集え新たな仲間達 -戦闘員編-
アジトの訓練室。
部屋の中央に雪が立っている。いつもの穏やかな表情はなく、眉根は寄せられ、目つきは鋭く、口元は引き締められている。いつもは公私共にブレザー姿なのだが、今は白い道着に紺色の袴姿で、右手には弓道で使う弓を持ってる。左手には三本の矢。彼女が厳しい目つきで見つめる先には、雨が立っており、テニスボールを持っていた。
「よぉ~っし、いっくのだ~っ!」
「えぇ、どうぞ」
雪が深く静かに息を吸い込むと、雨が手にしていたテニスボールを上空へ放つ。瞬間、雪は手にしていた弓矢を構え、上空へ向けて放つ。一つ、二つ、三つ。矢は全てテニスボールに突き刺さり、矢の塊となったテニスボールが床に落ちてバウンドする。雪は深く息を吐き出すと、穏やかな笑顔を私に向けた。
「上手くいきましたわ」
「さっすが雪ちゃん! ろびんふっどーっ!」
雨は自分の事の喜び、手を叩きながらうさぎのように飛び跳ねた。
今は二人の訓練の真っ最中だ。
アジトへやって来た数日後、彼女達の部屋の準備も終わり、さてこれからどうしようと考えていると、二人は私に訓練をして欲しいと申し出てきた。親御さんから預かった大事な娘達である訳で、私としては戦闘に出すつもりは微塵もなかったのだが、本人達が希望するのであればと、訓練だけでも行っておく事にしたのだ。
この数日、彼女達の訓練を見ていて驚いたのは、二人とも女性とは思えないぐらい戦闘力が高いという事だ。今見たように、雪は弓道の達人で、針の穴に糸を通すような射撃でも、なんなく命中させてしまう。雨は格闘技の才能があるらしく、力こそ私に及ばないものの、スピードは私の数段上をいっていて、どれだけ本気で殴りかかっても、全て避けてしまう。ゴキブリのようだなと表現したら、雨はその例えはひどいと抗議してきたのだが、そのぐらいすばしっこい。さすが猛虎将軍の孫だとは、アリスの感想だった。
「よぉーし、今度は雨ちゃんが、がんばっちゃうのだーっ!」
雨は選手交代とばかりに、元気良く手を振りながら、訓練室の隅に置かれたサンドバックへ向かっていく。雨の方は半そで短パンとスポーツ少女のような格好で、歩くたびに頭のツインテールがぴょこぴょこと揺れるのが、小動物のようでかわいらしい。
「マスター、お茶をどうぞ」
訓練風景を私と一緒に見ていたアリスが、魔法瓶からお茶を取り出し、渡してくれる。
戦闘には向かないアリスではあるが、その反面、技術的な知識は豊富のようで、二人へのアドバイザーとして同席してもらっていた。そんな彼女は、体を動かす訳でもないのに、なぜか白いTシャツに紺色のブルマーを着用していて、胸元には『1年3組 ありす』という名札まで縫い付けてあった。理由を聞いてみると、「雨さんに薦められました」との事だった。アリスよ、今の自分の格好に疑問はないのか? ……ないんだろうなぁ。
「マスター、将軍姉妹さんの事で少しよろしいですか?」
貰ったお茶を飲んでいると、アリスが聞きなれない単語を口にした。将軍姉妹ってなんだ?
「雨さんと雪さんの事です。猛虎将軍のところの姉妹なので、二人まとめて将軍姉妹とお呼びしてみました」
「あぁ、そういう事か」
なかなか上手い事を言う。
「で、二人がどうした?」
「将軍姉妹さんのおかげで、幹部の席が埋まりました。よい機会なので、その下で働く戦闘員の確保を行いませんか?」
ふむ、確かに長はいても部下がいないのではしょうがないな。
実際、人員不足は重大な問題で、組織として何かしようとしても、人員が足りないという理由で実行できない事が多い。組織は人と言うぐらいだし、今後の組織の発展を考えても、人員は集めておいたほうが良いだろう。丁度良いタイミングなのかもしれんな。
しかし、戦闘員の確保と言われてもどうしたらいいものか。
「悩む必要はありません。前の組織と同じ方法を取ればよいのです」
前の組織と言う部分に若干の不安を感じるが、一応、聞いておこう。
「ちなみに前はどうしていたんだ?」
「はい、一般市民を拉致し、洗脳や改造をしていました」
「ぶーーーーーっ!」
突拍子もない事を言われ、お茶を噴出してしまう。やっぱり、そういう方向できたか。
「初めの二、三人は苦労しますが、ある程度の人数が揃えば、後はその人達が勝手にやってくれますので、簡単です。しかも人数が増えれば増えるほど、効率的に戦闘員を増やせるようになります。まさに一石二鳥です」
「待て待て待てっ!」
「なんでしょうか?」
「それはいかんだろうっ!」
この子はとんでもない事をさらりと言い、なおかつ、その行為になんの疑問も抱いていないというのだから手に負えない。拉致やら洗脳やら改造やらって、危険行為もいいところだ。
「……あぁ、そういう事でしたか。申し訳ありません」
彼女は少し考える仕草をすると、ぺこりと頭を下げて謝罪した。
このようなやり取りは今日まで何度もあった訳で、そのたびに、私はそれはダメ、あれはダメと言い聞かせてきた。さすがのアリスも、私の考えを察してくれたようだ。
