表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

約束

作者: 蒼原悠






 少女が子犬と出会ったのは、ちょうど二年前の今のことだった。


 新たな年度の門出を祝うように、風に乗って桜が吹き乱れていた頃。

 ふと立ち寄った公園のベンチの下で、子犬は小さな段ボール箱の中に座っていた。そうして、驚いて声を失った少女を、そのつぶらな漆黒の瞳でじっと見つめた。

 かわいい子犬だ。毛並みの茶色い柴犬だった。まだ中学生になったばかりの少女でさえ、腕をいっぱいに伸ばして抱いてしまえばすっぽりとその中に収まってしまいそうなほど、その子犬は小さかった。

 だが、誰がどう見たってこの子は捨て犬だ。

 拾ってあげたい。飼ってあげたい。すべての衝動に目をつむって、少女は代わりに差し伸べた手で子犬を撫でた。撫でながら、祈った。

 どうか、この子にいい飼い主さんが見つかりますように。この子を迎えてくれる優しい家が、ありますように。

 さわさわと身体を撫でる少女を前に、子犬は目を閉じてなすがままになっていた。その仕草がいとおしくて、このままでは未練が生まれてしまう気がして。それきり少女は手を離して、そっとそこを立ち去ったのだった。




 人口数十万人を越える、大きな都市。その片隅の住宅街で、少女は育った。

 母はいない。血の通った親戚なら多少はいるが、近くにいてくれるのは父だけだった。父は多忙だったが、少女のためにならば何でもしてくれる人だった。

 そんな少女には、小学校の頃も、中学生になった今も、友達と呼べる存在は少なかった。向こうから近づいてくる子はいたが、少女の側がいつも交流を拒否していた。最低限の会話さえできれば、それでいい。そう考えていたのだった。




 もう二度と、会うことなどないと思っていた。


 件の公園があるのは、中学校からの帰り道だった。

 学校という名の居場所(ハコ)から、家という名の居場所(ハコ)まで、ただ誰にも会わず、話さず、黙って帰るだけの道。だが、下を向いてとぼとぼと歩いていた少女を、子犬は目敏く見つけていた。

 吠える声がしたと思ったら、あの子犬は少女の足元にじゃれついていた。そして少女が子犬の存在に気付いたと見るや、その場でお座りをして見せた。

 ねえ、撫でてよ。

 聞き覚えのない声が、耳元で舞ったような気がした。

 少女はしゃがんで、子犬の柔らかな頭を撫でてあげた。撫でながら、子犬の浮かべる幸せそうな笑顔が、じりじりと瞳孔に焼き付いていった。

 気持ち、いいの?

 少女は黙したまま、訊ねた。

 子犬に人の言葉は話せないし、伝わらない。だから返事など期待していなかったのに、子犬はこくんと首を振ってみせた。

 その一瞬、少女の心に大きな脈動が起こった。


 季節は春。

 出会いの桜は爛漫に咲き乱れ、公園は明るい桃色の花びらに彩られていた。




 自分の裁量では、この子を飼うことはできない。

 それが分かっていながら、いや分かっているから、それからも少女は毎日のように、子犬のところへと足を運んだ。


 毎日、決まった時間になると、少女は通学路になっている公園前の道路を通過する。どうやって覚えているのか、とにかく子犬はその時間を知っていた。嬉しそうに駆け寄ってきて、少女の足元にまとわりついた。それから、頭を撫でることをねだるのだ。

 子犬はかわいい。貰えるなら貰いたい、自分の家で愛してあげたい。いつまでも子犬と遊んでいると、いつしかそんな気持ちになっていってしまう。そうと知っているのに子犬を遠ざけられなくて、少女は内心、戸惑っていた。もう通学路を変えよう、この子を見ないようにしよう。何度もそう考えたが、実行には移さなかったし、移せなかった。

 何より、子犬の楽しそうな姿を見ていると、難しいことを考える気持ちがあっという間に霧散してしまうのだった。

 ある日を境に、少女は自分から公園の中へ向かうようになった。そうして、ひっそりと寄り道をして買った食べ物を、手のひらに乗せて子犬にあげるようになった。子犬はいつも、千切れてしまうのではないのかと思うほどに首を振り、しっぽを振って、その思いを少女に精一杯見せてくれた。

