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第二話:終わりが始まった夜(2)

 1


 眠れない。

目を閉じてどれくらい経っただろうか。

今日という一日がやけに長く感じて、身も心も疲れ果てているはずなのに。

全身の神経がピンと張っているようで、蜘蛛の巣のような警戒網を張り巡らせているようだ。

全身の力を抜き、だらりと体を放り投げても、考えることをやめることはできなかった。

今後のことについて、彼には考えなくてはならないことがあまりにも多すぎる。

自分はもちろん、日下部の身の振り方もそうだ。

いや、身の振り方どうこう以前の問題に、いつまでここでやつらの目をやり過ごすことができるかということのほうが重要だ。

 もともとこの施設の存在は、研究所の同期の知人から話だけ聞かされていたものだ。

それが現在もこうして残っていたことは、あくまでも嬉しい誤算に過ぎなかった。

正直、もしこの場所を発見することができなかったら、あのまま山の中を歩き回るだけで倒れていたことだろう。

とりあえず今夜くらいは無事に過ごすことはできそうだが、いつまでもここに居座り続けるわけにもいかない。

研究員の中にはここの所在を知るものもいるかもしれない。

恐らくやつらは、今でも手当たり次第にこちらの行方を探し続けているだろう。

当たり前だ。

何しろ俺は、俺達が行っていた研究の集大成ともいうべくものを抱えて逃走しているのだから。

長年をかけて極秘に進められていた研究だ、やつらとしても歴史の表舞台にこれを逃がすわけには行かない。

 だが、俺だってそれは同じだ。

こんな事実を日の目の当たる場所に晒すことなんて、まっぴらごめんだった。

だから俺は、隠さなければならない。

その上で、日下部を守り抜かなくてはならないのだ。

絶対にやつらに見つかるわけにはいかない。

見つかれば最後、俺はもちろん日下部の命も助かるという保証はない。

十中八九、殺されるだろう。

 今にして思えば、俺達はなんてものを作ろうとしていたんだろう。

完成するまで、それの意味することにまったく気づかないなんて、どうかしていたんじゃないかと思う。

実際俺は、どうかしていたのだろう。

だからそれに気づいたとき、誰よりも早く動くことができたのだ。

そういう意味では、結果としては悪くないのか。

だがどう転んだって、俺達が続けてきた研究の結果は変わらない。

今回はまだ、実験段階なのだ。

だからこの実験さえ失敗に終われば……俺の手で闇に葬り去ることができれば、何もなかったことになるんだ。

失敗と分かれば、やつらはまた別の手段を考えるだろう。

実験というのは失敗の積み重ねだから、それは当たり前なことかもしれない。

 だが、それでも失敗だけが続けばいつか人は諦めることを知る。

それが明日なのか一年後なのか一世紀後の世界のことなのか、それは俺には分からない。

だが俺は、今だけは研究者らしくなく思う。

どうかこの実験だけは、どれだけ先の未来の世でも成功しないでくれと。

切に願わずにはいられない。

あの実験が成功してしまう未来のことを思うと、反吐が出る。

何もかもぶち壊してやりたい気分だ。

作る側も作らせる側も、俺自身も。

全部全部、狂っていた。

 それに気づけたのが、今回は俺だったというだけの話で。

本当にやつらは、何も知らずに研究を続けているのだろうか。

俺みたいな下っ端研究員でさえ気づくことができたことに、なぜ誰も気づかない?

