7 “王子様”
今日のリアムの午後の公務は公爵子息達との会談だ。と言っても王族公爵、つまり従兄弟達との集まり、腹の探り合いか気のおけないお遊びか。
――― 後者だったらしい。
それはセレジェイラが王子の秘書となってからは初めて行われる会談で挨拶に顔を出すように言われていたのだが、入った部屋に漂う酒の臭いに顔を顰めた。
部屋にいるのは二人の王子と五人の王族公爵子息達、そして王子の側近コナー。
執務室近くの会談用の小部屋にそれぞれが寛いだ様子で酒を手にしていた。
確かに今日の執務はこの会談で終わりだ。だが、まだ夕刻と言っていい時間から会談と称し酒を飲むとは。
「これはヨーク公爵家のワインの試飲を兼ねているんですよ」
セレジェイラの表情を読んだのかコナーがそう言った。ヨーク公爵家のワインは国外にも王家御用達の名で輸出される。立派な仕事だとでも言いたいのか。
「先に名乗る無礼をお許しください。リアム殿下の秘書官セレジェイラ・アークライトです。以後お見知りおきを」
「セレジェイラ。今日の仕事はもういい。残りの時間俺の隣に座れ」
リアムはワインを片手に自分の隣を指し示す。
「嫌です。酔っぱらいは嫌いです。挨拶は終わりました。私は仕事に戻ります」
「待て。俺は酔ってない」
くるりと踵を返しドアノブに手をかけたところで、トンとリアムの手が扉に置かれ閉じ込められた。身を捩り後ろを見上げれば麗しい顔がある。確かに顔色も表情も酔っているようには見えないし、始まったばかりの会談で酔うとも思っていないが。
「酔っている人は皆そう言うんですよ」
「酔っているように見えるか?」
「……正気だと言うのならこの書類終わらせて下さい」
「いいだろう」
パンっと目前に書類を示せば、その手首を取られた。そのまま従兄弟達に「少し外す」と言って部屋を出た。
扉が閉じれば、部屋の中で楽しそうな笑い声が幾つも上がった。
「あはははは!! 確かに殿下の秘書としては最高だな!」
「妃としては如何思います?」
「俺はいいと思うが」
「僕も賛成かな。兄上が見ていて面白いし、やっぱり姉になるなら美人がいい」
「伯爵令嬢でありながら我々に媚びない。気位も高く物怖じもしないな」
「彼女は結婚相手を探しているんだろうに我々には目もくれないのか」
「全く。どんな相手を探しているんだろうな」
「彼女なら大丈夫だとダイアナ嬢も言っていたが」
「ダイアナ嬢のお墨付きか。益々面白い。賛成だ」
この会談は確かにワインの試飲も兼ねているし、若き貴族達の情報交換の場でもある。けれど真の意味をセレジェイラが知ることは無かった。
王子の執務室でセレジェイラはラピスと遊んでいた。自分の仕事は終わっているので、リアムの(明日の分だが)書類が終わるのを待つだけだ。
「ふふ。猫って温かい」
「虎だ」
「猫科じゃないですか。ねー?」
書類に目を通しながらリアムが口だけで返してきた。セレジェイラはラピスをきゅっと抱き締めて軽く鼻に口付けた。
「……虎や猫はいいな」
「そうですね。気ままで。生まれ変わるなら裕福な家の飼い猫もいいですね!」
「……そういうことにしておくか」
セレジェイラはその言葉には返事をせずに膝の上でラピスを仰向けにしてその腹を撫でた。ラピスは気持ちよさそうに身体を伸ばした。
「殿下は従兄弟の方々とは概ね仲がいいのですか?」
「概ね、な。此方が腹を割れば向こうもそれなりのものを示してくれるものだ。血縁とは仲良くした方が国が纏まる」
「打算に聞こえます」
「そうでもないぞ。俺はあいつらが嫌いじゃない」
「それは良かったです」
政敵は少ない方がいい。
この国の王位継承順は王位継承法により定められている。継承者は当然だが国王の直系子孫であり、男子優先の長子先継だ。
リアムには姉がいるが継承権は男子優先なのでリアムが第一位になる。第二位が弟王子のノア、三位が姉王女、四位王弟ランカスター公爵、五位ヨーク公爵と続く。リアムに子供が出来れば以下の者は継承権がさらに遠のくので、王に子供が出来ないのならばともかくとして公爵やその子息達に王位が回ることはクーデターでも起こさない限りほぼない。今のところ現王はクーデターを起こさせるほどの愚王でもないし、国は安定しているからそれもないだろう。
リアムは為政者として相応しいと思える。この人の代で国が乱れることはないだろう……ないといい。