「そういえば、洗脳設備や各種薬剤の準備がまだでしたね。失念していました。では、まずはそちらを先に準備するという事で……」
ぜんぜん察してくれていなかった。
「違う違う違う! 私が言いたいのはそういう事ではない!」
「どういう事ですか?」
「拉致やら改造やら洗脳やらはいかんだろう!」
「いけない事なのですか?」
「いけない! よくない! ダメ、絶対! そんな人道と法律に反する事は許可できん!」
私の必死の言い分に、彼女はキョトンとする。
「人道と法律に反してこその、悪の組織ではないのでしょうか?」
「悪の組織でも人道と法律は守らなければならん! ……いや、破壊活動を行っているから法律は守れんか。でも、せめて人道ぐらいは守らなければいかん!」
「おっしゃっている事の意味がよく分かりませんが、マスターが反対するのであればその意思に従います」
そこでアリスが眉をしかめる。
「ですが、困りました。私は拉致・洗脳・改造以外の方法を知りません」
それっきり彼女は黙ってしまった。どうしたものかと考えているようだ。
「……要はリクルートの事だろう? しかるべき手段を使えばいいだけではないか」
そうだ、何もそんな物騒な手段に頼らなくても、人材を募集する方法は他にいくらでもある。
「どんな手段ですか?」
「そうだな、例えば求人情報誌に情報を載せてだな。応募がきたらその者を面接して採用という流れにすればよいではないか」
「なるほど。そういうやり方は思いつきませんでした」
「いや、むしろこっちが一般的なのだがな」
この子の常識は未だ大幅にズレている。何とかしてあげようと、事あるごとに指導はしているつもりだが、根本的な解決には未だいたっていない。先は長そうだ。
「では、その方法で戦闘員を集めます。よろしければご指導願います」
「うむ。まずは求人情報誌を出している会社に電話をしてだな、用件を詳細に伝えた後、見積もりを依頼してだな……」
私は求人雑誌への募集広告の載せ方や、面接の仕方など、一般的な採用に関わる事柄をアリスに説明した。自分の口からスラスラと採用関連の知識が出てきた事に、自分でも驚く。なぜ、記憶にもないのに知識だけは出てくるのだろうか。
実はこういう感覚を抱くのは今日に始まった事ではない。
一昨日、風呂釜の調子が悪いと雨から報告を受け、ボイラーを見ていた時の事だ。私自身、ボイラーの修理なんてやった事がないので、よく分からずに見ていたのだが、ふと、なんとか出来そうな気がして、ボイラーをいじってみる事にした。すると手は勝手に動き、口からはボイラーの構造の知識がスラスラ出てきて、あっという間に直してしまったのだ。念の為に言っておくと、私は目覚めてから一度もボイラーについて調べた事はない。
結果として雨から大賞賛を受けたのだが、当の本人である私は何やら気持ち悪い気分で一杯だった。だってそうだろう。記憶も知識もないのに、何かの拍子に、それらがヌルリと出てくるのだ。
これが、かつての私の記憶なのだろうか。いつか、自分の口からとんでもない悪行の知識が出てきそうで怖い。
私の説明は続き、話の内容が採用後の準備に差し掛かった辺りで、後ろから破裂音が聞こえた。
振り返ると、サンドバックの前で、雨が頭を掻きながら、ニヘラと笑っている。彼女が叩いていたであろうサンドバックの腹の部分には、あるはずのない巨大な穴が空いており、内臓である砂を垂れ流していた。
「にゃはははは……また、やっちゃのだ」
彼女の正拳突きが凶器になる日は、そう遠くなさそうだ。
翌日、私はアリスを連れ、とある場所に向かっていた。
「まさか、アルバイト雑誌に広告を載せようとして、拒否られるとは思わなかったな」
サンドバックをダメにした雨を叱り、その後、アリスと一緒に何件かの雑誌社へ求人募集広告の見積もり依頼を出したのだが、組織の概要を話した段階で全て拒否されてしまった。悪の組織が闊歩するこの国とはいえ、アルバイト雑誌にその手の求人を載せるのはさすがに無理だったようだ。
「雑誌社というのは、勝手気ままなな職業なのですね」
アリスが不満そうに言う。
別に勝手気ままという訳ではないだろう。むしろ、彼らは正常だと私は思う。
だが、雑誌社に断られたからといって、戦闘員の求人をしないという訳にはいかない。人員が足りないという問題は確かにあるのだが、今、私が主導でこの件を解決しないと、アリスが気を利かせて、とんでもない方法で戦闘員を集めてきかねないのだ。
一応、催眠、洗脳、拉致、監禁はダメだとは言ってはおいたが、それ以外のどんな恐ろしい手段を使ってくるかは、まったく予測ができない。ここはなんとしても、正攻法で人員を集める必要があった。
「それで、マスター。どちらに行かれるんですか?」
「うむ、それはだな……」
それは職に関して、ここ以上に専門的な施設もないだろうという場所。ハローワークだ。
「……えーと、求人内容はこちらで間違いありませんか?」
整髪料で髪型をキッチリ七三に固め、太目の黒縁眼鏡をかけた、いかにもサラリーマン風の男は、書類を片手にいぶかしげな目で私を見ていた。