いや、本当は気づいているんじゃないだろうか。

だけどその、常識を遥かに超越したスケールの大きさに戸惑っているだけで。

もしかしたら、知っていながら研究を続けているやつもいるのかもしれない。

だけどそれは、俺がどうこう言って責められることじゃない。

俺達は研究者だ。

日々調査と実験を繰り返し、限りなく真実に近い事実を求める人間。

そこに罪はない。

あるとすれば、全てが終わった後の後悔くらいのものだ。

 いつだってそうだ。

結果を見なくては、良し悪しは分からない。

テストの結果にしても、宝くじの結果にしてもそれは同じだ。

だがそれが、あらかじめ問題用紙を盗んだり、当選番号がすでに決められているとしたら。

それは偶然ではなく、必然に変わる。

それと同じことが、俺達のしてきた研究にも当てはまるのだとしたら。

一体俺達は、何のためにたった一つの可能性を信じて歩んできたというのだろうか。

 俺は思わず舌打ちする。

誰が悪いとか悪くないとか、そういう問題じゃなくて。

気づかずに今日まで生きてきた自分に腹が立つ。

今なおその事実を知ってか知らずか、研究をしているやつらに腹が立つ。

そんな世の中が平然と動いているこの世界に腹が立つ。

何もかもがめちゃくちゃすぎた。

どこから狂いだしたのだろうか。

始めから、全部狂っていたのかもしれない。

歯車が一つだけ足りなくて。

ねじが一つだけ抜けていて。

だから俺達は、抜け出せない時間の中を何度も何度もぐるぐると廻り続けているのだろう。

だったら、直さなくてはいけない。

歯車をはめこんで、ねじをとめて。

止まったままの時間を、正しい方向に動かさなくてはいけないのだ。

 そのために俺ができた、唯一のこと。

それが、日下部を逃がすこと。

だがそれは、奪い返されることを想定しておかなくてはならないことだった。

だから俺は、今度は守りきらなくてはいけない。

日下部を。

もう二度と、動き出したこの時間を逆戻りさせないために。

たとえ、自分の命を捨てても。

守らなくてはならない人が、ここにいるのだ。


 「日下部……」


 それは独り言か、それとも隣の部屋にいる彼女に向けてかけられた言葉なのか。

囁きのように細く小さなその声は、夜の空気に溶け込むようにしてすぐに聞こえなくなった。

不思議と肩が軽くなった気がした。

彼女の名前を呼んでみたり、彼女のことを考えたりすると、プレッシャーに押し潰されそうになるはずなのに。

彼は気づかないうちに、日下部のことを心の拠り所にしていた。

彼女といると、彼は少しだけど優しい自分になれる。

本当は自分なんて、彼女の視界に入る価値さえないと知っていながら。

だが彼は、そんな曖昧な感情の変化に気づかない。

いや、無理矢理に押し殺している。

今はそんなことに気づく必要はないのだと、言い聞かせている。

 気づいているのに。

気づきかけているのに、決して気づこうとしない。

それはまるで、研究を続けていた自分と鏡写しのようで、彼自身を見えないところで追い詰めていた。

目をうっすらと開く。

万が一のことも考えて、部屋には電気はつけていない。

それは日下部にも言い聞かせたことだった。

今はもう使われていない山中の研究施設から明かりが見えたら、誰だって怪しく思うだろう。

真っ暗だったが、長い間目をつぶっていたせいで、目はすっかり暗さに慣れていた。

窓のない部屋。

何もかもが灰色に染まった部屋は、夜の間だけ黒一色に塗り潰される。

 一人の夜は久しぶりだった。

久しぶりといっても、この奇抜な脱走激が始まってからまだ、丸一日も経っていない。

昨日のことが遠い過去に思えるなんて、よほど疲れているのだろうか。

疲労はあった。

今だって焦りはある。

でもまだ、始まったばかりなんだ。

終わらせない。

終わらせるわけにはいかない。

終わりがやってくるとしたら、それは俺が全てを終わらせるときだ。

最後の最後まで。

決して諦めるな。

 彼は――阿久津恭祐は、椅子の背もたれにかけた上着の内ポケットに手を伸ばした。

ひんやりと、夜の空気に巻けず劣らずの冷たい金属の感触。

その闇の溶け込む黒い拳銃を握り、阿久津は思う。

全てを終わらせるためなら、いくらでも引き鉄を引き続けてやると。

それは恐らく、追ってくる立場のやつらも同じことだろう。

やつらは日下部は保護、あるいは生け捕りのために殺すことはないが、もはや阿久津のことは殺すことにためらいはない。

