第三話:少女の存在
1
私は再び、真っ白な部屋の真っ白なベッドの上で目を覚ました。
まだ完全に覚めていない目を少しこすりながら、上半身をゆっくりと起こしていく。
「いたっ……」
しかし、途端に背中や二の腕の辺りに鈍い痛みが走る。
痛む場所に手を添えながら見てみると、私の体には二の腕だけではなく太ももやふくらはぎの辺りにも包帯が巻かれていた。
他にも、体中あちこちに小さなすり傷の跡が目立つ。
体中あちこちから痛みが走る。
動けないほどひどいものではないが、やや不自由さを感じるには十分だった。
痛みに体のあちこちをさすっているうちに、私の目はだんだんと覚めてきた。
そして、同時に昨夜の出来事の顛末がありありと思い出せた。
そうだ、私は傾斜の上から転落して、そこで意識を失ってしまって、それで……。
「あ……」
思い出した。
彼が……あの青年が、私のことを背負ってここまで運び届けてくれたのだ。
彼の背中に揺られているうちに私は急に眠くなってしまったのだ。
彼が私をベッドの上に寝かせてくれたことは微かに覚えている。
その後、私が寝てしまうまでずっと傍にいてくれたことも。
あのとき彼は、何かを言っていたような気がした。
その言葉に私は全身の緊張と不安が溶けるように消えて、そのまま眠ってしまったのだ。
「ちゃんと、お礼言わないと。それに、名前も聞かないとね」
私はベッドの下に揃えられたスリッパを履き、まだあちこちに痛みが残る体を動かそうとする。
が、左足の足首に強い痛みを覚え、すぐにベッドに手をついてしまう。
よく見ると、足首の部分にはやたらしっかりと包帯が巻かれていた。
どうやら捻挫を起こしているようだ。
包帯の上から少し撫でただけでも、顔をしかめるほどの痛みに襲われる。
「困ったな、これじゃ歩き回ることもできないよ……」
それでもどうにか立ち上がろうと、手近の壁やベッドの枠に捕まりながら立ち上がろうとして
「わ、わ、あわわ……」
片足だけでは全体重を支えきれず、体がおかしな方向に曲がりだそうとする。
そして体はだんだんとベッドの上から引っ張られ、目の前にコンクリートの床が迫ってくる。
「きゃっ」
と叫んだ次の瞬間には、私の体は冷たいコンクリートの上にうつ伏せに転がってしまっていた。
顔や頭は強くぶつけていないが、包帯巻きにされたあちこちをぶつけたので、そのたびに痛みに襲われた。
起き上がろうと力を入れるが、いかんせん力が入らない。
どうしたものかと溜め息をついていると、何の前触れもなく部屋の扉が押し開けられた。
反射的に私は顔を上げた。
しかし、考えるまでもなくこの場にいる人間は私を除外すれば彼しかいないのだ。
そして案の定、彼はコーヒーカップを2つ、それぞれ両手に握ったままの状態でそのばに立ち尽くしていた。
私は今の自分のあまりにみっともない格好を改めて思い出し、急激に恥ずかしさを覚えた。
そしてそれを後押しするかのように、棒立ちの彼は言った。
「日下部、何をやっている……?」
その表情は疑問たっぷりだった。
私は答えられず、ただただ愛想笑いを繰り返すばかりだった。
やがて彼は小さく溜め息をつくと、持っているコーヒーカップを脇の机の上に置き、立ち上がれないでいる私に歩み寄ってきた。
そして一拍の間もなく、軽々と私の体を抱きかかえ、そのままベッドの上に戻した。
まるで犬や猫を扱うような動作だった。
というか、よく考えてみれば今のわいわゆる「お姫様だっこ」ではないだろうか。
そう思うなり、今以上の恥ずかしさがこみ上げてくる。
私は彼の顔をまともに直視できず、タオルケットの中に顔を突っ込んだ。
「どうした? 寒いのか?」
いえ、むしろ暖かいを通り越して熱いくらいです、おかげさまで。
とは口に出せず、私は彼に何でもないですと一言だけ告げた。
「ならいいが……ほら、飲め。暖まるぞ」
そう言って彼は片方のコップを差し出した。
顔を上げた私は、とりあえず彼のカップヲ受け取った。
コップを握る両手から、じんわりと熱が伝わる。
ゆっくりと口を近づけ、一口含む。
多少苦味は感じるが、飲めないことはない。
のどもと過ぎれば熱さを忘れるというが、しだいに体も温まってくる。
「体の方はどうだ? どこか強く痛むところはあるか?」
ふいに彼は聞いてくる。
彼の言葉はいつも突然だ。
タイミングというものがまるで図ることができない。
「あちこち痛みますけど、そんなに大したことはないと思います。ただ……」
私は視線を私の足元に移す。
彼もその視線を追って、私の足首に目を向ける。
「痛むか?」
「捻挫みたいです。まだちょっと、歩くのは難しいかも……」
