5 魔女の呪い2
セレジェイラは怪我の手当てを終えてリアムの執務室に戻った。
「殿下、戻りました」
「ああ、腕を見せろ」
「包帯を巻かれたので見えませんよ」
そう言っても腕を取られ、包帯を確認された。
「痛みは? 傷は残るのか?」
「平気です。傷も深くないので大丈夫だそうです……マリエッタ様は?」
「まだ来ない。仕事が出来ん」
頼んだ資料はまだ届いていない。セレジェイラがリアムに頼んでいた仕事はもう終わっていて、資料がなければ次の仕事に進めない。
きちんと見たわけではないがあのリストにのっていた物を揃えるのにセレジェイラは自分なら十分くらいかと思われた。けれどマリエッタは普段行かない資料室で何処に何があるのか理解しているわけもなく、並び順さえも分からないだろう。セレジェイラはよく王都の王立図書館を利用していたので、資料の並べ方が一緒だったのにすぐに気付き、それほど戸惑わなかったのだが。
既にあれから四十分以上。これ以上は待つのも面倒だ。
「行ってきます」
「出来ると言うのだから最後までやらせろ」
「……何か怒っています?」
「自分の直属の部下を馬鹿にされればいい気分ではいられないさ。コナー、あれを連れてこい」
リアムに言われコナーは小さなゲージを持ってきた。中にはあの小さな虎が丸まっていた。
「許可して下さったのですか!?」
セレジェイラの嬉々とした表情を見てリアムは眉を寄せた。
瞳を輝かせる子供のようなセレジェイラは初めて見る。というよりこれほど嬉しそうな顔は初めてだ。
自分がどれほどのものを贈ってもこんな表情をしないものを面白くない。
金の靴と銀の靴を贈ったときですら「本当に用意したんですか」と感嘆ではなく呆れ混じりに言われたのだ。
「飼うのは躾が済んでからだ」
「大丈夫です! 私がしますから。触りたいです!」
「出してくれ」
早くとせがむような表情に溜息しコナーから受け取った虎をセレジェイラに手渡した。
「ほら。気をつけろよ」
「きゃー! 可愛い!! もふもふです!」
セレジェイラが手渡された虎の子に頬擦りすれば、虎はセレジェイラの顔を小さな舌でペロペロと舐めた。
「あ……やっくすぐったい! きゃぁ、ふふ……やだ……」
セレジェイラはクスクスと笑って虎をきゅうっと抱き締めてみせる。コナーは空気が張り詰めるのを肌で感じた。
「セレジェイラ、此方に寄越せ」
リアムは冷たい笑みを浮かべセレジェイラに虎を寄越せと手を差し出した。セレジェイラが不思議そうに手渡そうとする虎の首根っこを掴み、目前にぶらりと下げた。
「虎。俺より先に俺の秘書官を舐めるとはいい度胸だな。要らん。飼うのは止めだ」
ぽいっとリアムは虎をコナーの方へと放り投げた。虎は難なくコナーが抱きとめたが、セレジェイラは悲鳴を上げた。
「きゃー! 何をするんですか!」
「煩い」
「殿下の嘘つき! 願いをきいてくれると言ったのに!」
「……“お願い、リアム”と言ってみろ」
「お願い、リアム」
言われるままにセレジェイラはリアムの服をきゅっと握り上目使いに懇願した。こんな風に頼まれれば男ならば拒否出来ないような可愛さだ。
「お前、こういうの巧いな。だから令嬢方に嫌われるんだ」
「嫌われるのを助長する方に言われたくありません! 殿下、お願い」
「はあ……調教してからだぞ」
「私がやるからいいんです!」
リアムがしぶしぶ了承すればセレジェイラは再び虎の子を抱き締めた。そこに、マリエッタが資料を持ってきたと声がかかった。
「殿下、お待たせしました」
「ああ、本当に遅かったな」
頬を紅潮させ部屋に入ってきたマリエッタに、リアムはセレジェイラの腕にいる虎を一撫でし素っ気なく答えた。
「申し訳ありません」