 こんな私の手でも、誰かを喜ばせられる。

 そうと気付いてから、少女は段々と子犬との付き合いが楽しくなってきた。飼えなくても構わない、ここでこうして触れ合っていられるのなら──。いつしか、そんな風に考えるようになった。

 毎日の午後四時、誰もいない公園の真ん中。やがてそこが、少女と子犬の新たな居場所になっていった。

 この街では四時きっかりに街の防災無線から、時報代わりの『夕焼け小焼け』が流される。どこか哀愁を帯びた、でも確かな“約束”の存在を感じさせてくれるそのメロディは、いつも二人──一人と一匹の時間の始まりを、遠くからぼんやりと告げてくれた。




 少女は、誰かに甘えるのが苦手だった。

 父は優しい。少女のことを、いつも気にかけてくれる。けれど少女は嫌だった。自分のせいで父の負担が増えるのが、自分が父のお荷物になるのが、どうしても嫌だった。甘えないで済むように、強くあるために、少女は必死に勉強したし、家事も覚えてきた。

 クラスメートたちだって優しい。少女が冷めた返し方しかしないのに、色々と話しかけてきてくれる。少女にはそれが、怖かった。自分の小さな胸の中だけに抱えておきたい事柄を、クラスメートたちにほじくり返されたくなかった。私に関わっても、何も出ないよ。そう思わせることは、それによって自分自身を守ることと同義だった。


 甘える。

 心を許す。

 そんな経験は、少女にはない。

 むしろ懸命に、我慢してきたのだ。

 『座り方』の決められた、狭い居場所(ハコ)の中で。ずっと、ずっと。




 季節が巡り、時間が流れていっても、子犬はいっこうに誰かに拾われていく気配がなかった。

 子犬の寝床は段ボール箱だ。どこかも知らないペットショップの店名の書かれた、ベンチの下に収まってしまうくらいのサイズの箱。箱に戻る時、いつも子犬は窮屈そうに不快な顔をして、くうん、と鳴いた。それでもそこは大切な『仮の家』のようで、新しい段ボール箱に取り替えてあげようとすると、子犬はいつも拒否の意思を示した。

 子犬が少女の気持ちに逆らうのは、逆に言えばそれだけだった。少女がかわいがってあげれば、その分だけ子犬は少女にすり寄って、ご機嫌な声を上げてくれた。


 そんな子犬の姿に、少女は感銘を覚えていた。

 いや、そうではない。驚いていたのだった。

 差し伸べられた手に、素直に甘えるなんて。少女には決してできないことだったし、考えられないことだった。子犬はわざと甘えた素振りを見せているんじゃないか、とさえ思った。でも、ふさふさの毛の生え揃った腹をこちらに向けて、膝に乗ったまま無垢な瞳で見上げてくる子犬を見るたび、そんなはずはないとしか考えられなかった。


 もしも、少女の存在が子犬を素直にしているのだとしたら。

 子犬の前では少女だって、素直になってもいいのだろうか。


 少女は公園までの道を、いつも走っていたり、あるいは急ぎ足で歩いていた。

 家路は一キロ弱。少女にとって家路とは、懸命に歩くことに専念することで、その日にあった嫌なことを頭から振り切るための時間だったからだ。きれいさっぱり忘れたつもりになることで、少女は胸の中のメモリーがいっぱいになってしまうのを何とか防いでいた。

 ある日、いつものように子犬のもとを訪れた少女は、子犬のあごを優しく撫でながら、ふと口を開いた。

 ねえ、聞いてくれるかな。

 子犬はつと顔を上げて、少女を見つめた。その表情の穏やかなのに、少女の心は支えられていた。あのね、と何回か繰り返しながら、少女は学校であったことをぽつりぽつりと話して聞かせた。

 こんなことがあったんだよ。あんなこともあったんだよ。きみは、どう思う?