「そうか……」
途端に彼の表情が曇る。
昨日見た、あのとても悲しそうな顔だった。
ともあれば、今にも泣き出してしまいそうなくらいに弱々しい表情。
どうして彼は、こんなにも悲しい顔をするのだろう。
そんな彼の横顔を見ていると、私もなぜか胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
「すまなかった。俺がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった」
彼は目を伏せて呟いた。
その言葉に、私は慌てて口を挟む。
「な、なんでアナタが謝るんですか? もとはといえば、私が勝手に逃げ出すような真似をしたから……」
「そうなるような状況にしてしまったのは、俺に原因がある」
「そんな……」
それ以上は言葉が続かなかった。
言いたいことはまだまだあるのに、声にならない。
きっと彼には、私のどんな慰めの言葉も届かないんではないだろうかと、そんなことを考えてしまう。
そんな悲しさを、彼は持っていた。
「……」
「……」
沈黙が流れる。
お互いに何も言わず、彼がコーヒーをすする音だけが室内にこだました。
「……そんな顔をするな」
彼の言葉に、私は顔を上げる。
「お前がそんな調子だと、こっちの調子が狂う」
彼はぶっきらぼうにそう言うと、コップを置いて立ち上がる。
「あ、あの」
彼の背中に、私は呼びかけた。
彼は無言で振り返り、次の言葉を待っている。
「あの、1ついいですか?」
「……なんだ?」
「その、あなたの……名前はなんていうんですか?」
「俺の、名前……?」
彼はやけに驚いた顔をしていた。
やはり、彼も知らなかったのだ。
私が彼に関することも、何一つとして覚えていなかったということを。
「日下部、お前まさか……」
彼は驚きのせいか、小声で呟く。
私はそれに、頷きで答える。
「覚えてないんです、何も。あなたの名前も。自分の名前だって、あなたがそう呼んでいるからそうなんだなって……」
彼は絶句していた。
しかしすぐに表情を取り繕って、真剣な眼差しに戻る。
「……分かった。色々と話さなくちゃいかんようだな。ちょっと待っていてくれ」
「あ、どこにいくんです?」
彼が部屋を出ようとしたのを、私は慌てて引き止めてしまった。
自分でも良く分からないくらいに、声がうわずっていた。
だけど、その理由は私にも分からない。
「顔を洗ってくる。多分、長い話になるだろう。すぐに戻る」
言い終えて、彼は静かに扉を閉じていった。
そう思った矢先、彼はいきなり扉を開いた。
私は驚いて、思わずその身を竦ませる。
「阿久津だ」
「え?」
一瞬、彼が何を言ってるのか分からなかった。
彼は繰り返す。
「阿久津恭祐。俺の名前だ。呼びやすいように呼んでもらって構わない」
それだけ告げて、阿久津は再び扉を閉めた。
廊下の向こう側に、彼の足音がだんだんと遠ざかっていくのが聞こえた。
「阿久津……」
胸の奥で、その名前を何度も繰り返す。
懐かしいようで、どこか悲しい感じ。
でも、全ては思い出せない。
だが一つ、はっきりしたことがある。
やはり私は、阿久津さんのことを知っていたのだ。
記憶の奥底、微かに思い出せる程度だが、彼の名前には確かに聞き覚えがあった。
だけど、どうしてなんだろう。
彼のことを思い出そうとすればするほど、辛くなってしまうのは。
言葉で言い表せない感情で、胸の中が破裂しそうになる。
私は阿久津さんが戻ってくるまでのわずかな時間を、ずっと胸を押さえて待っていた。
2
室内にはだんだんと暖気が回ってきた。
阿久津さんが持ってきた電気ストーブが、ちりちりと焦げ臭い匂いを放っている。
私はベッドの上に足を伸ばして座り、阿久津さんはパイプ椅子に腰掛けている。
「さて」
その声に、私は阿久津さんのほうに向き直る。
「どこから話せばいいんだろうな」
彼はしばしの間言葉を探しているようだった。
かく言う私も、一体何から聞いていいのか分からなくなっていた。
知らないことはたくさんあるのに、自分が一体何を知りたいのかが明確にならないのだ。
名前、歳、血液型、生年月日、出身地などなど。
個人情報レベルで考えるならそれこそきりがないほどだ。
だけどそれは、私が知りたいと思っていることではないだろう。
知らなくていいと言えば嘘になるが、それよりももっと大事なことがあるはずだ。
まず知るべきことは、自分が一体どういう理由で、現在に至るような状況に立たされているのか。
そして、なぜ阿久津さんも私と同じ状況に陥っているのかということだった。
