣犯はどうやら冷蔵庫をひっくり返して食料を漁って……いや、食べているようであった。
試しに対面のベランダへ出る窓に犯人が映っていないか見たが、修人の角度からは分からなかった。
ゆっくりと息を吸い、
そして勢いよく飛び出す。
「おいこの空き巣野郎! 俺の家で何してやがる……って、え?」
だが、食材やら調理器具やらが盛大にぶちまけられたキッチンの中心に座っていたのは、金色の長髪とルビーのように鮮やかな赤の瞳を持つ端正な顔立ちをした幼女であった。
「……おや、お帰り貧乏人くん。というか帰って来たのなら話は早いな。ガキ、私に飯を恵め」
「…………え、」
「おい突っ立ってないで何か言え。何だ、冷蔵庫を漁られて怒ってるのか」
衝撃の展開が怒濤の如く押し寄せてきて冷静に状況を把握できない。いったい何があったのだろうか。なぜ修人は今昼食を作れと謎の幼女に命令されているのだろう。
「ああん? 聞こえてないのか? お前のその耳は節穴か? まあいい、ちょっと耳を貸せ。少し弄ってやる」
そう言って少女は近くに置いてあった包丁と串を手に取って修人のすぐ隣までやって来た。
「じゃ、まず耳を切るぞー」
「あ、ああ――じゃねえ! やめろ、やめろ馬鹿! 突然人の耳を切ろうとするなサイコパス!」
「ああ? 何だその言いがかりは。せっかくこの私手ずから神経手術をしてやろうというのに。こんなもんアレだぞ、いかがわしい店で耳掃除してもらうのと変わらんぞ。実質風俗だぞ」
「変わるわ! 男のロマンをなんだと思ってるんだ! 女の子の耳掃除にどれだけの夢と感動が詰まってるか分からないのかッ!? 本当にサイコパスだな!」
「うるさい。キモイから黙るか死ぬか死ぬか死ね。死ね」
立場的な観点からどう考えても修人の方が優位に立っているはずなのに、全てのペースが目の前の幼女に持っていかれてしまう。これはいったいどういうことだろうか。
修人は一旦深呼吸をして心を落ち着ける。あまりに想定外だったとはいえ、年端もいかぬ幼女の前で耳掃除のロマンを語ってどうする。……というよりも今、この幼女『風俗』とか言わなかったか?
謎の幼女は可愛らしい顔を軽蔑の一色で染めて修人を見ていた。その視線に心が折れそうになったが、何とか踏ん張った。深呼吸をして動揺を鎮める。咳ばらいを一つし、簡潔に尋ねる。
「で、君はどこの誰なんだい? お父さんとお母さんは?」
「今さら取り繕ってどうする耳かき魔人。あと子ども扱いするなよガキ。私はお前の百倍生きてる」
「嘘つくな」
「嘘じゃない」
「クソババア」
「あ?」
修人は黙った。
幼女に凄まれてタマを小さくする高校二年生風鳴修人は己の心の弱さを憎みつつも、諦めずに幼女とのコミュニケーションを図った。何を言っているのか分からないが、どちらにせよ彼女は子供。このまま放っておくわけにも、我を忘れて怒るわけにもいかないだろう。
「それで、君は? 本当に何で俺の家にいるんだ? 鍵閉まってたはずだけど、どうやって開けたの」
「窓から」
がつがつと生肉を次から次へと胃袋へと詰めていくかたわら、少女は面倒くさそうに片手の親指で部屋の端にある窓ガラスを差した。見れば、部屋中に硝子がまき散らされている。
「……バカ言うなよ。ここは五階だぞ」
「ああー……そっか、お前私を人間だと思ってるのか。すまんすまん、私吸血鬼だ。よろしく」
「は……?」
「だから私、吸血鬼。真祖。いちばん偉い、飯作れ」
☆ ☆ ☆
「作ってしまった……幼女、こわい……」
「幼女言うな」
「クソババア」
「殺すぞ」
幼女のドスに負けた風鳴修人は、結局小さな空き巣犯に御馳走を用意してしまった。彼女が床にぶちまけた食料はもう使えないので、まだ冷蔵庫の中で生きていた食材を在り合わせてオムライスを作ってやった。バターの香ばしい香りが幼女の鼻腔を刺激する。
「ほら、食べろよ」
「なるほど、美味そうだな。褒めて使わす。踏んでやるから全裸で寝転べ」
「魅力的だが却下だ」
「魅力的なんだな」
