表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第四話:束の間の小さな幸福


 1


 やはり話すべきでなかったのだろうか。

阿久津は外の空気を吸い込みながら思った。

今の自分に語れることは全て語った。

あとは日下部自身が、どこまでこの目の前に突きつけられた事実を受け入れることができるかだ。

しかし、やはり胸は痛む。

事実を語った自分は、果たして本当に正しかったといえるのだろうか。

それが仮に、日下部自身が望んだことであったとしても、だ。

ただでさえ記憶を失っている日下部には、相当辛い現実を突きつけてしまったことだろう。

彼女を傷つけた。

直接ではないにしても、それが阿久津の中で残った結論だった。


 「俺は……」


 他に何ができたんだろう。

適当な嘘を並べ立てて、少しでも彼女の気持ちを落ち着かせることもできたろう。

記憶のない彼女に、作り物の記憶を植え付ける。

だがそれは、阿久津が嫌っている研究所の連中と似たような考えに過ぎない。

自分の都合のいいように、他人の記憶や思い出を操作する。

そんなこと、できるはずがなかった。

ただでさえここまで自分の身勝手で、彼女を危険な目に巻き込んでいるというのに。


 「俺は本当に、正しかったのか……」


 阿久津は空を仰いだ。

どこまでも蒼く澄んだ空、雲一つない青天。

吹く風は相変わらず冷たいが、注ぐ日差しはどこか懐かしさを含むような暖かさを感じさせる。

こんな景色だけを眺めていれば、同じ空の下のどこかであんな汚れた行為が行われているなどと、誰が想像できるだろうか。

 いつだってそうだ。

この世界は理不尽の塊でできている。

罪もない人が命を落とし、罪人はのほほんと生き延びる。

優れた才能はやがて、歴史を変えるだけの闇によって作り変えられる。

誰がそれを望んだというのだ?

 彼らはただ、何も知らなかっただけだというのに。

何も知らないということは、それだけで罪となりうるのだろうか?