しかし私は、聞きたいことが頭の中であるていど整理されたにもかかわらず、自らは問いを投げかけられないでいる。
完全に受身の状態だった。
まず阿久津さんに話を始めてもらい、疑問があれば問いを投げる。
これはちょっとズルイやり方なのかもしれないと、内心でも思う。
だが私は、他でもない彼自身の口から、事実を聞きたいのだ。
そうすれば、彼が時折見せるあの不可解な悲しい表情の正体も、何となく分かるような気がしたのだ。
本当に、ただなんとなくなのだけど……。
やがて阿久津さんは組んでいた足を崩し、口を開いた。
「俺は、こうなる以前は東京都の郊外に位置するある研究所で研究員として働いていた。その研究内容というのが、実は公には公表できないような内容のものでな。研究内容はおろか、そんな研究所の存在さえも、社会的には認められていない。いわば、非合法だった。決して歴史の表舞台には出ることなく、あくまでも歴史の闇の部分、影の部分として存在し続ける、ある種の組織めいた団体と言い換えてもいいだろう。今から何十年以上も前から、その研究は続けられていた。日本国内の有名著名大学や、個人で優れた才能を持つ人材の多くが、この研究所に足を運んだ。『この先の未来のために、君達の力が必要だ』そんなありきたりなセリフに心打たれてやってきた人間も、実際は少なくないだろう。かく言う俺も、そんな中の一人だったのかもしれないな」
阿久津さんの言葉は、すでに常識の範囲を少し飛び越えた内容のものだった。
非合法とか歴史の裏とか、耳にしたことはあるけれど、実際には存在を目の当たりにできないもの。
だからこそ非合法なのだろうが、冒頭からそんなファンタジーにも似た話を聞くことになるとは、私は思いもしなかった。
かといって、私はまだ問いを投げるほどに話の内容を理解できていない。
こうして話してくれる場を設けてくれた以上、少なくとも阿久津さんの話す内容は真実なのだろう。
例えそこに現実離れしたギャップを感じても、それが事実である以上は受け入れなくてはいけない。
阿久津さんは一呼吸して、話を続けた。
「その研究所というのがな、大きく言ってしまえば遺伝子研究に携わる研究をしている。生物学的な分野だな。微生物を繁殖させたり、植物の遺伝子を組み合わせたり置き換えたりして、新しい植物を作ったり。咲くはずのない花……例えば緑色のバラの花とかだな。そういうものを生み出す研究を主体としている。他にも、動物の皮膚を人間の皮膚の代わりに使えるようにしたりとかな。重度の火傷を負ったとき、皮膚組織が破壊されてしまうと人口の皮膚を使用したりするんだが、そのくらいは聞いたことがあるんじゃないか?」
確かに、そういう話は聞いたことがあるような気がする。
もはや移植技術などは、近年になって急速に発展しているとか。
医療技術で最先端を誇るアメリカなどでは、通常では考えられない治療法などが数多く存在するとか。
「だからまぁ、表向きは医療遺伝子関係の研究という風に見て取れるわけだ。だけどな、それだったらわざわざ研究所の存在や研究内容を隠す必要なんてまるでないわけだ」
私は一つ頷く。
それは確かにその通りだと思う。
むしろ、存在を公にしたほうが様々な方面から支援や情報が集まるのではないだろうかと思う。
ただでさえ科学技術がめまぐるしく発展する現在、医療や遺伝子関係の字研究はそれこそ注目を浴びることも多いだろう。
それならば、もっと分野を拡大したり、公表してさらに人材の確保などに向かえばいいのではないだろうか。
そういった方面の知識はまるでからっきしな私だけど、それでも分かることがある。
それは、阿久津さんの言った隠す必要ということだ。
隠す必要があるということは、それはつまり
「隠さなくてはいけないことが、そこで行われてるということだ」
私の心の声を通り越して、阿久津さんは静かにそう告げた。
その表情はどこか、苦しみに耐えているような印象を受けた。
あの悲しそうな顔に、それはよく似ていた。
やがて、阿久津さんは静かに目を閉じて再び語りだす。
「その、隠さなくてはならないこと。それは……」
それは。
私の心臓がドクンと跳ねる。
乾いた空気の塊を飲み込んで、肺の中でゴトリと音を立てて転がった。
「ここから先は、お前にとっても辛い内容になるだろう」
しかし阿久津さんは、一度そこで話を区切る。
彼の表情は、あの悲しいものに変わっていた。
自分を責めて責めて、それでも責め切れずに、抜き身の刃で全身をズタズタに切り裂いてしまいそうなほどの悲しい顔。
それが、私を躊躇わせる。
真実を知りたいか?
