第五章 旅のはじまり 2.男二人、立つ。
胸を穿たれ、血管を凝固させられた吸血鬼が膝から崩れ落ちた。とはいえ心臓を穿ったわけではなく、あくまでも食道大動脈を潰したのみ。通常の吸血鬼ならば最悪死亡することはあれども、高位吸血鬼であり、なおかつ自らの傷すら厭わず戦うようなヴィロスが相手となると、聖槍で大動脈を貫いた程度では決着が付かなかったであろう。だが、修人が操る乾固の瘴気の効果により全身の血液を凝固させられたヴィロスは、地に伏して微動だにしない。
「死んだ、のか……?」
「いや、死んではいないだろう。生死の境を彷徨ってはいるだろうが、この男ならば戻ってくるに違いない。とはいえ、向こう一ヶ月は歩くこともままならないだろうけれどね」
言いながら、オルガは倒れ伏すヴィロスの全身を縄で縛って近くに捨て置いた。
顔を上げると、至近に立つ修人の瞳を真っ直ぐ見つめる。修人もまた、その真摯な瞳を見つめ返す。
そこへ――
「し、しゅうと!」
がばり、と。
金髪の幼女が背後から勢いよく抱き着いた。彼は修人をコンクリートの床に押し倒すと、馬乗りになってその胸をぽかぽかと可愛らしく叩き始めた。
「ばかっ! ばか、ばかばかばか! こんなに、こんなにボロボロになって! なんで、もうばかだお前は! もう少し自分の身を顧みろ! その腹の傷はなんだ! 吸血鬼になって十分も立たずに死にかけるなど意味が分からんぞ、ばかが!」
「い、いたっ! 痛いって!」
「うるさい! 少しは私の恐怖も思い知れアホが!」
そんな罵倒と共に、ぽたり、ぽたりと、小さな雫が修人の頬に落ちた。
「お前が死んだら……嫌だ……っ」
「……そっか。じゃあ、死なない」
そっとクリスの頭を撫でてやり、目じりに溜まった涙を親指の腹でそっとぬぐってやる。クリスは子ども扱いされたことに不服そうな表情を浮かべたが、けれどなすがままにされていた。
その頬は真っ赤に染まっていて、だけど鈍感な修人はそんなことに気付いていない。
やがてクリスの涙が止まったのを見て、修人はゆっくりと立ち上がった。
「しゅうと……?」
不思議そうにこちらを見上げるクリスの頭を再びグシャグシャと乱暴に撫でまわしてやって、そっと己の後ろへと下がらせた。
「な、なにを……?」
「いや、ごめん。まだ戦いは終わってないんだ」
「終わってない……? しかしもう、あのストーカー野郎は倒しただろう。これ以上何を――」
「いや、クリス。まだ何も終わってないよ。こんなのは寄り道みたいなものだ。――本番はこれからだ」
力強く言い切ると、クリスから視線を切って再度赤い髪の少年へと視線を向けた。
神性の高い陽炎の暗器に傷付けられた身体は吸血鬼の再生能力を受け付けず、風鳴修人の体は依然血に濡れ傷が刻まれたままである。
対するオルガ=ディソルバートはただの人間であり、彼もまた損傷が著しい。右半身と背中は焼かれ、所々が炭化している。
血濡れの男二人、ただ二人の世界に没入したまま睨み合う。
「やっと邪魔者がいなくなったな。オルガ、一つ聞くぞ。さっきの戦いを経て、お前の想いは変わったか?」
「まさか? 僕の決意は変わらない。たとえ彼女に敵視されようとも、この想いが引き裂かれるほどの悲しみが襲うことになろうとも、僕は彼女を無間の苦しみから救い出してみせる。もう二度と、そこの男のように彼女を道具のように扱う者が現れることがないようにも」
「お、おい……なんだ……? しゅうとに、オルガ……お前たちはいったい、何の話を……?」
先ほどまで息と力を合わせて共闘していた二人の間に流れ出した険悪な空気に不安を覚え、クリスがおそるおそるといった調子で声を掛ける。だが二人は全く取り合わなかった。
無視しているわけではなく、ただ己の目の前にいる敵をのみ眼中に収めているため、その声が聞こえていないのだ。
修人が一歩前に出ると、オルガもまた足を踏み出す。
困惑するクリスは必死に修人に呼びかけるが、しかしやはり届いていない。
修人はゆっくりと、吐き出すように声を放つ。
「なら、もう聞かない。俺が絶対に曲がらないように、お前もまた槍みたいに真っ直ぐなままなんだからな」
「ああ。だから、もう道は一つだ」
「そうだな」