話しているうちにつらくなってきて、少女はうつむいた。すると子犬は、頭に乗せられたまま止まっていた少女の手に、ちろっと舌先で触れた。少女の反応が悪くないのを見て、今度はぺろぺろと舐め始めた。

 たったそれだけ。それだけなのに、少女の心はびっくりするほど落ち着きを取り戻してしまうのだ。


 少女の悩み相談は、それから恒例になった。

 時には声色を怒らせた。時には悲しみが募りすぎて、涙が込み上げてきた。どんな時も子犬は耳をぴんと立てて聞き届け、それから少女の身体を舐めてくれた。

 こそばゆくて、でも心地よくて、少女の心はぽかぽかと温まった。人間を相手にしているよりも、子犬を相手にしている方が何倍も楽しくて、幸せだった。

 そして、嬉しかった。言葉で返事をしてくれることがなくても、自分の話を最後まで聞いてくれ、自分を癒やそうとしてくれる子犬の姿勢は、今まで少女の目にしたことのない、真実の『優しさ』のように思えた。


 子犬も、少女も。

 お互いの居場所(ハコ)の外に出て、こうして寄り添っている時間が、きっと一番に楽しかったに違いなかった。




 心を許すということ。

 それは、自分の心への相手の侵入を許すことではない。はたまた干渉を許すことでもない。

 寄り添う権利を、相手に与えてやることだ。


 価値観が少しずつ変わりはじめてみると、少女を取り巻いていた世界の見え方も、それに従って少しずつ変化を見せてゆく。

 少女の周りにいくらでも散らばっている、友達関係。少女はそれを、互いに心に侵入し合うことだと捉えてきた。だからこそ、嫌だったのだ。

 だが、実際はどうか。片方が悩みを打ち明けている時、もしももう一方が心に侵入する気でいるのなら、その人はさらに言葉を畳み掛けて話を自分のペースに持っていこうとしたりするだろう。むしろ、少女と子犬のように、聞く側はあくまでも聞くことに徹して、あとは慰めてあげることにとどめている場合の方が、ずっと多い。

 心の許し方、素直になるやり方を、みんなは実際の人間関係の中で学んでいる。

 私、人間相手でも素直になれるかな。

 何度もそう、自問した。

 自分の胸のうちを口にすることの怖さは、子犬を相手にしてきたことで克服できてきている。だったら、私にだって。そう思った少女は徐々に、今まで少女がその存在を拒んできた周囲の人々に対して、素直であることを意識しながら接し始めるようになった。

 真心さえあれば、ギクシャクなんてしたりしない。注いだその分だけ、気持ちは返ってくる。

 少女はそう信じるようになった。そしてそれは、事実だった。勇気を出して話しかけてみた『友達候補』たちはみな、快く少女を仲間に引き入れてくれた。

 それもこれも何もかも、少女は子犬に報告することを忘れなかった。子犬はいつも顔をきょとんとさせて、僕、何かしたっけ? なんて言いたげに首をかしげるのだった。




 ある日、少女が子犬と一緒にいるところに、通りかかったクラスメートたちが話しかけてきた。

 クラスメートたちはかわいいかわいいと子犬を誉めちぎった。同時に、少女が子犬のお世話をしているのだと思ったのか、少女のこともしきりに褒め称えた。褒められる経験など今までほとんどなかった少女にとって、すごいねと目を輝かせながら言ってきてくれるクラスメートたちの姿は、少し特別な存在に見えた。


 その日以来、クラスメートたちは頻繁に公園に寄っては、そこで時間を過ごすようになった。

 環境の変化に困惑こそ覚えたものの、寂れた公園に賑わいが戻ってきて、少女はなんだか楽しかった。

 たぶん子犬もだろう、と思った。




 ある日、少女の父が再婚の話を持ちかけてきた。

 日中、少女が独りであることを、長いこと危惧していた末の提案なのだそうだった。相手はまだかなり若い人だという。きっとお前のことも愛してくれるさ、なんて父は笑った。

 まるで寝耳に水だった少女は、当惑した。とてもすぐには返事ができなかった。

 だが、こう思い直した。ここで父の話を受け入れることは、父の危惧を安心へと変えてやれるということ。それはつまり、父の負担を減らしてあげられるということなのだ。

 了承のつもりで、少女は微笑んだ。父も、笑ってくれた。


 蓋を開けてみると、再婚相手だという女性は少女のことを知っていた。

 少女と子犬が公園で触れ合っているのを、女性は何度か通りがかりに見かけていたのだという。そうか、君だったのね。優しいんだね。挨拶に来て早々、猫撫で声で褒められて、少女はまた少し複雑な気分になった。まるで少女が慈善事業として子犬に付き合っているかのような言い方に感じたからだ。

 とは言え、新しい母となるその女性は、少女に対しては総じて優しかった。何かと気を使ってくれ、少女が浮かない顔をしていると眉をひそめてくれる。家事の出来は少女には及ばなかったが、それでも積極的に取り組み、少女の苦労を少しでも減らしてくれようとした。

 それもまた、少女の知らない一つの人間の在り方だった。

 ねぇ、聞いて。今度、私に新しい家族ができるんだよ。私、素直に喜んでもいいのかな?

