寿司の話
私は今、都内の高級寿司店にいる。
両親の結婚記念日は夫婦水入らずで、と天日様が気を利かせ両親は今頃フレンチのお店でディナーを楽しんでいるはずだ。私と天日様も折角なので外食に行くことになったのだが、ここからズレが起き始めた。私がお寿司食べたいと言ったのが原因ではあるが、あくまで私のイメージしていた寿司は回転寿司。
こんなことになるとは想定していなかった。
想定していなかったから服装は制服だし、高級料理店に入る心構えも持ってきていない。
「天日様…寿司ネタに値段が書いてない…」
「いや、普通じゃろ」
カウンター席なので目の前の板前さんに聞こえないように小声で聞いてみたが、はっきりと否定された。
「本日はどうされますか?」
試されている。私はいま板前さんに高級寿司店のマナーを試されている。
最初は何だ…何を頼めばいい?卵か?白身魚か?いや、マグロか…?
「あー、では松のコースでお願いするかのう。ミサオもそれで良いか?」
「え、あ、あーよろこんで」
コースかぁ!そういうのもあるのか!盲点!盲点だった!
というか天日様慣れてるなぁ…普段からこういう店に来ているのだろうか。
「何か苦手ものとかはありますか?」
「いえ、特に」
「はい。では握っていきましょうか」
まずは第一関門突破だ。
板前さんの丁寧かつ素早い動作の中で、魚が刺身に、刺身とシャリが合わさり、寿司になった。
何の魚かわからないが白身が眩しい。
「こちら、鯛です。塩を振ってますのでそのままお召し上がりください」
板前さんの手から直接下駄っぽい板の上に鯛の寿司が2つ置かれる。もうこの時点で芸術だ。
美しい曲線を描いた白い寿司は塩の輝きで一層眩しい。
さて、この芸術品、どうやって食べればいい?
手で行くか?箸か?
冷静になれ、私。まずはお茶で心を落ち着け…あっつ!
…こういう時は隣の神様を参考にしよう。
バレないように、冷静を装いつつ、天日様の動きを注視する。
「では、いただくとするかの」
天日様は躊躇いもなく3本の指で寿司を掴み、そして、口に入れる直前にネタが下になるように回転させて食べた。
なるほど、手で行くんだな。そして回転。
これぐらいなら、私にも真似できる。
「いただきます」
緊張で震える手をなんとか制御し、寿司を優しく掴み、そして、入れる直前で回転!
口の中で、うまさが溢れる。なんだ…この…これは。
鯛の甘さが塩によって高まり、さっぱりとした上品さに力強いうまみを感じる。
ネタとシャリの融合、刺身と酢飯をあわせただけではない。これが、寿司…!日本!
「おいしい…!」
口では表現できない。
気づけば2つ目がなくなっていた。
「いい食いっぷりじゃのう」
「今まで食べてきたお寿司の中で一番おいしい」
「ははっ!それはよかった!」
天日様も寿司の味に満足しているのか笑顔である。
大丈夫、私にもわかります。
「スルメイカです」
イカ。どこに行っても安定してる。可もなく不可もなく。しかし、ここは高級寿司店。見せてもらおう。
イカの寿司を取り、醤油につけ、回転させて、食べる!
もう回転寿司のイカは食べれない…。鮮度が違うのか握りの技術が違うのか、両方か、別次元だ。
しっかりした歯応えでありながら、噛み切れ、臭みのないイカの味が口に広がる。少し遅れてくるワサビの風味が気持ちいい。
「これがイカ…」
イカの力に震えながら天日様のほうを見ると、ちょうど寿司を醤油につけているところだった。
…しまった。醤油のつけ方を確認していなかった。
寿司を返してネタに醤油をつけるべきだったのだ。
シャリにつけて食べた私は板前に笑われていたのだろう。何たる失態か!
「コハダです」
次は光りものだ。
天日様の見よう見まねでネタに醤油につけて、同じように回転させて食べる。
うまい。酢じめされて引き締まった身が噛むたびにうまみを提供し、シャリと一緒に溶けていく。
コハダがおいしい店は当たりと誰かが言っていた。この店は当たりだ。
「……」
もはや言葉は不要。美味しいものに余計な感想は不躾、ただ味を噛み締め頷くのみ。
「マグロ、赤身ですね」
寿司と言えばこれ。赤と白の色合いは日本料理の代名詞と言わんばかりのものだ。
説明不要、マグロだ。寿司の味と言えばマグロ。しかし、回転寿司のものとは格が違う。マグロの中のマグロ。マグロの味を知らない人に私はマグロの説明ができない。
天日様がガリを口にした。
間髪入れずに私もガリを食べる。
「タマゴです」
ここにきて非魚介。しかし、タマゴも寿司屋のレベルを見るのに適した食材。そんなつもりはないが、
格の違いとやらを見せてもらおう!