ここは松木市公共職業安定所の二階にある、企業用の求人申し込み窓口。目の前に座るこの男は、その窓口担当者だ。私が考え付いた正攻法、それは『職に困ったらハローワーク作戦』だ。もちろん、組織が組織なので門前払いを喰らう可能性もあったが、そこは専門機関だ。アルバイト情報誌はダメでも、ここならいけるかもしれないという、一抹の望みに私はかけてみた。
ちなみにアリスには一般的な求人とは何かを教える為、一階で行われている求人に関する企業用セミナーに参加させている。周りが全員スーツ姿なので、アリスの姿は大変浮いていたのだが、これも社会勉強だ。周りの視線に負ける事なく、しっかりと学んできて欲しい。
私が書類内容に間違えはない事を伝えると、担当者は手に持っていた赤ペンで、書類に何やら記入し、確認作業を続けた。
「会社名は『悪の秘密結社』、事業内容は『人道に則った悪の組織活動全般』、募集人数は若干名で、募集形態は『戦闘員』……ですね」
「そうだ」
「えっと、戦闘員という職種はなくてですね、事務職とか管理職とか、そういうので登録してはいただけませんかね?」
「戦闘員では問題があると?」
「いえ、問題があるというか、今まで取り扱った事のない職種なので……」
まぁ、悪の組織がハローワークに求人を出すというのは前代未聞なのだろうし、職種として前例がないのも仕方がないか。とりあえず、総合職という事で話を進めてもらう。
「えーっと、給料は年棒制で昇給は随時あり、住み込み可でその際は食事補助が付くと。業務内容は『戦闘員としての諜報・破壊活動全般』となっていますが、これは一体どのような作業なのでしょうか?」
「読んで字のごとく、『組織の戦闘員』として『敵施設に対し諜報活動」をしてもらったり、『敵施設の破壊』を行ってもらったりする仕事だ」
「そ、そうですか」
「なにか問題でも?」
「い、いや……特には」
書類内容に目を通してから、彼の態度はずっとこんな感じだ。気持ちは分かる。だが、私も引く訳にはいかないのだ。ここは押し切らせてもらおう。
「えぇっとですね、危険作業……のような感じなのですが、労災とかそういうものはつくのでしょうか?」
「福利厚生はしっかりとやるつもりだ。厚生年金に社会保険、退職金に賞与、労災の他に育児休暇も設けるつもりだ」
「そ、そうですか」
彼は手元の書類の右端の欄にレ点を入れていく。どうやら、あそこが保険の欄だったようだ。
「記入漏れがあったようだな。申し訳ない」
「いえ、初めての申し込みの方であれば、お忘れになる方も多いので……では、求人票の公開は明日からとなりますので、よろしくお願いします」
「うむ、よろしく頼む」
ハローワークの帰り道、私達は駅前商店街を歩いていた。夕飯にはまだ早い時間ではあったが、商店街はそれなりの賑わいを見せおり、買い物袋を提げた主婦や、放課後を楽しむ学生達の姿が目に付く。アリスが言うには、この商店街を抜けると駅への近道になるとの事だった。
私は今日担当してくれた職員の事を考えていた。
彼の心中は穏やかではなかっただろう。甲冑姿の怪しい男が来たかと思うと、悪の組織の人員募集の求人申込書を持ってきたのだ。初めは冗談だろうと思ったに違いない。しかし、話を進めていくと事実だという事に気付いた。彼はきっとこう叫びたかったに違いない。『なんで悪の組織が求人登録しにきてんじゃぁっ!』と。その気持ちは推して知るべしだ。
だが、しかし。私も引く訳にはいかなかった。正攻法で戦闘員が集まってくれないと、アリスが犯罪に手を染めかねないのだ。一般市民が危険に晒されるのだ。上手くいって欲しいと、願うばかりだな。
「セミナーの内容は大変興味深いものでした」
アリスの方はキッチリとセミナーを受けられたようで、一般的な求人とは何かをしっかり学ぶ事ができたらしい。だが、「はたして悪の組織でこのような知識が必要なのでしょうか?」と疑問を感じているあたりが、意識違いの根の深さを感じる部分だ。まぁ、追々、この辺は教えていってあげる事にしよう。
「それで、後は電話が来るのを待っていればよろしいのですか?」
そうだな。上手く事が運べば、後ほどハローワークの方から採用希望者が来たと連絡が来るだろう。後はこちらで面接の日時を伝えて、実際に会ってみればいい。それで良い人材だと思えば採用すればいいだけだ。
まぁ、そうは言っても悪の組織である。どんなならず者が来るかも分からない。面接は私が付き添った方が無難だな。
「マスター自ら面接をしてもらえるなんて、希望者は幸福者ですね」
いや、まぁ、相手の身を案じての事なのだが。なんせ、こう見えて彼女は重火器の扱いがとても上手いのだ。惨事が起きてからでは遅い。もちろん、ならず者が撃退されると言う意味で。
商店街の中ほどに差し掛かった頃、アリスが急に足を止めた。
前方を険しい表情で見つめているようなのだが、私にはなぜそんな目で見ているのかが分からない。何かあったのだろうか?
