第八話:その手が最後に掴んだものは
1
窓越しに入ってくる夕陽で、廊下はどこまでも淡いオレンジ色一色に染まっていた。
がらんどうなその場所を、足音だけが淡々と響いている。
阿久津が目を覚ましたとき、時刻はすでに午後の四時にさしかかったところだった。
大体半日近くも眠っていたことになる。
起き上がったときは頭が重くて仕方がなかったが、肩の痛みがむりやり意識をはっきりとさせてくれた。
こんなにたっぷりと睡眠をとったのは何年振りだろうか。
寝すぎると逆に眠くなると聞いたことはあるが、それもまんざら嘘ではないようだ。
阿久津は廊下を歩きながらそんなことを思っていた。
顔を洗って少しは眠気がなくなり、逆に夕刻の肌寒さが身にしみてきた。
阿久津は立ち止まり、その扉をノックした。
「日下部、起きているか?」
コンコンと扉を叩くが、中から返事はない。
まだ眠っているのだろうか。
今の今まで阿久津も寝ていたので、無理に起こすつもりはない。
だが、さすがにそろそろ腹も減ってくるのではないかと思う。
夜中から今まで眠ったままだとすると、朝食も昼食も何も食べていないことになる。
もっとも、阿久津としてはそこまで腹が減っているというわけでもないのだが、食事を作るならまとめたほうがいいだろう。
「日下部、入るぞ」
阿久津は静かに扉を押し開けた。
部屋の中は薄暗く、開けた扉から差し込む夕陽の光が実際よりも明るく映えた。
思ったとおり、日下部はベッドの上で体を横にしていた。
反応がないということは、やはり眠っているということなのだろう。
阿久津は足音を立てないようにそっと近づき、ベッドを見下ろした。
日下部は静かに眠っていた。
わずかに体を曲げているその寝相は、怯えているような仕草を思わせる。
だが、寝顔だけは幸せそうだった。
阿久津も思わず笑みがこぼれそうになるが、逆にその笑顔が残酷にも思えた。
日下部が安心して眠れる夜など、これまでに一夜としてあったはずがないのだから。
真実を知らない彼女にとって、それは幸せな眠りだったのかもしれない。
だけど、阿久津から言わせればそれはありえないことだった。
逆に、この眠りから覚めて朝を迎えることが、彼女にとっての幸せなのだから。
限られた時間の中で、彼女は何を思って生きているのか。
きっと、終わりが来ることなんてこれっぽっちも考えないだろう。
考えたくもないだろう。
でも彼女は、もう普通の生活を送ることすらできない。
同じ年代の人々のように学校に通うことも、買い物をすることも、遊んだりすることも。
全て奪われた。
彼女が生まれたその日、彼女は全てを奪われたのだ。
彼女の目に映る世界は、偽りだらけのものだろう。
そこには自由も何もなく、彼女はその足で歩けるのにどこにも行けない。
籠の中の鳥。
どれだけ大きく美しい翼でも、籠の中では広げることすらままならない。
やがて折りたたんだままの翼は、もはや使い物にならなくなるだろう。
いつだって自由に空を飛べたはずなのに、風を感じることができたのに。
それはもう、ただの飾りにしかならない。
あとはもう、羽毛が散るのを待つだけ。
最初から、彼女には自由など与えられてはなかった。
あったのは全部、見せ掛けだけのレプリカ。
それが、彼女の走るレールの上だった。
あらかじめ終わることを前提に走らされるだけの、奈落へのレール。
それでも彼女は走っていたのかもしれない。
その先に、未来があると信じて。
明日があると信じて。
ただ、自分らしくあることだけを信じて。
「……」
阿久津は出かかった言葉なんとかを呑み込んだ。
たとえ眠っているとしても、日下部の前でそんな言葉は言ってはいけない。
言えば彼女は、きっとまた泣き出してしまうから。
阿久津はタオルケットを静かに持ち上げ、日下部の体を隠した。