阿久津が死ねば、結局そう遠くない未来に日下部も殺される。

そんなことは絶対にさせない。

カチャ。

金属の擦れ合う音がこだまする。


 「…させてたまるか」


 阿久津は呟く。


 「最後の最後まで、俺は抗ってやる。必要とあらば、殺すことだってためらいはしない」


 ギュッと、拳銃を握る。


 「全てを決めるのはお前らじゃない。それに気づけないで銃口を向けるというのなら……」


 汗で手が滲む。

真っ暗な部屋で、それだけが黒光りを放っている。


 「最初に引き鉄を引くのは――俺だ」


 再び拳銃を内ポケットにしまいこむ。

握り締めていた手が火照り、外気に冷やされていく。

ますます眠気がなくなってしまった。

阿久津は一度息をつくと、顔でも洗ってこようと静かに部屋のドアを開けて廊下に出た。

そして、気づいた。

日下部の部屋のドアが、細く開いていることに。


 2


 飛び出したまではよかった。

が、次の瞬間にはもうすでに自分は迷いかけていた。

右も左も真っ暗闇。

真夜中の雑木林は、ただそこに存在するというだけで言いようのない圧迫感を与えてくる。

周囲に細心の注意を払いながらも、日下部はじりじりと一歩ずつ闇の中を前進する。

目を凝らしても、何も見えはしない。

かろうじて木々の暗影があちこちにうっすらと浮かび上がるだけで、それ以外は何もない。

さっきまで地上を淡く照らしてくれていた月は、いつの間にか雲の陰に隠れてしまっていた。

唯一の道標を失って、文字通りお先は真っ暗だ。

 とにもかくにも、まずはここから下山しなくてはならない。

暗さのせいで斜面が緩やかなのか急なのか、それすらも分からないが、とにかく歩くしかない。

日下部は寒さに身を震わせながらも、手探りで歩を進める。

じゃりじゃりと砂と小石を踏みつける音が耳の奥に響き、それさえも胸中の不安を煽り立てる要素になる。

私は助かるのだろうか。

いや、助かりたい。

助かってみせる。

 そのためには、まずは逃げ切らなくてはならない。

つまりは、人がいるところへいかなくてはならない。

こんな偏狭のような土地でも、必ずどこか別の道路と交差する場所が必ずあるはずだ。

まずはそこまで辿り着くことができれば、そこから下山すれば開けた道へと繋がるだろう。

もちろんそれは、日下部の頭の中の想像に過ぎない。

だが、こんなところで得体の知れない人間と二人っきりで、いつ殺されるかもしれない恐怖を覚えるよりかはマシだった。

 殺されると決まったわけではない。

もしかしたら、あの青年は本当に自分の身を守ってくれるためにここにいるのかもしれない。

だけど、記憶のない日下部にそれを信じろというのは無理な話だった。

彼と二人で話をしていたときは、その場の空気や彼の勢いに流されたこともあって頷きはした。

だが、それだって半信半疑だったのだ。

その証拠に、彼は彼自身のことを何一つ明かしてはくれなかった。

教えてくれたのはこれまでの経緯だけで、名前すら聞かされていない。

それなのに彼は、まるで私の全てを知っているような口調だった。

これから起こり得るであろうこと、これまでに起こってしまったこと。

全てを知った上で、なおかつ真実を語ってはくれない素振りだった。

それを疑うなというのが無理な話だ。

 だったら、私にはこういう選択肢しか残されていないじゃないか。

そうだ、私はこうするほかなかったんだ。

仕方、なかったんだ。

そう自分に言い聞かせて、日下部は斜面を下る。

思ったよりも斜度がある。

地盤そのものは安定しているようだが、うっかり足を滑らせたらしばらく転がることになるだろう。

無論、ただの擦り傷程度で済むはずがない。

打ち所が悪ければ、その時点で死ぬ可能性だって十分ある。


 「くっ……」


 慎重に、それでもできるだけ早く。

あの人に気づかれる前に、少しでも遠くに。

不安、焦り、恐怖といった負の感情だけが底なしに溢れてくる。

戻れと、心のどこかでそう叫ぶ自分がいる。

しかし戻れない。

戻れば助かるという保障はない。

だが、逃げ延びれば助かる。

どちらを選ぶかなんて、考えるまでもなかった。

記憶を失ったことに対する恐怖よりも、死に対する恐怖のほうが大きかった。

足が震える。

それは、死に対する恐怖か、それとも戻ろうとする無意識の意思なのか。

混同する意識、交錯する感情。

 私は一体、どちらを信じればいい?

