5.ヴィルジニー候という人
ヴィルジニー候について、トリスタンが知っていることはとても少ない。
ビュシェルベルジェール国の東端、山脈が連なる地、リュネヴを治めていること。父候の死により、成人前から実質家督を継いでいたこと。
これのみが、トリスタンの知るヴィルジニーの全てである。
仮にも王太子であるトリスタンが、こんな知識量なのである。
宮中で彼女が歓待された理由もそこにある。
ビュシェルベルジェール国は、トリスタンがかつて使っていた言葉で説明すると、地方分権が異常に進んだ国である。というか、ビュシェルベルジェール国の体制は諸領域の連合体に近い。バラバラな国が集まって、さらに大きな国家の態を成しているのだ。
トリスタンの立場はその連合体を取りまとめる長の息子、次期長、といったところである。
もちろん、王家にも領地はある。首都パーラスとその周辺、他に鉱山地も王家の所有領だ。
王家は、自分の領地である、それらの土地は自分たちできちんと管理している。
しかし、他家の領地に関しては、おどろくほど無知だ。リュシアンなどは、武断の王であるので、おそらく自分で各領を巡ったこともあるかもしれないが、トリスタンは城から出ることもおぼつかぬ身である。
本と講義、それと王太子の耳に入らぬよう気を使われ、それでも聞こえてくる噂話。それらだけが、トリスタンと外界との接点である。
「病弱とお聞きしましたけれど、本当にそうなのですね。顔色が悪いですわ」
「ええ、生まれたときからです。かけてもかまいませんか?」
いいつつ腰を下ろす。ほんの少しのあいだ立っているだけでも、トリスタンは疲れていた。
「あら、あたくしに聞かずとも。殿下はお好きなときに座れるでしょう」
トリスタンの方が立場が上とでも言うつもりなのか、しかし
「その割に、ずいぶんはっきりした物言いですね。ヴィルジニー候」
「物事ははっきりと、というのがあたくしの主義なの」
ヴィルジニーは微笑んだが、トリスタンはそれをむしろ挑発と受け取った。
「お茶をお持ちしました」
盆に黒茶と菓子をのせたルネが、険悪な二人の間に割って入った。どうやら、会話が聞こえていたようである。ヴィルジニーに対し、険のある視線をちらりと向けた。従者としては、それだけで十分行き過ぎた行為となる。
「ああ、ありがとう。ルネ、呼ぶまで下がっていてくれ」
とすれば、この場にルネはいさせないほうがいいだろう。
トリスタンの指示にはさすがに不満を表に出すようなことはせず、ルネはトリスタンにもヴィルジニーにも一礼し、控えの間に下がった。
「ふうん、あなたはそういう人なのね。優しいってよく言われるでしょう。でも……」
「先ほどから、分かったようなことを言うのはやめていただけませんか」
いつもは穏やかなトリスタンだが、ヴィルジニーはいささか言葉が過ぎる。
しかし、王太子に対してのふるまいとしては、ヴィルジニーの態度は法典上としては逸脱していないのだ。
領主が敬意を払うのは、あくまで王に対してであり、王太子はその対象ではない。
むしろ、王も各領候も、建前の上で、立場は対等なのである。
むろん、王に敬意を払い、王太子にも敬意を払う領候は大勢いる。そして、それが当然のことでもある。
しかしそれは、あくまで慣例上そうなっているだけであり、法典上はまた違う。
ヴィルジニーは、法典に沿ったふるまいをしているにすぎない。
だから、トリスタンはヴィルジニーの態度ではなく、個人的な、会話の内容を咎めたのである。
誇りを汚されたと感じた場合、それを咎めることを、法典は許している。
ヴィルジニーが法典に沿ったふるまいをするなら、応戦してやるつもりだった。
面倒なやつだ、とお互いが思ったことであろう。
これがトリスタンとヴィルジニー候の出会いであった。