真実を知ってなお、自分を見捨てないでいられるか?
自分を拒絶せずにいられるか?
他でもない、私自身が問いかけてくる。
私は自分の胸に手を添える。
ドクンドクンと、さっきよりもまた心臓の鼓動が高鳴っているのが分かる。
それは恐怖か、高揚か。
どちらでもないのかもしれない。
だけど、ここで私が私の過去を拒絶したら、それは今一緒にいる阿久津さんまでも拒絶してしまうのではないだろうか。
根拠のない考えだったが、なぜだかそれに頷いている自分が確かにそこにいた。
阿久津さんは言った。
私を連れて逃げてきたと。
私にはそのときの記憶はないけれど、もしそれが、私が阿久津さんに「助けて」と叫んだのだったとしたら。
私はこれ以上、逃げるわけにはいかない。
胸を撫で下ろす。
鼓動はまだ収まらない。
阿久津さんに視線を向けると、彼は黙ったまま私の目を見据えていた。
その目が、できるなら語りたくないと言っている。
だけど、私は……。
ごめんなさい、阿久津さん。
そう心の中で呟いて、私は口を開いた。
「話してください、阿久津さん」
決心のこもったその声に、阿久津は再び目を閉じた。
表情が強張ったように見えたが、それは一瞬で消える。
「……分かった。話そう」
そして彼は、真実の断片を語りだす。
「遺伝子レベルの研究をするほどの研究所であるからには、そこはかなりの設備が揃っていた。現存する日本の中では最先端と断言してもいいだろう。それを目当てにやってくる人も少なくはなかった。ゆえに、研究所内では連日のように実験が行われた。これ自体は別におかしなことじゃない。やろうと思えばそのへんの大学でも簡単にできる。設備さえ整っていればな。さっきも言ったような、遺伝子の交配、配列の変換。他にも動物の解剖、生態系の調査、数えればきりがない」
阿久津さんの言っている単語の意味は何となく理解できるのだが、どうもイメージが沸いてこない。
それは私の記憶が欠損しているからなのだろうが、ここで私は思い当たった。
どうやら私は記憶を失っていると言っても、一般的な教養に対する知識は失ってはいないようだ。
そうでなければ阿久津さんの話を理解することはおろか、そもそも私は日本語を喋ることすらできないはずなのだから。
そんな私の考えをよそに、阿久津さんは続ける。
「だが、その中で俺が見つけてしまった当時の……16年前の記録は、本当にとんでもないものだった……」
阿久津さんの表情が曇る。
怒りすら覚えるような表情に、私は思わず肩を竦ませた。
「そのとき初めて、俺は闇に触れた。触れてしまったんだ。その研究所が、ただの実験場だと知って……」
「……実験場?」
私は無意識のうちに聞き返していた。
しかし、阿久津さんから返事はない。
彼はただ顔を俯いて、額を手で押さえてうなだれるだけだった。
だが次の瞬間、私はその言葉に背筋が凍る思いをした。
「人体実験だ……」
私は声が出せなかった。
その言葉の意味を汲み取るのに、一体どれだけの時間を必要としただろう。
感情を押し殺して、阿久津さんは続けた。
「そこは研究所とは名ばかりの、実験場と処刑場に過ぎなかったんだ……」
私はただ、沈黙することしかできなかった。
3
やがて、阿久津さんは覚悟を決めたように顔を上げた。
後戻りはできないとでもいうように、それでも彼が奥歯を食いしばっているだろうということは何となく分かった。
「あるとき、研究所の裏手に見慣れない車が止まっていたのを俺は偶然見かけたんだ。すぐにおかしいと思った。研究所に入るには正面ゲートで二重、三重にも及ぶチェックを受ける必要がある。すでに研究員として登録されている人間なら、認証のカードキーで自由に出入りできるが、外部の人間だと話は別だ。そして、研究者は全員研究所管理の寮のような場所に住まわされることになっている。外出の場合は許可が必要だし、何より一度外出して戻ってきたとしても正面から入ってくれば何も問題はないはずだからな。だからその車は、明らかにその場所では異常だったんだ。俺はあやしいと思って、その一部始終を見届けることにした。前々からこの研究所には不審な点が多く、俺も少なからずに疑問を持っていた。それを確かめるいい機会だと思ったんだ」
変わらずに話す阿久津さんだったが、顔色はさっきよりも悪くなっているように見えた。
