○○鬼との付き合い方
基本的にはライトノベルっぽいものばっかり書いてるので、これもそういうプロットを作ってたら何故か恋愛モノみたいになってしまったという裏話があるらしいです
「――」
時が止まった。
そう言うと少し大袈裟に聞こえるかも知れないが、事実として教室内にいたクラスメイトたちは、僕も含めて一瞬の間動きを停止していた。みんなの視線はバラバラで、だからこの光景を傍から見ている人がいればどうにも状況など呑み込めないだろう。
だが。
たとえ何事もなかったかのように友達との会話に戻っても、意味もなく時計の文字盤を睨みつけてみても、一限の予習をしてみても……意識だけは一様に、同じ所を向いている。
たった今後方のドアを開いて、視線を下に向けたまま座席に着いた少女の気配を窺っている。
雨原風香。
基本無口で愛想がなく、そのくせ短気で癇癪持ちの毒舌女。暴力に訴えることこそないが、とにかく全てのことに反発する。どんな親切だって通用しない。笑顔なんて見せたためしがない。関わらないのが一番良い――それがこのクラスの共通見解だった。
それでもこういった人間の名は友達同士の会話なんかには頻繁に出現するもので、またルックスだけを見れば美少女だということもあり、姫だとか女王様だとか雪女だとか、皮肉交じりのあだ名をたくさん持っているのも定番と言えばそうに違いない。
その中で、すぐに聞かなくなってしまったのだが、僕としてはいやにしっくりきたものがあった。
曰く、雨原風香は鬼である――と。
今日も雨原は誰とも喋らずに座っていた。
僕の通っている高校は偏差値的に可もなく不可もない平凡な私立校で、それなりに生徒数は多い。約四十人のクラスが一学年につき十五、といったところか。この二年三組もその例には漏れず、総勢四十一人の生徒が在籍している。
ところで、教室の机の並べ方というのは学校によって色々あるのかも知れないけれど、少なくとも僕のクラスでは横八列に並べるのが普通である。
どうして唐突にあまり関係のない話題を持ってきたのかと言うと、当然それが現在のトピックに関係なくもないからなわけで、つまり四十一を八で割ると一余ってしまうというお話だ。小学生にだって分かる。ただ小学生に分からないかも知れないのはその結果どうなるか、ということであって。
……孤立は誰にとっても嫌なもの、と決め付けるわけではないが、新学年になって最初の座席決めの際、積極的にその席に立候補する生徒がいるかと言えば微妙なところである。というか、実際いなかった。そんな席を望むような一匹狼だかコミュニケーション下手だか人見知りの人間がいたとしてもそれならよりいっそうあの場での挙手などできないだろう。
けれど、いつまで経っても決まらないことに不満を覚え始めたらしい誰かがポツリとこぼした言葉によって、窓際最後尾というある意味では好立地なその席は他のどこよりも早くに主人を得ることになったのだ。
「――雨原さんが良いんじゃね?」
当然、蚊の鳴くようなと形容するのもおこがましいぐらいの小声ではあったが、それは去年一年間で学年中に広まっていた雨原さんの噂を知っている人なら誰もが頭のどこかで考えていたことで、うやむやの内にみんなが納得してしまった。
問題があるとすれば、そのことをいかに穏便に雨原さんに伝えるかだったのだが、彼女は忍者張りに音も立てずいつの間にか近くに来ていて、話し合いを聞いていた。そして咄嗟に体を強張らせるクラスメイトを前に、意外にも彼女は特に怒鳴り散らすでもなく、「……そう」とだけ呟いて静かに教室の後ろへと歩いていった。
それからというもの、席替えは四十人で行われ、雨原さんの席はずっと固定されている。
「――佐々木君はお休みね? あ、遅刻? はい、了解です。じゃあ授業を始めましょう」
いや、まあ。
今重要なのはそんな唐突な過去回想なんかではなくて。
要は雨原さんはいわゆる一人席で、僕の隣の席の男子が今現在教室にいなくて、さらに一時間目の英語を担当しているこの先生はやたらとペアワークを推す、ということだ。英語は使ってこそ、みたいな精神に基づいた英会話。まあ中学や高校の授業じゃよく見る光景だ。
経験上五回に一回くらいは存在する〝ペアワークがない日〟やら佐々木がダッシュで教室に駆け込んでくることを信じてもいないカミサマに願ってみたりしたものの、やっぱり信仰心の無さからか希望通りにはいかず、最終的に男の到着を待ち侘びている自分が情けなくなってやめた。そういうのは恋する女の子がやるから憧れの視線を向けられるんであって僕が同じことをしても気味が悪いだけだ。
そして授業が終盤に差し掛かった頃、
「それでは教科書を持って隣の人と向かい合って下さい」
案の定、だった。
それでも見つからないように必死で体を縮こまらせていたのだが、そうは言っても僕だって高校二年生なわけで他人に存在を感知されないほど小さくなんてなれるはずもない。
「あ、沖田君は雨原さんの隣に移ってね」
「……はい」
分かってはいたものの。
仲の良い友達だけじゃなくあまり喋ったことも無いようなクラスメイトからも哀れむような視線が向けられているのを感じながら、重い足を動かす。一歩一歩が死への道。死地のど真ん中に定位置を構える少女は、いつも通りに俯いていた。
並べるだけ並べてある彼女の隣の机に教科書を置き、深呼吸をしながら椅子を引く。ぎこちなくも体を向けることには成功した。
「あ……その。よ、よろしく」
「……よろしく」
記憶を総ざらいしても過去雨原さんと話した記憶は無いから、多分これが僕と雨原さんのファーストコンタクトだ。この状況で最大限の愛想を振りまいて挨拶する僕に、注意していないと聞き逃してしまいそうなほど小さな声で返答する雨原さん。
鬼などと称される雨原さん――もっともこのあだ名を未だに覚えているのは僕くらいなのだろうけど――だが、周知の事実であるように普段は大人しいのだ。何か気に触ることをしない限りは、むしろ進んで話しかけたいほどの美少女というわけである。
問題は、発火点及び傾向が一切読めないことなのだけれど。
「まず前回の続きから行きましょう。教科書の五十二ページを――」
しかし、散々言っておいてそれはどうなのかと思わなくもないが、僕はそれほど雨原さんのことを嫌ってはいなかった。もっと正確に言えば、嫌ったり怖がったりするような理由が無い。いや、確かにみんなのこれだけ過剰な反応を見れば少し怯えたりもするのだけど、僕は雨原さんのことを噂でしか知らないのだ。去年のことで雨原さんへの対応も分かってきたということなのか、無駄に刺激して逆上させる犠牲者が出なかったせいもあり、五月になった今でも僕は雨原さんが避けられている原因であろう部分に触れていない。
第一多少毒舌家だというだけで同級生の女子に気圧されるのはどうなんだろう、とすら思う。
だからどちらかと言うとこのときの緊張は、初めて話す可愛い女子に対するそれであった。
英語教師の指示に従い、薄い教科書のページを繰る。いわゆるOC、オーラル・コミュニケーションというやつだ。英語で書かれた会話文なんかを交互に読んだり定型文を使って質問し合ったり、というアレである。友達同士や気になる異性なんかとやっていればかなり楽しい授業だ。実際僕だっていつもはそこそこ楽しみにしている。
……いや、まあ。
雨原さんはある意味〝気になる異性〟ではあるんだけど。
チラリと横を窺ってみると、彼女は視線を斜め下に向けたまま微動だにしていない。周りは既に教科書を取り出して楽しげなムードに突入しているのにこの一帯だけがどんよりとした沈黙に包まれている感じだ。
これ幸いと放っておいても良かったのだが、と言うより少し後から考えてみればぜひともそうするべきだったのだと思うが、二つばかりの理由があって僕は雨原さんに話しかけてみることにした。
「ねえ」
一つはこの授業の担当教師のことだ。柔らかそうな物腰とは裏腹にどこぞのヤンクミを彷彿とさせるまでの正義感を併せ持つ彼女は悪い噂を聞くからなんて理由で一人の生徒を差別なんて絶対にしない。美徳である。積極的に尊敬したい。しかしこの場合にそのスキルを発動されてしまうと、具体的には雨原さんに注意して僕との会話を強制させるようなことがあったりすると、ぶっちゃけて言うと何が起こるか分かったものじゃない、らしいのだ。
受け売りである。僕とは違って去りし一年間を雨原さんと同じ教室で過ごしてきた佐々木の言だったはずだが、これくらいのことは誰でも言っている。曰く、あまりにも授業に関心を示さないことを軽く叱った物理教師に対し、その顔が真っ青になるほどの暴言を吐き捨てて教室を出て行った。とか。それ以来、事情を知らない先生が授業を受け持つときにはクラス全体で雨原さんに注意が行かないように配慮していたのだという。
……他の部分と比べたら少し不自然なくらい伸ばした前髪で目元を隠した少女は依然として大人しく、正直彼女が大きな声を出しているところも想像できないほどなのだが。それでも、もしそんなことになれば雨原さんは色々なところに回された結果停学やら退学になったっておかしくない。教師への暴言は立派な生徒指導の対象だ。元々優等生とは言い難いレッテルを貼られている彼女への処分は必然的に重いものになるだろう。
それはなんだか気分が悪い。
二番目の理由はもっと単純なことで、いや、積極的に喧伝したいことではもちろんないんだけれども、前述の通り雨原さんが〝気になる異性〟だからということだ。
ただそれだけだと、言えなくもないのだけれど。
「あの、雨原さん。教科書出してもらえないかな……?」
――失望しないで欲しい。別段女子とのコミュニケーションに慣れているわけでもない僕がいくら長い前口上を切っておいたっていきなり気の利いた台詞なんて選べるはずもないだろう。
雨原さんは微妙に肩を揺らしたが、僕の方に視線を向けるわけでもなく、
「持ってくるの、忘れたの」
淡々と。
でもほんの少しだけ――僕の見間違いでなければ――悔しそうに、そう呟いた。
実際彼女は無遅刻無欠席無早退に忘れ物も滅多にないような、そこだけを切り取ってみれば大変に優秀な生徒なので、こういったことはかなり珍しい。それに今回も、OCなんてペア一組に教科書一冊あればそれで事足りるわけだからノーカウントというところだろう。