修人はゆっくりと目を閉じると、彩喰を閉じて身に纏う灰色の瘴気を消した。さらに血液の中に内包された莫大な魔力をも抑え付け、自らの体を人と変わらぬそれへと変じさせる。
オルガもまた、ゆっくりと目を閉じると、発動状態のままにしていた染色を消した。彼の体の中で渦巻いていた神性が消え去り、ただの人間としてここに立つ。
言葉はなかった。
共にさらに一歩踏み出す。
両者は額と額をぶつけさせ、互いの瞳を真っ向から強く睨む。
そして――。
「「お前を殴って――」」
腕を引き。
「この子を守る!」
「この子を殺す!」
その拳が、互いの頬に突き刺さった。
ゴキィ……ッッ! と。
二つの右拳が砕ける音が夜の屋上に響き渡った。
二人は後ろへ倒れ込むようにバランスを崩すが、
「ァアアアアアアアアアアッッ!」
「ォオオオオオオオオオオッっ!」
両者共に地を踏み抜かん勢いで足を屋上の床に縫い付け、腹筋を使ってヘッドバッドをかました。
額が裂けて血が溢れ出す。視界に火花が散り意識が飛びかけるが、そんな中でもオルガは無意識に拳を振るっていた。
それは尖兵として戦場を駆け抜けてきた戦士としての性だったのだろう。極限状態の中でも最適な答えを出すことが求められたこれまでの経験が味方した。
骨の砕けた拳がさらに修人の顔面を強かに捉え、殴り飛ばした。クリスのすぐ近くに倒れた彼は、地面に手を押し付け逆立ちの姿勢から跳ぶように立ち上がる。
そこへ襲い来る第二撃。オルガの全体重を乗せた一発が鼻っ柱へと叩き込まれる。修人はそれを頭突きでもって受け止めた。
切れた額に激痛が走るが、それは相手も同じはず。既に折れた拳に叩き込まれた頭突きによって、オルガは己の手から肩にかけて爆発するような痛みを自覚した。
「が、グゥウウウウウッッ!」
飛びかける意識を気合と根性だけで引き戻す。壊れていない左の拳も握り締め、不用意にも付き出した顔の下部――即ち顎へと一発見舞ってやる。
美しいまでのアッパーカットが修人の顎を打ち抜き、脳が揺さぶられた。視界と意識が明滅する中で、しかし彼はこんな言葉を吐いた。
「こんだけ強く好きだって思ってるのに――」
彼もまた同じく砕けた右拳を岩のように固く握りしめた。その行為だけで激痛の花火が弾けるが、そんなもの知るか構うかどうでもいい。
今はただ、目の前の大馬鹿をぶん殴ることだけが己の使命と断じて足を踏み込む。
赤髪の少年の拳から流れ込んできたクリスティア=アイアンメイデンという一人の少女への一途で強い想い。パンチ一発一発に込められた凄まじいまでの想いの強さこそが、風鳴修人の拳をさらに固くする。
「――なんで、お前は守ることを諦めたんだよッッ!」
上段からの打ち下ろし。後ろに引いた腕を、水車のように大きく振って、その脳天に拳を叩き込む。
「何が苦しませたくないだ、何が救いたいだ! お前馬鹿だろッ! いい加減目を覚ませッ! 殺すなんて行為は、救いから一番遠いものだろうがっッ!」
「うる、さい……ッ!」
頭を殴りつけられ無理やり下を向かされたオルガが、その姿勢のまま大地を蹴り抜いて修人へ肉薄した。固く握った右拳が風鳴修人の胸に突き刺さり、力任せに肺から空気を押し出した。
「一生守る? 彼女を襲う全ての不幸を僕が貫く? ああ、そんな覚悟は既に通ったよ! 無邪気にそう信じていた時期が僕にもあった! 僕はクリスティアが好きなんだ! だったら当然、彼女を守り通したいと思ったに決まっているだろうがッ!」
「だったら何でそれを諦めたんだよこのヘタレ野郎ッ!」
「出来もしない約束も、彼女を苦しめると分かったからだ!」
互いに一歩も引かぬまま、回避の素振りすら見せずに真正面真っ向からぶつかり合う。ただの一度もその瞳を逸らすことなく、拳と拳をぶつけ合い、魂と魂で殴り合う。
「彼女が千年も生きて、その間誰とも交流を持たなかったと、そう思うか? 彼女が友を持ったことがないと、そう思うのか? 彼女が誰かに期待したことがなかったと、お前はそんな呑気なことを考えているのか?」
オルガの言葉は、その殴り合いを近くで見ていたクリスの胸を鋭く貫いた。