マリエッタは褒めて貰えると思っていたのかがっかりとして謝罪した。あれから一時間近く経つ。普段から仕事をしているものにとっては遅すぎる。
「マリエッタ、俺の秘書官の仕事が君にも出来ると言うならこのままやってみないか?」
「はい?」
「まずは資料を順に並べてくれ」
「あの、なんの順にでしょうか」
「仕事がしやすいようにだ。そして何から手をつけたらいいのか指示をくれ」
「え? あの?」
「頼んだ資料は難しい類いのものではない。自分で揃えたのならば何をするのか位は分かるだろう。最近は仕事の順は秘書が指示をくれる。だからコナーが別の仕事をすることが出来、早く進んでいるんだ。指示をくれ」
意地悪な事を言う。働くという概念のない、令嬢としての嗜みしか教育されていない者がそう簡単に出来ることではない。
「マリエッタ様、殿下の机にある書類はある程度分類されています。そこにある簡易な一週間のスケジュールを見てどれから進めればいいのか見当をつけるのです。何がどの書類かくらいは一番に上に置かれた書類の項目でわかります」
「セレジェイラ、口出しをするな」
「ですが、このくらいは」
「お前はコナーに教えられず自分から確認して仕事を見つけただろう。マリエッタ、俺の秘書官の仕事は予定の管理は勿論だが、今では俺に仕事をさせることが大きな役目だ。やらせてみろ」
「しばらくお待ちください」
マリエッタとしては王子の傍近くに仕えたいと必死なのだろう。セレジェイラの言った通りにスケジュールと書類を見比べる。けれど捗る様子は一向にない。
「準備に時間がかかりそうだな。茶でも飲むか」
「では、お茶の準備を」
「どちらの準備が先に終わるだろうな」
リアムもコナーもさらりとそんな事を言う。これでは苛めているようだ。
「殿下、下準備もなくその日にここまでやらせるのは無謀です」
「お前は教えられずにやった」
「私は殿下が会議中に仕事の確認をする時間がありました」
「お前は俺をこんなに待たせたことがない。追い立てるように仕事をさせる」
「私は割合そういうことが得意なんです」
「お前は自分を馬鹿にした相手を庇うのか?」
「馬鹿にはされていません。やっかまれたんです!」
「はは。お前も甘いな。……マリエッタ、俺の秘書の仕事を甘く見るからこういう目に遭う。この資料も自分で探したのではなく資料室の者に頼んだのだろう? あの簡易なリストでは初めてであれば足りないものや間違った物があっても不思議はないがそつなく揃えている。だがそれだけだ。セレジェイラはリストを見て更に必要と思われるものまで用意してくれる。君には俺の秘書は勤まらない」
「……申し訳ありません」
「分かればいい。下がってくれ」
マリエッタは肩を落として退室した。憧れの王子から冷たい態度を取られ、尚且つ敵視していたセレジェイラにフォローされるような事を言われれば心中は穏やかではいられないだろう。
「はああぁ……また私が苛められるんですね」
「負けていないじゃないか」
「負ける気はありませんが、いい気分ではいられませんよ。ちょっと癒されて来るので隣室をお借りします。殿下は上から順でいいので書類を片付けておいてください」
セレジェイラは虎を抱いたまま休憩用の隣室の扉に手をかけ言った。
「躾もしますので暫く入って来ないで下さいね」
隣室から顔だけ覗かせてそう言うとパタンと扉を閉めた。
「本当に“やっておけ”の言葉だけでリアム様に仕事をさせられるのはセレジェイラ様だけですけれどね」
黙って書類に向かうリアムにコナーは小さく笑う。
「本人はそれを分かっていない」
リアムも書類を捌きながら口許が弧を描く。仕事を進めていくと積み上げられた書類の途中に書類ではない紙片が挟まれている。
