表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

第五話:あの頃と変わらない

 1


 簡単な夕食が終わり、時刻は夜の9時半にさしかかろうとしていた。

阿久津は静かに日下部の部屋の扉を開けた。

どうやら日下部はすでに眠ってしまったようで、耳を澄ますと彼女の小さな寝息が聞こえた。

阿久津はどこな安心するような笑みを見せ、そのまま静かに扉を閉じた。

そのまま自室に戻り、阿久津本人も少し仮眠をとっておこうかと思った。

 が、あることが気になって阿久津は静寂の続く廊下を歩き出した。

そしてそのまま、屋外へと出て行ってしまう。

途端に冷たい風が阿久津の身を切り裂くように吹き付け、思わず彼はその場で肩を竦ませた。

季節は秋から冬へと移り変わろうとしているのだろう。

気のせいか、昨日の夜よりも寒さが増しているようにも感じられる。

夜の中にひしめく林を一度見回して、阿久津は手にした懐中電灯の明かりを頼りに山道を下り始めた。

 彼が向かうのは、置き捨ててきた車だった。

この場所に辿りついた時はそれどころではなかったが、もしかしたら車のトランクの中には何か使えそうなものもあるかもしれない。

砂利を蹴飛ばし、小枝を踏み折って阿久津は夜の道を進む。

ほどなくして、やや見覚えのある場所までやってきた。

懐中電灯に照らされた地面にも、まだ新しいタイヤのあとが見て取れる。

車は林の中に少し入ったところに置いてきたはずだ。

 阿久津は明かりを林の中に向け、ゆっくりと足を踏み入れた。

昼間でも薄暗い林の中は、夜ともなればそれだけで何もかもが見えなくなる。

文字通り、この電灯の明かりが命綱といってもいいだろう。

やがて明かりの中に、車体の影が映りこむ。

阿久津は足元に注意しながら、車へと歩み寄った。

 当たり前だが、車はほぼそのままの原形を留めてその場所に佇んでいた。

トランクの鍵穴に鍵を差し込んで、阿久津は車体の後部を持ち上げる。

埃くさい匂いがわずかに鼻をつき、阿久津は2、3度ほど小さく咳き込んだ。

長いこと使ってない部屋の中にいきなり入ったときのような匂いがした。

阿久津は電灯を片手に、がさがさと中に目を向ける。

 そう都合よく何かが見つかるとは思っていなかったが、まさにその通りの結果だった。

あったのはドライバーなどの工具のほかに、ガソリンを拭き取ったときに使ったであろう薄汚れたタオル。

そのほかワックスやモップなど、車体を掃除するために使うようなものがほとんどだった。


 「当たり前か……」


 阿久津は溜め息と共に呟く。

それもそのはずだ、そんなに都合のいいものばかりが車のトランクに入っているわけがない。

とりあえず、あまり役に立ちそうなものはなかったということだろう。

仕方なく戻ろうと、トランクを閉めようとして


 「……ん?」


 阿久津はふと思い立った。

そしておもむろに工具箱を手にして、まじまじとそれを見る。


 「……一応持っていくか」


 そしてそれを片手に持ち、バタンとトランクを閉めた。

収穫らしい収穫はなかったと言えるが、もとから期待はしていなかったのでこんなものだろう。

せめて予備のガソリンでもあれば再び車で移動もできるのだが、阿久津自身ガソリンをトランクに積み込んだ記憶はない。

 どうやらしばらくは、日下部の怪我を治すことに専念することになりそうだ。

かく言う阿久津も、昨夜の転倒で体のあちこちを痛めていた。

日下部のように捻挫などに至る部分はなかったが、こうして普通に歩いてるだけでも実は結構痛みに襲われている。

それを日下部に悟られなかったのは、単に阿久津が感情を読み取りづらいのとやせ我慢しているからだ。

そんな素振りを見せれば、日下部はまた自責に走るだろう。

阿久津はただ、そんな彼女の顔を見ているのが辛かったのだ。

もちろんそんな本音も、日下部の前では言わないのだが。

 一体いつから、こんなに自分は丸くなったのだろうと阿久津は思う。

少なくとも、連中と同じ研究所に所属し、何も知らずに実験の日々に追われていたあの頃は、ずっと一人きりだったはずだ。

あの場所では成果を上げることだけが全てだった。

実験の成功失敗はもちろん、データの収集、観察に考察、独自の研究、それだけに追われていた。

自分一人の力で、世界が変えられると信じていた時期もあった。

今にして思えば、それは大きな思い上がりだったのだが。

 それでも当時はそれが自分の全てだった。

他人と馴れ合うこともなかった。