「……マスター、こちらへ」
私はアリスに手を引かれ、近くのコンビニの中へ連れて行かれた。
「どうしたのだ?」
「お静かに。出来る限り自然に振舞ってください。買い物をする振りでも構いません」
そう言って彼女は目の前の商品棚の商品を適当に物色する振りをする。いくつかの商品を手に取り、外の様子を覗き、商品を棚に戻したかと思うと、また違う商品を手に取り……といった行動を繰り返す。外を伺う時の彼女の目は険しく、何やら緊張感が伝わってくるのだが、傍から見ると、その行動はとても不自然だ。
やがて彼女は無言のままレジに向かうと、手にしていた商品を店員に手渡し購入しようとする。その間も彼女の視線は店の外に向けられていて、店員を見ていない。その店員が、手渡された商品を見た後、私の事をいぶかしげな目で見つめた。何か気に触る事でもしたであろうかと思い、店員が持っている商品を目にして、唖然とした。
「えと、その……アリス?」
店員の手には、その、薄型のゴムというか……避妊具が握られていた。私の額を汗が伝い落ちる。
「マスター、お静かに」
アリスは私に取り合ってくれない。相変わらず外を気にしながら手早く会計を済ませ、商品を受け取り、一人で外へ出て行ってしまった。
店員が白い目で私を見ている。その、なんだ、誤解だ! 私はいたたまれなくなって、急いでアリスの後を追った。
「一体、どういうつもりだ、そんな物を購入して……!」
「そういうものとは、一体なんでしょうか?」
周囲を確認しながらアリスがとぼける。
「さっきの店員、ぜったいに私達の事を勘違いしていたぞ!」
あぁ、見ず知らずの人にロリコン疑惑をかけられてしまった! 先ほどの白い目はそういう意味なのだ!
どこからか『このロリコンどもめっ!』という声が聞こえてくる。違う、私はロリコンじゃないぞ!
「おっしゃっている意味はよく分かりませんが、まぁ、問題はないのではないでしょうか?」
スカートの中にコンビニ袋をしまいこむと、のん気にそんな事を言う。この子のスカートの中は相変わらず四次元空間のようだ。
「どうやら私達の事を尾行していた訳ではなかったようですね。よかったです」
尾行? どういう意味だ?
「いえ、先ほどまで私達の後ろに、怪しい人物がいたのです。ハローワークを出て少し歩いた辺りから、ずっとつかず離れず着いて来ていたので、私達を尾行しているのではと考えたのですが、どうやら杞憂のようでした」
先ほどの店内での不審な行動は、尾行を撒く為の芝居だったようだ。芝居ならそんなものを購入しなくても……あぁ、まぁ、いい。考えるのはやめだ。
「この辺りは私達の制圧エリアなので他の組織の人間が徘徊しているというのは考えにくい事なのですが、もしかしたら、何かの妨害工作をするつもりなのかもしれません。マスター、追跡の許可をお願いします」
「危険性はないのか? こちらは私とお前だけだぞ?」
「マスターがご一緒なのであれば、危険なんてあってないようなものです」
他の組織、か。確かにいずれ出会う事になるだろうとは思っていたが。私は深追いをしない事を条件に、追跡を許可した。
日が傾いてきた。
あれから私達は、追跡対象者との距離を一定に保ちながら、商店街を外れ、住宅街を抜け、その先にある大きな公園の近くまで来ていた。追跡対象者は園内に入った後、動きらしい動きをみせていない。
追跡対象者は、厚手のコートに鍔付きの帽子を被っていて、全身黒尽くめ。真夏の真昼間にそんな格好で歩いている姿は不審者以外の何者にも見えず、確かに怪しい人物ではあった。
彼はここに来るまで、立ち止まったかと思うと辺りを見回し、しばらくして動き出したかと思うと、また立ち止まるというおかしな行動を繰り返しており、アリスはそれを敵情視察と予測していたようだが、はたしてそうなのだろうか。
私達は公園入り口の門の外側にいるのだが、ここからでは彼を確認する事ができない。だが、アリスは音感センサー、要は音で判断するレーダーのようなもので認識しているらしく、多少距離が離れていても、尾行には問題がないようだった。周囲には車も走っていれば、他の人間も歩いている訳で、そんな雑音だらけの中で正確な追跡ができるのかとも思うのだが、当のアリスには関係ないらしい。マスターの御力のおかげです、とはアリスの弁だ。
公園の中に彼が入ってから30分。動きらしい動きはまだない。
日もだいぶ傾いてきた事だし、もしかしたらアリスの勘違いという事も考えられる。そろそろ潮時なのではないだろうか。だが、アリスは不審を拭えずにいるようだ。「ちょっと確認してきます」と中に入っていこうとする。私は慌ててそれを止めた。
「待て待て待て。お前一人で行って何かあったらどうするんだ」
「……確かに、この格好のままで行っては、目立ちすぎますね。では、少しカモフラージュします」
そう言うとスカートの中に手を突っ込み、ごそごそと何かを探し出す。ほんと、そういうのは恥ずかしいのでやめてもらいたいのだが……。
やがて、スカートからヌルリと出てきた物は、折りたたまれたダンボールだった。結構な大きさで、アリスぐらいなら入りそうなサイズだ。
「お前、それ、どうするつもりなんだ?」
「これを被って園内へ侵入します。カモフラージュと言えば、ダンボール。ダンボールと言えばカモフラージュ。世界の常識です」
そう言うと彼女は、テキパキとダンボールを組み立て、地面にしゃがんだ後、頭から被った。
「では、行ってまいります」
『愛媛みかん』と書かれたダンボールがずるずると音を立て、動き出す。傍から見ていると、シュールな光景だ。
「だから、待て待て待てっ!」
ダンボールを取り上げる。手足を折りたたんだ状態で匍匐前進をしているアリスが出てくる。きょとんとした顔で、私を見上げていたが、やがて「……何をなさるのですか?」と眉をしかめて問いかけてきた。スニーキングミッションを中断させられ、大変ご不満のようだ。
「お前、こんな格好で行けば余計目立つに決まっているだろう」
「しかし、これは伝説の傭兵がスニーキングミッションを行う際に用いた、伝統的な方法でして……」
その時、園内から悲鳴が上がる。これは、若い女性の声だ! ただ事ではないぞ!?