自分か、それとも、彼か。

答えを出すよりも早く、私の足は少しずつ、しかし確実に斜面を下っていくのだった。

土を踏みしめる感触と、木の葉や小枝を踏み砕く音。

木の幹にしがみつきながら、ゆっくりと下る。

まだほんの数十メートルしか歩いていないのに、もう息が上がってきた。

振り返ると、もうそこにはあの建物の外観は捉えられなくなっていた。

まるで林の木々が視界を遮るようにして、目の前を全て覆い隠してしまう。

空を見上げても、月はまだ隠れたまま。

行く手を遮るものは何もないが、導くものも何もない。

それでも、行くしかない。

この木々の檻を抜け出して、歩くしかない。


 「大丈夫、大丈夫。きっとうまくいく……」


 何度も自分に言い聞かせる。

落ち着かせるように、諭すように。

だからもう、振り返ってはいけない。

後に求める場所などないのだから。

あるはずがないのだから。

なのに、どうしてだろう……。


 「……」


 胸の奥深くで、見えない針がチクリと刺すような痛みが走るのは。

一体、どうしてなんだろう?


 「どう、して……?」


 そのわずかに感じる痛みに、日下部は思わずその場に膝を折った。

衣服が汚れることなど構わずに、木に背中を預けて座り込む。

片方の手で胸を押さえる。

しかし、そんなことで痛みは消えたりはしない。

両目をつぶり、唇を硬く閉じる。

寒さに身を震わせながらも、その場から動くことはおろか立ち上がることもできない。

痛みが別の感覚へと変わっていく。

胸が締め付けられるようになり、息も苦しくなる。

ついには耳鳴りのようなものまで始まった。


 「んっ……!」


 日下部は開いているもう片方の手で頭を押さえる。

ものの数秒で頭痛は消える。

同時に胸の苦しさもなくなり、体全体がふわっと軽くなったような感覚になる。


 「はぁっ」


 肺の奥から尾も狂うしい空気の塊を吐き出すと、気分は少し楽になった。

だが、まだ少し頭がふらついている。

とはいえ、いつまでもこんなところでのんびりと休んでいるわけにはいかない。

もしかしたら、今頃は自分がいないことに彼が気づいてしまっているかもしれない。

そうなれば、彼は必ず私を追いかけてくるだろう。

追いかけてくる理由は、今の私には分かりはしないのだが。

ぐずぐずしている時間はない。

日下部は立ち上がる。

少しでも遠くへ。

ふらつく頭を片手で押さえながら、斜面をまた一歩進もうと足を踏み出して


 「え……」


 ふいに、自分の体が宙に浮いた。

空気以外の全てが、体のありとあらゆるところから離脱して、体全体が浮かび上がった。

そして次に起こった衝動は、落下。

重力に引きずられるがままに転がっていく体。

少なくない痛みの数、再び止まりそうになる呼吸。

そして、訪れる静寂と共に薄れていく意識。

日下部が遠のいていく意識の中で、かろうじて最後に見上げた視界の先。


 「…………」


 そこには、やはり月のない夜空がどこまでも蒼く黒く続いていた。


 3


 無人の廊下に佇む闇を引き裂くように、足音だけが連続して反響していた。

懐中電灯を片手に、阿久津は暗がりの中をあちこち走り回っていた。

もともと体力には自信があるわけではない体が、すでに息を上げている。

首筋から背中にかけてじわりと汗が滲む。

決して広くはないこの施設の中、もうほとんどの場所を走り回った。

だが、そこに日下部の姿を見つけることはできなかった。

トイレにも給湯室にも、使っていない空き部屋のどこにも彼女の姿は見当たらなかった。

 数分前、顔を洗おうとして部屋を出た阿久津は、そこで信じられない光景を目にした。

隣の日下部が休んでいる部屋は、もぬけの殻になっていたのだ。

最初は阿久津も、彼女がトイレにでも言ったのだろうと思っていた。

だが、よくよく考えれば実際にそんなことはありえない話だった。

なぜなら、日下部はこの施設のどこにトイレがあるかを知らないからだ。

意識を失ったままの彼女をその部屋まで運んできたのは阿久津自身である。

彼女が意識を取り戻してからは建物の中を案内したりなどはしていないので、少なくとも日下部はどこに何があるのかを知らない。

しかも時間は真夜中だ。

灯りの一つも持たずに建物内を徘徊するというのは考えにくい。

 つまり彼女は、黙って部屋を出ていったということになる。

なんのために?