「じゃあこれ。一緒に」
必要以上に短い音節の言葉になってしまったが、テキストのシェアくらいは嫌でも何でもない。深く考えもせずに、外国人留学生のトムがどういうわけか英語がやたら流暢な健太と夏休みの計画を立てているページを開帳し、二つの机の真ん中に置いた。自然と距離が縮まる。
瞬間――さっき話しかけたときの比じゃないくらい、雨原さんの肩がビクッと跳ねたのが分かった。
機械仕掛けの人形のように、怖々とすら形容できる仕種で僕に目を向ける。前髪の隙間から見える両瞳には何か戸惑いのような色が浮かんでいた。……いや、それだとどこかしっくり来ないような気がする。
「あ――」
雨原さんは意外なほどに小さな両手を膝の上で握り締める。今さらながら彼女はとても小柄だった。触れたら壊れてしまいそうな体躯が、緊張か恐怖か憎悪か――とにかくマイナスの感情に突き動かされて震えているのが分かる。
突如。
「アンタにそんなことを頼んだ覚えはないわ。何なの? 教科書を忘れたわたしに対して優越感でも感じてるわけ? 哀れなクラスメイトに同情してあげるのがそんなに楽しい? 見くびらないで。アンタの自己満足にわたしを巻き込まないで! 迷惑なの!」
……唖然として声も出せない僕に鋭い言葉を叩きつける彼女の姿は、まさにそう、
鬼と呼ばれるに相応しいものだった。
佐々木が来たのは三時間目の途中で、それでも二年三組のメンバーは今日一度も全員揃わなかった。空白の一人は雨原さん、である。OCの授業中に突然大声を上げた彼女は間もなくして教室から出て行ってしまったのだ。
そしてそれからは何事もなく時間が進み、あれから少しぼんやりとしていた僕としては特に何かをした覚えもないままに、今日の課程は帰りのホームルームまでつつがなく終了したらしい。……少し、というのは見栄を張った表現だったかも知れない。少なくとも、らしい、とわざわざ断る必要があるくらいには心ここにあらずだった。
初めて目にした雨原さんの〝鬼〟と呼ばれる部分。
それを真正面から受けて衝撃がないはずもない。
「まあ、あんま気にすんなよ沖田。あいつは何か……よくわかんないからさ。聞いたことあるだろ? どんなに丁寧に接したって優しく話しかけてみたってダメなんだ。多分放って置かれたいんだろうよ、本人も」
そう言って肩を叩いてくれる佐々木に、お前は確かあの時教室にいなかったんじゃなかったかとか思いつつも生返事を返す。ぁあ、とか。そうなのかもな、とか。
僕の学校では遅刻を防止する意味もあってか清掃の時間は朝に設定されているので、既にかなりの生徒は友達と連れ立って部活へ向かったり帰路に着いたりしている。僕も佐々木も直帰組でいつもは一緒に帰るのだが、どうしても外せない用事(近所のショッピングモールで今日の午後から行われる戦隊ヒーローのショー及び握手会のことだろう)があるとかで、いつまでも動かない僕に痺れを切らした佐々木は先に帰ってしまった。友達甲斐のないやつだ、と思わないこともないが、それでも二十分以上待っていてくれたんだから感謝するべきなんだろう。
……それにしても、と思う。
佐々木には悪いが、一時間目の終わりからこっち、僕の頭の中を占めていたのは当然のことながら雨原さんのことだった。雨原さんのことだけだったと言っても、文法的には重複表現になるが別段言いすぎだとは思えない。それくらいあのときのことが――いや、正確にはあのときに見た雨原さんの表情が僕の脳裏に焼き付けられていた。
「……なんだったんだろうな」
一応、周りに誰もいないことを確認してから、それでもぼそりと呟いた。もうクラスメイトは全員この教室から出て行った後だ。この学校は文科系の部室が集まった部室棟というものが存在するため、部活があってもなくてもこの建物に残っている生徒などほとんど皆無だろう。
「あの瞳……」
もう一度、吐息と一緒に吐き出すように。
――間違いなく。間違いなく僕が生まれてこの方見てきた中で一番複雑な表情だった。
普通、あの場面で抱く感情はどんなものが考えられるだろうか。
教科書を忘れたペアの片割れに自分のものを貸す、という行為は学校じゃよく見かける行動で、言ってみれば当たり前のことだが親切には違いないだろう。別に讃えろと言う訳じゃないけれど。
そして僕の経験上、貸す側にも貸してもらう側にもなったことはあるが、大抵軽い調子で「ありがとう」なり何なりのお礼を言ったり、もしくは単に会釈をしたりというのが一般的な答えだと思う。特別有り難いことでもないが、一応感謝はする程度。
でも雨原さんはそんな想像の斜め上どころかねじれの位置(現在進行形またはつい最近まで中学生だった者が持つ知識。語感で捉えていればそれで済むような数学用語)をいく対応をして見せた。はっきりとした拒絶。佐々木たちの言は正しかったということになる。
……百歩譲って。
ああいったことを、つまりは他人に物を貸してもらったりするようなことを屈辱と感じる生徒は確かにいるのかも知れない。たとえ口に出さなかったとしても、悔しいやら情けないやら思うのは特別おかしいことじゃない。雨原さんはその傾向が人より強いのだと言われれば納得してしまいそうにもなる。
でもあの目だ。口を開く直前に見せた瞳の色。あれのせいでどこかもやもやしたものが残る。
最初はどこか戸惑っているように感じた。多分それも間違っているわけではない。けれど、そんな単純な感情じゃなかった。戸惑いを筆頭に、恐怖、緊張、羞恥、絶望、心配、諦観エトセトラ。それらを全部ブレンドして抽出したようなごちゃごちゃの表情。
おかしいじゃないか。僕に対して怒っているならこんな複雑な顔色になるわけがない。その気持ちだけをストレートにぶつけるだけでよかったはずだ。なのにそうじゃなかった。
それに。雨原さんは震えていた。
怒りで体を震わせていたとも確かに取れる。僕も今までそうだと思っていた。だが、そういうのって怒りたいんだけどそれを表に出せない、とか、要は我慢するためなんじゃないか? だとしたら僕に暴言をぶつけてきた雨原さんは当てはまらない。それなら……それならよっぽど、別の原因を考える方が筋が通っている。
怖がっていた? ――何を。怖かったのは僕だし。
自分を抑えていた? ――何のために。抑えられてないし。
人気のない放課後の教室で頭を抱えて考えて。
「……ああ、そうか」
独りごちる僕。呆然としていたあのときは上手い表現が見つからなかったけど、ようやく雨原さんの見せた複雑すぎる感情に付けるべき名前を思いついた。ぴったりだ、と思う。震えていた理由もそれ以外のことも何にも分かっていないが、例えるなら雨原風香に対する〝鬼〟のようにしっくりくる言葉。
あれは、そう。
「罪悪感、だ」
「あ」
あのとき雨原さんが抱いていた感情におぼろげながら見当が付いたことですっきりして――いや良く考えてみればどうしてそうなるに至ったのかはまるで謎のままなのだが、このままでは帰るタイミングをいつまで経っても掴めなそうだったので――家に向かっていたところ、教室に忘れ物をしていたことに気がついた。
義務教育だった中学校までと違って「自分でやれ」的な空気の強い高校では宿題が出ることも少なく、だから下校時に忘れ物をするなんてことはあまりないのだけれど、今日は少し状況が違う。ノートだ。二時間目以降の記憶がさっぱりない僕に、ある女子生徒、詳しく言うと二年三組クラス委員長が貸してくれるという話だったので、さっき受け取ったのだが、机の中に入れっ放しにしてしまっていたのだ。
別に特別真面目なわけでもない僕としては、ノートの一部が欠けていたところでテストの前になるまでは問題ない。しかし相手は委員長だ。このクラスの委員長はテンプレートという言葉がとても似合うお方で、人一倍強い正義感やら自分の主張を曲げようとしない強情さやら、問題が解決するまで離さない粘着質な部分まで完璧に網羅している。だからこのまま放置、というわけには行かないのだ。十中八九明日の朝僕のノートは全て検分され、写していないことが分かれば休み時間の度に僕の席までやってきて作業の進捗を監視することだろう。晒し者になるのは避けたい。
というかそうじゃなくても、毎日家で予習復習を欠かさず行っている委員長が全教科のノートを貸してくれたんだから、使わないのは申し訳ないだろう。
そういうわけで僕は来た道を戻り、下駄箱で革靴を上履きに履き替えた。まだそれほど歩いていなかったのが不幸中の幸いだ。歩いて三十分ほどかかる僕の家に辿り着いてから気付いていたとしたら、いくら委員長に悪いとは言え取りに行くのはかなり躊躇われる。
ほんの少し前に通った廊下はやはり人気がない。学校という空間は建物だけじゃなくそこで過ごす生徒が作り出すものなのだ。だから人がいない校舎は異質に感じられ、怪談の現場としても良く使われる。まあ今はまだ日も落ちていないような時間だから不気味さは感じないけれど、いつもは聞こえる喧騒がやんでいると落ち着かない気分にはなる。
それでも外のグラウンドから届く運動部の掛け声や隣の校舎で練習している吹奏楽部や軽音楽部の演奏なんかはとても学校らしい。学生にとって安心感を与えてくれるものだ。
そんな風に、特に意味はないのだけれど少し良い気分になりながら僕は教室までやってきた。二年三組。ロッカーに鍵がかかるようになっているこの学校では教室の扉に錠はなく、また深夜でもないのだから放課後に教室に入ることは何ら禁止されてはいない。
だから後方の引き戸を別段考えもせずに開けて、
「え?」
――すぐに後悔した。
そのとき僕の見たものを箇条書きでまとめてみよう。
机を全体的に前にずらすことで得た、教室の後ろの広い空間。
そのスペースに円を描くようにして置かれたいくつかの椅子。
それぞれの椅子に行儀良く座らせられた――可愛らしい人形。
その円の中心にふわりと腰を下ろし笑みを浮かべている少女。
なお少女は小声ながらも何かを話しているようであり、他の人間がいるわけでも携帯電話を持っているわけでもないし笑顔であることから独り言でもないらしいから多分人形と会話しているんだろうけどそれよりも何よりも何と言うか僕の記憶が改竄されてでもいない限り――、