「アリス、行くぞ!」
「ダンボール使いますか?」
「そんな物、置いておけ!」
私達はダンボールを放り投げると、園内に向け駆け出した。
「いーやーでーすーっ!」
「なぁ、ちょっといいじゃねぇか。変な事しねぇからよぉー!」
「絶対変な事しますよーっ! たすけてーっ!」
「あー、もう、騒ぐんじゃねぇよっ! 黙って俺の全てを目に焼き付けろっ!」
園内の中央、噴水近くで、先ほどの男を見つける。学生服を着た女性の手を掴み、何かをしようとしているようだ。
女性は必死に逃げようとしているようだが、男の力が強いらしく、逃げ出せないでいる。これはまさしく、婦女暴行の実行現場だ。
私はそのまま二人の元へ駆け寄ると、男の腕を乱暴に掴み、女性から引き剥がそうとする。いきなり、後ろから腕を捻り上げられた男は、こちらに振り返るなり、「なにすんじゃこらぁっ!」と叫びながら、殴りかかってきた。その拳が私の顔面に突き刺さ……ったのだけれど、痛くない。ハンカチで顔を撫でられたかのような感触しかなかった。
「あぎゃぁぁ~っ! うぉあうぇぇぇぇぇぇええええっ!?」
男が泣きながら奇声を上げる。殴りつけたはずの本人の方が、痛そうだった。彼の拳は血が噴水のように噴き出し、指が明後日の方向へ曲がってしまっている。うん、あれは痛いな。
彼は相変わらず全身黒尽くめの怪しい格好ではあったが、先ほどと違いコートの前のボタンを全て開けているようだった。彼が動くたびに、その隙間からチラチラと中身が見える。なんというか、非常にコメントしづらいのだが、彼はコートの中に何も着ていないようだ。詳細に言うと、コートの中は、全裸。つまり、この男は、変質者だ。
「っだぁ、ってぇなぁ、っろすっぞっ、っこらぁっ!?」
聞き取り不能な謎の呪文を口から吐き出しながら、男がメンチを切ってくる。顔を真っ赤に膨れ上がらせ、鼻息荒く怒鳴りつけてくる姿は、まるでヤのつく人だ。彼が怒鳴るたびに、コートの隙間からは、彼のへそ下三寸にあるものが、ぶらりぶらりと揺れ動くのが見える。その動きをアリスが、ただ黙って、じぃっと……見てる!? だめだ、アリス! こんなものを見るなっ! 目が腐るっ!
私は手に力を込め、男の腕を更に捻り上げる。
「やめろ、変質者っ! 女子供にこんな事をして、恥ずかしいとは思わんのかっ!? っていうか、前を閉めろっ!」
「っだと、らぁっ!? っとばされてぇのかぁ!?」
男が暴れるので、腕を掴む力を更に強める。
「やめろと言っているのだっ!」
「っぁにぃ!?」
更に力を込める。更に更に力を込める。男の腕からミシミシと悲鳴のような音が聞こえてくる。
「うぐ、あぐっ、ぐべぇ……や、やべっ……やべ……てっ……!?」
更に更に更に力を込める。こんなバカな事をする人間には、仕置きをしてやらなければならないっ!
「歯を、食いしばれよっ!」
右手を振り上げ、力を込め、そのまま拳を男の腹に叩き込む。
「あぎゃべぇぇしぃ~~~~~~っ!」
男はキリモミ回転しながら上空へ打ち上げられ、途中にあった街灯を粉砕し、更にその奥にあった街灯を粉砕し、公園の樹木をなぎ倒し、園内トイレの壁に人型の穴を開け、更にその奥の壁を貫通した後、公園の外を走っていた自動車に跳ねられ、空の彼方に消えていった。
……えっと、やりすぎてしまっただろう、か?
「あわわわわわ……くらり」
その一部始終を見ていた女性が、顔を真っ青にしたかと思うと、後ろにひっくり返ってしまった。どうやら気絶してしまったようだ。彼女の目が、マンガみたいにぐるぐる回っている。
「え……えっと」
「さすが、マスター。相手を殴り飛ばすだけではなく、途中の障害物を上手く利用し、さらにここからは見えない公園外の自動車まで利用して、相手を吹っ飛ばすとは。お見事でした」
「わ……私は悪くないぞ?」
「はい、マスターは悪くありません」
頭に血が上ってしまったとはいえ、やりすぎてしまった。ギャグっぽく吹っ飛んで行った訳だし、死んでないよ……な?
「お悩みのようでしたら、良い言葉がありますが?」
「な、なんだろうか?」
「今の戦いはフィクションです」
「意味が分からんわっ!」
ま、まぁ、吹っ飛ばされても死なない町民達のいる世界だ。あのぐらいの攻撃では、相手も死にはしないだろう。そう思おう。うん、忘れよう! 星になった変質者に敬礼っ!