決まっている。

逃げ出してしまったのだ。

恐らくは、記憶が混同して不安になり、いてもたってもいられなくなったのだろう。

では、どこに逃げたのか。

建物の中はあらかた探しつくした。

懐中電灯の明かりしか便りがないとはいえ、どこかで隠れている日下部を見落とすとは思えない。

ということは、彼女はもう建物内部にはいない。

つまり、外だ。

案の定、彼女がいた部屋を出た正面の窓の鍵が内側から開けられていた。

灯台下暗しとはこのことだ。

阿久津は焦っていて、こんな近くに外への入り口があることをすっかり見逃していた。

 そして今阿久津は、暗い林の中を走っている。

どこに追っ手がやってきているかも分からない現状では、電灯の灯りさえ頼るわけにはいかなかった。

加えて、大声で日下部の名前を呼ぶわけにもいかない。

しんと静まり返る夜の中では、光よりも音のほうが著しく目立つ。

頼りになるとすれば、己の視力と聴力のみ。

阿久津はどちらも決して悪いわけではないが、この広い範囲の中ではそれもすずめの涙程度にも役に立たない。

さらに言うならば、阿久津が進んでいる方向と日下部が進んだ方向が同じとも限らない。

状況は明らかに絶望的で、それを後押しするかのように気温がどんどんと冷え込んでくる。

 山の気温は地表に比べてはるかに低い。

高山地帯ではないといえ、酸素濃度も薄いはずだ。

ふと、日下部の服装を思い出す。

とてもじゃないが、寒さから身を守れるほどの暖かいものだったとはいえない。

もしもこのまま朝方まで見つけることができず、なおかつ日下部が道に迷ったりしていようものなら、凍死すら免れない。

どうしてこう幾重にもわたって危機迫る状況に追い詰められなくちゃいけないんだと、阿久津は歯噛みする。


 「くそっ! どこだ、日下部っ!」


 彼はと枯れ枝を踏み砕いて、阿久津はどんどんと林の奥へ進む。

向かう方向が正しいとか間違っているとか、そんなことはもはや頭の中にはなかった。

見つかるまで探すことしか、今の彼にできることはなかった。

木々の間をすり抜けて、阿久津は走る。

方向感覚なんてとっくに失っていて、もはや施設があった場所さえ曖昧になっていた。

それでも走りながら、真っ暗な景色の中に動く影や違和感を探していく。

慣れない運動量に、息が止まりそうになる。

心臓が爆発してしまいそうなくらいに高鳴り、鼓動が彼を余計に焦らせる。

吐く息はいつしか白く濁り、外気の低さを鮮明に物語っていた。

額に浮かんだ汗を腕で拭った、その時だった。


 「なっ……」


 阿久津は足を取られ、そのまま前のめりに大きく体を放り出された。

ブレーキもきかず、体はごろごろと緩やかな斜面を転がり始める。

何とか転倒を止めようと、阿久津は必死で腕を伸ばした。

すると、運良く木の根元に腕が絡まり、急いでもう片方の腕を手繰り寄せる。

木の幹にしがみつくようにして、阿久津の体はどうにか停止した。

焦りの呼吸と安堵の息を交互について、阿久津は体を起こす。


 「ハァ、ハァッ……」


 すでに体力は限界に近づいていた。

どうにか五体満足で呼吸をしているのが不思議なくらいだった。

もしもあのまま転倒し続けていたら、ただではすまないだろう。

阿久津が今立っている場所から少し先のほうは、急に地面の高さが低くなっている。

つまり、斜面の角度が急になっているということだ。

一歩間違えれば、確実に阿久津は命を落としかねないことになっていただろう。

思わず背中に寒気がこみ上げてくる。

そして同時に、不安もこみ上げてきた。

果たして日下部は、無事なのだろうか。

こんなに視界の悪い状況で、ましてや灯りの一つも持っていない彼女は……。

いや、そんなことはない、まだ間に合うはずだ。

しかし、万が一……。

 考え始まるともう止まらなかった。

どれだけ自分を言いくるめても、悪い方向にしか想像は巡らない。

そしてそれは、結局自分自身を攻め立てる言葉となって跳ね返ってくる。

俺は一体何をしているんだ?

ついさっき言ったばかりじゃないか。

アイツを守って見せると、言ったばかりじゃないか。

まだだ、まだ何も終わっちゃいない。

手遅れなんていう考えは捨てろ。

遅すぎるなんて結論は、まだ早すぎる。

俺の体は、手は、足は、まだ動く。

だったら走れ。

今、すぐ!