 少女は子犬に相談した。子犬は楽しそうにしっぽをぱたぱたと振ってくれて、少女はそれが『いいと思う』の意味だと思った。

 どうせ家族が増えるのなら、この子犬も一緒に家族に迎えてあげたいのに。なんだか申し訳なくて、その日はいつもよりも長く一緒にいてあげた。




 父と女性は盛大に結婚式を挙げて、正式な夫婦になった。母の隣に並ぶ父は、これ以上にないほど幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 少女の周りには、仲良くしてくれる人間が増えていった。関わりを持つことへの恐怖を拭い去ってしまうと、そこには色々なタイプや考え方の人々が集う楽しい世界が待っていた。


 少女は初めて、日々を楽しいと思った。

 楽しいと幸せは、違う。子犬と共にいる時間は幸せだ。でも、楽しいと感じたことはない。家に誘われてゲームをしたり、とりとめのない話で時間を潰したり、公園の中でみんなと走り回る時の、何とも表現し難い興奮と気持ちの盛り上がりは、子犬と過ごす時間の中では経験したことがなかったし、できなかった。

 そんな少女をおだてるように、友達は少女を毎日のように遊びに連れ回した。

 だんだん少女は、子犬の隣で黙って座っている時間が短くなっていった。空白の時間が一日になり、二日になり、長い時には一週間近くも顔を見なかった。

 そうなると、久し振りに姿を見た時の罪悪感も計り知れなかった。ごめんね、ちょっと忙しかったんだ。不満そうな表情の子犬の頭を撫でながら、少女は決まって心の中でそう陳謝した。そうすれば子犬は大抵しっぽを振って、いつものように少女の手のひらを舐めてくれた。




 少女に、流れに逆らう力はなかった。それどころか、逆らい方すら知らなかった。

 少女と子犬だけの時間がゆっくりとひび割れ、壊れ、消えてゆくのを知っていながら、少女にはどうすることもできなかった。




 友達の少女へのアプローチは、さらに増えていった。

 子犬と離れている時間のあまりの膨大化を少女が気にすると、友達は少女について公園まで来たがった。そうして子犬を可愛がり、少女を褒め、周囲で大声で遊んだ。

 そのやかましさのせいで、少女は子犬に話しかけられなくなった。少女が子犬を撫でることは増えたが、子犬が少女を舐めることは減っていった。

 それでもそこに寄り添っていようとすると、友達は少女を呼びつけて一緒に遊ぶことを要求した。

 少女の行動は友達に支配されていたも同然だった。でも抵抗を知らない少女は、黙ってそれに付き従った。

 子犬はそんな少女の背中を、いつも悲しそうな瞳で眺めていた。




 少女の忙しなさは、家でも同じだった。

 母は毎日のように遊びに出ては、たくさんの買い物をして遅く帰ってきた。それは構わないのだが、問題は家事の苦手さにあった。料理は失敗を繰り返し、洗濯物干しは効率が悪くてちっとも乾かず、結局どれも少女が手伝う羽目になった。

 手際が悪くてごめんねー、なんて母は情けなさそうに笑った。それも少女と母だけの時だけで、父が帰ってくると途端に母は別人のようになって、良妻賢母の手本のように振る舞おうとした。

 少女には理由はさっぱり分からなかった。分からなくていいのかな、と感じた。


 子犬に依存していた少女は、やがて周囲の人々に依存されるようになった。

 依存することと、されること。それはまるで似て非なる営みだ。依存されることは嬉しいし、自分が大切な存在であるように感じられて幸せだったが、同時にそれはひどく少女を疲れさせ、くたびれさせた。