その少女は雨原風香の顔をしていた。
「――?」
雨原風香が誰もいない教室で可愛い人形と戯れて微笑んでいる? いや、いやいや意味が分からない。まず高校生が学校で一人で人形遊びをしている風景を想像できないし、ましてや雨原さんだ。それに彼女が笑っているところなんて誰も見たことがないって話じゃなかったか。どうなってる。混乱しすぎて全く頭が回らない。夢中になっているのか雨原さんがこっちに気付いていないことが唯一の救いだ。今の内に状況を整理してしまいたい。
でも整理と言っても……あれだ。とても絵になる光景だな、とは思った。何だこれ全然整理できてない。収納とか向いてないのかも知れない。
そして、放心して思考回路がバグを起こした僕は思わず掴んでいたバッグを取り落とし――その音に雨原さんは凄まじい速度で振り返った。目が合う。何時間か前に複雑な感情を映し出していた瞳が大きく見開かれる。
「え……な、なん……でっ」
口をパクパク動かす雨原さんだが、そんなのは僕にも答えようがない。むしろ僕の方から聞きたいくらいだ。色々と。
おそらく僕以上に慌てている彼女はわたわたと立ち上がると激しく動揺しながらもスカートを何度か払い、先に片付けるべきかどうか迷っているのか視線を人形たちの間をくるくる彷徨わせていたが、結局僕のところまで走ってきた。……こんなときだけれど、妙に微笑ましい。
「あ、の!」
雨原さんの剣幕に、とっさに身構える。また一時間目のように理不尽に怒られるんだろうか。いや今回は僕にも少しは非がありそうだし、さっきよりひどくなったりするのかも知れない。
なんて、思っていたのだが。
僕に詰め寄った雨原さんは頬を紅潮させて右手を胸元に持ってくると、一瞬ぎゅっと瞳を閉じてから上目遣いにこう言った。
「わたし沖田くんのことが好きです付き合ってください――!」
……言うが早いか教室を飛び出していった雨原さんを追いかけることなどとてもできないほどに狼狽しようとも、責められる謂れはないはずだ。
本日二度目の半気絶状態から復帰してみるとそこは僕の自室だった。妙に頭が重い。というか……目覚まし時計の表示を見たところ日が変わっているんだけど。服もパジャマになっているし台所には昨晩のものと思われる食器があるんだけど。あれか、僕は昨日無意識で徒歩三十分の距離を踏破してルーティンワークを全部こなして寝たと言うのか。
やるじゃないか、僕。
「いや、さすがに無理あるだろ……」
そんなオート機能がついている奴はきっと人類じゃない。少なくとも僕の知っているそれとは違う。体が覚えている、みたいな都合でぼんやりとしながらも家まで帰るくらいはできるかも知れないが、その場合食事も何もせずに制服のままベッドに倒れこんでいるのが筋だろうし。ちなみにうちの両親は仕事で海外を飛びまわっているため、親がやってくれたとは考えられない。
大方、妹が何から何までやってくれたのだろう。……自慢ではないが、本当に何の自慢にもならないのだが、僕の妹は家の中から出ようとしないことを除けば全方位型のスーパーハイスペック娘なのだ。ここでは割愛するけれど、いざとなれば僕の介護くらい片手間でできる。どこかの国の国家予算くらい指先一つで動かせるという噂もあるくらいだ。噂であって欲しい。
まあ、兄として恥ずかしいと思うような気持ちはとうに消えているので大丈夫だけれど。
というわけで、僕の現状には何も問題ない。食事も食べさせられたんだろうけど方法を考えなければ問題ない。シャワーも浴びさせられ、下着も着替えさせられているようだが、過程を想像したりしなければやっぱり何の問題もない。
ええと。
だからとりあえず現実逃避はやめることにしよう。
頭に浮かぶのは昨日目にした雨原さんの姿だった。
「っていうか僕、告白されたんだよな……?」
僕のことを好きだと言ったときの彼女の表情は、実は良く見ていなかった。正確に言えば見えていなかった。あのとき雨原さんはまるで何かを隠すかのように視線を下に向けていたからだ。耳たぶが真っ赤に染まっていたのは分かったけれど……。普通に考えれば照れ隠しだろう。でもその、何というか。
そもそも雨原さんが僕に告白をしてきた、ということに違和感があるのだ。……いや、僕だって青春真っ盛りな高校生なわけで、可愛い女の子が自分に好意を告げてくる可能性を完全に否定するのは少々というか多少というか多々心苦しいところがあるわけだけども、だとしてもあの流れからの告白は流石に有り得ない。正式な手順なんか知らないけど、多分おかしい。
だとしたら何だ、恥ずかしい場面を見られたからさらに衝撃的な状況に巻き込んで忘れさせようとした、とか? ――ピンとこない。それじゃ更なる恥ずかしさの連鎖に陥ってるし。
結局。
いくら考えても答えが出なさそうだったのと、そろそろ家を出なければ登校時間に間に合わないということもあって、僕は一旦思考を打ち切った。どうせ雨原さんとは学校で顔を合わせることになる。自分から話しかけるのは無理だし向こうから来られてもビビるけど……ま、まあ何とかならないこともないだろう。
ドラマなんかでこういうフラグを立てると「翌日例の少女は学校を休んだ。それ以来僕が彼女を見かけることはなく……」的な展開に進みそうな感じがするけど、ここは現実だ。
というか、雨原さんはそんなにヤワじゃないとも思う。
とりとめもなくそんなことを考えながら、僕はクリーニングに出した直後のように綺麗になっている制服に袖を通した。
まさか遭遇できないなんてことにはならないと思っていたが、逆に、と言うべきなのか雨原さんとのエンカウントは予想の斜め上を行く形で起こった。
妹――自分の部屋だけというわけではなくあくまで家に引きこもっているため、リビングやダイニングには普通に出てくる――と一緒に和風な感じの朝食をとった僕が玄関の扉を開けてからおよそ十五分。前述の通り僕の家から学校までは徒歩三十分かかる生活習慣病予防コースなので、まだ学校までの道のりの半分ほどしか歩いていない。フラグなど物ともしない登場っぷりだが……なにやら様子がおかしかった。
僕が毎日往復する通学路の中間地点に当たるこの場所には大手チェーンのコンビニがあり、良く雑誌の立ち読みのために寄るのだけれど、そこの駐車場はスペースの問題で妙な形をしている。店の手前にも何台か止められるのだが、残りは隣のマンションとの間の影に隠れた、奥まったところにあるのだ。すぐ前に横たわっている大通りからは微妙に見えづらい位置。僕だって気付いたのは偶然以外の何物でもないようなそんな場所で、雨原さんは数人の男に囲まれて立っていた。この辺でも割と良く見かける、いわゆる不良というやつだ。雨原さんの交友関係に口を出すつもりなど毛頭ないけれど、雰囲気からして絶対お友達じゃないだろう。
……仕方ない。
特別強い正義感を持っていなくても、前日に何やかんやとあって今もまさに頭の中に浮かべていた相手が危険な状況にあるのを知ってしまったら、見て見ぬ振りはできないはずだ。だってこのまま登校して雨原さんが欠席なんてことになったら僕はずっと後悔の念に苛まれ続ける羽目になる。だから、あくまで利己的な目的のためにそのある種異様な集団にこっそりと近づいた。
「……てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ」
「良い度胸してんじゃねえかクソ女ァ!」
「もういっぺん言ってみろ!」
――会話が完全に聞き取れるほど十分に近づいた頃の状況は、概ねこんな感じだった。不良サイドはずっとそんな調子で怒鳴っているようだ。だがボルテージの上がりようから察するに、いつ手が出てもおかしくない。……いや、何故に? 少し過剰な勢いでナンパされているだけだと思ったのに。仮に手ひどく断ったとしてもここまで怒ったりはしないんじゃないか。
涙でも堪えているのか俯いている雨原さんの表情は見えない。
「アハハ……」
――そのとき。
唐突に、場違いなほどに軽やかな声が聞こえた。間違ったって僕が出せるような音域じゃないし、不良さんたちだってそんなメルヘンボイスじゃないだろう。だから、だからこの声は、
「え?」
息が詰まる。
四人の男が口調も荒く詰め寄る、その中心にいる雨原さんが、
「アハハハハハハハハハハハ! 何言ってんのアンタたち! 超面白い! ねえなに、何だっけ。〝この近くに良い店があるからお茶しませんか?〟だっけ!? お茶! お茶誘ってくる不良とか! 格好と台詞似合ってなさすぎだし! でもでもウケ狙いならかなり良いセン! え? ああ本気なんだっけ? 聞いた聞いた。わたしに言ってるんだっけ? そっかー見込み全っ然ないなあ。釣り合いって言葉も知らないのかなっ」
大爆笑していた。
お腹を抱えながら、とても楽しそうに、そしてほんの少し嗜虐を込めたテイストで笑い転げていた。
それで男たちの怒りが臨界点に達したのだろう、リーダー格らしい一人がついに雨原さんに殴りかかろうとする。女子に手を上げるのは最低だとは思うけれど、正直気持ちこの人の気持ちは分からないでもない。同情する。……ただ、僕が後々嫌な思いをしないためにも、見捨てるわけには行かない。
「……くっそ!」
策も何もなく、飛び出していった。高速で向かってくる拳に対して怯えもせずに笑い続ける雨原さんを庇い、横っ面に思いっきり一発食らう。四人は突然躍り出てきた僕に驚いたように一瞬動きを止めるもその程度の邪魔で晴れる気分ではなかったらしく、標的を僕に変えて構えを取った。そして勢いのままに追撃を――、
ピィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!
仕掛けようとして、だけどできなかった。突如として発生した音に遮られたのだ。字面ではそれほどでもないが、実際は耳を劈く大音量である。うるさい。思わず僕も両手で耳を押さえる。
「な、なんだ?」
そうして完全に無防備になった僕だったが、いつまで経っても攻撃されなかった。それは当然相手も同じ音を聞いているから、なのだけれど……僕とは少し様子が違うようだ。四人プラス雨原さんは立ったまま気を失ってしまっている。いや、確かにものすごい音だったけど全員仲良く気絶する程か? というか、何だったんだ今のは?
