あの日に限って・・
あの時、何故・・・という後悔の想いに、胸が重く塞がれて夜中に目が覚めた。
「あなた、今日は、少し具合が悪いの・・。だから、今夜は、早めに帰ってきてね・・お願い・・」
あの晩、携帯の留守電に吹き込まれていた妻の泣き出しそうな声が、今も私の耳に絡みつく。
メッセージを聞いたのは、最初の店を出た時だった。
「もう一軒行こう!」
上司に肩を叩かれ、断れる雰囲気じゃなかった・・というのは言い訳だ。
携帯をパチンと閉めた瞬間、次の店はあそこだ!と、頭の中で店のネオンが瞬いた。
皆を先導して歩き始めたのは、誰でもない・・私自身だった。
あと一軒、それで家に帰るから・・その時は、そう思っていた。でも、家に帰り着いたのは始発電車が走り始める少し前だった。
ソファーで眠り込んでいる妻を起こさぬように寝室へ行き、ネクタイと眼鏡を外して、ベルトをゆるめ、ベッドに潜り込むのがやっとだった。
翌朝、けたたましい目覚ましの音に起こされた。
いつもなら、妻が止めてくれる筈なのに・・・。
昨日の今日だから、ふて腐れているんだろう・・・ぐらいに思って、手を伸ばしてボタンを押した。
音は止まったが、自分の発したチェッという舌打ちの音が脳髄に響いた。
二日酔いなんかで、会社を休む訳にはいかない。
顔を洗おうと部屋を出ると、うたた寝をしているとばかり思っていた妻の身体は、ソファーの上で冷たくなっていた。
私は、お酒が好き・・という訳じゃなかった。
強くないし、人付き合いも苦手な方だったから、日頃は誘われても断っていたくらいだったのに・・。それが、何故かあの日に限って、断らずに誘いに乗ってしまったのだ。
酔った同僚に絡まれても苦にならず、むしろ楽しいとさえ感じていた。
そして、あの晩の酒は、不思議なくらい旨かった。
後で医者に言われた。
「奥さんは、何故、救急車を呼ばなかったんでしょうねぇ?あと少し処置が早ければ、助かったかもしれないのに・・」
付き合いが長かったから、妻は私の性格を熟知しているつもりだったのだろう。
私は必ず帰ってくる・・いや、すっ飛んで帰って来て、救急車でも何でも手配してくれるに違いない・・と、妻はそう思っていたのだろう。
私達は、大恋愛の末に結婚したという訳ではなかった。
断れない性格だった為に、野球部のキャプテン・・なんて柄でもない大役を押しつけられてしまった私。
妻は、それを陰で支えてくれた{しっかり者のマネージャー}だった。
私立の付属高校だったから、そのままエスカレーター式に同じ大学に進んで、学部もゼミも同じ。
一緒に居るのが当たり前になっていたから、卒業と同時に結婚したのだ。
私達の間には、男女の間に起こりがちな揉め事などは起こる訳も無かった。
当然、ときめくような出来事も無かった。
喧嘩もせずに、ただ平穏に、日々を積み重ねてきた。そろそろ子供でも・・と思い始めた矢先の妻の死だった。
悲しいという感情は湧いてこなかった。
妻の死を、自分でも驚くほど冷静に受け止めている。
ただ、私自身のこれからの人生について考えると不安になった。
一人残されてしまった私は、これからどうすれば良いのだろうか?
平日は、まだなんとかなる。会社に行って仕事をしていれば良いのだから。
だけど、日曜日は・・?
休みの日を、どう過ごしたら良いのか分からないのだ。
私は、どうしようもない戸惑いを覚えて布団をはね除けた。
暗い部屋の中で、そんな私の問い掛けに応えてくれるのは、携帯の中で私の帰りを待ち続けている妻の声だけだった。
おわり