「あの子がどれだけの人間を目の前で亡くしたと思っている。あれだけ優しい子だ。きっと色んな出会いがあったことだろう。だけどいま彼女の周りに、僕たち以外の誰かがいるか? いないだろう! だったらそれがどういうことを意味するか、それが分からないほど君は馬鹿ではないはずだッッ!」
吸血鬼であろうと人であろうと、心持つ者である以上人と関わらずに生きて行くことなど不可能だ。たとえ心の中でどれだけ拒絶しようと、一度として人に期待もせず、心も許さず生きて行くことなど不可能なはずなのだ。
孤独を貫くと決めていた今でさえ、修人と出会ったクリスは、共に歩みたいと叫んだのだから。
だからこそ、今ここに修人とオルガ以外の誰も彼女の周囲にいないことが何を示しているのかが分かる。
きっと、彼女を守ると言ってくれた人はたくさんいて、そしてその誰もが散ったのだろう。夢と幻想ばかりを見て、目の前に存在する現実に負けたのだろう。
オルガはそれを分かっていた。彼女の諦めたような笑顔を見た時から、彼女を真の意味で救うことなど出来ないと理解した。
だから、せめてこれ以上の苦しみは与えまいと決意したのだ。
「身近な人の死をこそ、彼女は最も悲しむ! クリスティアはそういう少女だ! これ以上何かを期待させるわけにはいかないだろうが! 友であることも許されない! 彼女は、孤独でないといけないんだ!」
「ふざけんなボケカスがァ!」
オルガの水月に膝を叩き込み、体がくの字に折れたその背中へ肘鉄を叩き込む。先のお返しとばかりに体の中の空気を奪い、動きが止まったその一瞬の間に、下を向いた顔面にアッパーカットをぶち込んだ。
「何であいつが孤独じゃなきゃいけねえんだよッ! もう千年間独りだったんだ! そろそろ誰か一人くらい……世話になる家くらいはあってもいいだろうが! お前がクリスの交友関係を決めるなよ馬鹿ッ!」
「なら君は彼女を守り切れるというのかッ!? 僕たち十一尖兵から、七人の大王『奈落の七王』から、他のシンソから――この夜の世界の全てから、君は彼女を守り通せるというのかッ!? たかが一人の吸血鬼にボコボコにされた君如きがっッ!」
「ああ――守れるッッッ!」
交わした拳の数は既に百を超えた。全身の骨が次々と折れていく中、たった二人の男は意地と信念、そして一人の少女のためにだけ、限界を超えた戦いを続けていた。
クリスはそれを、呆けた顔のまま眺めていた。
「お、え、おい……待て、なにが、え……? しゅうともオルガも何をしている……? な、なぜ私の処遇を巡ってお前たちが争っているッ?」
そんな二人の行動の意味が分からず、クリスが必死に呼びかけるも、やはり言葉が返ってくる気配はない。二人は血反吐を吐きながら、限界を超えて互いの身体を潰し合う。
(は……? なんだ……お、男はみんなこうなのか……? 確かにさっきの戦いの時も、私がしゅうとに何度呼びかけても反応してくれなかったが、だが……ば、ばかなのか……?)
クリスがこれからどうするかなど、クリスが決めるべきことであるはずだ。クリスのこれからの人生は、クリスが決める。それを巡って修人とオルガが殴り合う意味が、彼女には全く分からなかった。
オルガ=ディソルバートが自身の正義を信じてクリスを殺そうとするのなら、それもそれで一つの答えであり、クリスはそれを悪だとは言わない。むしろ己を想っての行為なのだから、感謝するほどだ。
修人がそれを認めないのならば、彼が何度でもオルガとぶつかり合い殴り合えばいいだけだと思うのだが――しかし、そんな彼女の困惑はもはや届かない。
男――否、雄が持つ固有の在り方、闘争本能を剥き出しにした咆哮がさらに爆発した。
もはや一発一発の拳が、相手の骨の一本一本砕くような無手の殺し合い。技も駆け引きも何もない、ただただ泥臭い獣と獣の醜い争いがそこには在った。
「いいかよく聞けオルガ=ディソルバートッッ! 俺は確かに今は弱いかもしれないッ! だけどな、俺はここから強くなる! この夜の世界で最強の男になってみせる! クリスだけじゃない、他の色んな人たちを、守って助けて救うんだッッ!」
「そんな口だけの言葉が信用できるわけないだろうがッ!」
「だったら信用させてやるよ! 今ここでお前をぶっ倒して、俺が少なくとも尖兵よりは強いことを証明してやる! どれだけ絶望的な時でも、絶対に倒れないと証明してやるッッ!」