そこに至る前にも、他人を寄せ付けるということはほとんどなかっただろう。

それが劇的に変化を遂げたのは、やはりあの研究記録を見たあのときからだろうか。

あまりのおぞましさに、阿久津は胃の中のもの全てを吐き出したことをよく覚えている。

そして同時に、一瞬だが殺意にも似た感情がこみ上げたことも覚えている。

そのときはそれだけで終わったが、一歩間違っていれば阿久津はあのとき自らの命を絶っていたかもしれない。

 それを思いとどまらせたともいうべきが、研究記録の中に記された日下部の存在だった。

それを読んだ阿久津は、恐らく生まれて初めてのことだっただろう。

彼女を助けたい。

自由にしてやりたい。

せめて、ありふれた日常の中で人並みの幸せを与えてやりたい。

そう思ったのだ。

 そしてそんな阿久津の想いは、決して正義という言葉でしめくくることはできなかったが、こうして形にすることができた。

だけど、少なくとも今の彼女はまだ幸せではない。

だから阿久津は、これから彼女を送り届けなくてはいけないのだ。

せめて、彼女がいつも笑っていられるような場所へ、彼女を連れて行く。

それだけが阿久津の願いだった。

 今日も日下部は何度も涙を流した。

自分を責めた。

だけど、それは間違いだ。

少なくとも今の阿久津は、日下部という少女の存在に助けられている。

そうでなかったら、彼はとうの昔にその命を絶っていただろう。

今の日下部の存在こそが、阿久津の存在を支えていた。

きっと日下部は、そんなことには気付いていないだろう。

そしてこれからも、気付くことはないだろう。

 だが、それでいいと阿久津は思う。

いつか……いつになるか分からないが、できるならそう遠くない未来。

自分の口から、日下部に伝えなくてはいけない言葉がある。

それが明日なのか、明後日なのか、10年後の未来なのかは分からないけれど。

彼女の目を見て、伝えられればいいなと阿久津は思う。


 「ふぅ……」


 ようやく坂道を登りきり、阿久津は研究所の前まで戻ってきた。

体はすっかり冷え込んでしまっている。

そういえば、ここには給湯室があった。

ということは恐らく、仮眠室などもあるかもしれない。

風呂かシャワーの備え付けでもあればいいのだが、そういえばまだ確かめていなかった。

自分にしても日下部にしても、いつまでも入浴をしないわけにもいかない。

どうやら夜が開けたら、まずはそれを確認する必要がありそうだ。

 阿久津は廊下を歩き、自室へと向かう。

と、その途中で人影を見つけた。

当然その人影に該当する人間は、この場所に一人しかいないので、阿久津は静かにその名前を呼んだ。


 「……日下部?」


 声をかけられたことによほど驚いたのか、日下部は暗闇の中でも分かるくらいに大きく肩を竦ませた。


 「あ、阿久津さん!?」


 その声はうわずっていた。

まるでバケモノでも見たかのような反応だった。


 「お前、その足で何をしてるんだ」


 阿久津は慌てて駆け寄り、日下部に肩を貸す。


 「あ、阿久津さん、寝てたんじゃなかったんですか?」

 「いや、ちょっと外の空気を吸っていた。それよりも、一体どうしたんだ?」


 聞くが、日下部はあちこちに視線を移したりしてなかなか口を開かない。

気のせいか、なぜだか顔が赤くなっているようにも見える。


 「その…………に」

 「ん? なんだ?」


 小声すぎて聞き取れない。

阿久津は耳を寄せる。

当然、日下部の顔が紅潮していることなど気付きもしない。


 「お、…………いに」

 「……すまん、よく聞き取れない」

 「だ、だからですね……お……」

 「お?」

 「……お手洗い、です……」


 そして阿久津はしばし凍りついた。

やがて頭を押さえながら立ち上がり


 「……すまなかった」


 と、本当に心底すまなそうに呟いた。

だが結局、そのあと阿久津は日下部に肩を貸しながら部屋まで送り届けた。

その後阿久津は自室に戻り、持ってきた工具箱はとりあえず机の上に置いたままにしてベッドに横になった。

それからしばらくして、阿久津もようやく浅い眠りの中へと入っていった。

だが、すぐ隣の部屋で日下部がなかなか寝付けないでいたことを、阿久津は全く知らなかった。


 2


 それは、夢か現か幻か。

阿久津はまるで重力のない宇宙の海に漂うかのようにそこにいた。

体はまるで自由に動かない。

意識ははっきりとしているにもかかわらず、目を開くことすら適いはしなかった。


 (なんだ……ここは、どこだ……?)