――僕が自分のカバンに取り付けられていた妹オリジナルの防犯ブザーに気が付いたのはそれから大分時間が過ぎてからだった。〝お年寄りがいる場所では絶対に使用しないで下さい。必然的にそうしなければならない場合はAEDの用意を欠かさないようにお願いします〟とか……心臓弱い人を死に至らしめるレベルだった。僕だけ正気を保っていられた理由も、多分このためだけに作られたんであろう超小型の耳栓(基準値を超える音量を察知したときのみ膨張し展開)が仕掛けられていたことで分かった。
どんな事態を想定してるんだ、妹。
まあ言っても仕方ないので溜め息を吐き、身体に触れるのには抵抗があったけれど雨原さんをお姫様抱っこ(相手が気絶してるんだから背中にしがみつかせるのが難しかっただけで他意はない)すると、非力でも力持ちでもない僕としてはそれなりに頑張って歩くことにした。彼女の体がやたらと軽かったことが唯一の救いである。……柔らかかったことを次点に上げても良いけれど、世間体的に前者にしておく。
とにかくここから離れられれば良かったので、行き先は妥当なところで学校である。この時間なら辿り着くのは一時間目の最中だろうから裏門から入れば問題はない。あとは文化部部室棟の適当な部屋でも拝借すれば良いか。
雨原さんが目を覚ますまでは、僕もそこで休もうと思う。
ちょっと状況の説明をさせてもらいたい。
あれから予定通りに校内に忍び込み、吹奏楽部が合宿かなんかで使ったんだろう布団を引っ張り出してきて雨原さんをそこに寝かせた。二人きりで密室に篭もって相手の女子は無防備に寝ているという状況があまりにもアレだったので、必要以上にタオルケットを被せてみた。無意味に咳払いとかもしてみた。そうして出来上がった小山を座って眺めている内に僕も寝てしまったらしい。
そして不意に目を覚ますと極近距離に雨原さんの顔があった。それはもう、すこし動けば唇が触れ合うくらいの位置に。
……いや、急展開なのは僕自身が文句を言いたいくらいなのだ。本当に。
通常モードを知らないから何とも言えないけどどうにも挙動が不審な雨原さん。いつの間にか布団類は全部畳んであり、その辺から持ってきた椅子を僕の目の前に置いて、そしてそれ以上何かをするわけでもなく僕の顔をじいっと見つめていた……の、だろう。ちなみに昨日やらさっきとはまるで逆で、驚くほどに無表情である。無表情キャラ、というのは確かに需要があるけれどそんなの現実にいたら多分怖いだけだと思う。加えてこんなにキャラが安定しないのは……ちょっと見たことがないけれど。実は一卵性双生児とかいうオチじゃないだろうな。いやその理論で行くとカルテットが組めるくらいの姉妹がいないといけないんだが。
「え、と。どうかした? 雨原さん。――ああいや、そりゃいきなり気絶して違う場所に連れて来られたんだからどうもしないってことはないと思うけど」
「……」
じいーー、と。それだけ。目だけで答えが伝わるような関係に至った覚えはないので解析できなかったところで僕に非はないと思われる。ただただ気恥ずかしい。
ううん、雨原さんの行動が全く分からない。
というか、周りから聞いていたイメージと大分違う。佐々木やらその他の友達もみんなが言っていた内容をまとめた感じでは、雨原さんは〝無口で愛想がなく、そのくせ短気で癇癪持ちの毒舌女〟だったはずだ。そしてどれだけ親切にしても険を向けられると。
確かにそういう部分もある。普段の教室ではそんな感じだし、昨日の一時間目に怒鳴られたときは先の評価に同意する気持ちだった。だが放課後の告白は? 今朝の爆笑は? 今の無感情は? ――どうにも食い違っている。
「……ごめん、ちょっとトイレ行ってくるから」
別に尿意は感じなかったけれど。
立ち上がるのに合わせて視線を上げる雨原さんに一言断ってから、少し考えをまとめるためにも部屋を出た。普段授業で使う校舎よりも早くに建設されたためにかなりガタが来ているこの建物は、廊下を歩くだけで軋むような音が鳴ったりするホラー仕様だ。夏合宿の肝試しにはもってこいなんだろうなあとかそんなことをぼんやり思った。
馬鹿の考え休むに似たりという暴言的な諺があるけれど、ということはつまり馬鹿じゃない学生が一日六時間の授業を受けている間馬鹿に属する側の人間はずっと休憩していると言うわけで、それはとても勝ち組だなと思う今日この頃だった。
要約すると特に何の成果も得られなかった、と。
そして元いた部屋に戻ると、なんと雨原さんが消えていた。
「え。いやいや何やってるの雨原さん?」
嘘だった。しかし雨原さんは何故か机をいくつか重ねたバリケードを作ってその向こうでこっちに背中を向けて体操座りをしている。どうも僕から隠れているらしい。
「あの」
そして、いつかのように荒ぶってもいなければ嗜虐に満ちてもいないけれど、どこか震えたような声でこう言った。……僕いじめてないからね。
「色々、話したいことがあります。今から携帯電話のアドレスを伝えるので、今日の夜にメールして下さい」
「あ、うん」
釈然としない気分は残ったけれど。
色々説明してくれるというならばそれは願ってもないことだ。
何かを我慢しているように震えた声で読み上げられるアドレスを自分のスマートフォンに打ち込み、もう一度顔を上げた。小さくなった雨原さんの背中を見つめる。身じろぎするのが分かった。
「あ、の」
「ん?」
「できれば、もう、出て行って欲しいです」
さっきから妙な敬語になってないか? いや敬語が間違っているというわけじゃないけれど、年上の不良を目の前にため口で大笑いしていたのに僕に対して敬語を使うのは変だと思うんだ。
しかし、生憎僕に女子を苛めて楽しむような趣味はない。
「……なら、行くけど。教室行かないのか?」
ちなみに今は三時間目の途中。ここまで来てしまえばもう休んでも同じようなものだが、せっかく学校の敷地内にいるのだからそれは少しもったいない気がする。
しばらくの間窓の外を流れる雲だの窓の外に巣を張る蜘蛛だのをみてぼんやりしていたが、やっぱり行くことにする。地下を爆走するクモに思いを馳せるのは僕の仕事じゃない。
ちなみに雨原さんの返事はなかった。
この日、学校では特筆するようなことは何も起こらなかった。第一、雨原さんが来ていないのだ。彼女ほどのイレギュラーが不在なのだからそうそう日常の範囲外のことなど起きようはずもない。いつも通りに授業を受け、解散して、佐々木と無駄話をしながら家まで帰った。実に平穏である。このあと雨原さんがここ二日ほどの状況を説明してくれるということも僕の良い気分に拍車をかけていた。いやまあ……楽しい話とは限らないけどさ。むしろそうじゃない可能性の方が高いんだろうけどさ。
しかし……夜というのは具体的に何時くらいのことなのだろう。
晩飯の肉野菜炒めを炒める(?)手は止めずに、そんなことを考えた。言うまでもなく雨原さんに連絡を取る時間のことだ。僕としては、七時くらいまでは夕方で、そこから十一時くらいまでが夜、それを過ぎると深夜というイメージだ。でも雨原さんもそうだと断言できるだろうか。十時頃にメールして〝遅すぎる!〟などとなっては困る。じゃあ九時? ピンポイントで夜っぽい時間だ。しかしもし長いことかかるような話だった場合、例えば返信を繰り返して計二時間も三時間も要するような壮大な物語だった場合、九時開始では日を跨いでしまう。それなら早い方が良い。しかし八時は夜か? 本当に。さっきはそんな風に分類したけれど、やっぱり八時はあんまり夜じゃない気がする。……でもそうすると同じ理由で七時も潰れて、結果選択肢がなくなる。あれ? 僕今日は雨原さんに連絡取れないんじゃないか? 詰んでしまった。
「お兄ちゃん、焦げてるよ」
「失礼な。お兄ちゃんは焦げてない」
「じゃなくて。フライパンの中身が黒でしかないよ。フライパン・オブ・ザ・デットだよ」
「うをあ!?」
……料理をしているときに別のことを考えるべきではない。特に僕のような素人が。いつの間にか出てきた妹に指摘されなければスーパーで買ったお徳用の豚肉はさらにひどい有様になっていたことだろう。現時点でも若干手遅れな感はあるけど。
仕方ないので夕飯のメニューを一品減らし、ご飯にコーンポタージュ(お湯を注ぐだけのタイプ)にマーボーナス(本当に一手間だけしか要らないタイプ)をテーブルに並べていく。ここに野菜炒めを追加するとどこの国出身だか分からない料理になるが、それはむしろ日本の良さだと思う。旨いものを集めれば旨いのだ。
黒い塊は責任を持って僕が食べる。
「いただきまーす」
「召し上がれ。……メインが減っちゃってごめんな」
いーよーとか適当に言いながらもぐもぐと口を動かす妹。……当然、妹は料理くらい完璧にできる。材料を無限に与えればどんなコックも脱帽する味を作り出せるし、見るからに貧相な冷蔵庫の中身のみを使って二人分の飯を一週間以上保たせる節約レシピもお手の物だ。でも、やらない。何でもできる妹は僕の顔を立てて、毎日三食の料理だけは僕に用意させてくれる。本当、それすらも僕との人間関係を良好に保つためだけの策略とも取れるのだけれど、
「やっぱりお兄ちゃんが作ってくれる方がおいしいよ。……一緒に、食べれるのも嬉しい」
こういうことを素で言っちゃうようなところがあるから、僕は妹に本気で嫉妬することなど一生ないだろうと思う。
「そうか? そりゃどうも。昼はどうしても一人になっちゃうもんな」
弁当は置いていっているが、当然僕が学校に言っている間は一人で食事をすることになる。
「……そういうことじゃないんだけどな」
「? あ、それより紗希、ちゃんとナスも食べろな?」
妹――沖田紗希は何から何まで完璧だが、唯一の弱点がナスだったりする。僕はそれをどうにかするため、ちょくちょく飯にヤツを入れているのだ。今回はマーボーナスということで、何のカモフラージュもなく思いっきりナスだ。食感もばっちり残っている。
あくまで弱点克服のためであり、決して困った顔の妹が可愛いから苛めたくなっていたりだとかこの一瞬だけでも兄としての威厳を取り戻してやろうと奮起していたりはしない。決してだ。
「ふえっ? や、でもでも。ナスは体の発達に悪いから多分食べない方が良いって噂がとある界隈で話題沸騰中で!」
「あやふやだな……。詳しくは知らないけど、ナスは野菜だからきっと健康には良いはずだ。というかそうじゃなくたって紗希は毎日一リットル以上牛乳飲んでるんだから平気だろ」
僕も大概あやふやだった。でも野菜じゃん? だから大丈夫。
でも紗希は僕の言葉に何故かひどく動揺していた。
「な……! なんで知ってるのよ! ネットで知り合った人に頼んで一日二本ずつ、お兄ちゃんがいない時間に、それも紗希と顔を合わせないようにちょっとだけ開けた格子窓から届けてもらってるのに!」
「計画的過ぎるだろ。しかも普通に毎日二リットルだった……」
ちなみに僕がそれに気付いたのは、夕食を作る度にキッチンの脇に置いてある牛乳パックの山が目に入るからだ。もちろん綺麗に洗ってあり、リサイクルに出せる状態にはなっているのだが、それが増えるペースが異常に早い。僕は朝ごはんがパンのときくらいしか飲まないから、必然的に妹の紗希が消費していることになるだろう。
そんな僕の思考を読んだのか――うちの妹は読唇術及び読心術を嗜んでいらっしゃる――すぐに台所へ行って牛乳パックを回収&自分の部屋でリリースしてきたようだけれど、今さら何か意味があるんだろうか。その行動。
まあ、牛乳を飲みたくなる気持ちは分からないでもない。紗希はちっこいのだ。身長も、あと胸も。学校に行っていないから同世代との比較はできないはずだけど、僕の目から見て確かに小柄な部類だと思うし、本人もそれは自覚していて、さらにはコンプレックスに感じているらしい。
「な、なによお兄ちゃん?」
さっと両腕で胸を隠す紗希。――いや、別に下心込みの視線でその辺りを眺めてたわけではないんだが。紗希は僕の心を読んだのか、微妙に口を尖らせながらではあったけれど席に着いた。
微妙に話題が途切れてしまった。そう言えば、と思い、この完璧超人な妹にさっきの疑問をぶつけてみることにする。
「なあ、夜って何時くらいのことだと思う?」