「やってみせろ!」
「ああッッ!」
鈍く重い音がオルガの腹から鳴り響く。至近から殴り合っていた修人の拳が、何度目になるか分からぬ水月への重い一撃として突き刺さった音だ。
「カ……ッ」
オルガは体を折り曲げ膝から崩れ落ちる。その様を見て、修人が己の勝利を確信した。それは、当然の気の緩みだった。
そして、その一瞬の気のゆるみを、オルガは逃さなかった。
「――――ッ!」
獣のように鋭く呼気を吐き、身に纏う血を吹き払う勢いで前へ出ると、地面を這うようにして修人へと突進した。
「しま――っ」
既に勝負が決まったと確信した直後の反撃。オルガはその間隙を逃さず、握った拳を打ち上げ修人の顎へと叩き込んだ。
「ァアアッ!」
「ギ……っッ」
凄まじい一撃により、修人の体までもが宙に浮く。
オルガは拳を振り抜いた姿勢のまま、意地悪くも年相応の無邪気な笑みを浮かべたまま、こんな事を口にした。
「――『あの時』のお返しだ……ッ」
「この、野郎――」
あの時がいつなのか、修人にははっきりと分かる。
最初の邂逅。クリスと共に娼婦街へ向かった時のあの一幕。修人が己の身すら顧みず特攻し、格上たるオルガへ拳を見舞った時のことだ。
どうやらオルガはあの時に貰った拳のことをまだしつこく覚えていたらしく、修人の悔しそうな顔を見て満足げに息を吐いた。
「根に持つなよな、女々しいッ!」
「やられっ放しではいられないからね!」
空中でうまくバランスを取って地面に上手く着地すると、牙が折れんばかりに歯を食いしばり再び突進。速度と体重を乗せた拳をオルガの顔面に叩き込み、その身体を殴り飛ばした。
殴り飛ばされたオルガは体を床にぶつけながら数メートル転がると、しかしすぐさま立ち上がり口元の血を拭う。折れた歯を脇に吐き出し、お返しとばかりに突進。荒い息を吐き、一人で立つこともままならない修人へと同じ攻撃をやり返した。
力の全てを腕に込め、修人を後方へ吹き飛ばさんと振り抜いた。
だが――
「――――ほらな、倒れない」
風鳴修人は靴底を地面に縫い付けて、二本の足でしかと立つ。
ズタボロの体のまま、しかし倒れず強い瞳で敵を睨む。
「な――っ」
驚愕に染まるオルガの顔面に、修人は己の全てを込めた拳を叩き込む。
「いいか。俺はクリスに救われた。あいつは言ったんだ、俺たちは救われても良いと。自分たちを赦す旅に出ようって。そして、最後には絶対に二人で幸せの輪の中に入ろうって」
さらに、もう一発。己の全てを込めた拳を叩き込む。
「ああ、そうだ。確かにあいつを守るためだとか、あいつを救うためだとか……ヒーローが言いそうな英雄的な動機なら、きっと俺みたいな凡人はあいつを守り切れずに絶望に負けて死んでいただろうよ」
さらに、さらに、さらに――。
風鳴修人の魂の込められた拳の連撃はその回転数を増して行き、オルガ=ディソルバートの魂を殴り続ける。
その連撃に、オルガは対応できない。
既に体力を使い切った二人の勝敗を分けるもの、それは――
「でも俺は、ヒーローじゃない! ただの罪人だ! クリスと同じ罪人だ! そのクリスと誓い合ったんだッッ! 一緒に歩くって! クリスだけを救うためじゃないッ! 俺とクリスを、二人を救うために戦うんだって! だから、俺も死ねないッ!」
独りの少女だけを想い、己の心を蔑ろにした傷だらけの魂。
「――――だって、俺も幸せになりたいからッッッ!」
二人で幸せを手にしたいと願い、浅ましい願望を叫んだ魂。
それら二つのどちらが強い思いを含んでいるのか。
「自分の気持ちを大切にしないお前なんかに、俺たちの幸せを邪魔させてたまるかァッッ!」
絶叫までもが拳に乗り、悲劇の道を行く少年の決意を全て粉砕した。
赤髪の少年の身体は何度もバウンドし、十メートルほど転がってようやく静止する。
そのまま彼は動かず、その意識を閉じていく。
その間際に、こんなことを思う。
(これなら……安心して任せられる……――)
気絶したその顔は、どこか晴れやかであった。
風鳴修人はよろけながらも、近くで呆けたまま立っていたクリスを抱き寄せる。
「だから、こいつは俺が幸せにする。お前は、安心して良い」
抱き寄せられたクリスの顔は、その瞳よりも、もっと赤くなっていた。