「うるさい」
「ロリコン」
「うるさい」
悪い表情を浮かべてにじり寄ってくる幼女を押し戻して、修人は簡潔に質問をした。
「ていうか、聞きたいことが山ほどあるんだけど」
「おおあんふぁあんふぁ、いっへみほ」
「口の中に食べ物入れたまま喋るな」
「うふはいははれほひほん」
「うるさいだまれロリコン、じゃねぇーんだよ!」
うるさいなあ、とでも言いたげな表情で口の中の物を嚥下した金髪の幼女は、一つため息をつくとスプーンを修人へ向けた。
「それでなんだ。今私は食事で忙しい。お前みたいなロリコンとベッドでイチャイチャする暇はないぞ」
「しないわ。……そうじゃなくてだな、お前、さっき吸血鬼だって言ったけど、吸血鬼ってあの吸血鬼か?」
「ああそうだ。血を吸う鬼。まあ私レベルになると血を吸わなくても生きていけるんだが、それはまた別の話。お前が想像している通り、日光が苦手な吸血鬼だぞ。まあ今は日光なんてどこにもないがな」
「え、ってことは……お前まさか、密入国者とかか?」
「あ? 密入国……? あ、ああー……UKVのことか。あの吸血鬼王国ね。違う違う、私はあんな若造たちとはつるまんよ」
UKV、正式名称『United Kingdam of Vampires』――吸血鬼たちの連合王国。国民の八割が魔族・亜人であり、その内のさらに八割が吸血鬼という国だ。
七つの地域が統合して誕生した国であり東欧全域に広がる大国だ。
そして、それぞれの地域はそれぞれ力ある上位吸血鬼によって収められている。
『奈落の七王』――前旧教における七つの罪とそれに対応した悪魔を司る七柱の最強の吸血鬼たち。
だが、少女は彼らとは異なる勢力に属しているらしい。オムライスを口に運ぶ作業を再開しつつ、彼女は名乗りを上げた。
「私は悠久種・吸血鬼の女王。四つの頂点『神祖』『深祖』『清祖』『真祖』――いわゆる『シンソ』と呼ばれる四つの最果ての一人。『真祖』――手配名『生贄』。クリスティア=アイアンメイデンだ。何年生きたかはさすがに覚えてない。千年より前の記憶がないんでね」
「千年……?」
「ああ。だから言ったろう? お前の百倍生きているって」
「ババアじゃん」
「殺そ」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!? 痛い痛い痛い痛い! 千年の時をかけて完成させた関節技は死ぬからぁあっ!」
年季の入った逆エビ固めをキメられて白目をむく風鳴修人。背骨の辺りから嫌な音が鳴っており、本当に命の危険が近付いてきたような気がする。
「私が逝かせてあ♡げ♡る♡」
修人、GO TO HEAVEN。
一通り苛め尽くし満足したのか、クリスティアは修人を開放してケラケラと笑う。
「天国見えたか? これに懲りたら二度と私を年寄り扱いするな。私はまだピチピチの千歳だ」
「う、ぐ……よ、幼児体型でもここまで凄い技を出せるんだな……」
「この男、命が惜しくないのか……ッ?」
「ァアアアアッッ! 千年の研鑽を積んだ関節技がァアアアアアアアアアアアアアッッ!」
何が何でも煽ろうとする修人に、クリスティアは戦慄を覚えながらも膝十字固めをキメた。
「懲りたか?」
「はい」
ソファの上で荒い息を吐いて死にかける修人。ゆっくりと息を整えると立ち上がり、テーブルで食事しているクリスの前の席に座った。
「俺は風鳴修人だ。クリスティアって長いな……クリスでいいか?」
「勝手にしろ。飯を恵んでもらった以上ここに用もない。すぐに出て行くからな」
「え、なんでだよ」
「いや、逆に何でここに留まらねばならんのだ」
「でもお前……人の家にご飯を盗みに入らないといけないくらい何もなかったんだろ?」
「ふん。そんなもの慣れているに決まっているだろうが。私が何年生きてきたと思っている」
「クリス……」
「やめろ。感傷的になるな。別に私にとっては普通のことだ。お前が気にするようなことでもない。放っておけ」
「放っておけって……」
