9 呪われた王子
星明かりの庭に甘い香りが漂う。時期的にムーンライトフレグランスだろうか。花の姿は見えなくとも確かに何処かで咲いているのだろうと分かる。
セレジェイラは噴水近くのベンチに座り花の匂いを吸い込んで輝く星を見上げた。
「花嫁選びの夜会を抜け出すなと言わなかったか?」
美声が夜の空気を震わした。
外燈の明かりの下に現れたのは背の高い男の姿。
金に近い明るいライトブラウンの髪、強い光を宿した青緑の瞳。整った風体は確かに一般人ではないとわかるし、それだけでなく漂う迂闊に踏み込ませない風格は支配者だと物語っている。
なんて綺麗な王子様。
「……言われていませんよ。“姿を消した女性は初めてだ”と言われたんです」
「では“抜け出すな”」
「人の事の前に主役が抜け出してどうするのです」
「休憩だ。ほら、足を見せてみろ」
リアムはセレジェイラの足元に片膝を付いた。
「王子殿下が跪いていいのですか?」
「セレジェイラにしかしない。見せろ」
伸びた手を除けるようにセレジェイラは脚をドレスの中に隠した。
「なんともありません。疲れただけですよ」
「なんともないなら、その証拠に見せろ」
「痛くありません。あの場を逃げる口実です」
甘く整った顔がセレジェイラを見上げる。
この眉目秀麗な王子はそれだけで人の心を跳ねさせる。本人に何の意図もなくとも見つめられ触れられた女性が本当に心を動かされないと思っているのだろうか。セレジェイラがどれほど自分の鼓動に気付かない振りをしていることか。
「何故逃げる?」
「さあ、人混みが嫌いなのかもしれません」
「それでは王子妃は務まらんぞ」
「そうですね」
「自分には関係ないという返事をするな。慣れろ」
「必要ありません」
「……有力貴族に嫁げば結局必要だ」
「ああ、それはそうですね」
「こちらは否定しないか」
リアムは溜息交じりに言って立ち上がるとセレジェイラの横に座り込んだ。
「まだ行かなくていいのですか?」
「目当てが此処にいるのでな」
その言葉にセレジェイラはふざけるなと言わんばかりに眉間を寄せてリアムを見た。リアムはそれを見てふっと笑った。
「少し話をしよう。前に魔女の呪いとか言っていただろう。実は俺にこそ呪いがかけられているんだ」
「はあ。呪いが解けたら蛙になるんですか? 野獣ですか?」
「その呪いならば普通人間に戻るのだろう。変身系ではなくて、二十歳の誕生日までに心から愛する女性と結ばれなければ国が滅びるらしい」
「それは……大変ですねぇ」
セレジェイラは星空に目を移し答えた。
突然何の話をし出すのかと思えば、『呪い』という言葉にも呪いの内容にも何を言いたのかがわからない。ただの雑談か。
「信じていないな?」
「真面目な話なんですか?」
「ああ、真面目だ。だから俺の結婚相手は俺の意思に一任されている。十六になった娘を集めるのはその為だ」
「そうですか……。では、呪いなんですか?それ。愛する人と結婚すればいいだけでしょう? 都合のいい呪いです」
「俺もそう思う。が、それがなかなか難しい」
「どうしてですか?」
「俺だって、何もむやみやたらに女性と付き合っていたんじゃない。いいと思って、この女性ならと思って付き合ってはいたんだが、正直なところ皆、同じだ。つまらない。直ぐに飽きる」
「飽きっぽいんですね。それが呪いじゃないんですか? 生涯安らげないという」
「そうなのかもな。王に捨てられた女の呪いだ。怖いよな?」
「そういうのは怖いではなく因果応報と言うんですよ」
「そうだな」
リアムは穏やかに微笑む。本当に本気でこんな話をしているのだろうか。
本当だとしても王に捨てられた女の世迷言だろうに。
セレジェイラはもう一度星を見上げた。
「この女性なら、と考えるのではなく、単純に可愛いとか傍に居て欲しいとか、他の男性といるところを見ると苛つくとか、そういう女性はいないのですか?」
「いる」
「では、その方を好きなのですよ」
「そうか」
同じように空を見上げてする返事は何処か感情が入っていない。まるで好きな事を認めたくないようだ。
「……気が進まなそうですね」
「他の男と抱き合っていた」
「振られるのが怖いのですか。意気地なしですね」
「正直なところ、断られることは頭になかった」