そんな馬鹿げた話があってたまるか。

いつの時代のどこに生まれた命だろうと、他人がそれをどうこうと手を出していいはずがない。

誰であろうと、どんな命であろうと、それらは生きるために生まれてきたのだ。

それを弄ぶ権利なんて、たとえ神であっても持ち合わせてはいけない。

 だが、人はその領域を踏み越えた。

いとも簡単に踏み越えたのだ。

そして阿久津もまた、知らず知らずのうちにそんな人間に手を貸していたのかもしれない。

できることなら、そんな連中を一人残らず片っ端から消し去ってやりたい。

だが、そんなことで自分の中の苛立ちや憤りを解消したところで、結局は何の解決にもなりはしない。

死んだ人間は生き返らないし、過ぎた過去はもう書き換えることはできない。

 だから、科学者の多くは過去にこだわらない。

過去には何もないことを彼らは身をもって知っているからだ。

常に見るのは先の先。

半世紀先の未来までも見据え、彼らは歩き続けているのだ。

 しかし阿久津は違う。

彼だって研究者である以上、彼らの考えには納得できるし共感だって持てる。

間違っているとは思わない。

だが、正しいとも思えない。

捨て切れない過去なんて、いくつもあるだろう。

少なくとも、阿久津は持っている。

消えない傷、忘れられない過去の記憶。

それらは嘘でも偽りでもなく、今だって彼のまぶたの裏に鮮明に残っている。


 「――――……」


 阿久津の呟きは、吹きぬけた風に運ばれた。

それは、数年前の過去の記憶。

忘れられない、忘れてはいけないこと。

そのために、自分は今こうしてここにいるのだろう。

たとえそれが、最終的に彼女を今よりももっと深く傷つけることになってしまうとしても。

それでも自分には、これしかできない。

それが彼女を連れ去り、真実を伝えた自分の最後の役目。

赦されなくたっていい。

せめてそのときを迎えるまで、彼女の傍にいることができるのなら。

これ以上の幸せが、他にあるはずがない。

 阿久津はもう一度空を見上げる。

そこに、真昼の月があった。

あの月は昨夜も、自分と彼女を照らし出してくれたのだろうか。

手を伸ばす。

届かないと分かっていても、掴めそうな気がした。

自分なんかのちっぽけなてのひらにも、何かを掴めそうな気がしたのだ。

そして阿久津は、研究所の中へと引き返す。

思った以上に体が冷えていた。

防寒具の一つも着用していなかったことに、阿久津は本当に今更になって気付いたのだった。

 苦いコーヒーの一杯でも飲んで、それから日下部の部屋に行こう。

まだ阿久津は、彼女の口からの言葉を受け取っていない。

それが拒絶でも、否定でも、なんであろうとも。

その全てを受け入れようじゃないか。

そのために、自分という存在はここにいるのだから。


 2


 阿久津は扉をノックする。

しばらくして、中から日下部の声が小さくはいと答えた。

静かに扉を押し開け、阿久津は部屋の中へ入った。

日下部はさっきと同じように、ベッドの上で足を伸ばして座っていた。

顔色も幾分かよくなったような気がする。

阿久津も先ほどと同じように、パイプ椅子に腰掛けた。

しばらくは沈黙が流れると思ったが、意外にも日下部はすんなりと口を開いた。


 「阿久津さん」

 「……なんだ?」

 「クローンって言うのは、コピーとは違うんですよね?」

 「……ああ、そうだ」


 一拍置いて、阿久津は続ける。


 「クローンというのは、あくまでも遺伝子の構造が同じというだけであって、人間そのものを同じとしているわけじゃない。極端な話、同じ遺伝子を持つ双子でも性格や趣味は様々だろう? それと同じで、仮に1つの遺伝子から10のクローンが作られたとしても、それぞれ顔も体格も性格も違う、別々の人間として存在することになる。性別や血液型は同じだがな」


 それを聞いた日下部は、どこか安心したような表情を見せる。


 「じゃあ……私は一体、誰なんですか?」


 阿久津は言葉に詰まる。

言葉を探しているといった方がいいかもしれない。

できるだけ日下部を傷つけないような言い回しを探しているのだ。


 「……遺伝子上、日下部楓と同じものを持っているのだから、日下部楓ということになる。だが……」


 日下部は顔を上げ、阿久津を見る。


 「同じ遺伝子を持つ日下部楓でも、16年前に死んだ彼女と今のお前は全く違う、それぞれの独立した人間だと俺は思う。彼女は彼女、お前はお前だ。例えクローンであっても、今のお前は一人の人間だ」

 「……本当に、そうなんですか?」


 日下部の声はわずかに震えていた。

彼女の阿久津を見るその目は、うっすらと涙で滲んでいる。


 「確かに私は、こうして人間として生きているかもしれません。だけど、それだけで本当に私は人間であるといえるんですか?人権も国籍も何もない、世界に存在すら認められていないのに、それなのに私はこうしてここにいる。呼吸をして、喋って、涙を流してる。それでも、本当に……」


 最後の方は涙に紛れて小声になっていた。

阿久津はただ、そんな日下部の姿を見ていることしかできなかった。


 「私は、生きているといえるんですか……?」


 助けを求めるように、日下部は口を開いた。

彼女の涙は頬を伝い、ぽたぽたと真っ白なタオルケットの上に灰色の斑点を作っていく。

阿久津は胸が締め付けられる。

己の無力さを呪ってしまいたくなるくらいだ。

しかしそれでも、彼は言う。

言わなくてはならない。

彼女はきっと、その言葉を待っているから。

他でもない、世界中の他の誰でもない。

阿久津恭祐の口から、その言葉が紡がれるのを。


 「……当たり前だ」


 その言葉に、涙を流しながら日下部は顔を上げる。


 「例え今のお前が社会的には存在しない存在でも、世界の誰もお前のことを知らなかったとしても、俺だけはお前の存在を否定しない。絶対に否定しない。……お前は、人間だ。血も涙も通ってる。嬉しいときに笑える、悲しいときに泣ける。誰かのために笑える。誰かのために泣ける。他に何が必要だ?」