 「……っ!」


 止まった足を動かして、阿久津はまた走り出す。

しかし、どれだけ走り回ったところで、肝心の日下部がどこにいるのか見当もつかない。

闇雲に探すだけでは、遭難者が一人増えてしまうだけだ。

阿久津がそのことを理解してないわけがない。

だが、今の彼にはこうするほかないのだ。

ただ探し続けることでしか、彼は一人の少女すら救えない。

ここで彼女を救えないのなら、この先もずっと彼は誰一人として救えない。

だから、走る。

がむしゃらにでも、何度転びそうになっても。

そうすることでしか、自分の答えを見つけ出せない。

人は彼を不器用な人間と呼ぶだろう。

当たり前だ。

器用なら、そもそも誘拐なんて真似事してはいないのだから。

 それでも阿久津は、今でも確かに思う。

自分のしたことは、世界から見れば間違っているのかもしれない。

だけど、間違いだと知ってなお、俺はこの少女を救いたい。

見殺しには、できない。

結局のところ、ただそれだけのことだったのだ。

彼はただ、目の前で苦しんでいる一人の少女を、救いたいと思った。

それだけのことだったのだ。

そして阿久津を、二度目の衝撃が襲う。

むき出しの木の根に足を取られ、そのまま転倒した。

疲労のあまり、草の根を掴む余力も残ってはいない。

ただ重力のなすがままに、傾斜を転がり落ちていく。


 「が、はっ……!」


 痛みと疲れで息が止まりそうになる。

何度も背中を打ち付けて、そのたびに鈍い痛みが全身を駆け巡る。

どれだけの時間転落していただろうか。

そう長い時間ではないが、気がつくと阿久津の体はぴたりと静止し、そのうつ伏せの体の上を静寂だけが通り過ぎていった。


 「……くっ、そ」


 痛みに顔をしかめながら、阿久津はようやく顔だけを起こす。

土と枯れ葉の混じった匂いが鼻腔を刺激し、口の中は鉄の味が少し広がっている。

かなら全身を強く打ったが、幸いなことに骨折などの重傷だけは避けられたようだ。

とはいっても、満身創痍なのは変わらない。

目立つ怪我は、額からのわずかな出血くらいだろうか。

他は大丈夫だ、痛みはあるが手も足もしっかり動く。

阿久津はうめきながらも、どうにか上半身だけを無理矢理起こした。

そして改めて、自分が落下してきた斜面を見上げる。

急ではあるが、上れないほどのものではない。

だが、さすがに体が言うことを聞かなくなってきている。

かといって悠長に休んでいる暇もない。

 奥歯を噛み締めて、阿久津は壊れかけの体を立ち上がらせようとして…。

瞬間、背筋が凍りつきそうな映像を見た気がした。

たった今視界の端に捉えたものが、フラッシュバックするかのように頭の中を横切る。

思考が停止しそうになる。

頭では理解していても、体が思うように振り向こうとしてくれない。

見間違えの可能性は大いにある。

一寸先は闇。

しかし、闇の中でそれは確かに見えた。

阿久津の視線の先には、確かにそれがあった。

木の葉でもなく枝でもなく、紛れもない衣服が。

そして、腕が、足が、顔が。

一人の人間という形をそのまま残して。


 「――日下部っ!!!」


 彼女はそこで、静かに眠っていた。

まるで、水面にゆらゆらとたゆたう花びらのように。


 4


 夢を見ていた、のだと思う。