 充足感だけを対価にして方々から頼られる日々の中で、少女はふと思った。あの子犬も、こんな風に疲れていたのだろうかと。自分の悩みばかりを押し付けていることを、今の今まで少女は一度たりとも省みたことがなかったのだ。

 あの子は私が来ると、いつも嬉しそうにしっぽを振ってくれる。その行為が本心からだとしても、あの子を疲れさせているのだとしたら……。

 少女は悲しくなった。子犬のことを遠ざけたくはないのに、子犬に近寄るのがいけないことのように感じてしまう自分が、少しずつ嫌になった。




 姿を見ない時間が二週間に及んだ、ある日。

 あの公園に行ってみると、子犬はいなくなっていた。

 いつもの場所に箱がない。少女は一瞬、我が目を疑った。自分は異世界に転移してしまったのかと、本気で疑いたくなった。

 しかし考えてみれば、何のことはない。少女がここに来ないでいた間に、おそらく子犬は誰か優しい飼い主に出会い、拾ってもらえたのだろう。

 よかったね、もうあの子も一人ぼっちじゃないんだね、と友達が笑った。少女もうんとうなずいて、微笑んだ。微笑んでから、ずいぶん懐かしい微笑み方だなと思った。

 子犬の寝床の段ボール箱があった場所には、踏みにじられたようなタバコの吸い殻が一つ、見捨てられたように転がっていた。




 少女が公園に立ち寄る理由は、こんなにも呆気なく、消えてしまった。




 あの子犬がいつかこうなることは、ずっと前から分かっていたはずなのに。

 急に心臓にぽっかりと空いた穴のようなような物足りなさが、少女の心に生まれた。

 子犬のいなくなる前と、いなくなった後の今。何も変わらないはずの日常が、違和感で埋め尽くされた。


 今日もいつものように、友達が放課後に一緒に遊ぶことを提案してきた。

 少女は無意識のうちに、その誘いを断っていた。なにか考えがあったわけでもないのに、今日はいいと口にしていた。

 驚いたような表情を浮かべつつも、友達は渋々といった様子で少女のもとを離れていった。

 やがて教室から人影は消えた。他人との関わりを拒否していたあの頃と変わらない孤独が、少女の周りをぐるりと取り囲む。──すると、感じ続けてきた違和感もまた、その在処もろとも浮き彫りになった。

 少女は、一人で歩き出した。


 ふと見上げた、塀の上。

 すぐ横を何気なく通り過ぎたはずの、電柱の影。

 薄暗くてよく見えない、生け垣の中。


 少女は辺りを見回しながら、あの公園を目指した。

 あんなに頻繁に通ったはずの道なのに、周辺の景色を少女はまるで覚えていなかった。それだけ、この道を往く間は子犬のことで頭が一杯だったのだろうか。

 今は、どこにいるんだろう。きちんと食べているのかな。新しい飼い主さんのもとで、元気にしているのかな。

 道に転がった石ころを蹴りながら、嘆息した。新しい飼い主を心底羨ましく思った。自分だって負けないくらい、子犬のことを可愛がっていたのに。大切に思っていたのに。どうして少女には家族になる権利が与えられず、新しい飼い主には与えられるのだ。その差は、何だ?


 “大切にしていた”?

 どこが?

 お前はあれで、あの子を“大切にしていた”つもりだったのか?


 そんな疑問文が、脳裡で唐突にリフレインして。

 胸を衝かれて立ち止まった時、少女は公園のすぐ前まで来ていた。

 住宅に囲まれた狭い公園は、夕焼け色に沈んで仄暗い。言い得ない不気味な景色にも怖じけず、少女は公園に入り込もうとした。

 そしてその時、気付いた。公園の入口に設置された、一枚の看板の貼り紙に。




 『二十三区内の野良犬の急増問題の解決のため、先日、全域で一斉殺処分を行いました』




 少女が凍り付いたのは、言うまでもなかった。


 まさか。

 あの子犬は。

 新しい飼い主を見つけた、どころではなく。もっともっと恐ろしい場所に連れていかれたのではないか。

 根拠など、ない。飼い主が見つかった可能性を否定するものは、ここには存在しないのだ。

 そうであってほしい。そうでなければならない。苦しみながら、痛みに鳴きながら、殺処分される子犬の姿が残像のように公園内をよぎって、少女は目を覆った。怖くて、不安で、寒気がぞわりと膨れ上がったように思えた。