 その言葉に、少女の堰が崩れる。

抑えていた涙と言葉が、一気に溢れ出る。

まるで赤ん坊のように、日下部は泣き続けた。

今の今まで、感情を押し殺して胸の奥にしまいこんでいたもの。

恐怖、不安、拒絶、否定。

それらがようやく、出口を見つけて流れ出す。

きっかけはなんでもよかったんだろう。

夜中に一人、泣くことだってできたはずだ。

ただ、一人で泣くことも怖かっただけ。

誰かに聞いてほしかった。

自分の弱さを全部さらけ出してしまいたかった。

一人では抱えきれなかった。

支えてくれる誰かが必要だった。

本当は、その優しさに触れていたかっただけ。

本当は、その温もりに触れていたかっただけ。

だけど、その優しさや温もりが偽りのものではないかと思ってしまう自分がいる。

どこまでが偽りでどこまでが真実なのか。

そう思うと、ただ、怖かった。

 だけどもう、心配は要らない。

この人なら信じられる。

信じよう。

例え世界の全てが間違っていても、この人だけは私を導いてくれる。

真実の場所へ。


 「ごめん、なさい……ごめ、なさ……」

 「……分かってる。分かってるから」

 「私、ずっと信じ切れなかった……何度も助けてもらったのに、それが全部、嘘みたいに思えて……」


 日下部の細い指が、阿久津のシャツを掴んで離さない。

その指先は、小さく震えている。

彼女はその小さな体に、どれだけの恐怖を押さえ込んでいたのか。

阿久津はただ、そっと日下部の肩に手を置いて、彼女が泣き止むのを待ち続けた。

今自分の胸の中で泣いているのは、たった一人の少女だ。

クローンでも、16年前の日下部楓でもない。

今を確かに生きている、日下部楓という小さな少女だった。


 3


 今日という一日が静かに終わりを告げようとしていた。

私はこの足ではなかなか思うようには動けないので、結局一日中ベッドの上で過ごしていたことになる。

これではまるで入院患者だ。

 私は何をするわけでもなく、ただ体を横にしていた。

阿久津さんは阿久津さんで、何をするわけでもなくベッドの脇でパイプ椅子に腰掛けていた。

時々私が思い出したように声をかけて、阿久津さんがそれに答えて適当な会話が始まる。

それが終わるとまたお互いに口を閉じ、やがてまた私が口を開く。

その繰り返しだった。

昼を過ぎ、夕方になるまでそんな時間が過ぎていった。

ちょうど6時を過ぎた頃、阿久津さんが尋ねた。


 「日下部、腹は減らないのか?」

 「え、私ですか?」

 「昼前に起きて、ずっと何も食べていないだろう。コーヒー一杯だけじゃ体が持たないぞ」


 言われて見れば、確かに少なからず空腹感を覚えている。

そういえば、昨日の夜も食事らしい食事をした記憶がない。

もう丸一日近くコーヒーだけで過ごしていることになる。


 「ちょっとお腹も空いてますけど、それよりも、食料なんてあるんですか?」


 私はそれが気になっていた。

コーヒーを出されている時点で気付くべきだったのだが、阿久津さんの言葉を借りるならここはもう廃墟同然のはずだ。

そんなところに食料などがあるのかと思うと、正直言ってあまり期待はできないと思う。

そもそもガスや電気、それに水道が止まっていないのも気になる。

もうずいぶん前に、ここは廃棄されたのではなかったのだろうか。

私は阿久津さんに疑問をぶつけた。


 「それは俺も気になったが、だからといって飲まず食わずでいるわけにもいかないからな。もしかしたら、ここは一時的に閉鎖されただけであって、復旧する可能性もあるのかもしれない。だから電気やガスが繋がっているのかもな」


 なるほど、そういう考え方もある。

そう納得しかけたところで、私は新たな疑問が浮かんだ。

こうやってガスや水道が使われ続ければ、当然ながらそこには料金が発生するだろう。

この研究所のそういった費用がどこから支払われているのかは知らないが、そういう痕跡が残るのはまずいのではないだろうか。


 「そうだな。確かに日下部の言う通りではある。だがな、どの道今のお前の足では満足に歩くこともできないだろう。それに、ここに来るまでの道のりは車だったが、それももうガソリンが尽きて使い物にならない。移動するにしても、あらたな移動手段を考えなく