ずいぶんと長く、それでいて儚いくらいに短い夢。

氷の中に閉じ込められたような寒さ。

指先から徐々に感覚がなくなっていって、やがて体全体がただの冷気に包まれた。

例えるなら、永遠に解けることのない氷の結晶の中に、生きたまま閉じ込められたような、そんな感覚。

寒いとか冷たいとかを通り越して、もう何も感じない。

生きながらにして死んでいる。

それは果たして、生きているといえるのだろうか?

聞いたところで、答えは何一つ返ってこない。

 静かだ。

世界が活動を停止してしまっているようだ。

静と動のうち、動が死んで。

静だけが音もなく、しかし確実に動いている。

おかしな話だ。

いい加減にはっきりしてほしい。

ここは止まった世界で、その場所で私も止まっている。

息遣いも、心臓の鼓動も感じない。

指先一つ動かせず、閉じた瞳は開かない。

これはきっと、死というものなのだろう。

だって、目の前はこんなにも真っ暗だ。

何も聞こえず、何も見えず、そして何もありはしない。

 世界は死んだ。

そして私は、世界の一部だった。

だから私も死んだ。

うん、分かりやすい。

だとしたら、ここはどこなのだろう?

私は一体、どうしてここにいるのだろう?

……分からない。

考えれば考えるほど、思い出そうとすればするほど、何もかもが黒一色に塗り替えられていく。

こんな世界は、嫌だ。

これ以上何を黒くしようというのだ。

もう、何もかもが黒々しい闇に染まりきっているじゃないか。

黒に何を混ぜても、黒にしかならないよ。

ここに光はない。

あるのは闇。

闇が闇を生んで、生まれた闇は闇と混ざる。

そうやって闇だけが増え続けて、いつか私もその闇の中に消える。

それがきっと、この世界の正しい在り方。

 だからもう、私は何もしないし何もできない。

いずれ今の自分の何もかもが、闇に飲み込まれていく。

残るものは何もない。

記憶も、景色も、言葉も、想いも、声も、世界も、死も。

やがて消える。

私は、生まれながらにして死んでいた。

命なんてない。

私は死にながら生まれたのだから。

……あれ?

そういえば。

私は、一体……。

いつ、生まれてきたんだろう……?


 「……」


 トクンと、何かが鳴った。

それは音でもなく、声でもなく。

それなのにどうしてか、不思議と感じることができた。

この、闇だらけの宇宙の中で。

瞬く星なんて一つもない、無限に続く闇の螺旋の中で。

届いたそれは、何?

トクン。

トクン、トクン。

 少しずつ高鳴るその感覚。

弱々しく、それでいて決して消えない。

その音は、すぐ近くにあるようで、遥か遠くから聞こえてくるようだった。

頼りない、消え入りそうな鼓動。

だけど、こんなにも暖かいと感じてしまう。

……暖かい?

凍りついたように動かない体が、暖かさを感じている。

指先は動かない、目は開かない。

それでも確かに、分かる。

伝わってくる。

その、温もりが。

 春の日差しを浴びているような、そんな暖かさ。

体に羽が生えたよう。

陽の照る下に、体を放り投げているみたい。

闇色の氷が、少しずつ解けていく。

あったかい。

揺り籠が揺れるような心地よさ。

春に抱かれ、眠る私。

まるで、誰かに守られているような…。


 ――何があっても……――


 え?