 その言葉に答える者はいない。

どこまでも続く闇の中に、阿久津の体はだんだんと沈んでいく。

痛みも苦しみもない。

水の中の落とした氷が、やがては溶けて混ざり合うかのように、阿久津の体は徐々にその闇に食われていった。


 (やめろ……どこへ連れて行く)


 ゆらゆらと、水面で揺れる木の葉のように。

深く遠くへ沈んでいく。


 (俺にはまだ、やらなくちゃいけないことが……)


 その叫びすらも、言葉にならない。

嘲笑うように、闇はただ無言で阿久津の体を引きずり込む。


 『お前の行動は無意味だ』


 闇が言った。


 『他でもないお前が、それを誰よりも理解しているだろう』


 闇は繰り返す。

恐ろしく低く暗い声。

何の感情もこもっていない、無機質な機械仕掛けの録音でもこんな声は出せない。

それは、ありとあらゆることを否定することが許された声。

まるでこの世界の神にでもなったかのような、しかし微塵の神々しさも傲慢ささえも感じさせない声。

言うなれば、闇ではなく無。


 (何を言っている……お前は、何だ?)


 そうしている間にも、徐々に阿久津は闇に沈み食われていく。

爪先から膝までが、まるで消しゴムでなぞるかのように消え失せた。


 『お前には誰も救えはしない』


 闇は吐き捨てるように言った。

救うという一言に、阿久津の神経は研ぎ澄まされたように反応する。

そこに浮かんだ映像は、たった一人の少女の姿だった。


 (日下部……)


 いつの間にか、そこに日下部が背を向けて立っていた。

彼女は振り返らない。

阿久津がたゆたう目の前に、その小さな背中がある。

手を伸ばそうとしても、体は動かない。

足掻くことももがくこともできない。


 (何をしている? どうしてここにお前がいるんだ、日下部……?)


 どれだけ言葉を探しても、彼女は背を向けたまま決して振り返らない。

それはこれが、夢か幻だからだろうか。

目の前にいるはずの少女は、今にも消えてしまいそうなくらいに希薄に見えた。


 『お前は、この少女を救えるのか?』


 頭の中に直接言葉をねじ込まれたような感覚。

耳鳴りにも似た低い残響。

感覚そのものはなくなっているというのに、それだけで阿久津は吐き気がしそうだった。


 (何が言いたい? お前は何なんだ?)

 『無理だな』


 闇は阿久津の言葉など無視し、そう言い切った。


 『お前に救えるわけがない。この少女にはもはや滅びしか残されていない。そうだろう?』


 そして阿久津は、なぜかその言葉に反論をできずにいた。

わけのわからない夢の中の出来事だと分かっていながら、その手は、指先は確かに震えていた。


 (……違う。そうじゃない、俺は……)

 『何が違う?』


 阿久津の心臓が跳ね上がる。

心の奥底を見透かされている。

それも、恐ろしいほどに冷たい目で。

得体の知れない一言一言が、閉じ込めた記憶の氷を刻み付ける。


 『お前は、神にでもなったつもりだったのか?』

 (……違う)

 『その手で領域を踏み越えて、満足したか?』

 (違う……)

 『望みもしない生を与えた気分はどうだった? さぞかし愉悦だったことだろうな』

 (違う――っ!)


 波紋のように広がる声。

そんな声にも、背を向けた少女は振り返ることはない。


 『どれだけ叫んでも、終わりはすでに始まっている。お前が始めたんだ。彼女の終わりを』

 (俺は……俺は……)


 揺らぐ世界。

阿久津と少女の間に、見えない雫が落ちる。

雫は波紋となり、広がっていく。

二人を遠く離れ離れにして、どこまでもどこまでも広がっていく。


 (待て、待ってくれ日下部!)