  てはいけない。どちらにしても、今は怪我を治すことが先決だ」

 「そうですね……私が昨日、あんな無茶しなければ、こんなことにはならなかったのに……」

 「過ぎたことをどうこう言っても仕方ない。今は怪我の治療に専念するしかないんだ。……それと、あまり自分を責めるな、日下部」

 「でも……」

 「お前じゃなくても、こんな状況に遭遇すれば逃げ出したくなる気持ちにもなる。お前の反応は何も間違ったことじゃないんだ」

 「…………」


 私は言葉を失う。

気にするなという方が無理だ。


 「とりあえず、何か作ってくる。このままじゃお互いに体が持たない」

 「作るって、材料は……」

 「一応保存食はある程度残っていた。ガスも水道もあれば、簡単なものなら調理できる」


 阿久津さんは椅子から腰を上げる。


 「すぐ隣は給湯室になっているから、何かあったら呼べば分かる」

 「あ、はい」


 私が頷いたのを確認して、阿久津さんは部屋をあとにした。

私はそのまま、ぼんやりと天井を眺めていた。

なんだかんだで、私は阿久津さんに迷惑をかけっぱなしだ。

でも、こんなことを阿久津さんに言ったら、くだらないことを気にするなと返されそうなのでやめておく。

 あの人は言葉は不器用だけど、それと裏腹に本音はすごく優しい。

いつも自分よりも真っ先に、私の身を案じてくれる。

それは本当に嬉しいことなのだけど、その反面とても悲しくなる。

それはつまり、阿久津さん一人ならこんな場所からすぐに離れていくことができるからだ。

それは私の足の怪我など、あまり大きな問題ではなくて。

 阿久津さんは頭もいいし、判断力や適応力もあると思う。

あまりに短い時間しか過ごしていないけど、私には分かる。

あの人は一人で何でもできる。

だから、ここから逃げ延びる事だってさほど難しいはずではない。

でも今は、私がいるから。

私が気付かないうちに、彼の重荷になってしまっているから。

 ……これ以上考えるのはやめておこう。

この先のことを口にしたら、阿久津さんはきっと怒るだろう。

怒っている阿久津さんはまだ見たことがないけれど、きっと怖いに違いない。

 そういえば、笑っている顔も泣いている顔も私は知らない。

いつも見るのは、ちょっと無愛想な感じの顔だ。

泣き出してしまいそうな悲しい顔は何度か目にしているけど、阿久津さんは涙は流していない。

正直、阿久津さんが笑った顔と泣いた顔に関しては想像もできない。

笑った顔は……意外とかわいいのかもしれない。

でもきっとあの人のことだから、笑顔と呼ぶには小さすぎる、微笑のような笑みだろうなと、私は勝手に想像する。

あ、ちょっとかわいいかもしれない。

思うと、私は小さく笑っていた。

 そして気付く。

阿久津さんのことばかりどうこう言っていたけれど、私も今になってようやく笑えたのではないだろうか。

色々思い詰めていたとっかかりが消えて、初めて安心して笑えたような気がした。

思えば、私は阿久津さんとは対照的に泣いてばかりだ。

挙句の果てには脱走劇までしてしまい、怪我までする始末。

何度思ってみても情けない。

これじゃ溜め息しか出てこないのも仕方ないか……。

そう思う矢先、私の口から溜め息が出る。

 そういえば私は、料理などに関してはどうなのだろうか。

包丁などの使い方はしっかりと思い出せるが、それイコール料理ができるとは限らない。

せめて女の子として、そのくらいの得意分野はあってほしい。

どうやら私が阿久津さんにできることは、そのくらいしか思い浮かばない。

しかもそれも、足がちゃんと治ってからではないといけない。

つくづく情けなくなってしまう。

 でもまぁ、今は阿久津さんに言われたとおり治療に専念しないといけない。

私は体を起こして、そっと左足の足首に触れた。

今朝ほどの痛みはないが、それでもまだ歩くことは難しそうだ。

……待てよ。

私はそこでとんでもないことに思い当たった。

お手洗いはどうすればいいのだろうか?

 まさか、そのつどに阿久津さんの手を借りて送迎されなくてはいけないのだろうか?