部屋が薄暗いというのもあるが、それを差し引いてもやや蒼ざめているように見える。
現に、阿久津さんは両手を合わせて握り締めているが、そこには微かな震えが見られる。
私はとてつもなく不安になった。
この先、彼の口からどんな言葉が出てくるのかと思うと、耳を塞ぎたい衝動さえ覚えた。
「だが、そもそもそれが間違いだったのかもしれない。俺はそこで、決して見てはならない、触れてはならない事実に首を突っ込んでしまっていたんだ。……俺がしばらく建物の影で身を潜めていると、ふいに非常口のドアが開いた。中から出てきたのは、同じ白衣姿の男性だった。面識こそはないが、同じ研究員だということは一目瞭然だった。それを合図にするように、停車していた車のドアが音もなく開いた。そこからでてきたのも白衣に身を包んだ男性だった。車内には男性のほかにも2人ほど別の男性がいたようで、その誰もが端から見れば同じ研究員に見える格好をしていた。彼らはいくつか言葉を交わしていたが、俺には遠くて聞き取ることはできなかった。やがて彼らは、車のトランクの中から信じられないものを持ち上げた。遠目に見てもはっきりと分かった。あれは、間違いなく人間だった」
その言葉に私は息を飲んだ。
もはや寒気などというレベルは通り越している。
おぞましいほどの吐き気とめまいが、胃の中でごちゃまぜになっているようだった。
阿久津さんの話はまだ終わっていなかったが、私にでもその後は容易に予想が付いた。
トランクの中から担ぎ出された人間。
運ばれた場所は研究所。
もう十分だった。
その運ばれた人間は、その後どうなるのか。
決まっている。
彼らの手によって研究材料とされるのだ。
「う……」
私は思わず呻き、口を手で抑えた。
吐き気がこみ上げてきた。
胃酸がこみ上げ、口の中にわずかに酸味が広がる。
それでも私はやめてとは言えなかった。
それは逃げることになるし、話してくれている阿久津さんだって同じ気分のはずだからだ。
私はあえて沈黙を押し通すことで、阿久津さんに話の先を促した。
「……彼らに運び出された人は、そのまま手術台のようなカートの上に寝かされて研究所の中へと運ばれた。俺はすぐにあとを追いかけた。彼らは非常用のエレベータに乗り込むと、そのまま姿を消した。俺はパネルで階を追いかけて、すぐに階段で向かった。驚いたよ。俺はそのとき、研究員として半年ほどそこで生活を送っていたが、そのとき初めて知った。この研究所に地下なんてものが存在していたことに……」
研究所の地下。
これから起きることを考えれば、まさにもってこいのような場所だ。
地下なら悲鳴も漏れない。
処理にも困らない。
それはまさしく、歴史の闇という表現にぴったりだった。
「そこで、俺は見たんだ。あいつらはすでに人間が踏み入れていい領域を、とっくに土足で踏み越えてしまっているということに」
その言葉を聞いて、私は疑問を持った。
どういうことだろう。
私が考えていたこととは、何か食い違いが発生しているような気がする。
ためらいがちに、それでも私は思い切って口にした。
「あの、阿久津さん。どういうことですか?」
「……どういうこと、とは?」
阿久津さんは私の問いの意味が分かっていないようだった。
私は細くの意味も含めて、言葉を続ける。
「……その、こんなこと考えたくもないですけど、その運ばれた人は実験体みたいな扱いをされたんじゃ?」
「ああ……その通りだ」
「で、でもですよ。例えば、警察とかでも殺人事件とかが起きれば死体を解剖したりはしますよね?」
私の頭の中には、いわゆる司法解剖のイメージがあった。
死因を調べるために死体を調べるという、あの行為だ。
だから私は、運ばれた人も病気か何かですでに息がなく、それを調べるものだと思ったのだ。
もちろん仮にそうだとしても、死体に鞭を打つようなやり方は私は考えられない。
死んでしまったのなら、そのまま静かに眠らせてあげればいいと思う。
それが唯一、死者に対して冥福を祈るというものなのではないだろうか、と。
しかし、私の考えはとんだ奇麗事だった。
それこそ、夢物語もいいところだったのだ。
阿久津さんの言葉で、私はそれを思い知らされることになる。
「確かに、日下部の言っていることは一つの理論としては正しい」
「なら……」
一体何が、どのような領域を踏み越えているというんですか?
