これまでの話
くるみのアップルパイの味は今日も最高だった。
サクッとしたパイ生地にジューシーなリンゴ、程よいシナモンの香り。
紅茶を飲むと無限に食べられる気持にさえなれる。
「夏休みはまだあるのか?」
「まだ3週間以上ありますね」
「結構長いんじゃな」
他愛ない会話が続く。難しい話も、頭を使う話もなかった。
この雰囲気は両親と過ごす時のものとあまり変わらない。
「天日様は毎日が夏休みじゃないですか」
「何を言うか」
神様は引退しても忙しいのかな。
「冬休みもある」
「げほっ」
ちょっと紅茶を吹き出しそうになった。
「ミサオは旅行とかにはで出掛けんのか」
「んー、遠出はお金がちょっと。あ、電車で1時間ぐらいの水族館には行きたいです」
「水族館?」
「奇妙な生き物の展示が夏休みの間やってるんですよ」
「そういうの好きじゃなぁ、ミサオ」
カランカラン
「いらっしゃいませ」
お客さんだ。
今日は暑いから避暑地で使う人もいるのだろう。
オーナーの渋い声が心地良い。
「あ、暑い…死ぬ…、かき氷とアイスティーとアイスクリームください…」
一方お客さんは死にそうな声。いや、でも聞き覚えのある声だ。
「真白じゃないか」
天日様が驚いた様子でお客さんに声をかける。
振り向いて確認すると、汗だくで溶けてそうな真白さんが虚ろな目でこちらを見ていた。
「あー…ん?天日様にミサオさん!奇遇ですね!」
真白さんは目に光を取り戻してこちらに近づいてくる。
「ご一緒していいですか?」
「構わんよ」
「どうぞどうぞ」
真白さんは私の隣に座った。べちゃっという音がしたような気がしたが私には聞こえていない。
「おふたりはどうしてここに?」
「近所に住んでるんです」
「そうなんですか!」
「真白こそなんでこんな場所におるんじゃ。何もないぞ、この町は」
天日様のおっしゃる通り、何もない、この町は。
「ははは、この辺りに引っ越そうと思ってて…これから不動産屋さんに行くところなんですよ」
「何もないこの町に?」
「実は友達がこの町に住んでいて、折角だし、良いかなぁって」
前の民宿から出て行った経緯は聞かないでおこう。長くなりそうだ。
「友人とは…人間以外のか?」
「はい、狐の子なんですけど、この辺りの神社で…」
「楓さん?」
「そう!楓ちゃん!お知り合いですか?」
世の中意外と狭いものだなぁと時折思うことがある。今がそれ。
「楓はあやつが子供のころから知っとるよ。交友関係は広いと思うてたが、まさか北海道まで…」
「あれ、どうして私が北海道出身だと。言いましたっけ?」
「んー、あー、神様は何でも知っとるんじゃよ。お狐ネットワークでわからんことはない」
なんだお狐ネットワークって。
「うーん、深酒したときに話したのかな。でもおふたりがこの町に住んでるなら、なおのこと」
「失礼します。アイスティーをお持ちしました。かき氷とアイスクリームはご一緒に出しても
よろしいですか?」
「はい!お願いしま…」
真白さんが店長さんの顔を見て固まった。
「お客様?」
「あの!私をウェイトレスとして雇ってください!住み込みで!なんでもします!
氷とか作れます!経験豊富です!」
「ええ!?」
店長さんが驚いているところを初めて見た。
真白さん、こういう男の人も好きなんだな。
「はぁ…騒がしくなりそうじゃのぉ。この店もこの町も」
「そうですね」
真白さんの鬼気迫るアピールに店長さんは折れそうだ。
天日様はその様子を呆れながらも楽しそうに見ていた。
昔のような日常は帰ってこないのかもしれない。
でも、新しく迎える日常はもっと良いものになるだろう。
根拠も何もないが、いまこの時間が楽しいと思えるのならば
きっとそうなるに違いない。
この町には何もないが、狐の神様が住んでいる。
あとこれからは雪女も。
私達だけの日常が待っている。