【休憩です。今日はフランボワーズのムースです。ご希望があれば一口なら食べさせて差し上げます】
ここまでやれば休憩していいですよ、という意味のメッセージ。しかもご褒美付きだ。進めてしまうのも仕方がない。
デザートはセレジェイラが食べたいものを料理長にお願いしているらしい。さっきリアムにしたように頼まれれば断れないだろう。今では調理の者の方から何にするかと訊きに来るという。
数十分間書類を片付け、リアムは隣室への扉を見た。その気配にコナーも顔を上げた。
先程までは笑い声と「ダメ」という声が微かに聞こえ、一旦静になり、また笑い声と繰り返していたが、今は静まりかえっている。
「出て参りせんね」
「……覗いてみるか」
二人は立ち上がり扉をコンと一つ叩いた。
「セレジェイラ?」
名前を呼んでも返事がない。
「開けるぞ?」
暫く入ってくるなと言われたので念のためゆっくりと開けてみる。
セレジェイラはソファで虎と一緒に丸まっていた。
「眠ってしまっていますね。初めてですね、こんなことは」
「そうだな……夢見が悪かったと言っていたしもしかしたら昨夜はよく眠れなかったのかもな。それにしても起きないとは無防備だな」
「普通のご令嬢は人の気配など察することは出来ないでしょうから。それにしても、気を許しているということでしょうか」
「まあな。……仕方がない、暫く寝かせておくか」
セレジェイラのあどけない寝顔に、リアムはその頬を撫でた。
「……リー……だ…すき……」
セレジェイラが夢現の中、微笑み呟いた。リアムの手がピクリとし、止まった。
「……何と言った?」
「……リー、と言いましたね。リアム様のことでしょうか?」
それだけではない。「大好き」と言った。リアムの表情が厳しくなる。寝かせておくかと言った本人がセレジェイラの肩を強く揺すった。
「起きろ、セレジェイラ!」
「ん……あ、すみません……眠ってしまっていたんですね。……でも残念……いい夢を見ていたような気がするのに」
「リーって誰だ?」
リアムが不機嫌に訊ねた事にセレジェイラは満面の笑みを見せた。
「そう! リーです! リーの夢を見ていたんですよ!」
「だから誰だ!?」
「昔飼っていた猫です。もう!可愛くて!」
「猫」
「ええ。伯爵家に引き取られ流石にすぐには馴染めなくて……継母が面倒を見るようにと連れて来てくれたのです。リーを介して家族との距離も縮まって……大切な猫だったんです」
リーの正体には拍子抜けするが、猫の話をするセレジェイラはとても楽しそうだ。
「それで猫好きか」
「ええ。私は猫派です。殿下は?」
「俺? 俺はどちらかというと犬だな」
「そうですか。気が合いませんね」
聞いておいてその返答かと言いたいが、今のセレジェイラには猫と虎のことしか頭と眼中にないようだ。普通の令嬢ならばリアムの嗜好を聞いておいて「私もです」と答えるものだが、セレジェイラはしようともしない。彼女も好いた男の前では自分を偽りよく見せようとするのだろうか。
「コナー様はどちらですか?」
「私は猫ですね」
「一緒ですね! 猫、可愛いですよね!」
セレジェイラは殊更いい笑顔をコナーに向ける。コナーの方も「可愛いですよね」と穏やかに答える。穏やかでいられないのはリアムで、除け者かと苛ついていればくるりとセレジェイラが顔を向けてきた。
「殿下、猫は嫌いですか?」
「いや? 嫌いではないが」
「それは良かったです。この子も可愛がって下さいね。私も別に犬が嫌いなわけではありませんよ」
まあ、いいか。ペットの嗜好で喧嘩などになることはなさそうだ。
「……首輪、用意するか。濃く青い目をしているしラピスラズリでも嵌め込めばいい」
「いいのですか!? 嬉しい! そうだ、名前はラピスにしましょう!」