「それって雨原風香さんにメールする時間帯のことだよね? むう、お兄ちゃんと雨原さんの仲を取り持つみたいな真似はしたくないけど他ならぬお兄ちゃんの頼みだし……」
「いやおいちょっと待て妹」
「お兄ちゃんとかお姉ちゃんなら良いけど弟とか妹は呼び名として成立してないと思うよ?」
「何で知ってるの?」
「?」
僕の問いに紗希はこくんと可愛らしく首を傾げて応じた。……どうやら僕の持ち物のどこかに盗聴器が仕掛けられているのは疑いようもないことらしかった。しかもごまかそうとしているってことは今後も続けるつもりで、だとしたら僕がどんなに探しても見つかりっこないだろう。
「うう……でも、うん。やっぱり九時くらいで良いんじゃないかな。遅くも早くもないって」
「釈然としないけど……まあ、そうだよな。ありがと。お礼に紗希の分のナス一つだけ食べてやる」
「ほんと? やたっ。じゃあはい、あーんして」
「(硬直)」
こうしてロリコンでもシスコンでもナス好きでもない僕にとっては別にご褒美というわけでも何でもないんだからねっ、な時間はあっという間に過ぎていった。
『それじゃあ、その。どうぞ』
夕食を食べてから小一時間悩んだ末に打ったメールがこれである。同い年の女子にメールを送ったことなどない上に人付き合いが上手なわけでもない上に相手が雨原さんなのだから仕方ないだろう。空メールを送るだけでも用件は果たせるかと思って最初はそうしようとしたのだが、何故か妹から送信を止められた。「進展して欲しくはないないけど、それはさすがに可哀想だよお兄ちゃん……」とか。この妹はどうにも勘違いしている節がある。というかメールの送信を止めた、って言葉にすると普通だけど実際そんなものじゃないからね? 同じ部屋に居たわけじゃないのにハッキングされて自分で操作できなくなったんだよ一瞬。そのあと僕の部屋に侵入してきて物理的にも妨害してきたわけだ。
そんな妹を何とか自室に戻して寝かしつけ――いや深夜二十八時より前に寝ることなどありえないとは思うけれど形式だけ――てから三十分ほど。
いつまで経っても来ない返信に、やはり連絡する時間を間違ったんじゃなかろうかという不安やらここまで全て含めて雨原さんからの精神攻撃なのかもという恐怖やら色々感じてしまったけれど、ついに午後九時四十五分、ようやく僕の携帯電話が着信音を奏でた。
「うわ……長」
画像の添付があるわけでもないのに凄まじいバイト数になっている。無駄にメールのやり取りはせずに一度に説明しようと言うことだろう。勝手なイメージだけれど、何となく雨原さんらしい。ただ読むのには相当な根気が必要そうだった。
『まず、その。普段がああだから口調をどういう風にしたら分からないけど、とりあえず敬語はなしでいく、から。
えと……とりあえず、ごめん。昨日から変な態度取っちゃって。って、わたしのことなんか知らないんだから変かどうか分からないかも知れないけど。
本当は。本当はこんなこと言ってもしょうがないと思ってた。それに、沖田君――こうやって呼んでいい?――に、もしかしたら迷惑かけちゃうかも、と思ってた。
でも、だけど今朝みたいにまた巻き込んじゃったら嫌なの。……あの、わたしが気絶した後の詳しい経緯は、今度ちゃんと教えて欲しいんだけど。い、いいよね? 説明できないようなこと、何もなかったよね?
それでその、何から言えばいいのか分からないから……最初から、全部話すね。
もし、これからの内容を読んで後悔したって感じたら、すぐにこのメールを削除して下さい。できれば沖田君の記憶の中からも、消して下さい。
いいかな、言うね?
昨日とか今日の……ううん、その前からずっと、沖田君やみんなに見せているわたしの感情は、本当の感情じゃないの。
――意味、わかんないよね? 大丈夫、ちゃんと説明するから。
ね、沖田君はわたしのことどう思ってる? 多分、みんなと同じで……無口で愛想がなく、そのくせ短気で癇癪持ちの毒舌女、だっけ? 語呂も良いし、分かりやすいよね。そんな風に、思われてるかな?
そうだよね。貰った親切に全部悪意で返してたんだから、もちろん、そうなる。そうなるに決まってる。全部わたしが悪い。
でも……だけど。だけどね。わたしだって話しかけられたら嬉しいし、優しくされたらありがとうって言いたいし、笑いかけられたら一緒に笑いたいんだよ。
――できないの。
わたしの感情は自分じゃ制御できない。
親切にされたら、感謝しようと思うのに勝手に相手を攻撃してる。
それで、いつも黙って座ってるようにしてた。わたしの噂も広がってたし、そうしてれば一番安全かなと思って。そしたらあの称号を獲得したってわけ。誰がつけたのか分からないけど、自分でもピッタリだと思うもん。
昨日の放課後も、そんな感じ。
え、えと、人形で遊んでたのは何と言うかこのこととは全く、全然関係ないから、忘れちゃって、下さい。です。
その、そんな恥ずかしいところを見られて、本当は顔が真っ赤になって悲鳴でも上げたいような気分だった。……それなのに、何故か告白してた。ごめんね、驚いたよね? わたしも、驚いたんだから。
今朝だっていきなり男の人たちに囲まれて、怖くて、足がすくんで、震えて。動けなくなっちゃう……それが普通の女の子の反応だって思う。それなのに、わたし、笑ってたよね? 意味わかんないよ。全然、わかんないんだよ……。
その後も、ひどかった、よね。起きたら沖田君と二人きりで知らない場所にいたから……混乱して、恥ずかしくて。そしたら無表情娘、だっけ?
どうしてこうなったのかは、わかんない。わかんないことだらけだよ。
でも、顔を合わせないで、声も聞こえなければ、まともに話せるから。ちゃんと、わたしの感情をぶつけられるから。だからこれは、このメールだけはわたしの本心。
わたしは、今。ちょっと困ってます。
……あ、はは。何か変だね。そう言えば、こんな風に本当の自分の思ってることを誰かに伝えるのって初めてなんだ、わたし。
だから、どうってわけじゃないんだけど。
――長くなっちゃったね。でもこれで終わりだから。
ね? 聞かないほうが良かったでしょ?
この二日の説明にはなったかも知れないけど。
どうしようもないこと、だから。
だから、沖田君はこれまで通り、できれば昨日と今日のことは忘れて、わたしとできるだけ関わらないようにして。
聞いてくれて、ありがとう。……雨原風香でした』
結局、僕はそのメールに返信をしなかった。
そしてベッドに寝転がってはいたものの、一睡もしなかった。
……一晩中、巷では専ら休むのと同義だとされていることを行っていた。
「んじゃ、行ってきます」
朝だった。頭の中がぐちゃぐちゃでまともに食事が作れなかったので、トースターで食パンを焼いて、その脇にハムエッグを添えただけの簡単なもので我慢してもらった。まあそれくらいなら僕でもそれなりに美味しく作れるし。
小動物のようにそれを頬張っているからなのか、僕が食べ終わって着替えを済ませてもパンを片付け切れていない妹に軽く手を振る。すると紗希はちょっと慌てたように、飲んでいた牛乳を置いて席を立った。――いや、今気付いたけれど紗希の食事スピードが遅いのは明らかに許容量以上の牛乳を飲んでいるからだと思う。しかも一リットルパックをストローで一生懸命。
「お、お兄ちゃん!」
いつも以上に挙動不審だ。何かあったんだろうか。
「な、何だよ」
「頑張ってね! 何をとは言わないけど! 万が一のために、いつもは紗希が預かってる核兵器のスイッチをお兄ちゃんのカバンの中に入れておいたから、っていうかそんな場合には紗希も全力で対処するんだけどでもやっぱり心配だから!」
「…………紗希。お前がどんな心配をしてんのかは全然分からないけど、その他にも色々突込みどころはあったと思うけど、それ以前に。お前、僕のケータイ覗いた?」
「ひぇうっ!? 覗いてないよっ。ただお兄ちゃんのところに来るメールは全部紗希のパソコンにも届くようになってるだけで」
「もっと悪い!」
まあ……盗聴器やら隠しカメラやらが仕掛けられているのに携帯電話が盗み見されていないわけないか、とどうにもハードルの低い納得をして、とりあえず紗希の頭にポンと右手を置いてみる。
「……んえ?」
「ありがとな」
方法はともかく。
悩んでいる僕を元気付けようとしてくれていることは、思いっきり伝わってきたから。
「行ってくる」
幸せそうにほんのりと笑う紗希を見て……雨原さんも、こんな風に笑顔にしたいと、そう思った。
「雨原さん、ちょっといいかな」
そう声をかけた瞬間、クラス中がざわめいたのが分かった。約八十の瞳が、僕の突飛な行動を追っている。当然だ。このクラスのメンバーは雨原風香に関わらないことを暗黙の了解としているのだし、加えて僕は今年度最初の〝被害者〟だ。この行動は、本来ありえない。
本当は、僕もこうするつもりはなかった。目立ちたくないし。放課後にこっそり話しかけようと思ってた。……だけど、いつも通りに教室後方の扉を開いて入ってきた雨原さんの顔色が、いつも通りとはほんの少し違っていたから。何だかんだ言って毎日雨原さんのことを見ている僕だから分かる――とまで言うつもりはないけれど、彼女の表情は確かに少しだけ暗い。
近寄らずにはいられなかった。
あえて衆目監視の中で行ったのには、もう一つ理由があるのだけれど。
朝のHR開始前すでに自分の席に着いていた雨原さんは、多分その場にいたほとんどの人間の予想を裏切って、それでいてまったく僕の期待通りに、
「……」
無言で、頷いた。
「何のつもり?」
この時間、自分の担当教室を目指して動く教師たちの流れをスニーキングミッションよろしくかいくぐり、昨日と同じ文化棟の一室に辿り着く。それまでずっと僕に引かれていた手を解こうとはしなかった雨原さんだったが、その言葉を発すると共に僕から少し距離をとった。
言ったきり、雨原さんは黙る。黙って僕を睨んでくる。
……心が折れそうになるな、これ。
「ごめん、でも話があったんだ。……聞いてもらえないかな?」
「……」
どこかの部が使ってるんだろう教室に沈黙が落ちる。何も言わないからといって肯定とはならないのが雨原さんなのだけれど、逃げ出していないことを鑑みて多分耳を傾けるくらいはしてやってもいいという意思表示なのだろう。強引だけど。
「昨日。雨原さんからもらったメール読んだよ」
雨原さんは反応しないけれど、表情はほんの少しずつ変わっていっている。少なくとももう睨んではいない。それどころか顔色が真っ青になっていく。――それは一体何から何への感情変化なんだろうな。
「読んで、僕なりにちょっと考えてみた」
「か、考えてって……」
ガクガクと震えながら鸚鵡返しにする雨原さん。何となくの事情を知ってはいても心配になるレベルである。ついには両腕をクロスして肩を抑え、顔を隠してしゃがみこんでしまった。
いやほんと、凄まじく悪いことしてるような気分になる。
小さくなった雨原さんは僕の顔を見ないままに続ける。
「沖田君が、考えることなんか、ない、でしょ……? わ、忘れてって言ったのに。関わらないでって。っ、放って、おいてよ」
全然隠せていない涙声で続ける。
「や、やっぱり、話さなければ、良かった……っ」
嗚咽の音はやまない。五分待っても十分待っても雨原さんは泣き止まない。
……仕方ないか。本当は彼女が顔を上げてくれるまで待ちたかったんだけど。
「雨原さん」
小柄な肩は震えもしない。多分僕の存在を忘れようとしてるんだ。僕が雨原さんのことを忘れなかったから、自分の記憶の方を消去しようとしている。
まあ、反応してくれないのなら勝手に喋るだけだ。
「雨原さんは昨日のメールで言ったよね? 困ってるって。何でか自分の感情をその通りに表現できな
いって話だったけど、文章で伝えた以上、昨日のあれは本心なんだ。
SOS……だったんだろ。
だから僕は色々と考えてみた。たった半日、雨原さんが苦しんでた期間に比べれば圧倒的に短いけれどほんの十一時間くらい考えてみた。どうしてそんなことになっているのかと思って。それでね――」
「ちょっと。ちょっと待ってくれる?」
手近なところにあった椅子に腰掛けて話していた僕の耳に、もう震えても涙混じりでも何でもない綺麗な声が聞こえた。顔を青くするより前の、僕を睨むような表情にそっくりだ……というか実際、睨まれているのか?