 阿久津は少女の名を呼ぶ。

それでも少女は振り返らない。

ただ、流れるがままに消えていく。

そして、闇が全てを飲み込んだ。


 「待ってくれ!」


 そんな叫び声とともに、阿久津はベッドの上から体を起こしていた。

呼吸が荒く、全身から嫌な汗が滲み出ているようだった。

上下する肩のままで、阿久津はゆっくりと視線を移す。

そこはどう見ても、無機質なただの白い部屋だった。


 「……夢、だったのか……?」


 阿久津は重くのしかかる頭を片手で支える。

体温がずいぶんと上昇している。

背中にはじっとりと寝汗をかいていて、それが余計に気分を悪くさせているようだ。

 阿久津は腕時計の文字盤に目を落とす。

深夜2時。

眠る直前の時刻から、まだ3時間ほどしか経っていなかった。

それにしても、なんという夢見の悪さだろうか。

あんなに自分という存在がじわじわと追い詰められていく夢は、生まれて初めてのことだった。

思い出そうとするだけで頭が痛くなる。

精神的にも肉体的にも、今の夢は後味が悪すぎる。

 しかし、阿久津の心が引きずっていることはそれだけではなかった。

それは、今の夢がある意味で一つの真実を物語っていたからだった。

突きつけられた真実。

否定も肯定もできない自分。

改めて思い知らされる、自分というあまりにちっぽけな存在。

そしてそのちっぽけな存在の自分でさえ、神の領域に足を踏み入れていたこと。

 そうだった。

何を今まで、都合のいい偽善を振りかざしてきたのだろう。

結局自分も、自分が心底毛嫌いしている連中と何一つ変わらないというのに。


 「……くそ……っ」


 阿久津は呻くように呟く。

結局自分は言い返すことができなかったのだ。

あの、得体の知れない声の主に。

それは、あの声が全ての真実を言い当てていたからだった。

まるで見てきたかのように、あの声は全てを知っていた。

そして阿久津は、なんとなく気付いていた。

あの声の主が、一体誰であるのかということに。

だが、それをあっさりと認めたくない。

認めてしまうことが、何よりも恐ろしい。

 自分は一体何なのか。

何のためにここにいるのか。

その答えを一番求めているのは、他ならぬ阿久津自身なのだから。


 「…………」


 もはや眠気などというものはすっかりなくなっていた。

ようやく呼吸も落ち着いて、頭の中も鮮明になってくる。

こんな状態では、もう一度眠ることなどしばらくできそうにもない。

 阿久津はベッドから立ち上がると、白衣を羽織って静かに部屋を後にした。

廊下から静かに聞き耳を立てると、日下部の部屋からは彼女の優しい寝息が微かに聞こえた。

起き上がったときは大声で叫んでいたので、てっきり起こしてしまったと思ったが。

 阿久津はそのまま廊下を進み、三日月の浮かぶ空の下にやってきた。

今夜は風がないが、気温はかなり低いようだ。

乾いてない寝汗に濡れた背中が、凍えるように阿久津の体温を奪っていく。


 「……なんなんだろうな、俺は」


 阿久津は三日月に向けて呟く。

一体どこからが間違いの始まりだったのだろう。

あの月がまだ満月だった頃、阿久津はまだ正しい道上に立っていただろうか。

それとも、すでに間違った道の上を歩き出していたのだろうか。

どれだけ記憶を遡っても、正しい答えは見つからない。

それはきっと、いつの間にか自分でも答えを見失ってしまっているからなのかもしれない。

そんな結論こそが、まさしく最大の傲慢であると知りながらも。

 頭上の月は全てを見下ろす。

そして、全てを嘲笑っている。

歪曲した口元のように、世界を罵っている。


 『お前には誰も救えはしない』


 それは、誰の言葉だったか。

考えるまでもない。

阿久津の中の、過去の阿久津の言葉だったのだ。


 「それでも、俺は……」


 阿久津は足元を見る。

月に照らされて伸びる影。

それこそが、今の自分を嘲笑う過去の自分。


 「諦めるわけにはいかないんだ……」


 詠うように呟き、静かに目を閉じる。

澄んだ空気が流れ、つま先から髪の毛の先端を包み込んで……。

次の瞬間、崩壊は始まった。


 「――いいえ。貴方には誰も救えやしませんよ」


 阿久津がその声の方向に顔を向けるよりも早く、その声の主の右手に握られた銀色の拳銃が一発の咆哮を上げた。