従兄弟方とは城で会えば楽しく笑っている姿も目にしているし、特にランカスター公爵子息とは気が合っているようだ。ランカスター子息の態度が上部だけのものかどうかはまだセレジェイラには分からないが、リアムならば分かっているだろう。もし、自分が男であったならそういった事の手伝いも出来ただろうが。
「残念です」
「何が」
「……彼処にいた方は皆様、婚約者がいらっしゃいます。決まっていないのは殿下方だけ」
思わず言葉が出てしまった。「何が」と訊かれても当然だが、そんなことを考えていたと知られるのもなんとなく嫌なので誤魔化した。
「確認済み、それであの態度か」
「当然です」
セレジェイラは愛人になる気は全くない。婚約者のいる相手など眼中に入れないだけだ。
「だがな、秘書官としてあの態度は良くない。もっと愛想よくしてくれた方が俺が助かる」
「……そうですね。申し訳ありませんでした。こんな時間からお酒を飲んでいたのが気に入らなくて」
「はっきり言うな。あれも仕事。自分達は優遇されていると思わせるのも必要だ」
「はい。気を付けます」
自分の物差しだけで物事を見ていた。仲良くして欲しいと思うのなら仲良くなれる手助けも必要なのだ。
「お詫びに行った方が」
「いや必要ない。次に会った時でいい」
「分かりました。夜会でにこやかにダンスでもお相手します」
「その必要はない! 普通に笑顔で挨拶だけしていればいい!」
「なかなか難しいことを仰いますね。挨拶だけで懐柔できますか?」
「セレジェイラの笑顔なら可能だ」
「私はそんなに可愛いですか?」
リアムも冗談交じりに言っているのだろうが、セレジェイラもくすりと笑って訊ねてみる。
姉達には小さな頃から「可愛い」と言われてきた。姉達は、流石あの継母の娘だけあって「可愛い腹違いの妹」を蔑むこともなく、あれが似合うこれが似合うと色々なものを進め、着せ替え人形のように構ってくれた。どうしていいか分からず為すが儘になっていれば「嫌なことは嫌と言わなければダメ」と叱られた。
最近では「男を誑かしてお金をせしめるのはいいけど、逃げ場はちゃんと確保して、キス以上は好きな人とじゃないと駄目よ!」と言われた。
更に「爵位なんてなくてもいい。好きな人と結婚するように」と切々と言われている。だから「爵位とお金のある人を好きになるから大丈夫だ」と答えたら軽く頬を抓られた。面白い姉達だ。
そんなことをラピスを撫でながら考えていたら視線を感じた。顔を上げれば真剣な表情でリアムが此方を見ていた。
「ああ、可愛いな」
「…………」
こんな風に返されると思っていなかった。微笑んで軽く言われるかと思った。こちらの意思とは関係なく心臓が跳ねる。
「やっぱり酔っているのではありません? 殿下こそ綺麗な顔をしていますよ」
「お前こそあれぐらいの酒の匂いで酔ったのか。返事が変だ」
ふっと笑ってその綺麗な顔はまた書類に戻った。
そうか、酒の匂いに酔ったのかもしれない。
セレジェイラはラピスを抱いたまま、ころりとソファに転がった。
「珍しく行儀の悪いことをする。横になっていると眠くなるぞ」
「眠りません! 少しだけ疲れたんです!」
別に眠りたいわけでも疲れたわけでもなかった。ラピスを抱いて顔を隠すようにしたかっただけ。
けれど、腕の中のラピスは柔らかくて温かい上に王城のソファは座り心地だけでなく寝心地もいいらしかった。
ゆらゆらと浮き沈みするような感覚の中、肩を揺らされた。
「セレジェイラ、起きろ」
「ん……」
開いた瞳に映る麗しい顔は、しょうがないなと言うような表情だ。セレジェイラはゆっくりと半身を起こした。
「書類は終わった。無防備に寝ていると襲うぞ」
「殿下は……」
「何だ?」
「殿下はしませんよ……」
「買い被るな」
「大丈夫です」
「……嫌われたくないだけだ」
そう言ってセレジェイラを閉じ込めるように背もたれに手をおかれ、整った顔が近付いた。
セレジェイラは顔を背けた。
「やめて下さい……本当に酔っているんですか……」
ちゅっと背けた頬に唇が触れた。
「そういうことにしておくか」
やはり、リアムはこういうことに慣れている。
彼の傍では安寧は得られない。だから駄目だ。
「酔っぱらいには何を言っても無駄ですね。……帰ります」
「ああ。ラピスは戻しておく。また明日。寄り道するなよ」
「殿下の用意してくれた馬車は寄り道してくれません。お疲れ様でした。……飲みすぎないで下さいね。明日に響きます」
「嫌われたくないからな。ご苦労だった」
嫌われたくないなどと軽々しく言って欲しくない。