日下部は変わらずに、小さな寝息を……。
「……?」
そこで初めて、阿久津は違和感を感じた。
日下部が寝息を立てていなかった。
胸も上下していない。
呼吸を、していない――。
「日下部!」
阿久津は叫んだ。
まるで死体のように横たわっている彼女の体を揺さぶる。
肩に痛みが走るが、そんなことは構っていられない。
なりふり構わず、阿久津は日下部の体を抱きかかえた。
「日下部! 返事をしろ日下部!」
彼女の細い腕を、小さな肩を揺らす。
軽く頬を叩き、何度も何度も呼びかける。
しかし、彼女の口から返事はない。
抱きかかえた日下部の体は、ぞっとするほどに冷え切っていた。
体温が著しく低下している。
阿久津はタオルケットを彼女の体に巻きつけ、少しでも体温を取り戻そうとする。
だが、それでも彼女は目を覚まさない。
彼女の両腕両足は力なく垂れ、まるで折れる寸前の古木のようだった。
阿久津はすがるような思いで日下部の手を握る。
細い指先は氷のように冷たく、まるで血の流れを感じさせない。
それでも阿久津は、彼女のその手を握って離さない。
何度も何度も呼びかける。
彼女の名前を呼ぶ。
こんなことがあってはならない。
こんなに早く、終わりのときを迎えていいはずがない。
それは阿久津の中の確かな矛盾だった。
日下部が終わりを迎えたときは、自らも死を選ぶと決めた。
だが、その終わり方がこんな形であっていいはずがない。
それは、決して自らの命惜しさから起こった矛盾ではない。
せめて、せめて最後は、彼女が望んだ場所で彼女の望んだ世界を見せてやりたい。
たったそれだけのことだった。
しかし、阿久津の想いとは裏腹に運命は残酷だった。
こんなにも唐突に、その兆しがやってきてしまうなんて。
阿久津は改めて自分の甘さを呪った。
もしかしたら自分は、頭のどこかでまだ少しくらいは時間があるだろうとか、そんなあるはずのない希望を抱いていたのではないのか。
確かにそれは一縷の望みだった。
そう思ってしまうことは何の不思議もないことだっただろう。
しかし、現実は違う。
日下部は17歳に至るまでに、確実に死亡する。
それは、もはや覆すことのできない事実だ。
その事実から目を背け、逃げ出していた。
いや、向き合ってすらいなかったのかもしれない。
阿久津は奥歯を噛み締める。
今すぐに自分の頭を撃ち抜いてやりたい気分にさえなってくる。
だが、それでどうなるというのだ。
少なくとも、阿久津はこんな結末を望んではいない。
そしてそれはきっと、日下部だって同じはずだ。
阿久津は日下部の手を握り締める。
彼女の細い指が痛み出すくらいに、強く、強く。
その肩を抱く。
名前を呼び続ける。
もはや、神に祈るかのように……。
――トクン――
そしてそれは、まさしく奇跡と呼ぶに相応しかった。
阿久津はその微かな鼓動を、確かに聞いた。
自分の腕の中で抱いた少女の胸から聞こえた、小さなその音を。
「…………日下部……?」
少女の前髪が揺れる。
小さく胸が上下し始め、阿久津が握り締めた彼女の小さな手の細い指が、弱々しくも確かに握り返した。
そして、閉じていた少女の目がゆっくりと開く。
細く、少しずつ大きく。
唇が、揺れる。
「…………阿久津、さ……ん?」
その声を聞いて、阿久津は日下部の体を強く抱きしめた。
色々な想いが頭の中でごちゃごちゃになって、言葉が何も出てこない。
ごめんなさいでも、大丈夫かでもない。
きっと、この感情はそんな言葉じゃ覆い隠すことができないだろう。
だから、たった一言。
阿久津は呟いた。
恐らく、生まれて初めて口にする言葉だろう。
「……死ぬな、日下部……。頼むから…………死ぬな……」
誰かのために涙を流したことがあっただろうか?