「自惚れていますね」
「そうだな」
「告げて断られたら次の女性を探せばいいでしょう。女はその方だけではありません」
男女の出会いが何処に転がっているかなど分からない。振られたからと言ってその人だけしか愛せないわけではない。次にもっと好きになれる相手が見つかることの方が多い。この人だと思っても失敗だという事もある。
一度の躓きぐらいなんだというのだ、セレジェイラは最近自分にそう言い聞かせている。
リアムはそんなセレジェイラに視線を戻し、反応を伺うように覗き込んだ。
「……何ですか?」
「実はな、呪いには条件があって俺が女性に愛を告げても断られた場合、俺は生涯報われなくなるんだ」
思いがけない返答にセレジェイラは言葉に詰まった。
「……と、言うことは……」
「一番最初に愛を告げた相手に振られた場合、国が滅びるという事だな」
「はぁ……なんと言うか……なんなのですか、その呪いは……」
「馬鹿馬鹿しいが王の仕出かした後始末ではあるし、王太子としては軽はずみな事も出来ん。まさに呪いだな」
「でもまあ、殿下に言い寄られて断る女性も稀少でしょう。告げてみればうまくいく確率の方が高いですよ」
「どうだかな」
「では、その方が他の男に拐われるのを眺めているんですね」
「嫌だな……それは嫌だ」
「でしたら、っ!」
完全に油断しきっていたセレジェイラの身体は気付いた時にはリアムの腕の中に収まっていた。
「殿下! セクハラです! 離して下さい!」
セレジェイラはリアムの胸に手を突いて押し返そうとしたが、逞しい身体にすっぽりと包まれてしまっていてびくともしない。
「嫌だ」
しかも耳許で拒否の言葉を呟かれた。
「金銭を要求しますよ!」
「ああ」
「っ……もうっ!……」
セレジェイラは無駄だと悟り抵抗をやめた。リアムはこれ以上の事は本気でしない。
「セレジェイラ、金は払う。腕を俺の背に廻せ」
「何の仕事ですか? これは」
文句を言いながらもセレジェイラはその腕でリアムを抱き止めた。
「ああ、嫌だな……。抱き締めれば益々そう思う。俺のものにしたい」
「告白の練習ですか? 恥ずかしい人ですね」
「練習ではない。 セレジェイラ、いい加減しらを切るのは止めろ。お前はこれだけ言って分からない女ではない。お前の言う通りだ。選ぶのではない。望むのだな。俺はセレジェイラが欲しい」
流れのままに告げられた言葉にどくりと心臓が音を立てる。その音が体中を巡り震わせた。
「戯れは止めて……」
「戯れでないと最初から言っている」
「駄目です」
「何故? コナーのことが好きだからか?」
「…………」
何を、と今度は絶句してしまった。リアムはそれをどうとったのかセレジェイラを抱きしめる腕に力が入った。
「答えろ」
「……いいえ。コナー様に特別な感情はありません。抱きしめたのは確かめたいことがあっただけ」
「何を確かめる?」
「私事です」
低く命令する声は感情を押し殺しているように感じる。
確かめたかったのは自分の胸の高鳴りだ。リアムに触れられるといつも胸が波打つ。こうしているのも早鐘を打つ胸とは別にその温もりは心地よいとすら感じてしまう。コナーに抱き着いたとき、リアムに感じるような鼓動はなかった。……今もある『嬉しい』という不可解な感情は持たなかった。それがなにを意味するのか。それは考えてはいけないことだ。
「好きな男を庇うか? 俺はそこまで心が卑しくないぞ。そういった気持ちは止められないものだと知ったからな」
「好きではないと言っています!」
「そうか。だったら言っていいな?」
今度の声は穏やかだ。セレジェイラの方こそ怒りたい。いつまで平静を保っていられるか分からない。
「だめだと言っています!」
「だから何故だ?」
「殿下の気の迷いですよ」
「気の迷いなものか。人に譲りたくない。傍に置きたいと思うのはそういうことだとお前が言った」
「いいえ。この場合はお気に入りの玩具と同じ思いですよ。私の事を面白いと言ったではないですか」
「ああ。お前といると自然に笑っている。落ち着くんだ」
「友人関係ですね」
「友人を抱きたいとは思わない」
「一応女ですから。殿下は女性なら抱きたいと思うのでしょう」
「馬鹿にするな。傍にいて欲しいのも、他の男といるのが許せないのも、抱きたいのも全て」