「はあ、面倒くさいなお前。いいか? なら一度テレビを点けて見ろ」
「テレビ? なんでだよ」
「良いから早くしろ」
クリスに促されるままテレビを点けた。すると昼のニュースが流れ始める。
内容は、修人も嫌と言うほど見たものだった。
『六ヶ月前にロンドンで起きた吸血鬼による大規模な破壊行為。死者は二千人にも上り、全焼した家屋は三百以上と人々に忘れられない爪痕を残しましたが、今では復興が進み――』
クリスの言わんとしていることは、何となくだが分かっていた。
「これは、私のせいで起きた悲劇だ。少し長く滞在してしまってな。そのせいで私を付け狙う吸血鬼に見つかってしまい、ご覧の有り様だ」
「……っ」
「だからまあ、とりあえずこの家からは出ることにする。昼食を恵んでくれた誰かさんを死なせるわけにもいかん。吸血鬼とは言え、さすがに恩を仇で返すほど人間をやめてもいなくてな」
難儀な性格だよ。と自嘲したように告げるクリスの横顔を見て、修人は即断した。
「でも、まだこの街にはいるんだろ?」
「まあな。少し調べ物がある」
「なら、俺の家にいとけ」
「は?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。この少年は、今自分の話を聞いていたのだろうか。困惑どころか、胡散臭いものを見るような瞳を向ける。
「お前、会話できるか? 私は今、ここにいたらお前が死ぬと言ったんだぞ」
「分かってる。だから、他の人がそんな目に遭わないために、俺の家に隠れとけ」
「…………お前、本格的に頭おかしいのか?」
「違うよ。それに――」
しっかりと断じると、そこで言葉を切りさらにこう続けた。
「そんな日常は、日常なんかじゃない。日常っていうのはもっと普通で平凡で、当たり前に享受できるものじゃないとダメなんだ」
「ダメってお前……」
クリスは心の底から理解できないと言うように首を振っていた。
「あのな、一つ言っておいてやる。日常の定義なんか人によって異なるものだ。私にとっての日常がそれだっただけの話。ここに特別な意味はない」
「いや、あるよ。ある……それは、特殊で異常でおかしなことだ」
「…………はあ」
半眼で修人を見るクリスは、呆れたと言わんばかりにため息をつく。
「まあ何でも良いがな。ただ一つだけ教えておいてやる。この世にはな、当たり前に幸せを享受できる人間と、そうでない者がいる。私は後者だ。ああやって多くの人間を死に追いやっただけでなく、自らの手すら汚した私がその権利を持っているはずもないだろうが」
彼女はたくさん殺した。それは間接的にも、直接的にも。
千年という時間を生きる上では仕方のなかったことだとは思う。だからと言って、その罪が消えるわけではない。殺した事実は消えない。死んだ人々の未練は晴れない。クリスティア=アイアンメイデンという少女が築いてきた死体の山は、たとえ風化し形を失くそうとも、確かにこの世界に真実として残っている。
人を殺した人間は赦されない。永劫に贖罪のために罰を受け続けなければならない。
殺人を犯した人間に日常や幸せといった暖かなものを受け取る権利などないのだ。
クリスはそれを知っている。自分に幸せになる権利がないことを、知っている。
だけど――
「ばか……幸せになるのに、権利なんて必要ない」
そんな言葉を、とても辛そうな顔で言った。
まるで、全くそんな言葉を信じていないかのような、そんな笑顔。
引き攣って表情を上手く作れていない。作り笑いにしても酷すぎる。
「クリス、お前は幸せになっていいんだ。お前だって、普通の幸せを知ってもいいんだよ」
でも、だけど。
そんな無理をした表情で告げた言葉だからこそ、どこか真に迫るものがあった。
「……お前…………」
「修人」
「む……」
「名前教えただろ?」
だから。
そんな風に辛そうに笑う彼が放っておけなかったから。
「分かった。よろしく頼む、しゅうと」
そんな風に、取るべきでない選択を取ってしまったのかもしれない。