少なくとも、阿久津は初めてだ。
それが単なるわがままと分かっていても。
取り返しのつかないことだとしても。
もう、これ以上抑えることはできそうにない。
2
「私、分かってました。なんとなくですけど……自分の体のことでしたから……」
阿久津の腕の中、日下部は言った。
阿久津は日下部の背中から腕を回し、彼女を抱きとめるように座っている。
静かに抱いた彼女の背中は怖いほどに小さく、今でも肩は小刻みに震えるときがある。
「……そうか。すまない、どうしても俺には言い出せなかった」
阿久津が低い声色で返すと、日下部はそれは違うと言う代わりに小さく首を左右に振る。
「謝らないでください。もしそのことを面と向かって言われたら、私はどうにかなっちゃったと思うんです」
日下部の声は優しかった。
阿久津はそれが逆に悲しくて仕方がない。
「それに私、自分でも不思議なんです。もうすぐ死んじゃうって分かってるのに、全然怖くないんです。あはは、おかしいですよね、こんなのって……」
「日下部……」
阿久津はそれ以上言葉が続かず、ただ日下部の体をわずかに引き寄せた。
彼女の華奢な体は、少し力を込めてしまうだけで崩れ去ってしまいそうなほどに小さかった。
「……俺は、何もできないんだな……」
「阿久津さん……」
「口ではいつもそれらしいことを言っているくせに、結局のところ俺には日下部のためにしてやれることなんて何一つなかった。お前を救うことはおろか、延命させることもできない。お前の悲しみや苦しみを分かち合うことも、消し去ってやることもできない。俺は一体、何のためにこの道を選んだんだ……」
阿久津は目を伏せる。
何もかもが許せなかった。
望まぬ生を与えたこと。
望まぬ死を与えてしまうこと。
始まりを知っていたこと。
終わりを知ってしまったこと。
それらはもう、決して戻ることはできない、取り返しのつかない過去の過ち。
そうと分かっていても、後悔しか浮かんでこない。
どれだけ自分を責めても答えなど見つからないと分かっている。
そんなことを日下部が望まないということも分かっている。
そこまで分かっていたとしても、やはり阿久津はあまりにも無力だ。
生を奪うことはいとも簡単なことなのに、間近に迫る死はどうあっても奪い去れない。
「俺は結局、お前に何も与えてやれない……。明日を、未来を、生きる希望を……全部俺が、奪ったんだ……」
「……ううん、それは違います」
日下部の声に、阿久津はわずかに顔を上げる。
日下部は笑っていた。
あの優しい笑顔で、確かに笑っていた。
「私はもう、阿久津さんからいろんなものをもらってます。それは、普通に考えれば些細なものなのかもしれないけど、私の中の世界では、その全部がかけがえのない宝物です」
「……違う、違うんだ。俺はもっと、平凡でもいいから当たり前の幸せを与えたかったんだ……」
「……だったら、私はもうそれをたくさんもらってます」
阿久津は自分の耳を疑った。
それでも目の前の彼女は、笑ったままだった。
「私は、自分がクローンだということを知って、正直言って驚きました。それからだんだんと不安にもなりました。私という人間は、本当にこの世界にいてもいいものなのか。今すぐにでも消えてしまえばいいんじゃないかって……」
「……」
「だけど、阿久津さんが教えてくれたんです。私は自分の意思で笑いたいときに笑える。泣きたいときに泣ける。そして、誰かのために笑うことができる。誰かのために涙を流すことができるって。私、その言葉を聞いたとき本当に嬉しかったです。もしもこの世界に、私を認めてくれる人がいなくても、阿久津さんさえいてくれればそれでいいって思えたんです」
日下部の言葉の一つ一つが、阿久津の心を揺らす。
彼女は言ってくれた。
これほど弄ばれた運命の下に生を受けながらも、刹那のように短い命を与えられながらも。
それでも彼女は、この世に生まれたことを不幸だとは思っていない。
自分自身が不幸だとは思っていない。
だから、言うのだろう。
「私は、幸せです。クローンだけど、生まれてきてよかったです」
「……っ!」
阿久津はもう何も言えない。
日下部と目を合わせることもできない。
腕の中の彼女はこんなにも小さく、儚げなのに。
彼女の心は、ずっとずっと強かった。
生を受け入れ、死を受け入れ、全てを受け入れた。
それは確かに、望んだ生ではなかったけれど。
それは確かに、望んだ死ではないのだけれど。
それでも彼女は今、ここにいる。
呼吸をして、言葉を紡いで、笑顔を見せてくれている。
それだけで、生きていると言えるだろう。
「すまない……すまない、日下部。俺は、俺は…………」
「いいんです。これでよかったんです。……本当は、ちょっと……ちょっとだけ、残念ですけど」
日下部は目の端に涙を溜め、それでも笑っていた。
まるで、阿久津を安心させるために無理しているようだった。
ふいに日下部は、何かを求めるように腕を上げた。
彼女の小さなてのひらが、おぼつかない様子で宙を泳ぐ。