 不安だなんて。怖いだなんて。

 たいそう図々しい話だ。

 子犬を一人ぼっちにしたのは、少女ではないか。自分の都合で子犬から離れたのは、少女ではないか。

 それがなんで今さら、子犬を案ずる。そんな権利は少女にはあるのか。そんな価値は少女にはあるのか。

 言葉が伝わらなくても、気持ちが伝わった確証がなくても、子犬と一緒にここで座っていれば安心していられたかつての日々が、走馬灯のように少女の頭を駆け巡った。泣き言を言っても、もう遅い。本当にそうし続けていたかったのなら、保つ努力をすればよかったのだ。


 たまらなく淋しくて、不安で、少女はその場に立ち尽くしたまま、くすんと鼻を鳴らした。

 待ち合わせのBGM──『夕焼け小焼け』が、遠く聞こえてきていた。

 さっさと帰れ、お前の安住の地へ。今はそんな場所(ハコ)があるのだろう。そう、言いたげに。




 一週間が、一ヶ月が、あっという間に過ぎ去っていった。

 少女にとって、それは途方もなく長い苦痛の時間だった。


 子犬という大切な相手を失った衝撃が、少女からあらゆる楽しみや幸福を奪い去っていった。遊びに行っても楽しくも何ともなく、やがて少女はまた、友達を避けるようになった。

 それをウラギリだと捉えた彼らの行動は早く、少女はじきにいじめの対象になっていった。無視されるようになり、暴力を振るわれるようになった。抵抗する力も気持ちもない少女は、ただその激昂の為すままに痛め付けられ、苦しんだ。どんなに苦しんでも子犬のそれには及ばないのだと、いつも自分に言い聞かせながら。

 慣れてきたせいもあるのか、それとも少女が変化したせいか、継母もついに本性を現しはじめた。

 少女には薄々、分かってきていた。母はいつも少女の前でいい顔をしようとするが、真実その眼中にあるのは父だけなのだと。事実、自分と違って家事や勉強を黙々と、しかし完璧にこなす少女に、段々と母は僻みのような態度を向けるようになった。

 文句は嫌味になり、やがて怒りになっていった。その怒り方はいつも限りなく理不尽だったが、少女はどんな暴言も甘んじて受け入れ、謝った。どうせ父が帰宅すれば止む、という目論見があったのは事実だ。けれど、それだけではない。

これは、子犬を見捨てた自分への、天罰なんだ──。少女は本気で、そう信じていたのだった。

 学校も、家も、居場所と呼ぶにはあまりにも酷い環境(ハコ)に成り果てた。夜になるまでは懸命に我慢を重ね、布団の中で少女は毎晩のように泣いた。そして、泣き疲れると決まって子犬の夢を見た。生き生きと転げ回る子犬の姿が懐かしくて、頬を伝う涙の冷たさでいつも目を覚ました。


 悩みを打ち明けられる相手も、癒しを提供してくれる相手もいなくなって。

 少女は独り、傷付き続けていった。

 誰も気付かなかった。少女が必死で耐えている苦しみに、痛みに。そして、どうして独りでそれらを抱え込んでしまっているのかということに。

 子犬のおかげで、少女は明るいセカイを眺めることのできた。そうして子犬を失って、再び暗黒の中へと転げ落ちていった。……文字に起こしてしまえば、たったそれだけのことなのに。




 今日までの日々を、やり直せたら。


 真っ暗な部屋の中で、少女は考えた。


 こんなことになるのなら、それが分かっていたのなら、友達ばかりを優先することなどなかったのに。

 たとえ後悔することになったとしても、子犬のそばにいてあげられたのに。

 子犬を孤独にすることなんて、絶対になかったのに。

 そうしたらきっと、今の自分だって……。


 他人が怖い。

 甘えられない。

 差し伸べられた手が、恐ろしい。いや、それどころか今はもう、手を差し伸べてくる人もない。


 あんな考えに戻ってしまうことなど、なかったかもしれないのに。






 学校にも行かないようになって、数週間が過ぎたある日。

 少女は、腰を上げた。


 悲惨な食生活のせいで、身体はぼろぼろだった。立ち上がって歩くことさえ、最初は困難を極めた。

 それでも頑張って、少女は歩いた。歩いて歩いて、あの公園へと辿り着いた。

時刻は、夕方。賑やかな笑い声や軽やかな自転車の走行音が、まるで少女を嘲笑うように背後を通り過ぎていく。いつも子犬と遊ぶときに腰掛けていたベンチに座って、少女はふっと息を抜いた。