いつの間にか立ち上がっている雨原さんは高い位置から鋭い言葉を投げつけてくる。
「沖田君はさっきから何を言っているの? 意味が分からない。わたしに慈悲の心でも見せつけようとしているの? そういうの、やめて欲しいわ。言ったでしょう? 悪いと思ったから説明しただけ。もうこれ以上わたしに構わないで」
その視線はMというわけではない僕にとっては別にご褒美というわけじゃ……ネタが被るので自重するけれどそう言いたくなるくらいにはSっ気たっぷりだった。
「それに沖田君は――」
「いいから聞いてくれ」
だけど僕は妹をいじって楽しんでいるようなサド属性持ちなので平気で雨原さんのゾクゾクするような声音の言葉をぶった切る。――おかしいな、何でこんなに卑下しているんだろう。
雨原さんは相変わらず僕を睨んではいるものの、とりあえず大人しくする気になってくれたらしい。
「……」
「それで――それでさ。ここ大事なところなんだけど、
確かに雨原さんが実際に感じている思いと吐き出されている言葉は食い違ってるんだと思う。理由までは分からないけど、本音を表現できない状況にあることは間違いない。
でも……雨原さんは〝感情を制御できない〟って言ったよね?
それは違うと思うんだ。
だってさ、もし本当に制御できていないなら〝無口で愛想がなく、そのくせ短気で癇癪持ちの毒舌女〟なんて評価ができるわけないんだ。いっつもバラバラな反応をされるならそれ相応のあだ名か何かができるはずだろう? 百面相とか。でもそうじゃない。自分でも言っていたけれど、雨原さんは誰かに親切なことをされる度に逆切れみたいに相手に悪意を叩きつけてる。
つまり言い換えれば、感謝の気持ちを抱いたときには必ず敵意を表してる。
だからさ。
……感情を制御できていないんじゃない。
多分、本当に出したい感情と実際に表現される言葉がリンクしてないんだ。別の表情と繋がってるんだ。だから、だから雨原さんは笑いたいときに笑えない」
断言するわけじゃないけれど。
いつもの態度から考えて。感謝の気持ちが、悪意に。
一昨日の放課後の告白。恥ずかしさが、相手への好意に。
不良に囲まれたときのように。震えるほどの恐怖は、嘲笑に。
目覚めたら二人きりで狭い部屋にいたり、教室でいきなり声をかけられて。混乱は、冷静に。
そして嬉しく思う気持ちは、恐怖か悲しみか、とにかく震えて泣いてしまうような心に。
――そういう風に橋渡しがなされてしまっているんじゃないか。
それが半日考えた僕の結論だった。馬鹿の考えは休むに似ているらしいけれど、あくまで似ているだけであって思考には違いない。……というか僕はこれでも、あの妹の血縁者なのだ。
あんまり、甘く見ないで貰いたい。
「……そ、んなこと」
腕組みをした状態で立っていた雨原さんは僕の言葉を聞きながらぐっちゃぐっちゃになったあわあわした様子でおろおろしていた。……上手い言葉が思いつかなかったけれど、多分これで何となく掴めるだろう。擬音の無限な可能性を信じてる。
「だ、だとしても! だから、何だと言うのだ! ……ですか。沖田君には関係ないじゃないふざけないで。っ……そんなの、そんなのどうしようもないでしょ」
「いやどんなキャラだよ」
思わず突っ込んでしまった。色んな感情が入れ替わりまくってテンションが全く安定していない。むしろ新しいかもとか思うほどだ。キャラがブレているという批判を一切受けない強キャラである。
でもまあ、実際雨原さんの言う通りなのだ。
雨原さんが悩んでいる原因とやらについて思いを馳せてみたのはいいものの、そこから先には続かない。で? だから? といった感じだ。偉そうに講釈を垂れたところで解決策を持っているわけでもない。ある意味最初から投げ出すよりもたちが悪い。期待させてしまう分だけ。
「……ねえ、雨原さん。何か原因に心当たりとか、ないのかな」
だけど諦めたくなかった。ここで諦めたら僕はまだ弱いままだということになる。しかも今回はあの時と違ってはっきりと〝困ってる〟と言われているのだ。助けを求められているのだ、心から。
逃げたくない。
「あ――えーと…………分からない」
雨原さんは多少落ち着いたようで、思い出したように冷静な口調でそう言った。ということは混乱……してるのかな。というかそうじゃなくても何か言いようのない間があったよ今。考えている素振りなんてなかったのに間があったよ。
「いや、嘘吐いたよね」
「吐いていない。難癖をつけるのはやめて欲しい。――女の子に吐くとか言わせるなんて沖田君は最低」
「そのキャラクターきっついな! というか吐くの二つの読み方使ったボケが対面での会話中に出てくるのはおかしいと思うんだ!」
「とにかくわたしは言わない。……教えたくない。沖田君には、関係のないことだから。それに――それに、わたしにはどうして沖田君がそんなことを聞きたがっているのか分からない。わたしを助けようとする意味が分からない。信用できない。もうどこかに行って欲しい」
未だに睨みつけるようなクール属性の迸る雨原さんを見て。
ああそうか、混乱というよりは疑問なのか――そんなことを思った。彼女は僕がこうして呼び出したことが疑問なのだ。不安なのだ。僕の行動が疑わしく見えるのだ。
当たり前だった。悩みを打ち明けたからと言って、最悪のファーストコンタクトだったはずの相手が何のメリットもないのに助けてくれるなんて普通は思わない。信じられない。無償でSOSに応えてくれるヒーローなんて、基本的に世の中には存在していないわけで。
仕方ない。
「それなら……分かった。どっか行くよ。別に僕は雨原さんを怒らせたいわけじゃない」
「……」
訳を話してくれないのなら仕方ない。二次元世界の勇者は何だかんだで悩みの種を聞きだして、たった一つの厄介ごとをクリアするだけで全部を丸く収めるんだろうけど、そんな大層な存在じゃない僕ではどうしようもない。
「そうだ、この部屋の一番した右端のロッカーあとで見ておいてくれ。普段は使ってないみたいだけど、偶然開けられたりしたら大変だし」
「……?」
助けられなくても、しょうがない。
――なんて。
そんな風な思考ができるのなら、僕はそもそも雨原さんにここまで関わったりしていない。
所変わって、自宅である。雨原さんは置いてきた。靴を脱ぐのももどかしく、勢い込んでリビングに駆け込んでデスクトップ型パソコンを立ち上げる。妹が魔改造したおかげで格段に短くなっているはずの読み込み時間すら異常に長く感じてしまう。
こと、というわずかな音に振り向くと、妹が甘ったるいコーヒーの入ったマグカップを机の上に置いてくれていた。
「これ飲むと落ち着くよ、徹夜には必須アイテム」
「……なあ、普通〝まだ授業中だというのに息せき切って帰ってきた兄の姿に妹は目を丸くした〟的な場面じゃないの? エスパーなの? そして何でいつもMAXコーヒーと張り合うの?」
「霊能者と言うより監視者だし」
「それはむしろ現実的に法に触れそうだからな?」
ちなみに妹の淹れるコーヒーはほぼ牛乳な上に砂糖をこれでもかと言うくらいぶち込んでいるので、正直MAXコーヒーより全然甘い。もはや色つきの練乳。これでも美味しいのだからすごい。黄金比とやらがあって、いつも寸分の狂いなく淹れているらしい。
そうこうしている内に起動完了、即ネットに繋いでとあるワードで検索をかける。微妙に変えてまた検索。検索。時折激甘コーヒーを流し込みながら目的のページが見つかるまで何度も何度も繰りかえす。
「お兄ちゃんがパソコン使ってるの初めて見たかも」
「まあ、実際ほとんどやらないしな……。今回は特別だ」
何かを調べることなんて滅多にないし、あったとしても学校の課題ならコンピュータ室で友達とやってしまった方が早い。もっと複雑なことなら何の躊躇いもなく紗希に頼む。当然のようにノータイムで終わる。だから僕がデスクトップの前に陣取る必要はそうそうない。しかし言った通り、今回だけは特別だ。
「あった……」
僕はようやく見つけた情報をメモし、間違いがないか確認してから席を立った。この時間に制服でうろつくのはどうかとも思ったけれど、これから行く場所を考えれば逆に好都合かも知れない。そのまま玄関に向かった。
「ちょっと行ってくる」
一瞬振り返ってそう告げると、紗希ははにかんだように笑いながら片手をひらひらと振っていた。多分、分かっているんだろう。僕が何をしようとしているのかはもちろん、何故そんなことをしようとしているのかも。
そうだよ、紗希。お前の想像通りだ。
ちゃんと見てろ。
「――じゃあ、いじめなんかがあったわけではないんですね?」