阿久津はその手を優しく取る。
彼女の手は阿久津の手より一回りほど小さく、すっぽりと中に収まってしまう。
「阿久津さんの手、大きいですね……」
「……お前のが小さいんだよ」
そう言い返すと、日下部はまた小さく笑った。
そしてその拍子に、目の端に溜まっていた雫が静かに彼女の頬を伝った。
「阿久津さん……」
「……なんだ?」
「お願いが、あるんです」
二人の時間が止まる。
阿久津は胸が張り裂けそうになった。
だが、それを必死で堪えて答える。
「俺にできることなら、何だってやってやる」
「じゃあ、ちょっとわがままを言っちゃおうかな……」
「……ああ、いいぞ」
日下部は一度目を閉じて、ゆっくりと目を開き、言った。
「ここを……阿久津さんの腕の中を、私の最初で最後の居場所にさせてください…………」
日下部は阿久津の胸に顔を埋めた。
そこからは、彼女の小さな嗚咽が聞こえ始めていた。
阿久津はすぐには答えられなかった。
答えてしまったら、全てを受け入れてしまうことになる。
だからといって拒絶できるわけがない。
これが日下部の……彼女がどれほどの想いの中で出した結論なのか、阿久津にはよく分かっていたから。
だから阿久津は、あえて何も答えなかった。
答える代わりに、彼女の頭と背中に腕を回し、今まで生きてきた中で一番強く、そして強くその体を抱きしめた。
「…………ないです」
それは、彼女の叫び。
「…………なんか、ない……」
それは、彼女の想い。
「……死にたくなんか、ないです……」
それは、彼女の全て。
「生きていたいです……自由なんかなくてもいいから、ずっと阿久津さんと一緒にいたいです……」
日下部は泣き続けた。
阿久津はまだ涙を堪えていた。
ここで泣いてしまえば、何もかもがむだになってしまうような気がしたのだ。
「……生きてください」
「日下部……」
その言葉が自分に向けられたものだと、阿久津は不思議と理解できた。
「生きてください。私の分まで、生きてください。お願いします……」
日下部には分かっていたのだろう。
彼女が死ねば、阿久津もそう遠くないうちに自ら命を絶つだろうということを。
阿久津はそれを責任とか、報いとか、そういう言葉で片付けるかもしれない。
だけどそれは、日下部にとってあってはならない結末だった。
生きてほしい。
いなくなる自分の分まで生きて、いつの日かその手で何かを掴んでほしい。
彼女が見ることのできなかった景色や、聞くことができなかった音や、感じることができなかった温もりを。
いつか、どこかで。
そう願って、日下部は想いを告げる。
「……生きるよ。お前の分まで。だから、安心しろ」
日下部が胸の中で頷くのが分かった。
顔は見えないけれど、彼女はきっと微笑んでくれている。
「……ありがとう、阿久津さん。私、本当に幸せでした。一緒に過ごした時間はとても短かったけれど、それでも私は大切なものを手に入れることができました。それはきっと、人の一生の中で一番大切なものなんだと思います。だから私は、もう何も思い残すことはありません……」
そこに続く言葉を否定できたら、どれだけいいだろうか。
阿久津には分かっていた。
そこに続く、たった一つの言葉が。
聞きたくない。
逃げ出してしまいたい。
幾重にも重なる悲しみを振り払って、阿久津は日下部の体を抱きしめた。
そして彼女は、最後の言葉を紡ぐ。
「――――さよなら……」
阿久津の背中に回されていた彼女の腕が、ストンと落ちる。
抱きしめたその体から伝わっていた、小さな鼓動が止んだ。
日下部は、もう二度と覚めることのない眠りについた。
「…………っ!」
そして阿久津は、声にならない声で泣いた。
だんだんと腕の中で温もりを失っていく、彼女の体を強く抱きしめたまま。
3
光陰矢のごとし、という言葉がある。
「早いもので、もう半年か……」
「そうだな……」
運転席の赤嶺は独り言のつもりでそう呟いたのだろうが、意外にも助手席の阿久津はしっかりと返事をした。
「なんだ、起きていたのか」
「寝るといった覚えはない」
そう答えた割には、阿久津はどこか眠たそうな顔をしている。
「その性格は相変わらずだな、恭祐。いや、むしろ磨きがかかったと言ってもいい」
「褒めるのかけなすのか、どっちかにしてくれ」
「冗談だ。真に受けるな」
「……暇なやつめ」
阿久津は窓の外の景色に目を向けた。
桜の花はすでに散り終え、季節は春から夏へ向けてゆっくりと移り変わろうとしていた。
山々には新緑が芽生え、若葉も芽を出す。
気温もほどよく暖かく、もはや言うことはない。
半年前のあの日の夜、阿久津はここと同じ道の上を無我夢中で走っていた。
今と違い、運転は自分でしていた。
そして後部座席には、独りの少女が眠っていた。
ふと阿久津は、後部座席に目を向けてしまう。
しかし当然のように、そこには誰の姿も映ってはいない。
あるのは途中の花屋で買ってきた花束だけである。
「どうした?」
運転中の赤嶺が聞いてくる。