「……殿下……やめて!」
「セレジェイラだ」
この人は人を殺す気なのだろうか。心臓が胸を突き破るのではないかと思う。
静かな夜の庭に聞こえるのは風が木の葉を撫でるささやかな音だけ。胸の鼓動が外に響いてしまいそうだ。
セレジェイラはぎゅっと瞳を閉じて、極めて普通の声を出すように努めた。
「殿下を信用できません」
「どう言ったら信用してくれる? どうしたら頷いてくれるんだ?」
「どうあっても頷けません」
「胸の音が聴こえるか? これでも何人も女性と付き合ってきた。今更気の無い女を抱き締めても鼓動は早くならん」
リアムの胸に顔が付いているのだからわかる。リアムの心臓も早鐘となって胸を突き続けている。
「セレジェイラ、愛している」
突如紡がれてしまった告白に、胸を突かれた様にセレジェイラの鼓動も呼吸も一瞬止まった。
「っ!! 駄目だと!」
「もう後には引けん。この国の命運はお前の答え次第だ」
やっと声を絞り出せばリアムはセレジェイラに全てを投げ出した。
「狡い!」
「仕方がない。俺にとってお前以上の女に出会うことはこの先もないと確信している。お前が魅力的なのが悪い」
腕の中で胸を叩けば自分のしたことを人の所為にする。どこまでも勝手な王子。王子だから勝手なのだろうか。
腕の拘束が緩んだかと思えば顎を救い視線を絡ませられる。視線の先にあるのは心臓の鼓動の速さなど窺わせない物静かな余裕を窺わせる綺麗な顔。その顔がとても真剣に自分を見ている。
「俺はセレジェイラが好きだ」
再度の告白にセレジェイラは顔を逸らす。
「迷惑です。止めて下さい」
「では、この国は終わりだ」
「馬鹿らしい。王がしっかりと善政を敷けば国は滅びません!」
「では迷わず『大嫌い』だと言って断れ。これで滅亡でもすればお前の所為だ」
「あり得ません!」
「その時が来て家族が不幸になっても後悔するなよ。さあ、断れ」
「………」
何て卑怯。全てをセレジェイラの責任にするなんて。
「言えんだろう。それが呪いと言うものだ。馬鹿馬鹿しいと思っても無視は出来ん。お前の心が何処にあるのか分からんから俺もお前に告げるのにさんざん迷った。国の命運をかけての愛の告白だぞ」
「馬鹿馬鹿しいと言っているんです!! 貴方は立派な王になれる方です!」
セレジェイラは顔を上げリアムを睨んだ。
「セレジェイラが傍にいればな」
「私など必要ありません!……もう秘書も辞めます! お見合いすることにしたんです!」
「許さない」
「もう登城しません!」
「では、家には帰さない」
「殿下!」
感情が高ぶったのか涙まで零れてきてしまった。
「何を泣くんだ?」
「分かりません!!」
「返事は暫くなら待ってやる」
「国は平気です! 嫌だと言っています!」
「俺は納得していない。納得できないままなら無理矢理妃にする。どれほど卑怯と思われてもお前を手に入れる」
リアムはセレジェイラの頬を流れる涙を指で拭った。その仕草は卑怯さとは裏腹にひどく優しい。
だからこそどうしてこんなことをするのかとセレジェイラは視線で咎めた。
咎めるような視線を心苦しそうに眉を寄せ受け止める。
セレジェイラの良心をついて追い詰める、卑怯というのは承知だ。
国の為に告白した相手を手に入れる、いや、自分がセレジェイラをどんな事をしても手に入れたい。
正式に秘書官になった後、セレジェイラはリアムの行動を嫌いだということがあってもリアム自身を嫌いだと言ったことは無い。本気で嫌いならばセレジェイラはどれほど金を積まれても秘書を辞めたはずだ。
嫌だ、駄目だと言っても嫌いだと言われたことはないのだ。
本気で嫌われていれば流石に分かる。
セレジェイラはリアムに触れられた時、時折、ほんの時折だが色を窺わせる。
今も潤む瞳はどうしようもなく女を匂わせる。心底嫌いな相手にする表情ではない。そう思うのは惚れた弱味の所為なのか、気のせいなのか。
だが、気の所為でもそう思わせるのもがあるのならば。
引けるものか。
「勝手な!」
「ああ、権力者とはそういうものだ。だが幸せにはするぞ」
リアムはとてもとても魅力的に微笑んでふわりとセレジェイラの身体を包み込こむ。
「愛している」
夜の静寂の中、低く澄んだ声がセレジェイラの耳を擽った。