「それで、こちらの方はどういたしましょう?」
「そ、そうだな。アリス、介抱してやりなさい」
「かしこまりました」
十数分後、ベンチに寝かせていた女性が目を覚ました。
ゆっくりと上体を起こし、頭から落ちてきた物を手で掴む。アリスが介抱の為に頭に載せていた、水で濡らしたハンカチだ。起き上がった彼女は、何があったのか分からない様子で、ぼーっとしている。寝ぼけているのだろうか? もしかしたら、転んだ時に頭を打ってしまったのかもしれない。心配になってきたので、声を掛ける。
「目が覚めたかね?」
彼女はゆっくりとこちらに振り向き、焦点のあってない目で私の顔を見つめる。その焦点がだんだんと定まっていき……。
「……きゃぁぁぁぁぁぁっ!」
いきなり叫ばれた。
彼女は勢いよく立ち上がり、素早い動作でベンチの後ろに回りこむと、頭を抱え込みながら、震えだす。
「助けて殺さないで食べないでくださーいっ!」
「わ、私は何もしない! だから安心しなさい!」
「そう言って悪い人達は、女の子にイケナイコトをするんですーっ!」
「そんな事するかっ! いいから、落ち着いてくれっ! 何もしないからっ!」
「うぅぅぅ……」
ベンチの背もたれから目元までを出し、こちらをじーっと見つめてくる。その目には怯えの色が浮かんだままであり、猜疑心が抜けていないようだ。助けてあげたのに、この仕打ち。みょうちくりんな格好をしている自覚はあるが、正直、へこむ。
「ちょっと失礼します」
アリスはベンチの裏に回りこむと、彼女の右手首に指を当てる。彼女はいきなり出てきたアリスに驚いているようだが、大人しくされるがままになっていた。さすがにアリスであれば、怖くはないらしい。
「脈拍・体温ともに問題なし。脳波に若干の乱れが見られますが、一時的な興奮によるものでしょう。健康体だと判断します」
「それはよかった」
とりあえず、彼女に外傷はないようだ。一安心だ。
「少女よ、夜道に、このような場所を一人歩きするのは関心できんぞ。学生はもう家に帰る時間だ」
「あ、はい、それはその……」
彼女はまだ怯えているようだったが、隣にいるアリスを見て、危険人物ではないと判断したのだろう。少しだけだが、落ち着いたように見えた。
「……あれ、暴漢さんは?」
「そ、そんな者はいなかったぞ」
「あれぇ、おかしいですねぇ。私、たしか、暴漢さんに襲われていたはずなんですけど。そう言えば、なんか変な物を見せられていたような……」
どうやらショックのあまり、先ほどの記憶があいまいなようだ。私の拳でふっ飛ばしました、とは言いづらいし、何より、あんな変質者のへそ下三寸の事を思い出させたくない。どうしたものか。
「夢じゃないんですか?」
アリスが私の意を汲んで、フォローを入れてくれる。
「夢……かなぁ?」
しかし、彼女はまだ疑い顔だ。頬に指を当て、考え込んでしまう。
「では、こう考えてください」
「うん?」
「フィクションです」
……それで納得できるとも思えんのだが。
「うん、そうか。フィクションかぁ、ならしょうがないね」
あっさり信じてしまった。どうやらこの子は見ため以上に、純朴なようだ。
「マスター、先ほど拾った物を渡してはどうですか?」
「ん? あぁ、この子の持ち物か」
倒れた彼女の近くには、茶色の紙封筒が落ちていた。アリスに言われ、その事を思い出すと、未だベンチの後ろに隠れている彼女に紙封筒を差し出した。
「ほら、これは君のだろ?」
彼女は力なくそれを受けると、「ありがとうございます」と消え入りそうな声で礼を言ってきた。
なんだろう、少し様子がおかしい。さっきまでの怯えとは違う表情をしている。受け取った書類をじぃっと見つめ、肩を震わせているように見えるのだが、何か問題でもあっただろうか?
彼女はやがて、鼻をぐずりだすと、天を仰ぎ、両目からぶわっと涙を噴水のように流しながら、号泣してしまった。
「ふぇぇぇぇぇぇぇん!」
「え、え、え!? 私は何もしてないぞ!?」
「はい、何もしていません」
「どうしたのだ、一体なにがそんなに悲しいんだ!?」
「……うぅぅ、すみません。ちょっと就職活動の事を思い出して」
数刻後、アリスに頭を撫でられ、私が渡したハンカチを鼻水だらけにし、いいだけ泣き叫んだ後、彼女はどうにかこうにか落ち着いてくれた。
「私、実は今日も面接落ちてきたんです。これで256社連続落ち。立派な就職浪人生なんです」
肩をがっくりと落とし、この世の終わりみたいな表情で彼女は説明してくれた。
「そうだったのか。だが、学生服を着ていて浪人生という事もないだろう」
改めて彼女を見てみる。
透き通るような黒色の髪を頭の後ろで結び、紺色のリボンでポニーテールにしている。大き目の目は、今は真っ赤に充血しており、目元が赤く腫れ上がっている。眉毛は自信なく垂れ下がっており、とても気弱そうに見えた。
濃い緑を基調としたブレザーと、鼠色のスカートを着用していて、ブレザーの胸ポケット部分にはワッペンが縫い付けられており、学校の校章か何かのように見える。内側に来ているYシャツはピシッと糊付けされていて、胸元のリボンもきっちりと結ばれていた。どこからどう見ても学生にしか見えない。