「なんでもない。余所見をするな」
阿久津は適当にはぐらかし、再び窓の外に目を向ける。
そこの映る景色に民家や建物などはほとんどない。
二人を乗せた車はすでに山奥へと続く道に差し掛かっていた。
ほどなくして、車は公道を外れて山へと続く道を駆け上がる。
地面は砂利道で、車の中はガタガタと何度も揺れた。
周囲を雑木林にぐるりと囲まれ、昼間でも太陽の光があまり届かないその場所に、それはあった。
半年前と変わらない姿で、その建物は残っていた。
「到着、と」
赤嶺よりも早く、阿久津はシートベルトを外して車を降りた。
運転席の赤嶺もそれに続く。
二人の目の前には、廃屋のような建物がポツンと佇んでいた。
だが、二人とも忘れてなどいなかった。
いつかの夜、この場所で互いに銃口を向け合っていたそのことを。
「……懐かしいか?」
赤嶺が聞いた。
阿久津はしばし建物を見続けてから答えた。
「……そうだな。まだ半年しか経ってないが、懐かしいといえば懐かしい」
言いながら、阿久津は赤嶺の右手に目を向けた。
「手、大丈夫だったのか?」
「ん? ああ、大丈夫だったよ。特に後遺症とかもなかったしね。大体、そんなものがあったら運転なんかできたもんじゃないよ」
そう言って赤嶺は笑った。
赤嶺の右手には、阿久津によってつけられた傷がある。
同様に、阿久津の左肩にも赤嶺によってつけられた傷がある。
どちらも生死に関わるほどの大きな傷ではなかったが、あの夜のことは今でもお互いの記憶の中に鮮明に残っていることだろう。
「それよりも、早く目的を済ませてしまおう。あまりうろついているような場所でもないだろう」
「ああ、そうだな」
阿久津は車の後部座席から花束を取り、建物へと近づいていく。
お世辞にも頑丈そうに見えない外壁を周り、ちょうど建物の裏手になる場所へ向かう。
その片隅に、その場所はあった。
周りが木々で覆い尽くされる中、そこだけがぽっかりと開けていた。
そしてその中央に、一つの石が置かれていた。
「それが、彼女の……」
「……そうだ」
阿久津は答えて、そっとその墓石に近寄った。
石の前に花束を置き、膝を折り、目を閉じて両手を合わせた。
「……また、会えたな」
阿久津は小さく微笑んでそう言った。
答えは返ってこなかったが、吹いた風が墓前の花を揺らし、それが阿久津には彼女の声のように思えた。
「色々あったが、こうして生きてきたよ。お前との約束だったからな」
それはもう届かない言葉なのかもしれない。
だが、たとえそうだとしても、阿久津は彼女に伝えなくてはいけない言葉がある。
その答えを見つけるのに、季節は二つも巡ってしまったけれど。
届くんじゃないかと思う。
今なら、迷わずに言えるから。
「生きていくよ。これからも。つまづいてばかりの道かもしれないけど、それでも生きていくよ。ずっと……」
阿久津はそれだけの言葉を告げて立ち上がった。
「もう、いいのか?」
「ああ。十分だ」
「……そうか。なら、行こう」
赤嶺はもと来た道を歩き出す。
阿久津もその背中に続いて歩き出した。
そのとき、ふいに阿久津は誰かに手を掴まれたような気がした。
その手は、阿久津のてのひらよりも一回り小さく、でもなにものにも変えがたい温もりを持っていて。
『阿久津さんの手、大きいですね……』
阿久津は決して振り返らずに、その小さなてのひらをぎゅっと握り締めた。
それは紛れもなく、あの時間を共に過ごした彼女の温もりだった。
できることなら、いつまでも感じていた暖かさ。
だけど、阿久津はその手を静かに解く。
きっと彼女も、それを望むだろう。
阿久津は再び歩き出した。
その背中に、確かなあの日々の記憶と彼女の笑顔を残して。
この先、どれだけの季節が流れても、阿久津は生涯、この場所で過ごした短すぎる日々を忘れることはないだろう。
そしてまた、今日という一日を生きるために、阿久津はその確かな一歩を踏み出した。
――ずっと……ずっと見ています。阿久津さんの歩く、未来を…………。
こんにちは、作者のやくもです。
「きみのてのひら」、この第八話で完結となります。
まずはこの拙い作品に最後のときまでお付き合いくださった読者の皆様方に、改めてお礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
こんな穴だらけの作品でも、日に日に何人かの方々に読んでもらえるだけでとても嬉しく思います。
ひとまずこの物語はここで完結を迎えます。
次にお会いするときは新たな作品になると思いますが、その際は今よりもいくらかいい作品を書き上げられるように努力しますので、機会があればまたご覧になってください。
最後になりましたが、図々しいとは思いますが、最後まで読んでくれた方などは感想など交えて評価してくださると、今後の励みになります。
それでは、これにて私の初作品は完結です。
また次回作でお会いできることを願いつつ、ひとまずお別れの言葉とさせていただきます。
それでは、また遠くない未来で……。