そう聞くよりも早く、阿久津は告げた。
「だがそれは、あくまでも死者を相手にした場合の話であって、死んでいない人間を秤にかけたものではない」
「……そん、な……それじゃ、まさか」
私はそれ以上言葉が続かなかった。
さっき以上の強烈な吐き気が込み上げてくる。
阿久津さんは、ただ黙って頷いた。
そして、言った。
「あいつらに実験体の生死などまるで関係ない。生きていれば、どの程度で絶命するかを実験するだけだ」
私は思わず口を抑えた。
胃の中のものが全部逆流しそうになる。
そんな私に、阿久津さんが椅子を倒して立ち上がる。
すぐに私の背中に手を回し、少しでも落ち着かせようと肩を抱いてくれる。
だけど、私は全然落ち着いてなどいられない。
それどころか、頭の中にいやな映像が流れて止まらない。
生きている人間。
目を閉じているのは眠っているから。
だが、もう目覚めることはない。
なぜなら、今から殺されるから。
麻酔を打たれ、脳を仮死状態にし、ありとあらゆる薬物を投与され、神経さえも麻痺。
血液をぎりぎりまで抜かれ、臓器を取り出され。
それは、ただ生命活動を保つことができているだけの――人形。
壊れた玩具。
自我では指一本さえ動かせない。
哀れな人形。
機械仕掛けの。
マリオネット。
それでも、助けを求めて。
叫べない。
声にならない悲鳴。
涙すら流れない。
それでも、生きていた。
救いを求めていたのだ。
ダレカタスケテ。
シニタクナイ。
シニタクナイヨ……。
ダレカ――――。
「嫌ぁぁああぁぁぁああああぁあぁぁあぁーっ!!!」
私は狂ったように叫びだしていた。
もう自分でも、何を叫んでいるのか分からないほどに。
両耳を手で塞ぎ、膝の上に顔を突っ伏し、迷子の子供のように泣き続けた。
涙が止まらない。
悲しいわけじゃないのに。
どこからこんなに溢れてくるんだろうというくらいに。
どうしようもなく怖かった。
怖くなってしまった。
記憶のない自分が怖いんじゃない。
こんな話をした阿久津さんが怖いのでもない。
そんな風に、道端の雑草を蹴り散らすような仕草で人の命を弄べる人間がこの世界の存在していることが、どうしようもなく怖い。
「落ち着け、日下部。大丈夫だ、大丈夫だから」
ようやく我に戻った私は、一瞬ここがどこなのか分からなくなってしまった。
だが、すぐに思い出す。
薄暗い灰色の部屋、白い壁、白いベッド。
変わらない場所で、私は膝を抱えて泣いていた。
はずだった。
なのに、私の体はいつの間にか阿久津さんの腕の中にすっぽりと収められていた。
彼が着ている白いワイシャツが目の前に飛び込んできて、私は自分の目を疑った。
そして背中には、未だに阿久津さんの手が優しく添えられていた。
「怖がるな。お前はここにいる。俺もここにいる」
そういう彼の言葉が、今の私の心に優しく溶けていく。
「言っただろう? お前は俺が守る、何があっても、絶対にだ。だから、もう泣くな……」
「……はい」
私は消え入りそうな声で、どうにかその一言を搾り出した。
阿久津さんはもう片方の手で、私の頭を軽く撫でた。
涙はもう止まりかけていたけど、私はもう少しだけこうしていたくて、静かに目を閉じた。
4
それから少しの時間が経って、ようやく私は落ち着きを取り戻した。
阿久津さんは、これ以上は私の精神的負担が大きいから、話すのをやめようと言った。
しかし私は、無理言ってそれを聞かせてくれと頼んだ。
こんな中途半端で投げ出すのは嫌だったし、それにまだ私は私のことを何一つとして知らないままなのだ。
そんな終わり方だけは、どうしてもしたくなかった。
しぶしぶだが、阿久津さんも承諾してくれた。
すっかり冷め切ったコーヒーをお互いに一口含んだところで、阿久津さんは再び口を開いた。
「それで、だ。俺がそこで見たものっていうのはそれだけじゃなかった。むしろ、こっちのほうが俺には衝撃が大きかった」
生きた人間が実験材料として使われることよりも衝撃が大きいこと。
私は想像も付かなかったし、できればしたくもなかった。