そうよあの子は真面目な子だったから先生方も気にかけていたしそれにあの子自分から他の人と距離を取ってるところがあるからみんなそれを察して話しかけないっていうかでも仲間はずれにしている感じでもなくて何て言うのかしら近づきがたいと言うか……。
最後の確認のつもりで聞いたのにマシンガントークをやめない女教師(四十八、既婚)に礼を言いつつ続きをやんわり断って、三十分ぶりにその場を離れることができた。
雨原風香の出身小学校の職員室、である。
最近は個人情報の問題とかで、生徒名簿も作られないし、クラスメイトの出身だって本人に直接聞かないと分からないのだが、ネットを漁ればどこかしらにはあるものだ。これがさっき僕が探していた情報の一つである。
雨原さんが本当の感情を出せない理由がどこかにあるとして、過去を洗うのは当然のことだろう。だからまず高校に入る前の状況を聞きに来たというわけだ。ちなみにここに来る前に中学校にも寄っている。しかし結果はどちらも似たようなものだった。
「ううん……その評価だと今と同じなんだよな」
頭を掻きながら校庭を突っ切るようにして歩く。小学生の頃からすでにああだったのか……。それについての感想やら同情やらは僕がするべきではないけれど、そうすると原因は家庭にあったと考えるのが自然である。もちろん住所は調べてあるが、
「気は進まないな」
踏み込んでいいものなのか、微妙なところだ。そもそも僕は既に雨原さんに拒絶されているわけだし。ここに来ている時点で手遅れな感はある。
でも、正義のヒーローはいつだってお節介なものだ。
それを気取るわけじゃないけれど。
「……-い、おーい。そこの高校生、聞こえてないのかー」
「え?」
普段高校生しか居ない校舎で過ごしているから一瞬その呼び方じゃ誰を呼んでるのか全く分からないだろと思ったけれどよく考えてみればここは私服の子供オンリーなわけでブレザーの制服姿が異様に目立つ。高校生といえば僕のことで間違いなかった。
「はあ、はあ……。歩くの速いね、キミ」
急いで追いかけてきたんだろう、息を切らした妙齢の女性の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。美人と呼ぶに相応しい綺麗な顔立ちをしているが、着込んだ緑のツナギと足元のバケツのせいで何だか台無しだった。いや、似合っているんだけどね。
清掃員、だろうか。もっと年配な人がやるイメージだが別に若くて悪いわけでもない。
「キミさ、風香ちゃんのこと好きなわけ?」
「――へ? い、いやそんなわけじゃなくってですね、まあ可愛いなとは思いますがそれだけであって、そんなことは関係なくて、そりゃ守ってあげたいですけどそんなこと言ってる場合でもなくて、なんと言いますかアレです、ス、ストーカー?」
「……一番ダメなところに着陸したね。帰ってきてよキミ。そんな動揺しなくてもいいじゃんか」
「……ふう」
紗希お手製のコーヒーが飲みたいです。あれ結構落ち着くんだよ。MAXコーヒーでもいいからそこの自販機に置いてないかな。
「えっと、どなたですか?」
「掃除のお姉さん、でいいよ」
「初めて聞いたなそんなワード……意外にも」
「ままま、いいじゃんその辺は。それでそれで、お姉さんさっきの職員室での話立ち聞きしてたんだけどさ」
「僕の周りは盗聴魔ばっかりなのか……」
「ばっかり? む? まあいいや、それでね。キミさ、多分大事なこと忘れてるよ。――ここは公立小学校、さて教師は最大何年連続で勤められるでしょーか?」
やたらとくねくねした動きのお姉さんに目を取られながら、自分の小学校時代を思い浮かべてみる。ええと、六年だったか。確かそうだ、入学したとき既にいた先生は卒業時には全員他校に移っていた。でもそれが何だって……六年?
「それじゃ……さっきの先生、いや他の先生でも最高で小五以降のことしか知らないってことか?」
今の僕たちが高二なのだから、単純計算でそうなる。ということはそれより前に何かあったとしてもそれを知っている人は今ここにいないということか。くそ、いやでも公立教師の異動は地方新聞とかにも載ることだしすぐ調べられるか?
そんな風に焦り始めた僕の前で、ダサい格好のお姉さんがやたらと不敵な笑みを浮かべていた。くっくっく、とか笑いそうなイメージ。
「そこで、お姉さんの出番なのだよ」
「――最初からそう言ってください」
「いやーだってせっかく人にモノを教える快感を味わえる滅多にない機会なんだからさーちょっとくらいもったいぶったっていいじゃんかよー」
教師に勤務年数制限はあっても清掃員にはない。要はそういうことだ。
「雨原さんのこと、知ってるんですね?」
ただ知っているか、という問いでは無論ない。
「知ってるよ。――二年生の頃から急におかしくなっちゃったカノジョのことはね」
ラグナロクという言葉を知っているだろうか。北欧神話における週末の日、というのが原義らしいが、ゲームや何かの影響か普通に最終決戦のルビに見える。
そしてまさに今、僕は最終決戦に向かうような心境でいた。
目指すは雨原さん家の風香ちゃんの部屋である。
……誤字はない。
今の僕の状況を簡単に説明すると、クラスメイトの気になる異性の出身中学、小学校を巡った上に自宅を突き止めて玄関前に立っているところだ。
ストーカーという評価を段々否定できなくなってきた。
チャイムはとっくに鳴らしたのだがいつまで経っても返事はない。
「家にいるとは思うんだけどな」
インターホンにカメラがついているところを見ると、多分僕が来ていることを認識した上で無視しているんだろう。確かに「それならどっか行く」とか言って立ち去った奴が日も変わらないうちに家に訪ねてくるなんて正直気持ち悪いもんな。
しばらく考えている内に、思考の方向性は微妙にシフトしてきた。
まず、お姉さんの話から雨原さんがこの家に一人暮らしをしていることは確定している。
そしてふと妹の顔を思い浮かべ、もしやと思ってポケットをまさぐると案の定銀色に輝く細長く複雑に折れ曲がっている工具が――ピッキング用なんだろうな、多分。
入れるんじゃないか?
――暴走と呼びたいのなら勝手に呼ぶといい。ただそれより先に、少し前辺りから読み返してみて欲しい。
僕はとっくに暴走している。
「え……ぅあ」
理性の飛んだ僕(性的な意味ではない)が首尾よく雨原さん宅に不法侵入すると、広めのリビングのソファにパジャマに着替えた雨原さんが寝転がっていた。頭に冷えピタを貼り付けた彼女は僕の姿を認めた瞬間がばっと身を起こす。粘着力が落ちていたのか冷却シートはぽとりと膝の上に落ちた。
「何でいるんですか」
冷静な口調。視線にはもう一切の動揺も見られない。状況が掴めず混乱しているはずなのに、それを表に出すことができずにいる。
「話があるんだ」
僕はそれを壊したい。
雨原さんが心から笑っているところを見たい。
「さっき、ある人から雨原さんの過去のこと……家のことを聞いてきたんだ。勝手なことしてごめん。謝っておく」
「……」
掃除のお姉さんは話していて楽しいタイプの人だったけれど、あまり説明が上手いとは言えなかった。というか脱線が多すぎるのだ。かなりの時間話していたが、結局得られた情報をまとめるとこうだ。
雨原さんの両親はいわゆる事業家だった。どちらかと言えば成功している部類で、そこそこ裕福な暮らしをしていた。しかしあるとき致命的なミスをおかして一つの事業に失敗、急に風向きが悪くなってその後は一気に失墜したらしい。
二人が仕事場で揃って首を吊ったのは雨原さんが小学校二年生のときだったという。
パジャマ姿で立ち上がった雨原さんにちらと視線を向けた。
「ああ、そのこと? いやー、あの頃お母さんもお父さんもいつもいらいらしててさー、暴力はなかったんだけど叱ってくることが多くなったんだよねー。うるさいって。黙れ! って。お前は感情を抑えることもできないのかって。わたしって結構感情表に出しちゃうタイプだったから余計目に付いたのかな?」
雨原さんは朗らかに笑いながら明るくそう言い切った。ちょっと前の僕なら怒ったかも知れない。こっちは真面目に言っているのに茶化されたようで、事情を知っていても苛つくくらいはしたかも知れない。
でも今ははっきり分かる。
――痛々しい。
今雨原さんが浮かべている笑みは中身も何もない空っぽなものだ。本当の感情を覆い隠した単なる鎧だ。それも自分の意思じゃなく、トラウマのような記憶によって無理矢理植えつけられた仮面だ。
「ねえ、雨原さん。だったら雨原さんは、ずっと我慢してきたのか? 我慢して自分の感情を表に出せなくなって、それで苦しんでるのに助けも求めないで相手の心配ばっかりして罪悪感を覚えてたって?
困ってるのに誰にも助けを求めないでずっと一人でいたっていうのか?