やはり双方酔っているのだ。そういうことにしておこう。
アークライト邸に帰ると立派な馬車が停まっていた。この馬車には見覚えがある。使用人の一人にいつからいるのかと訊けば、一時間ほど前だという。ならばと調理場で三人分のお茶を淹れると揚々と応接室の扉を叩いた。
「セレジェイラです。お茶をお持ちしました」
「お入りなさい」
継母の返事に扉を開けば、やはり予想通りの赤毛の美女の姿。
「マクダネル様! お久しぶりです! いらっしゃいませ」
「おかえりなさい、セレジェイラ」
優雅な微笑みを向けてくれるのはマクダネル侯爵夫人。彼女はセレジェイラの継母の友人で、ごくたまにアークライト家に遊びに来る。
彼女は侯爵夫人だが、自分でも孤児院の経営などを手掛ける才女であり、王妃の縁続きということで王家にもコネがある。セレジェイラが女官になろうと思うと相談すれば、勉強すべきことを教え、王立図書館の書物の並びをよく見ておきなさいとアドバイスをくれたりもした。推薦者にもなると言ってくれていた人で、セレジェイラは彼女に憧れていた。
継母は冷めてしまったお茶を下げてくると席を立った。その間の話し相手をしてくれと言うが、話をする時間をくれたのだ。
「いつも貴女の淹れてくれるお茶はおいしいわね。殿下の秘書官としての仕事はどう?」
「ええ。仕事としては楽しいです」
「では、殿下はどう?」
「とても素敵な顔ですよ」
「ふふ。顔だけ?」
「……聞いていた通り仕事も出来るし腕も立つようです」
「不満が?」
「いいえ。お仕えするのに不満はありません」
給金は充分すぎる程に貰っているし、送迎付き。リアムの有能さは上司として遜色ない。言いたいことも言わせて貰っている。これ以上の職と上司はないだろう。
「では、どうしてそんな不満そうな顔をしているの?」
「……やっぱり好色な方でした」
「手を出された?」
「夜会でダンスを踊っているときに部屋に誘われました」
「部屋? 殿下の?」
「たぶん……『俺の部屋に来い』と言われましたし」
「まあ、それは……」
マクダネル夫人は驚いたという表情をする。
「そのあとも強引にキスしようとしたり、妃になれと言ったり、殿下手ずからお菓子を食べさせられたり色々です」
「そう。そこまで積極的なのは珍しいわね。自室に誘ったというのは初めて聞いたわ。でも、既成事実がないのなら可愛いものではない?」
「私が拒まなければしていますよ! さっきだって……!」
思わず口走りそうになったことにハッとして口を噤んだ。思い出して赤くなってしまいそうな顔を何とか落ち着けようと頭を振った。マクダネル夫人のくすくす笑うような声がする。
「拒めば強要しないのでしょう」
「……そうとも言いますが……」
「無理やりして欲しいの?」
「まさか!! 絶対に嫌です!!」
「王子様の妃になりたかったのでしょう?」
「“物語のような素敵な王子様”の、です」
「物語の王子様って素敵なの? 眠っている姫や仮死状態の姫に口付けたり、一目惚れで家臣に姫を探させたり、本当のお姫様と結婚したいと我儘を言ったり。セクハラはするし人頼みだし、ちっとも素敵じゃないように思うわ」
マクダネル夫人は面白そうに言う。
“王子様”とは“乙女の永遠の憧れ”の代名詞。
“白馬”に颯爽とまたがって“お姫様”を迎えに、あるいは救い出しにやって来る若く格好いい“王子様”のこと。 でも。
「言われてみれば王子様って結局セクハラをするんですね……」
「お金があって顔が良ければそれが許されるのよね」
「はぁ……」
「でも、リアム殿下は貴女の意思を無視したりしないのでしょう?」
「……マクダネル夫人は殿下を買われているのですね」
「ええ。幼い頃から見てきたもの。可愛いわ」
「可愛い……ですか」
「彼は理想の王子様だと思うけれど?」
「そうですか?」
“理想の王子様”はものすごく優しいのに叱るべきところでは叱ってくれて自立してるのに謙虚で、友達想いでありながら恋人の自分も大切にしてくれてどんな我儘も可能な限り叶えてくれる。とんでもなく格好よくて女性にモテるのに自分以外の女性には目もくれない。愛していると真摯にいつも伝えてくれる。そんな人。
「当てはまらない?」
「……謙虚、ではないですね。あ、でも人の意見は聞いて反省も出来るところを謙虚と言うなら……。いえ、それ以前に女性関係が全く……」
「セレジェイラにとってはそれが一番大事なのよね」
「ええ。そうです」