私が無言でいるのを見て、阿久津さんは続けた。
「日下部、お前は試験管ベイビーという言葉を知っているか?」
急に話を振られ、全くの虚を疲れた私は慌てた。
「え、えっと……」
私は自分の中の記憶以外の一般知識をひっくり返す。
「詳しくは分からないですけど、人工授精とかとよく似たあれですか?」
「まぁ、似たようなものだな」
頷いて、阿久津さんは答えた。
「一般的には子供がほしくてもできない夫婦などが、人工的に精子と卵子を受精させて子供を授かろうとするわけだ。うまく受精卵となったら、あとはそれを母親となる女性の体に直接戻してもいいし、きちんとした設備さえあるのなら試験管の中で栄養を与え続けるということもできる。ある程度まで成長したら、そこからは実際の両親の手で育てさせればいいわけだ」
いいイメージは持てなかったが、私は素直に納得した。
確かに前者のように、どうしても子供ができない家庭というのは世界中に決して少なくないだろう。
それを思えば、やむをえずにそういう手段をとることもあるというわけだ。
「でも、人工授精も一応は認められているはずじゃ……」
「確かに、まだまだ反対の意見は圧倒的に多いが、危険視されているというわけではない。ただ、生命の誕生という神秘的なものを人の手で人工的に行うというのは、やはりいいイメージは持たれないんだろう」
「つまり、それが入ってはいけない領域に足を踏み入れるっていうことなんですね」
私が納得しかけたところで、しかしあっさりと阿久津さんはそれを一蹴した。
「いや。俺が言ったことはそういうことじゃない」
「え?」
「確かに日下部の言う通り、人工授精という技術も生命の誕生という神がかった分野を大きく侵している。だが、そもそも出産には病院関係者も含めて大勢の人間が関わる。もちろんそこには医療機器なども存在するし、全体を見ればそれは人々の手によって行われているものであって、決して領域を侵しているわけではない。事実、出産には多くの人が立ち会うだろう。もはや生命の誕生という瞬間は、限りなく人為的なものとして扱われていると俺は思う」
言われて見ればそうなのかもしれない。
少なくとも私自身は出産の立場に立ち会ったこともないし、経験に関してはあるわけがない。
なのでいまいちぴんとこないが、阿久津さんの言っていることも一つの意見としては間違ってはいないと思う。
だとしたら、一体阿久津さんは当時、その目で何を見たというのだろう。
私の視線に気付いたのか、阿久津さんは話の先を語り始めた。
「俺が見たのは、それこそ同じ人間がすることとは到底思えないものだった。思い出すだけで反吐が出そうになる……」
阿久津さんがそこまで言うということは、相当なことだったのだろう。
正直、私も聞くことに躊躇いを覚えている。
だけどもう決めたのだ。
自分の周りに起きたことを、全て正面から受け入れると。
「……あいつらは、まさに今俺が言ったことを繰り返していたんだよ」
「繰り返し?」
聞き返すが、私には意味が良く分からない。
繰り返すとは、一体どういうことだろうか。
単語そのものの意味はもちろん分かっている。
同じ事を何度も何度も、ということだろう。
……何度も何度も?
同じ事を?
阿久津さんが、今、言ったことを……?
それは、つまり。
「人工授精……」
私は呟いた。
消え入るような声だったかもしれない。
阿久津さんは答えずに、その先を語りだす。
「あいつらは、そうやって運ばれてきた実験材料の体内から精子および卵子を取り出し、冷凍保存させ、無差別に受精させて新しい人間を作り出していた……。そして誕生したばかりの人間さえも、ただの実験道具として扱っていた」
私は絶句した。
すでに気持ち悪さを通り越して、吐き気はおろか言葉すら出てこない。
何を言えばいいかわからない。
なんだ?
なんなのだろうそれは?
実験体として遊びつくすだけでは足らず、彼らの遺伝子にまで手を伸ばして新しい実験体を手に入れる?
理解できない。
本当にそれは、人間のすることなのか?
同じ人間がすることなのか?