そして続けざまに、阿久津の左肩を焼けるような熱い痛みが襲う。


 「ぐ、ぁっ……」


 阿久津は打ち抜かれた左肩を右手で抑える。

白い白衣が見る見るうちに真っ赤な鮮血で染まっていく。

傷口を庇う右手も赤く染まり、指と指の間を縫うように血が流れていく。

痛みに堪えながら、阿久津は月下に照らし出されたその男を見返す。

 夜の闇にも相容れない漆黒の髪。

長身で細身、体格は阿久津とほぼ同じ。

彼の右手には、うっすらと硝煙を立ち昇らせる銀色の拳銃。

その銃口は、今も阿久津に向けられている。


 「探しましたよ。阿久津さん」


 男は言う。

何の感情も含まれてない言葉で。

阿久津は方膝をつきながら痛みに耐え、奥歯を軋ませながら男の名を呼んだ。


 「赤嶺、礼二……」


 赤嶺は答えず、ただその色のない目で阿久津を見ていた。


 3


 銀色の銃口に月明かりが反射する。

そのひどく鈍い輝きは、それだけで全身を震わせる威圧感を持っていた。

二人は月明かりの下で対峙していた。

いや、それはもはや対峙とは呼べないだろう。

赤嶺は目の前でひざまずく阿久津に銃口を突きつけ、阿久津はただそれを見上げることしかできない。

どう見ても状況は最悪、形勢逆転などという言葉は片腹痛いと笑い飛ばされてしまう。

どれだけの沈黙が続いたのだろうか。

阿久津は左肩の痛みに小声で呻きながらも、赤嶺から決して視線を外すことはなかった。

やがて、赤嶺は微動だにせずに口だけを開いた。


 「信じられない、という顔をしてますね」

 「……」


 阿久津は答えない。

しかし気にも留めず、赤嶺は続ける。


 「それは私だって同じですよ。まさか貴方が脱走なんて真似をしでかすだなんて、事実を聞いたときは驚きました。しかし、やはりというかなんというか……勘が当たったのか、貴方は思ったとおりここにいた。そして、貴方がいるということは、彼女もいるんです

  よね? あの実験体のクローンが……」

 「やめろ!」


 阿久津は叫んだ。

傷の痛みなど忘れ去るくらいに、その声は周囲に響き渡った。


 「実験体だのクローンだの、そんなことは関係ない。あいつは……日下部は人間だ。俺達と何も変わらない、人間だ」

 「……日下部? ああ、もととなった人間の名前ですか。同じ名を与えたんですか? だとしたら、ずいぶんと残酷なことですね」

 「お前……!」


 食いかかる阿久津を、赤嶺は銃口で迎え撃つ。

両者の距離は5メートル弱。

手負いの阿久津がどんなに早く踏み込んでも、赤嶺の拳銃はそれまでの間に的確に阿久津の心臓か頭を撃ち抜けるだろう。

阿久津は歯噛みする。

そして同時に、自分の考えの甘さを呪った。

研究所の騒ぎがある程度落ち着くまでは、追跡はないものと考えていた。

 しかしそこに、阿久津同様に個人の意思で動く人間がいるのではないかということを全く予想していなかった。

結果、自分は手負いにされて日下部の身にも確実に危険が迫っている。

一体自分は何をしている。

阿久津は何度も自分自身に叱責した。

そしてそのたびに、内なる声が囁く。


 『お前には誰も救えはしない』


 何も言い返すことはできなかった。

愚かしいほどの無力感が、体中から溢れ出るようだった。


 「さて」


 赤嶺の言葉に、阿久津は身を強張らせる。


 「私が用があるのは貴方じゃない。単刀直入に用件を済ませていただきます」


 赤嶺は建物に目を向ける。

そしてその中には、何も知らずに眠っている日下部の姿がある。

止めろ。

心が叫ぶ。

この男を行かせてはならない。

行かせてしまえば、もう何も守れなくなる。

まだ答えを見つけていないのに。

何もしてあげられていないのに。

赤嶺は一歩、建物に歩み寄る。

止めろ。

だがどうやって?

相手は拳銃を持っている。

加えて、自分は手負い。

正面から渡り合うどころか、立ち上がることさえかなわないかもしれないというのに。

傷が痛む。

体に力が入らない。

心のどこかで、諦めろと弱い自分が囁く。

そんなことできるはずがない。

だったら立て。

動け体。

死んでもこの男を止めるんだ。


 『できやしないさ』


 自分が言う。


 『いい加減に認めろ。お前には誰一人として救うことなどできない』


 違う、違う、違う!