今日は朝から夢見が悪かったと浮かない顔をしていたが、虎のおかげか浮上したようだ。本人が『嬉しい』というように表情は明るく機嫌も戻った。もっとこういう表情が見たいものだとリアムは思う。
「安直だな」
「そうですか? 可愛いですよ」
「……お前は自分より他のものに何かを与えた方が喜ぶんだな。母君にダイヤでも贈れば少しは喜んでくれるか?」
「いただけるんですか? 姉達には?」
「何がいい?」
「姉は二人とも結婚するんです! 青い宝石がいいです!」
「サムシング・ブルーか。分かった」
ぱぁっとセレジェイラは顔を輝かせる。そうだ。ずっとこういう顔をしていればいい。
「殿下! 嬉しい! 貴方は素敵な人です!」
「本当にそう思うなら頬にキスの一つでもしてくれ」
「いいですよ」
『セクハラですよ』といつものように言われるかと思っていればすんなりと肯定の声。えっと驚いている間にふわりとリアムの頬に柔らかな感触が触れた。
「ふふ。本当にありがとうございます。眠ってしまって申し訳ありません。お詫びに傷に対する慰謝料はなかったことにします。仕事に戻りますね」
何処までもにこにことセレジェイラはご機嫌でリアムに背を向け執務室に戻った。
「頬にキスで今更顔を赤くするとは驚きです」
「煩いぞ! コナー!!」
側近にぼそりと言われリアムはさらに顔を赤くして怒鳴ると、落ち着けと息を吐き、表情を改め執務室に戻った。
セレジェイラは穏やかな表情で文献を整理している。足元に絡みつくように動く虎、ラピスを時折撫でながら。
「機嫌が治ったな」
「夢見が良かったので」
リアムも執務椅子に付きながら言えば、特に視線を向けることもなく彼女は答える。リアムは執務机に肘を付き指を組んだ。
「セレジェイラ」
「はい?」
名前を呼べばようやくリアムを見た。
「俺の妃になれば居場所が確保できるぞ」
セレジェイラの表情が固まった。いきなり何を言うのかと戸惑い、そして言われたことを考えた。
確かにそうだ。妃となれば寵を失っても離縁さえされなければ生活には困らない。それにリアムは意外に誠実で他に好きな女が出来ようが側室として面倒は見てくれると思えた。
でも。
セレジェイラは静かに笑った。
「殿下の妃は嫌です」
「はっきり言うな」
「殿下こそ、好きでもない女に言うことではないですよ」
「好きではないと言ったことはない」
「逆もですね」
妃になれと言われても、好きだと言われたことはない。
リアムがなんのつもりで“妃になれ”と言っているのか分からない。気の置けない友人の延長で気が楽だからだろうか。
例えば、他の貴族男性からそう言われればそれでいい。“結婚相手として丁度いい”そんな関係の夫婦になれるのだろう。
でも、リアムとはきっと無理だ。
「私と結婚したら魔女の呪いに負けたという事ですよ」
「魔女の呪い?」
「とにかく殿下の妃にはなりたくないと言うことです」
「頑固者め。近いうちにその気持ちを変えてみせる」
「傍若無人ですね」
セレジェイラは文献の整理を終えて自分用の机に付く。膝の上に乗った虎の頭を撫でた。
さっきはリーの夢とは別にもう一つ違う夢を見ていた。
「幸せになってね。セレジェイラ」
「お母さんは?」
「お母さんも幸せになるの。お母さんだけを大好きって言ってくれる人がいるのよ」
「行っちゃうの?」
「セレジェイラ、貴女は頭もいいし、何より庶民として生きるには美しすぎる。令嬢として生きる方がきっと幸せになれる。私にはそれを与えてあげられない。だからアークライトに連れて行くわ。アークライト夫人はきっと貴女を導いてくれるから」
自分を諭すよう言う声と頬を包んでくれる手はとても温かく優しかった。
それは願望が見せたただの夢。
そんな都合のいい夢を見ていた。