次元が、違う。身近な食材なのにこうも差が生まれてしまうのか。
出汁が香り、口の中が魚介から地上の甘さに塗り替わる。濃厚な卵だ、きっと鮮度がいいやつ。
「次はホタテなのですが、ヒモはどうします?」
「おお、貝から捌くのか。ではお願いするかのう」
「お願いします」
ヒモ?ヒモってなんだ?まぁいい、くればわかる。
ちょっとのインターバルの間、少しだけ冷めたお茶を飲んで口をリセットする。
「ホタテです」
甘い、うまい。臭みがなく、シンプルにそれだけを感じる。
独特の食感は貝類の特権だ。
「ホタテのヒモです」
あーこれはあれだ、貝柱の周りについてるアレだ。寿司ネタになるのか。
しかし、ここにきて軍艦タイプ。いままでのノーマルとは違う。
だが、私は知っている。醤油を直接つけるのではなく、ガリをはけの代わりして醤油を塗るのだ。
グルメ漫画で知った知識だが、天日様も当然そうしているはずだ。
「生だとコリコリしてうまいんじゃよなぁ」
そう言いながら、手にしているのは醤油さし。
シリコンかゴムのボタンを押すと一滴だけ出してくれる奴。
いや、ちょっと待って。それ使っていいの?
「お、ミサオはガリか。よう知っとるのう」
「あ、うん…」
知った上での一滴醤油…!そうか…ガリの味が少なからずともネタに移ってしまうのを避けるため…!
これはトラップだ!寿司屋は知識を披露する場ではない!寿司を食べる場なのだという忠告!
失敗を悔いながらホタテのヒモを食べる。…回転はしなくていいだろう。
コリコリした食感は事前情報通り。しかし、味は先ほどのホタテとは別物だ。
ガツンとくる海の味は貝柱のホタテにはない力強さ、野生を感じる。
「甘エビです」
甘いエビと書くぐらいだから、当然甘い。
柔らかいが引き締まった身は噛むことで口内がエビになる。
私は茹ったエビより、生の甘エビのほうが好きだということを思い出させてくれる。
「トロです」
溶ける。これほど便利な表現があるだろうか。実際に口の中で溶けるのだから嘘ではない。
赤身とは違う、マグロがもつ別の一面。トロはマグロであることを証明する風味とうまみを残し、
静かに消えていく。
「ウニです」
オレンジ色のうまみの塊。粒が立ち揃い、形も整っている。
しかも軍艦ではないウニの寿司だ。回転寿司など目ではない、寿司屋の本気だ。
「んんーっ」
まずいウニは生臭くて一生ウニ嫌いにするレベルだが、これはうまいウニだ。
生臭さは一切なく甘味とうまみの暴力。だが…上品さは忘れない、そんな味だ。
「以上でコースは終わりですが…どうします?」
終わってしまった。どうして美味しいものには終わりが来てしまうのだろうか…
延長戦も考えたが、お腹はちょっときつい。あと1品ぐらいなら…しかし、何で終われば良いか。
…意地を張らずに素直に天日様に聞いてみよう。
「あと一品ぐらいなら…しめにぴったりなのってあります?天日様」
「ふむ…そうじゃな、では…」
寿司の最後を彩るネタとは何か、天日様の答えは…
「かんぴょう巻で」
「へい、かんぴょう巻!」
かんぴょう。
かんぴょう?野菜ですよ天日様?
高級寿司店でかんぴょうを頼む度量、私にはできない。しかし天日様のことだ、何かあるに違いない。
それに心なしか板前さんもちょっと喜んでいるように見えた。
「かんぴょう巻です」
かんぴょう巻。かんぴょう巻だ。茶色と白と黒の色合いはどこか物寂しさすら感じる。
きっと味もかんぴょうだろう…1つを手に取り口に入れる。
かんぴょう巻だ。おいしいけど、かんぴょう巻だ。鮮烈なうまみも甘味も食感もない、
優しく甘い、柔らかく煮込まれたかんぴょう…
そうか、これで良いのか。しめの一品として、これほど適切なネタだったとは。
寿司界のデザート、派手さはないが静かに微笑む祖母のような優しさ…お茶との相性も抜群だ。
全て食べ終わった時には確かな満足感、そして口の中がさっぱりした。
「ごちそうさまでした」
心からそう思えた。
高級寿司の余韻を噛みしめながら天日様と夜の道を歩く。
夜でも少し蒸し暑く、虫の鳴き声が騒がしいため、夏らしさが強調されている。
「いやぁ、おいしかったなぁ…お寿司」
「いい食いっぷりじゃったぞ」
褒められているのかわからないが、そうだと思っておこう。
「最後のかんぴょう、あれ良いですね」
「ん?あぁ、わしは昔からかんぴょうで最後にしとるからのう」
「そうなんだ」
「昔、かんぴょう巻を作るのだけが取り柄みたいな奴がおってな。
寿司屋に行く度にそいつの味を思い出して食べたくなるんじゃよ」
「へぇ、その人のかんぴょう巻って美味しかったの?」
「そりゃ勿論。…しかし、あの味にはもう出会えんかもしれんな…
あぁいや、今日のかんぴょう巻もおいしかったぞ?」
現代には残っていない幻のかんぴょう巻。なんともロマンのあるかんぴょう巻だ。
「息子さんとかに受け継がれてないの?」
「…いろいろあったからの。まぁまぁ、ええんじゃよ!今あるものを美味しく食べるのが一番じゃ!」
本当にいろいろあったのだろう。
それにしても、今回のお寿司はどれもおいしかったが、かんぴょう巻が全部持って行った感じがする。
しめの一品として、思い出の一品として…
食べ物は味だけでは無いのだなぁと思う、夏の夜であった。