彼女が言うには、学生服を着ているのは、学生と思われれば新卒採用がされやすいと思ったからであって、実年齢は19歳なのだそうだ。見た目は確かに学生に見えるが、そんなもの履歴書を見れば一発でバレると思うのだがなぁ。彼女的には第一印象だけでも良くなればという苦肉の策だったらしい。
ここに来る前も一社受けてきたそうなのだが、その場で不採用を宣告されたらしく、この公園で一人落ち込んでいたそうだ。その落ち込んでいたところに、変態が現れ、襲われてしまったところを、私達が助けたらしい。踏んだり蹴ったりな一日を過ごした彼女に少し同情してしまう。
とりあえず、先ほどの変質者は、他の組織の者でもなんでもなくて、たんなる変態だったようだな。挙動不審に見えていたあの行動は、犯罪に適した場所かどうかの確認をしたり、ターゲットを探したりといった仕草だったに違いない。アリスの心配は杞憂に終わったようだ。
だがある意味、これで良かったのかもしれない。もし私達がこの場に来ていなかったら、彼女は今頃どうなっていたことか。そう考えれば、今回の尾行は徒労にはならなかったようだ。
「ぐす……私、ドジでグズでのろまで、勉強も運動も人付き合いもぜんぜんダメなんです。大学にも受からなかったし、かといって就職もできないしで、落ち込んでいたんです」
鼻を啜りながら彼女の説明は続く。
「両親には毎日お説教されるし……友達は皆どんどん先に行っちゃうし……ほんと、私って……うぇぇぇぇぇんっ!」
「わ、わかったから。ほら、これでもう一度涙を拭きなさい」
「これはご丁寧に……ぶびーっ!」
「鼻をかむなっ!」
「うえぇぇぇえん、すいませぇーん!」
二枚目のハンカチも鼻水だらけにされてしまった。これも帰ったら洗濯だな……。
「……マスター、もしよろしければ、こちらの方をうちの組織で雇いませんか?」
私達のやり取りを見ていたアリスがそんな提案をしてきた。
「雇う?この者をか?」
「はい。戦闘員以外にも雑務をこなしてくれる事務員が必要でしたので。ちょうどよいかと」
なるほど。悪の組織といっても戦闘ばかりしているわけではない。施設の整備をしたり、資材を管理したり、書類業務を行う内勤の者は確かに必要ではあるな。
いまだ泣き続ける女性を見る。
256社落ちてきたと言っていたが、次の257社目で採用されるという確証はない。だからといって、このまま浪人生活を続けていても、決して良い事はないだろう。見たところ、気が弱そうではあるが、アリスはこれでいて面倒見の良いほうだし、雨や雪も、人を見て態度を変える人間ではない。そういう人間がいて、なおかつ年齢も近い者同士であれば、彼女も少しは働きやすいかもしれない。
「なぁ、少女よ。一つ提案があるのだが」
「……ぐす、なんでしょうか?」
「じ、実はな、私はとある組織の長をしているのだ。そちらさえよければうちで働いてみる気はないか?」
悪の組織とはいえ、組織は組織だ。嘘は言っていない。
「え、えぇぇぇっ!?」
「業務内容も事務員というから、とくに難しくはないだろう。ただし、どんな組織でもいいという覚悟は必要だが」
そう、うちは悪の組織だ。事務員とはいえ、そういう組織に関わっても構わないという覚悟はしてもらいたい。
「いいです、いいです! 雇っていただけるなら、どんな所でもいいです!」
彼女はベンチから身を乗り出すと、私の手を握り、ぶんぶんと振り回す。
その飛びつき方は、まるで犬のようで、尻尾があるのであれば、ものすごい勢いで振っていそうだ。
「本当にいいんだな? 本当に、本当に、本当にどんな組織でもいいと言うんだな!?」
それでも更に念を押す。
「大丈夫です! 就職できるならどんな所でもいいです!」
だが彼女の決意は変わらないようだ。
「わかった。それほどまでの覚悟があるならば何も言わん。では、お前には今日から我が「悪の秘密結社」の一員になってもらおう!」
「……え? あくのひみつけっしゃ?」
両手を握った姿勢で凍りつく。
それは会社名ですかと、彼女の目が問いかけてくる。
「会社名ではないぞ。悪の秘密結社という悪の組織だ。一般人なのにどんな組織でもいいという覚悟、たいしたものだ。感心したぞ」
「えぇぇぇぇぇ!?」
彼女は驚き、顔が青くなったかと思うと、涙目になりながら、おろおろしだした。そんな彼女へアリスがハローワークで貰ってきた、うちの求人票を手渡す。
「では、明日からよろしくお願いしますね。住所はこちらの求人票に書いてありますので」
「そんな~っ!?」
彼女の悲痛な叫びが、夕暮れ時の公園に響き渡った。
それから一週間。
彼女、山之辺 風美は、あの一件の翌日から事務員として働き始めていた。
始めこそ悪の組織という事で怯えていたようだが、将軍姉妹ともすぐに打ち解けたようで、今は元気に仕事をしている。アリスもしっかりと面倒を見ているようで、業務中は傍に張り付き、あれやこれやと指導を行っている。傍で見ていると妹に勉強を教えてもらっているお姉さんのように見えるのだが、その姿はどこか微笑ましく、アリスの表情も心なしか活き活きしているように見えた。アリスへの情緒教育という意味でも、よい結果がえられそうだ。採用してよかったなと思う。