頼りたくても頼れなくて、助けて欲しくてもそう言えなかったっていうのか」
「ア……アハハ、何ムキになっちゃってんの?」
怒気を孕ませた僕の声にひるみ、それなのにいやそれ故に嘲笑を浮かべる雨原さん。
コンビニ前で不良たちに向けていたのと近い表情だ。多分、恐怖。それが分かっているから口調をなるべく柔らかくして続ける。
「でも、やっと僕に話してくれた。文面でなら本音を伝えられるってことは、これまでだって悩みを誰かに共有してもらうことはできたはずなんだ。なのにそうしないで我慢してきて、そして今僕に話してくれた。偶然だとは、思うけど。僕に話してくれた。試してくれた。
――嬉しかったんだ。もう、誰にも頼られたりしないんだと思ってたから」
少し、昔のことになる。
僕の妹に関する話だ。
妹――沖田紗希は完全無欠な天才で、引きこもりである。
天才とは言っても表舞台で活躍するわけじゃなく、暗躍するタイプだったから、妹のことを知っている人たちからは〝色んなことを手がけているから必然的に家から出てこられない〟みたいな認識を受けている。ほら、アニメなんかでもたまに見かけるような、部屋中にパソコンのモニターが設置されていて、一日中それらと睨めっこしているイメージ。
だが、それは間違いだ。警察が十年以上かけて捜査してきた迷宮入り目前の事件を、資料を読み始めて一時間後くらいに解決してしまった我が妹は、たくさんの仕事依頼を受けてはいるもののそんなに時間をかけずにさくっと済ませてしまう。あとはずっと二次元の世界を泳ぎ回っているだけだ。
順番が違うのだ、順番が。
つまり紗希は天才だったから引きこもるようになったわけじゃなく、引きこもっている内に才能が開花しただけなのだ。
……それはまだ紗希が小学校に入学したばかりの頃のことだった。
俗に言う、いじめというやつだ。紗希はクラスでひどいいじめを受けていたらしい。
らしい、とか言っているところからも分かる通り、当時の僕はそんなことを知らなかった。同じ小学校に通っていたのに、毎日一緒に登校していたのに、家ではいつも二人だったのに、仲が良い兄弟のつもりで、優しい兄のつもりで色々な話もしていたのに。紗希の置かれていた状況に全く気付いていなかった。紗希がうまく隠していたというのもあるけれど……やはりそれは僕の責任だ。両親が近くにいないこの家で、紗希の悩みを気にしてあげるべきだったのは僕しかいない。
しばらくして、耐え切れなくなった紗希のクラスの委員長の女の子が泣きながら僕のところまで来てくれて。
だけど気付いたときにはもう遅かった。
紗希の心はずったずたに壊されてしまっていた。
僕以外の誰とも口を利きたくないからと、引きこもるようになった。
……結局、僕が全部悪かったんだと思う。一番近い女の子を、妹を守れないなんて。
「――あのメールを見たとき、助けてくれって言われたとき、思ったんだ。やり直せるのかも知れないって。
いや、分かってる。妹のことはもう片が付いているし、何もできなかった僕が今さら何をしたって妹に申し訳が立つとは思えない。こんなのただの自己満足だよ。僕の事情を雨原さんに押し付けてるって取られても仕方ない。
それでも僕は雨原さんのSOSに応えたい」
雨原さんの目をしっかりと見つめて言い切った。
それからしばらく静寂が続き、それを打ち破ったのは、
「……あ、あの、じゃあわたしじゃなくても良かった……のかな? そ、そうだよね。わたしだから助けてくれるわけじゃ、ないんだよね」
超デレッデレの雨原さんだった。あれか、恥ずかしいは相手への好意に、の法則か。いつもが話しかけるなオーラ全開の彼女だから、もじもじしている姿はやたらと可愛い。
顔が赤くなるのを自覚して思わず視線を逸らす。
「いや……どうだろ。確かに雨原さんじゃなくても似たような境遇の人に助けを求められたら同じ理由で動いてたとは思うけれど、その境遇って部分をひっくるめて雨原さんなわけだし、自分が苦しんでるのに我慢してきたところにも惹かれたし、というかそもそも気になり始めたのは単に容姿の問題で……って何言わせるんだよ!」
何か僕、さっきから思考垂れ流しすぎなんじゃないの? アドリブに弱すぎるよね? これからは動揺したら喋らないようにしようと思います。惹かれたっていうか多分今ので退かれたよ大分。
「……そっか」
「え?」
……そっぽを向いていた僕の耳に囁くような音が入ってきたのだけれど、雨原さんがそれをどんな顔で言っていたのかは永遠に分からない。少し後悔した。
「でも、でもね。助けるって、どうするつもりなの?」
ちょっと弾んだ声で僕に近寄ってくる雨原さん。不覚にも喜んでしまいそうになるけれど……さっきの状況から考えて、暗いのと明るいのが対応してるんだろうしな。強制から元気のようなものだ。
終わらせないといけない。
「雨原さん」
ぴくっと肩が震える。英語の授業のときの再現。ただあの時とはその他諸々の条件が色々と違う。
「雨原さんは、強いよ」
自分が困っているまさにその瞬間、迷惑をかけてしまう相手に対して罪悪感を感じることができるなんてただ事じゃない。
「だけどきっと、その強さが枷になってる」
本当は、いくら親のことがトラウマになって本音とは違う感情しか出せないようになってしまったんだとしても、時が経つにつれてその意識は薄れていくと思うのだ。でも雨原さんは強いから、そうならない。いつまでも仮面が外せない。
「もういいんだよ。そんなのはもういらない」
だから、それを外すのは周りの人間の役目だ。
僕の、役目だ。
「雨原さん、小学校二年生からこっち、誰かに本気で怒鳴ったことってある?」
「……」
俯いて小さく首を振る雨原さん。それはそうだろう、怒鳴るって言うのは自分の感情を相手に叩きつけるってことだ。彼女にそんな行為はできない。
「じゃあそれより前は?」
「……あるよ。いっぱい叫んでた」
感情表現豊かな子供は毎日のように悲鳴みたいな叫び声を上げている。雨原さんも本来そういう子供だったんだろう。
「それだと、思うんだ」
「?」
要は、きっかけがあれば、雨原さんのトラウマを克服するような何かがあればこの問題は解決できると思うのだ。それが〝感情を爆発させる〟という行為。すなわち怒鳴り散らすこと。
「僕に怒鳴りつけてみて欲しい」
繰り返して言うけれど、僕は別にMじゃない。
雨原さんは落ち着きはらった様子で、ついでにジト目で僕を睨みつける。
「ですが、わたしの感情は表情と繋がっていないのです。怒鳴ったところで本心とは全く関係のない想いばかりを吐くことになりますが」
「大丈夫だ。――今だから言うけど、雨原さん。雨原さんの本当の感情は隠し切れちゃいない。思えば初対面で僕が雨原さんの表情から〝罪悪感〟を読んだ時点でちょっとおかしかったんだ。
僕、雨原さんの本心が少しだけ分かるよ。だから信じて欲しい」
台詞の途中辺りから雨原さんの瞳が大きく見開かれていくのが分かった。真一文字に結ばれていた唇は微かに震えだし、組んだ腕も体を無理矢理押さえつけているようにしか見えない。
「……はあ?」
口を開いたのは学校で語り継がれる〝毒舌女〟だった。
「わたしの気持ちが分かる? 何それ? 勝手に理解した気になってお前のこと考えてやってるんだってこと? そういう押し付けがましい態度最悪。大体さっきから何なの? 偉そうな上から目線でさあ!
もしかして勘違いしてるんじゃないの? わたしがSOSを出した側だからって、弱い被害者だからって自分が守ってやらなきゃとか考えてるんじゃないの? 馬鹿にしないで! あんなの一時の気の迷いだから! わたしはアンタなんかに頼らない! 人の気持ちも考えないで自分の都合を押し付けるなんて真っ当な人間の所業じゃないわ。わたしの中に入ってこないで!」
途切れない罵倒の嵐。僕が教室で受けたものよりも、そしておそらく去年の犠牲者たちが喰らったものよりも激しい口調だ。見た目可愛い女の子にここまで言われたら普通は心が折れる。
でもな、まだ足りない。
学校でのそれと比較できているくらいじゃまだまだ全然足りない。
そんな回りくどい言い方じゃなくて、もっとストレートに叫べよ。
僕が雨原さんの本音を読めるっていうのは、嘘じゃないんだ。
じっと瞳を見つめていると、雨原さんは一歩二歩とあとずさる。浮かべている表情はめまぐるしく変わる。小さな体を両手で抱え込み、それでも視線を下に向けないで、俯かないで僕を見つめ返してくる。
「わたしのことなんて放っておいて(もっと構って)!」
「わたしに近づかないで(もっとこっちに来て)!」
「わたしは一人でも大丈夫なんだから(寂しいよ……)」
「我慢なんてしてないし! 困ってもいない(助けてよ……)!」
「アンタのことなんか信じられるわけない(信じてるから)!」
「大っ嫌い(好きだよ)」
「アンタのそういうところ大っ嫌い(大好き)!」
「わたしの意思に関係なく鬱陶しいお節介焼いてくるところとか(親切なところとか)!」
「正義面で人を助けて自己満足に浸ろうとしてるところとか(困ってるときに手を差し伸べてくれるところとか)!」
「全部……全部全部全部全部…………っ!」
思わず抱きしめていた。
吐き出すようだった声は段々とただしゃくりあげるだけのものになる。
両手で小さな頭を抱え込み、あやすようにしばらく軽く叩いていると、どうやら眠ってしまったらしく、完全に力が抜けた雨原さんの体躯が僕の方に寄りかかってきた。
そっとソファに寝かせる。
長い黒髪が覆い隠していた顔は涙でぐちゃぐちゃだったけれど、不思議と綺麗に写った。
……どんな表情をしていたかって?
それは当事者たる僕にしか分からない――と言いたいところだけど、まあ。
何とも幸せそうな寝顔だったよ。
そしてまた、朝である。気合が入っているわけでもなければかと言って手抜きな訳でもないいわゆる普通の朝ご飯を、妹と二人でいつもより少し早い時間に食べる。
穏やかな時間である。
どういう意図なのか今日は牛乳を飲んでいない妹は、僕より早く食べ終わってこちらを覗き込んできた。
「お兄ちゃん」
「何だ? ――まずかったか?」
「ん。ある意味まずかったけど、ね」
「何だそれ?」
「何でもない。……紗希、見てたよ。お兄ちゃんのこと」
その瞳はいつもと全く同じいたずらっぽいものだったけれど。
「やっぱりかっこよかった」
「……そうかよ」
ぶっきらぼうになったのは照れ隠しなどではない。ただまともに紗希と目をあわせられなかっただけだ。同じか。
にへらっとした妹の笑みをもう一度だけ視界に納める。
贖罪になったとは思わないけれど。
動いた甲斐くらいはあったかな、と思った。
そして、
「お?」
食器を片付けようと立ち上がった僕の耳にチャイムの音が届いた。この家のチャイムが鳴ることは珍しい。紗希は意外にネット通販を使わないし、子供しかいない家に郵便配達は滅多に来ないだろう。勧誘の類は紗希がえげつない方法で追い払っていたらその内来なくなった。
でも僕は今日この時間に呼び出し音が鳴るのを知っていた。別にエスパーに目覚めたわけじゃないけれど、知っていた。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃーい。……やっぱり、まずかったかなー」
途端に少し不機嫌になる紗希に手を振って、玄関へと向かう。
靴を履きながら制服の裾を払ったりしてみる。
割と古めかしいイメージのドアを開くと五月の眩しい日差しが飛び込んできて――、
「お、おはよ」
小さく微笑む雨原さんを明るく照らしていた。 完
読んでくれてありがとうございました!
長編の連載もするつもりなので良かったらそっちにもお越し下さい!