何だろう、今のは。

ふいに耳に届いた、声。

儚くて、でもそれでいて力強く、どこか安心できるような、そんな声。

この声、前に、どこかで……。

指先が、微かに動く。


 ――何があっても、お前だけは……――


 澄んだ青空のように広い声。

今はまだ、そんなに大きな声では言えないけれど。

時々、消え入りそうなくらいに弱々しくもなるけれど。

私はこの声を、知っている。

名前も知らないあの人が口にした、唯一の優しさ。

そして私は、その優しさが信じられなくなって…逃げたんだ。

こんな真っ暗な闇の中を、走り回って。

ただ、怖くて。

疑うことが怖くて。

信じることが怖くて。

そんな自分が、何よりも怖くて。

ただ、逃げていた。

まぶたが浮く。

一筋の光が射すように、うっすらと目が開く。


 ――何があっても、お前だけは絶対に……――


 服越しに感じた、確かな温もり。

揺り籠に乗せられた私。

彼の背中から、確かに音が聞こえてくる。

トクン、トクン、トクンと。

懐かしい匂いがした。

体全体が、暖かさに、温もりに包まれる。

彼の足音が、息遣いが、鼓動が、こんなにも近くに感じられる。

……ああ、そうか。

 最初から私は、この人を恐れてなどいなかったんだ。

私は知らず知らずの間に、記憶がないという恐怖をこの人のせいにしてしまっていたんだ。

この人は私を少しでも安心させようと、きっと必死だったというのに。

私は彼が差し伸べてくれた手を、いつの間にか振り払っていた。

自分の中にある恐怖に負けて。

ただ、不安から逃れようという一心だけで。

目の前の現実から目を背けて、そして逃げた。

私はバカだ。

こんなにも心配してくれる人が傍に居てくれたというのに。

薄く開いた瞳の端から、音もなく透明な雫が流れ落ちた。

頬を伝い、静かに上着に染み込んでいく。


 「っ、うっ……」


 もう、涙を抱えておくことはできなかった。

私は彼の背に揺られたまま、ただ子供のようにすすり泣くことしかできなかった。


 ――何があっても、お前だけは絶対に俺が守ってやる……――


 そう言ってくれた彼を信じることができずに、逃げ出した私。

それでも彼は、やってきてくれた。

どうして私は、彼を信じることができなかった?

名前を知らなかったから?

素性を知らなかったから?

違う、そうじゃない。

そんなものは、私から聞けばよかっただけなのだ。

結局のところ、私は聞くことさえも恐れた。

知ることが怖くて。

ただ、怖くて。

こんなにも暖かく優しい言葉をかけてくれる人を、裏切ってしまった。

私は、大バカだ。

私は自分の小さなてのひらを、そっと彼の肩に添えた。

ギュッと、私は無言で彼の肩を掴む指に力を入れた。

震える指先。

しかし彼は、黙ってそうさせていてくれた。


 「……な、さいっ……」

 「……」


 彼は答えない。

ただ無言で、私を背負って歩き続ける。


 「ごめ、なさ……私、わた……」

 「……ああ」


 たった一言、彼はそう言って頷いた。

背中に抱えた赤ん坊をあやすように、諭すような言葉で。

夜明けが近づいていた。

朝を迎えたら、彼に名前を聞こう。

消えかけた月が世界を照らす中、私は泣きながら彼の背中で、再び浅い眠りの中へと落ちていった。


第一話から拝見してくださってる方、そうでない方。

まずはご覧になってくださってありがとうございます。

本作「きみにてのひら」は、この第二話でようやく冒頭部分の終わりを迎えます。

今後は色々な展開があるのですが、それは第三話ないしは第四話あたりからがメインとなっていく予定です。

次回の投稿は不定期なのですが、なるべく遅くならないように努力するつもりです。

それでは手短ですが、この辺で失礼します。

一人でも多くの方々に目を通していただけるようにがんばりますので、今後もよろしくお願いします。

では、第三話でお会いしましょう。

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