「……そんな、そんなのって」
ありえない。
その一言が、どうしても言い出せなかった。
なぜなら、これは紛れもなく事実だったからだ。
私はそれ以上何も言えず、ただタオルケットを強く握り締めていた。
許せない。
信じられない。
そう思うたびに、同時にたとえようのない無力感が支配する。
どう思おうと、全てはもう終わった過去のことなのだ。
今更どうしようもない。
分かっている。
分かっていても、どうしようもなくやるせないのだ。
「だが」
阿久津さんの言葉に、私は耳だけを傾けた。
「いくらなんでも、そんなにしょっちゅう人体実験は行えない。何よりもまず、人がいなくなれば必ずそれは事件になる。事件になれば警察が動くし、そうなれば研究所の存在そのものが公になってしまう可能性がある。もう一つ、それは実験体としての役目を終えた死体の処理だ。研究所は人の目に付かないとはいえ、東京都の郊外だ。死体を捨てるにしても埋めるにしても、それが日本の首都というのは危険すぎる。かといって、どこか遠くの山奥まで死体を運ぶのもそれはそれで危険が増す。そういう手間を考えて、ほとんど多くの死体は秘密裏に焼却された。骨の欠片も残さないほどにしてな」
もはや反応を返せない。
今の私こそが、それこそ人形のようにその場に佇んでいるようだった。
「それでも、あいつらは実験をやめようとはしなかった。それどころか、新たにとんでもないことをやり始めた。要するに、自分達が幾度となく実験を繰り返しても、社会的にそれが騒がれなければ何も問題はないと。そう考え出した連中は、そこでとうとうその結論に辿り着いてしまった。どれだけ殺しても騒がれない、問題にすらなりえない人間。つまり、社会的にその存在を生まれたその瞬間から認識されていない人間がいればいい。だが、そんな人間はいるわけがない。全ての人間は生まれた瞬間からその国に所属し、国籍と共に個人情報を与えられて国に管理されるからだ。だったら……」
阿久津さんの言葉が止まる。
言葉を探しているのではない。
言うか言うまいか、すんでのところで留まっているのだ。
阿久津さんの表情が苦渋に包まれる。
見ている私が辛くなるほどに。
しかし彼は、拳を握り締めて、言った。
「いないのならば、作ってしまえばいい……」
私の頭の中を電撃が貫くような衝撃が走る、
そして同時に、そこに残された一つの言葉。
ああ、そうだったのか。
これが阿久津さんの言っていた、決して踏み入れてはいけない領域を侵したという意味だったんだ。
私は俯いて、静かにその言葉を口にした。
「……クローン」
阿久津さんは何も答えなかった。
それが無言の肯定であることに、私は気付いていた。
お互いの間に、長い沈黙が流れる。
どちらも、その沈黙を取り払うことができないでいた。
時間だけが流れていく。
私も阿久津さんも、俯いたまま何も言葉を発さない。
分からなくなっていた。
今自分がいるこの世界というものの、どこまでが正しくてどこからが間違いなのか。
私がふいに顔を上げた、そのときだった。
阿久津さんは俯いたままで、静かに話し始めた。
「……そしてその結果として、16年前に研究所で初のクローン実験が行われた。被験体として選ばれたのは、当時17歳の少女だった。……彼女は数日前から行方不明になっていて、実験体としては申し分なかった。仮にこのまま行方不明のままでも、社会的には何の問題もなかった。彼女が実験体として運ばれてきたとき、彼女はすでに虫の息だったらしい。だが、連中にはそんなことは関係ない。連中が用があるのは、彼女ではなく彼女の遺伝子だ。一回でもクローンが成功すれば、あとはその成功体をさらにクローンすればいい。だから連中は、思ってもいなかっただろう。まさか16年後の今になって、そのクローン体が連れ去られるようなことになるなんてことは……」
「……え?」
私は思わず聞き返した。
すると、阿久津さんはゆっくりと顔を上げた。
その表情は、あの悲しみに満ち溢れたものだった。
見ているだけでこっちの胸が苦しくなりそうな、そんな表情だった。
その目は真っ直ぐに、私を直視していた。
まるですごまれたように、私は出かかった言葉を飲み込んだ。
心臓の鼓動が高鳴る。
搾り出した声は、彼の名前を呼ぶだけのものだった。
「阿久津、さん……?」
「……彼女の」
阿久津さんは私の言葉に反応せずに続けた。
「被験体となった彼女の名前は――日下部楓」
「…………え」
時間が止まってしまったかのような感覚。
私と阿久津さんの周りの空気が、凍りついたように停止する。
頭が正常に働かない。
今のは空耳?
聞き間違い?
頭が全てを拒否しようとする。
だけど、私は聞いた。
私だけが聞いていた。
その言葉を。
「君のことだ。日下部」
体が言うことを利かない。
彼の言葉から、耳が離せない。
「君は、日下部楓の――クローンなんだ」
凍りついた時間が、崩れ落ちて動き出す。
私は阿久津さんの目を見たまま、何も聞き返すことができなかった。
どうも、拝見してくださった方はありがとうございます。
作者のやくもと申します。
「きみのてのひら」も今回で第三話となります。
話の一つ一つが短めなので、割とすらすらと読んでくれていると思います。
この第三話ではちょっとリアリティというか、血生臭い表現も使用しています。
あまりこういった表現は得意ではないのですが、これも小説全体で見ればなくてはならない通過点ですので、色々試行錯誤しながらもがんばってみました。
とはいえ、まだまだ表現力が足りないのもまた事実。
もっと精進せねばならないようです。
さて、前回のあとがきで書いたとおり、ここからストーリーは少しずつ変化を遂げていきます。
少しでも読者のかたに「続きが読みたい」「気になる」と思っていただければ幸いです。
もしかしたら予想通りの結末かもしれません。
もしかしたら予想外の結末かもしれません。
ひょっとしたら結末なんてものは最初から存在しないのかもしれません。
なにはともあれ、どうか最後までお付き合いいただければと思います。
それでは、また次回お会いしましょう。