せめて松葉杖のような、支えになるものがあってほしい。

いくらなんでもそれは恥ずかしすぎるし情けなさすぎる。

想像しただけで、私は沸騰したやかんみたいに顔が真っ赤になる感覚を覚えた。

誰もいないのは分かっていても、顔までタオルケットをかぶってしまう。

どうしようどうしようと自問自答を繰り返していると、私はふと視界の端にそれを捉えた。


 「ん……?」


 そこには阿久津さんが腰掛けていたパイプ椅子があって、その隣には机が置かれていた。

その机の引き出しの一ヶ所が、わずかだが開いていた。

私はなんだろうと思い、取っ手に指をかけてそっと引き出しを引いた。

 すると引き出しの中から、埃をかぶった小さな箱のようなものが出てきた。

重さはさほどなく、振ってみても音がしない。

私は埃を取り払って、そっとその箱を開けた。

すると、中には細かい機械の部品が収まっていた。

回転すると思われるローラーのようなものの上には、あちこちに小さな突起が見える。

その突起が、ホッチキス針のようなものがいくつも並んだものを弾くように回る仕掛けのようだ。


 「あ、これって」


 そこまで見て、私はそれがなんであるか分かった。


 「オルゴール?」


 まさしく、それはオルゴールそのものだった。

本来なら、蓋を開ければメロディが流れる仕掛けになっていたのだろう。

だが、長い年月の間ずっと手付かずでいたせいだろうか、金属部分にはところどころ錆も見える。

埃をかぶっていたくらいだから、ずいぶん昔のものなのだろう。

それに、これがちゃんとしたオルゴールであるのなら、もう一つ必要なものがある。

私はそれがないか、机の中を改めてみた。

 しかし、引き出しの中は埃しか見当たらない。

他の引き出しも念のため開けてみるが、どこにもあるはずのものが見当たらない。

そう、オルゴールのぜんまいを巻くネジがなかったのだ。

箱の背中の部分には、ネジを巻くであろう穴があるのだから、ネジもどこかにあるとは思うのだけど……。

少なくとも、この机からはネジは見つからなかった。

私が少しがっかりしていると、ちょうど阿久津さんが部屋の扉を押し開けた。


 「材料が限られていて、こんなものしか作れなかった。まぁ仕方ないか、保存ができるものといえば麺類が主体だからな」


 そう言って阿久津さんは、手に持っていたお皿を机の上に置いた。


 「何かテーブルのようなものがあればいいんだが……」


 阿久津さんがもう一度給湯室に向かって出て行くのを見て、私は机の上に置かれたそれを覗いた。

お皿の上に載せられていたのはスパゲッティだった。

おいしそうなトマトソースの匂いが私の食欲を誘った。

そうこうしていると、阿久津さんが何かを抱えて戻ってきた。


 「こんなものしかなかったが、まぁないよりはマシだろう」


 それは折りたたみ式のテーブルで、組み立てるとちょうどいい高さになった。

阿久津さんはそこに、真っ白な布を敷いた。

ベッドの替えのシーツか何かだろうか。

そしてその上にお皿と、あとからもってきたフォークを乗せた。


 「味に保障はできないが、冷めないうちにな。少しでも体力をつけておかないとな」


 阿久津さんはそう言うが、レトルトの見た目にしてはとてもおいしそうだ。

空腹がそれを後押ししているのかもしれない。

空腹こそが最高の調味料とはよくいったものだ。


 「どうした? のびるぞ?」

 「あ、はい。いただきます」


 私は一度手を合わせ、フォークにパスタを絡めて口に運ぶ。

トマトソースの酸味と暖かい味が口の中に広がる。

とてもレトルトとは思えないほどにおいしかった。


 「どうだ? 味は大丈夫か?」

 「はい。おいしいですよ」


 本当に美味しかったので、私は素直に感想を述べた。

本当に、ただそれだけのことだったのに。


 「そうか」


 そう言って、阿久津さんは小さく微笑んだ。

その笑みは、私が勝手に想像していた阿久津さんの笑みとそっくりだった。

なので、私は思わずドキリとしてしまう。

フォークを握った右手が宙ぶらりんで止まってしまう。


 「どうかしたか?」

 「あ、いえ、なんでもないです!」


 意味もなく声がうわずってしまう。

阿久津さんは不思議そうに首を傾げたが、すぐにまた食事を再開した。

だけど私は、その後もなかなか心臓の高鳴りが止まなかった。

せっかくのおいしいスパゲティだったのに、味わうのも忘れて機械的に口に運んでいたため、完食したのに味を覚えていなかった。


 「食欲はあるみたいだな。安心した」


 阿久津さんがそう言って食器を下げたあとも、私はまだ真っ直ぐに阿久津さんの顔を見ていられなかった。

気のせいか熱っぽさまで感じる。

思い返してみれば、私はもう何回も阿久津さんの目の前で泣き出してしまっているのだ。

それどころか、抱きついて泣いていたと思う。

それは普通に考えれば、とても恥ずかしいことではないだろうか。

本当に今更になって、私は阿久津さんという男性を意識し始めてしまっていた。