風美の仕事ぶりは本人が言っていたように、ミスが多く、スピードも遅いものではあったが、ひたむきにがんばろうとする勤勉さは立派なものだった。初めは誰だって上手く出来る訳がないのだし、多少のミスには目をつぶり、自信を持つ大切さを教えたいと思う。あの、勤勉さだ。すぐに仕事も上達するだろう。
また、彼女は雨や雪とは違い、通いでの採用とした。これは初の就職で親御さんも心配するだろうからという、私なりの配慮だった。親御さんの方には、上手く説明できたらしく、先日、娘をよろしくお願いしますという手紙付きで、菓子折りを頂いていた。親御さんも風美が就職できた事で、ほっと胸を撫で下ろす事ができたのであろう。
ちなみに本日は、なぜかメイド服姿で廊下のモップ掛けをしている。なぜそんな服装なのかと本人に聞いてみたところ、「雨さんからのお勧めでして」と説明された。アリスの時といい、風美の時といい、雨のセンスはいちいち劣情的だ。だが、しかし、恐ろしく似合っているのも否定はできない。
今のところアリスの管轄下という事にしてあるが、いずれ人員が増えてきたら、風美を中心に事務員を構成してみよう。人を使うという経験は、どこに行っても武器になるだろうからな。
「ご紹介したい人達がいます」
司令室の椅子でくつろいでいると、いつの間にかやって来ていたアリスにそう告げられた。紹介したい人とは誰だろうか。私が構わないと返事をすると、アリスは一旦司令室の外に出て行き、その人物達を司令室へ招き入れた。
「失礼しますっ!」
全身黒タイツを着て、へんてこなお面をつけた、屈強な男達がそこに立っていた。
「えと……こちらの方々は?」
「先日、マスターに教えていただいた雇用方法により採用した戦闘員の皆さんです」
ハローワークで出した求人募集のおかげで、この数日の間に六件の問い合わせあり、私とアリスで面接を行っていた。その後、採用判断をアリスに任せていたのだが、どうやら今入ってきた者達を採用する事に決めたようだ。藁にも縋る思いで出した求人募集ではあったが、しっかりと効果が出てくれたようでなによりだ。これでアリスも変な手段で戦闘員を集めようとはしないだろう。
男達は私の前に横一列に並び、背筋をきちんと伸ばした直立姿勢で立っている。全身黒タイツ姿で、腰には皮のベルトを締めており、そのベルトには鳥のような紋章が描かれた金属製の大きなバックルがついていて、室内の光を鈍く反射している。ビニールのような質感の手袋と長靴を履いているのだが、どちらも原色そのままで真っ赤。顔のお面は、縦長の白いお面で、目と口の部分が横線で描かれている。なんか、顔文字で作れそうなデザインだ。
アリスが言うには、これがうちの組織の戦闘員の正装になるらしい。もう、見たまんま、悪の組織の戦闘員だ。
「右から順に佐藤さん、鈴木さん、高橋さん、田中さんです。皆さん、マスターへご挨拶を」
アリスに言われ、一番右の戦闘員が一歩前に出る。
「あ、その、ども、佐藤です」
そう言って頭を下げるのだが、すぐに隣の戦闘員が脇をつつく。
「おい、佐藤さん、違うって」
「あ、そ、そうだった。シェーーーーーッ!」
「うぉっ、びっくりしたぁっ!?」
佐藤さんは右手を斜め前に突き上げると、背筋を伸ばし、斜め上方を見つめながら、大声で奇声をあげた。いきなりの事で、驚きのあまり椅子から落ちそうになる。
「シェーーーーーッ!」
「シェーーーーーッ!」
「シェーーーーーッ!」
佐藤さんに習うように、他の三人も同じポーズで奇声をあげる。な、なんだ、これ?
「あ、アリスよ、このしぇ~という掛け声はなんなのだ?」
「私達の組織の掛け声です。悪の組織の戦闘員は、その組織ごとに異なる掛け声を上げるという古い慣わしがあるのです」
そんな慣わしがあったのか……知らんかった
「前回の組織の時はゾルバデスという組織名だった事から「ゾルッ」という掛け声にしていたのですが、今は別の組織名ですからね。心機一転、変えてみました。お気に召さないようであれば変更する事もできますが?」
「いや、まぁ、お気に召すも召さないもないのだが。イーッとかキーッとかじゃダメなのか?」
「はい、それだと他の組織の方達と被ってしまいます。特にイーッに関しては、無形文化遺産登録されているので、色々と不都合です」
「無形文化遺産登録って……。というか、被ってはいけないものか、これ?」
「それだと掛け声でどこの組織かを判断する事ができませんし、組織のアイデンティティが失われてしまいます。それに、他の組織と同じ掛け声を使っているなんて事になれば、周りからは良い嘲笑の的になります。私のマスターがそのような状態に置かれる事は、許されません」
「そ、そういうものなのか」
アリスが鼻息荒く説明してくれた。特に『私のマスター』という部分に、力強さを感じる。
まぁ、アリスが決めたという事であれば、これが一番良いのだろう。いきなり目の前で叫ばれると驚きはするが、掛け声はスポーツや肉体業務を行う上では有効な手段ではあるし、よしとしよう。
「かしこまりました。では、今後も戦闘員の採用の際には、逐一、ご紹介にあがりますので、よろしくお願いいたします」
「了解した。皆の者も、よろしく頼む」
「シェーーーーーッ!」
戦闘員四名の掛け声が、綺麗にはハモり、司令室にこだましたのだった。