救わなくてはならない。

生きてもらわなくてはならないのだ。

まだ彼女は、その目で見る景色がある。

その耳で聞く音がある。

その口で紡ぐ言葉がある。

終わらせるわけにはいかない。


 『できるのか? ならばやってみろ。その懐のものはただの飾り物か?』


 阿久津は脳に直接衝撃を加えられたような感覚になった。

血に染まった白衣のうちポケット。

そこから覗く、赤嶺と同じ銀色の拳銃。

それを、血染めの右手で触れる。

恐ろしく冷たい感触。

指先から伝わり、全身の血液が凍りつくような冷たさ。

震える手。

鼓動が高鳴る。

ドクン。

握る。

あとはただ、狙いを定めて引き鉄を引くだけ。

傷の痛みなど消え失せていた。

構える。

赤嶺は気付いていない。

千載一遇のチャンス。

引け。

その引き鉄を。


 『殺せ』


 決めたはずだ。

絶対に守って見せると、決めたはずだ。

ためらう理由はないはずだ。

ならば撃て。

震えが止まらない。

それは間違いだと、声がする。


 『殺せ。殺さなければ、お前はまた奪われる』


 意識が混濁し、気が狂いそうになる。

どちらが正しくて、どちらが間違っているのか。

分からない。

赤嶺を殺した手で、日下部を救えるのか?

彼女は本当に、それを望んでいるのか?

彼女が望んだものは、何だった?

阿久津は狙いを定める。

手の震えはなくなり、銀色の銃口は一点を見据えた。

人差し指を引き鉄にかける。

 その瞬間、まるで何かを感じ取ったかのように赤嶺の体が翻った。

赤嶺の銃口が阿久津の頭を捉えるよりも早く、彼は阿久津が握っているそれに驚愕した。

その一瞬の隙間を、阿久津は見逃さない。

右手の人差し指を引き、一発の銃声と共に真っ赤な鮮血が舞い散った。

弾丸は赤嶺の右掌を貫通し、彼は拳銃を手放した。


 「がっ……」


 赤嶺が苦痛に表情を歪めながら崩れ落ちる。

弾かれるように赤嶺の手を離れた拳銃は、地面を転がった。

利き腕と拳銃を失った赤嶺に、もはや勝機はない。

阿久津はよろめきながらも立ち上がり、赤嶺の近くに歩み寄る。

硝煙の匂いが鼻先をかすめ、気分はひどく憔悴していた。

 それでも阿久津は緊張を解かない。

両膝を突いた赤嶺に銃口を突きつける。

ほんの数分前と立場は逆転していた。

赤嶺にとっての誤算は、阿久津が拳銃を携帯していたということだろう。

そして赤嶺は同時に、阿久津は人を撃つことができないと確信していた。

にもかかわらず、阿久津は銃口を向けて発砲した。

赤嶺にとって信じられないことだった。

しかしそれは紛れもない事実で、それを物語っているのが焼けるような傷の痛みだった。


 「……まさか、貴方が撃つだなんて思いもしませんでした」

 「……」


 答える言葉を阿久津は持ち合わせていなかった。

そして同時に、阿久津は疑問に思っていた。

確かに自分は、発砲した。

だが、それは確かに赤嶺の心臓を狙っていたはずだった。

 あの瞬間、手の震えも全て止まっていた。

間違いなく殺したはずだったのだ。

だが実際は、阿久津の弾丸は赤嶺の掌を貫いていた。

自分でもわけが分からない。

無意識のうちに照準をずらしたのだろうか。

あんな一瞬でそんな芸当ができるとは思えないが、結果として事実を受け止めるしかないだろう。


 「……日下部をあの場所に戻すことはできない。だから俺は、逃げたんだ」


 阿久津は銃口を赤嶺から外す。

少なくとも、もう引き金を引く気力は残っていそうにない。


 「なぜですか? 貴方も一人の科学者なら分かっているはずです。犠牲なくして進歩はないと。それは今に限ったことではなく、今まで世界中のどこでもそうして歩んできた道なんですよ? 彼女がいれば、それだけで犠牲が必要なくなるんです。存在しない存在、これほど優れた犠牲が他にあるはずがないでしょう?」