 そうしたら、思い出した。今ここで自分がこうしている理由を。


 子犬の帰りを、待とう。

 そうだ。よく考えたら、段ボール箱がなくなったからといって、子犬までいなくなったとは断言できないではないか。

 ここで待っていさえすれば、いつかその茂みからひょっこりと子犬が顔を出すかもしれない。万に一つも可能性がないと、いったい誰が言い切れるというのか。

 もし、顔を出してくれたなら。その時はまず謝ろう。心を込めて謝ったら、話そう。今のつらいこと、苦しいこと、泣きたくなるほど悲しいことを。そうすればあの子犬は必ずや、いつもと同じように小首をかしげ、それから鳴いて甘えてきてくれる。その言動のすべてが、かつては少女の問いかけへの答えだったのだ。

 子犬が示してくれた答えはいつも、少女に安らぎを与え、まだ見たことのない新しい世界を少女に見せてくれた。子犬を失った途端、それらは泡のように敢えなく消滅してしまった。

 子犬がいなければ、少女には何もできなかった。今だって何もできないのだ。こうしてこの場所で、待ち続けることしかできない。


 ね、そうだよね。

 私、待ってるからね。

 遥かに高い空を見上げ、少女はつぶやいた。その頬を一滴の涙がつうと伝って、真下に落ちていたタバコの吸い殻に跳ねた。






 それ以来。

 少女は来る日も来る日も、ただひたすらに待ち続けた。


 あの子犬の帰りを、それから関係の回復を、愚かしいほど素直に待ち続けた。家には決して、戻ろうとしなかった。


 どんなに天気が悪くなっても、やがて季節が移り変わっていってしまっても。

 窶れても、病に倒れても、痛みや苦しみに涙が溢れても。

 少女はそこで、待ち続けた。




 今までも、そしてこれからも。


 永遠に、待ち続ける。












──『くぅん』


──「……あれ、その声は……」


──『わう、わう!』


──「生きてたんだね! よかった、よかったぁ……! ほら、こっちにおいで!」


──『わおん!』


──「わっ、ちょっとくすぐったいよぉ! やめて、やめてっ」


──『わぅう……』


──「ごめんね、ごめんね。こんなに長い間、会いに来ないで……。最低な子だったよ、私……。お詫びになでなでしてあげるからね」


──『わん。……わう』


──「って、あれ? どこへ行くの?」


──『わん!』


──「待ってよ、疲れて上手く歩けないよ……。ねえ、教えてよ。私のこと、どこに連れていってくれるの?」


──『わん、わんっ』


──「……分かった。君のこと、信じるよ。どこへでも連れていっていいよ、私のこと。

君の見せてくれる道は、未来は、いつも正しかったもんね……」


──『わんっ!』


──「えへへ。……それじゃあ、行こっか」














 これは。

 始まりも、結末も。

 他の誰もが知ることのできない。


 独りぼっちの少女と子犬の、出逢いと別れと約束の物語。














お読みいただき、ありがとうございました。


これを読んでくださったあなたの胸にも、それから本編をすっ飛ばしてこの部分をお読みくださっているあなたの胸にも。

かつて誰かと交わした『約束』の場所が」、きっとあると思います。


どうか、どうか。

忘れないであげてほしいな、と思います。



蒼旗悠

2016/4/18



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] とてもぎゅっと胸が痛むようで、悲しみと切なさが溢れます。 昔から、犬を拾っては怒られ『捨ててこい‼』と言われ、猫を拾っては……、つばめの雛も拾ったときには本当に、 「その場所に捨ててこい…
[良い点] 少女の感情や思いが子犬に投影され、明確化されていく過程は、心理学もしくは精神看護学のアプローチに似ており、先に先にと文章を負わせました。 居場所である学校、ダンボール箱をハコとし、境遇な…
2016/04/18 19:30 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