「殿下の恋人と言える人は今まで三人。付き合っている間には浮気もないわ。ただ三ヶ月くらいしかもたないけれど。後は合意の上での遊びよ。案外真面目なの」
「どうして詳しいのですか?」
「王家にコネがあるからよ」
「はああ……わたしもマクダネル夫人のようになりたいです」
とても優雅で落ち着いていて美しい大人の女性。何よりも彼女は夫などいなくても自立出来るだけの手腕とコネがある。
「貴女も変な子ね。殿下の求婚を受ければ遊んで暮らせるのに」
「王太子の妃が遊んで暮らせるとは思いませんけど」
「それがわかっていれば大丈夫よ」
「私、妃にはなりませんよ」
「頑張って殿下を説得するのね」
「殿下とお知り合いなら、あの子は駄目だと進言していただいても……」
「王族に嘘は吐けないわ」
マクダネル夫人から見てセレジェイラには王子妃が勤まると思うのだろうか。迷惑だ。誰か反対してほしい。
翌朝、登城して執務室の扉を開けば「みゃう」と小さな声が聞こえ足元にラピスが擦りついてきた。
「おはよう、ラピス」
小さな虎の子を抱き上げながら、あれ、と思う。
ラピスは確かに日中は執務室でセレジェイラが面倒をみるが、執務が終われば家畜番に預けられ、専用の大きな檻のある部屋に入れられる。毎朝、セレジェイラが登城する頃、侍従がそこから連れてきてくれるのだが。
部屋の中にコナーの姿がない。部屋に誰もいないのに放しておくことも無いのだが。
と、部屋の中央にある長椅子の肘掛けに足が乗っているのに気付いた。コナーが王子の執務室でこんな無作法なことをするわけがない。近付いて見ればそこに居たのは部屋の主の王太子リアムだった。どうやら眠っているらしくテーブルには走り書きのメモまであった。
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騎士の早朝訓練に参加して眠い
執務の時間になったら起こせ
コナーは十時出勤だ
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「眠るのならラピスをゲージに入れないと悪戯されちゃいますよ」
横になるその姿を見下ろしてセレジェイラは小さく呟く。
昨夜、恐らくは従兄弟達と遅くまで飲んでいただろうに、早朝訓練に参加するなんて眠くもなるだろう。もしかしたら昨夜は自室に戻っていなのかもしれない。
それにしても休むのなら隣の休憩室のベッドを使えばいいのに………ふと見れば、床にラピス用のオモチャが数個転がっている。
推察するに訓練が終わり、練兵場近くにある家畜小屋からラピスを連れ執務室に来て遊んでくれとせがまれ、力尽きた、というところか。
「馬鹿ですねぇ」
側近には登城時刻を遅らせる気遣いをしておきながら自分を酷使するなんて。もう少し自分を労ればいいのに。
けれど。
もしかしたらセレジェイラが酔っ払いが嫌いと言ったから汗をかいて酒の匂いを抜いたのかもしれない。
ラピスを連れてきたのはセレジェイラの為かもしれない。
………いや、単なる偶然と気まぐれだろう。
そう思ってみてもセレジェイラの口許は綻んだ。
セレジェイラは隣室からブランケットを持ってくるとリアムにそっと掛けた。
無防備に眠るその人は本当に整った綺麗な顔で、男だというのに染み一つない。
「ムカつきますね。眠り姫ですか」
今日の分の書類は一部終わらせている。会議もないし、起こすのは十時でいいかと時計を見て算段をつける。それまでは資料室で出来る仕事をすることにしよう。
「おやすみなさい」
セレジェイラはリアムの明るい色の髪を撫でラピスを連れ部屋を出た。
次に部屋に戻った時にメモ書きに追加がされていた。
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起こすときはキスをするように
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それは“眠り姫”と言ったことを聞いていての追加だろうと思われる一文。
全くこの人はどこまで本気でどこからふざけているのか分からない。
「コナー様、起きるにはキスが必要だそうですよ」
「私がするんですか?」
「誰とは書いていませんので……侍従長でも呼んで来ましょうか? あ、ラピスでいいですね」
おもむろにラピスを近付けてみれば。
「やめろ! セレジェイラに決まっているだろう!」
との自分の叫び声で眠り姫は起きることになるのだった。