 「……赤嶺、お前の言っていることは、確かに科学者という観点から見据えれば一つの理論なのかもしれない」


 阿久津の言葉に、赤嶺は顔を上げる。


 「だが、俺はそんなのはごめんだ。たとえどんな理由があって、その結果がクローンだったとしても、俺はそれを犠牲として認めることはできない。それらの結果を生み出したのも、また俺達だからだ。自分達でいいように創って、いいように滅ぼす。こんな身勝手で傲慢な神は必要ない。そんな道の上を歩くくらいなら、俺は自ら死を選ぶ」

 「貴方は……」

 「矛盾だらけだとは思う。事実、俺達は神にでもなったつもりだったんだろう。生命を創り、繁殖させ、犠牲という名の下に実験を繰り返す。確かに俺も通った道だ。……だけど、それでも退くわけにはいかない。俺はもう決めたんだ。最後のときをあいつと……日

  下部と共に生きると、そう決めたんだ」

 「……そこに残された時間が、絶望的なまでに少ないと知っても、ですか?」

 「――ああ」


 小さな風が吹いた。

それを合図にするように、二人に会話は中断した。

阿久津は拳銃を内ポケットにしまう。

思い出したように湧き上がる肩の痛みに目をしかめながら、壁に背中を預けた。


 「……貴方は科学者としては不向きですよ」

 「……そうかもな。今では自分でもそう思う」

 「犠牲なくして発展はありえない。これが私達の住む世界の法則です」

 「犠牲でしか得られない発展なら、俺はいらない」

 「屁理屈ですね」

 「だが理屈だ」


 阿久津は小さく笑った。

赤嶺は小さく溜め息をついた。


 「貴方と話していると疲れます。私はもう行かせてもらいますが、どうします?」

 「どうする、とは?」

 「私は研究所に戻ります。貴方達の所在についても報告するかもしれません。ここで私を殺しておかないと、いずれ後悔することになるかもしれませんよ?」

 「そのときは、逃げ延びて見せるさ」


 阿久津は一言だけ返すと、建物の中に向けて歩き出した。

赤嶺は立ち上がり、転がっていた拳銃を拾い上げ、左手で構える。

銃口の向く先は、あまりにも無防備な阿久津の背中があった。


 「阿久津さん、一ついいですか?」


 銃口を向けたまま、赤嶺は尋ねた。

阿久津は振り返り、銃口と向き合う。


 「どうしてわざと狙いを外したんですか?」


 赤嶺の右手からは今でも血が滴り落ちる。

だがそれは本来、自分の心臓を貫くはずの弾丸だった。


 「……外したんじゃない。外れただけだ」

 「……」


 赤嶺はそれ以上何も言えなかった。


 「俺も一つ聞きたい」

 「……なんでしょう?」

 「どうして狙いを外したんだ?」


 阿久津は言って、左肩を抑えた。

赤嶺は銃口を下ろし、背中を向けて告げた。


 「外したんじゃありません。外れただけですよ」


 そして、そのまま夜の山道の中へと静かに消えていった。

阿久津はその後姿が見えなくなるまで、ずっと目で追いかけていた。

赤嶺は研究所の同期の人間だった。

そして、阿久津にとって唯一友と呼べる人間だった。

その人間を殺すことなど、できるわけがなかった。

それは、赤嶺も同じだったのだろうか。

それを確かめることは、おそらくもうないだろう。

だが、阿久津は忘れることはない。

阿久津が赤嶺の心臓を貫く弾丸を撃ち出そうとしたとき、彼は、確かに……。


 「ありがとう、礼二……」


 阿久津はもう見えない友の背中に向けて呟いた。

あの一瞬、彼が見せたかすかな笑みを、阿久津は生涯忘れることはないだろう。

もし、もっと違う形で出会えていたら……。

阿久津はそこで考えるのをやめ、建物の中へと戻っていった。


更新がやや遅くなりました。

書き手のやくもです、こんにちは。

ここ数日諸事情で出かけていたもので、更新が遅れてしまいました。

続けて読んでいただけた方々、少しでも期待してくださってた方々、もしいらっしゃったら申し訳ありません。

さて、第五話まで終了したところで、ようやく物語りは中盤から折り返し、そして終幕へと向かっていこうとしています。

予定では第十話前後が最終話になるものと考えておりますので、もうしばらくお付き合いいただければと思います。

手短になりますが、ではこの辺で失礼します。

また次回お会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