しかし、意識し始めてしまったら最後、今までの行いを思い返すだけで頭から湯気が出そうになる。


 「何をしているんだ、日下部?」


 私がベッドの上で奮闘していると、いつの間にか戻ってきた阿久津さんがそこにいた。


 「え!? わ!? いや、別に何でも……」


 もはやなんでもないわけがない。

自分でも何を言っているのかさっぱり分からない。

阿久津さんは目を丸くしていた。

だが、すぐに小さく微笑んで


 「何があったかは知らんが、少しは元気になったみたいだな。なら、それでいい」


 そう言って、私にコーヒーの入ったコップを差し出した。


 「あ、ありがとうございます……」


 まただ。

また阿久津さんが微笑んだ。

私は顔を伏せながら、すするようにコーヒーに口をつけた。

阿久津さんは一口飲み干したコップを机の上に置いて、何かに気付いた。


 「これは……?」

 「あ、それは」


 それはさっきまで私が手にしていた、古びたオルゴールだった。


 「オルゴールか……」

 「引き出しの中で見つけたんですけど、もう音が出ないみたいで……ずいぶん古いみたいですから」

 「ネジもなかったのか?」

 「全部の引き出しを見ましたけど、ここにはなかったです。なくなっちゃったのかもしれないですね」

 「……そうか」


 阿久津さんはオルゴールの箱を戻すのと入れ替わりに、コップを手にしてコーヒーを口にする。

その後私達はいくつか会話をしながら、しばらく時間を潰した。


 「けど、あれですよね。当たり前ですけど、ここまで何もないと時間もなかなか潰せないですね」

 「確かにそうだな。四六時中話し続けているのも変だしな」

 「せめて、本くらいあればよかったんですけどね」

 「難しいな。仮にあったとしても、研究所として使われていたような場所だ。専門の書籍しか置いてないだろう」


 もっとも、私としてはこうしている時間もそれはそれで退屈はしなかった。

記憶はなくても、こうしてちゃんと会話を楽しめる。

それは私にとって嬉しいことだった。


 「まぁ、することがないときは早く体を休ませた方がいいだろう。生活のリズムは狂うかもしれないがな」


 阿久津さんは空のコップを手にして立ち上がった。


 「無理に寝る必要はないが、横になっていた方がいいだろう。へたに動いて傷が悪化したら意味がないからな」

 「そうですね」

 「俺は隣の部屋にいる。何かあったら壁越しに呼ぶなり壁を叩くなりしてくれればすぐに来る」

 「分かりました」


 阿久津さんはそのまま扉を開けて、部屋を出ていく。

そのすんでのところで、私は彼を呼び止めた。

変に焦ったような、ちょっとおかしな声が出ていたかもしれない。

阿久津さんは扉の間でこちらを振り返っていた。


 「あ、あの……」


 私は緊張しながら、それでもどうにかその一言だけを言葉にすることができた。


 「お、おやすみなさい……」


 突然のことに、阿久津さんは目を丸くしてその場に立ち尽くしていた。

しかし、やがてあの小さな微笑を浮かべて


 「ああ。おやすみ、日下部」


 そう言って、静かに扉を閉じた。

それだけの出来事だったけど、私はとても嬉しかった。

こんな境遇だけど、不思議と安心して眠れる気がした。

まだ微かに鼓動の高まったままの胸を、私は自らの小さなてのひらを押し当てながら静かに横になった。


どうも、本作の書き手のやくもと申します。

さて、まずはこの場を借りてお詫びをしなくてはいけません。

それはというのも、前回の第三話の後書きではこの辺りから物語に変化が現れる予定ですと明記しておりました。

しかし実際に書き終えてみると、まだ書き足りない部分などありまして、話の展開はさほど大きい変化を遂げておりません。

よくあることといえばそこまでなのですが、堂々と期待させるようなことを書き並べておいた割にはこんな風になってしまいました。

どうも申し訳ありません。

次回こそは、もう少しちゃんとした展開を用意できる……はずです。

すいません、やはり実際に書いてみないとわからんかもしれません。

こんな私ではありますが、少しずつ読んでいただけていることにはとても感謝しています。

読んでいただいた方は、きっと第一話から読んでくださっている(はずですよね?)と勝手に思い込み、それを励みに今後もがんばっていこうと思います。

今はまだ書き出しの部分なので、更新も思った以上に早いペースです。

ですが、今後は2〜3日を目安に更新していこうかなと考えています。

それと、目を通していただけた方は、もしよろしければ採点などの評価にも手を伸ばしていただければ幸いです。

感想は書くのが面倒だというのも十分理解できますので、できれば採点だけでもお願いしたいのです。

甘口でも辛口でも構いません。

どうかよろしくお願いします。

それでは今回はこのあたりで失礼します。

第五話の後書きでまたお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