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第一話:終わりが始まった夜(1)

 第一話


 1


 途中何度も後を振り返って、俺はようやく車のスピードを落とした。

制限速度をあっさりと無視して、真夜中の見通しの悪い街道を走ることすでに一時間。

舗装されたアスファルトの道は、いつの間にか砂利にまみれた林道へと変わっていた。

車は今なお緩やかな傾斜を上り続けているが、ガソリンがもう底を付きそうだということをランプが告げる。

もう少し、もう少しのはずなのだ。

 記憶に間違いがなければ、この近辺に目的地であるその場所があるはず。

とはいっても、それも所詮人づてに聞いた記憶。

俺自身はその場所に一度も訪れたことはないので、はっきりいって可能性は低くなる一方だ。

だがそれでも、ここまできたらそこにしか身を寄せて置ける場所はない。

決して安全とはいえないだろうが、今からエンスト覚悟で一般道へと引き返すリスクに比べれば十分マシと言える。

いや、これから行うであろう篭城のような行為に比べれば、車など投げ捨てて自分の足で走ったほうがいいのかもしれない。

しかしそれも、俺が一人で行動するのならばの話だ。


 「……」


 運転席のシート越しに、俺は後部座席に目を向ける。

人里はなれた林道の中で、しかも真夜中。

視界は悪く、わずか数十センチの距離でも目をしかめなくては何も見えてこない。

そこに横たわるのは、何も知らない一人の少女の姿。

眠っているのか、それとも気を失っているのか、それすらも分からない。

すでに死んでしまっている……という可能性は、多分ないと思う。

少なくとも、俺が彼女を抱きかかえたときには、まだ彼女の体温と心臓の鼓動を感じ取れた。

 それから大体一時間が経過した。

我ながらかなり荒っぽい運転を繰り返してきたとは思うが、恐らく問題はないだろう。

俺は静かにドアを開けて、すっかり夜がふけった地面に立った。

周囲は一帯が雑木林で囲まれ、吸い込まれそうな夜空はどこまでも蒼く黒い。

山の上だというのに星一つ瞬かないその夜空は、自分の先行きを暗示しているようでひどく不気味だ。

 実際俺は、追い詰められていた。

今現在こうしているに至る経緯を思い返せば、それは当然のことだろう。

一般的な見解から言えば、俺のした行為は誘拐となんら変わりのないことなのだから。

もちろん、主犯は俺。

そして被害者は、後部座席で横になっている彼女だ。

彼女は何も知らないまま、俺にここまで連れてこられた。

俺は何も知らない彼女を、ここまで連れてきた。

自分のした行動が間違っているかどうかと問われれば、俺は間違っていないと主張しただろう。

しかしそれも、あくまで一時間前の話だ。

 今の俺は、あまりの行き当たりばったりな無計画さに呆れるばかり。

とても普段の自分からは考えられない行動の数々だった。

そもそも普段通りの俺なら、こんなバカな行動に駆り出されたりはしない。

自責と後悔が後押しする中で、不安と憔悴が汗の珠になって皮膚を伝い落ちる。

その跡を夜の風が吹き晒して、涼しさと一緒に寒気を運んでくる。

今でも心臓が高鳴って、情けないことに手の震えが止まらない。

運転してる間も、ずっとそうだった。

万一事故でも起こそうものなら、全ては水の泡になる。

俺がしたバカな行動の一連も、そのバカな行動に無理矢理付き合わされている彼女の運命も。


 「クソッ……!」


 震える両手を組み合わせて、俺は車の屋根に顔を伏せる。

考えれば考えるほど、事態は悪い方向に流れていってしまう。

必死の思いでやってきたこの場所だったが、はっきり言って見つかるのは時間の問題だろう。

しかしそれでも、人の目に触れなければいくらかはマシだろうと思ってここまでやってきた。

だが、それもすでに手詰まりに近い。

あるべきものがそこになければ、もう何もできないのだ。

抵抗することも、それどころか逃げることさえも叶わない。

もう後戻りはできないのだ。

 たったの一時間程度で、俺の運命は信じられない方向へと進んでいたのだ。

俺は車に戻り、もう一度エンジンをかける。

何度か繰り返すうちに、かろうじて車体は息を吹き返す。

その車体を、俺は林の中へと進ませる。

地面は不安定極まりなかったが、それでもどうにか押し進む。

林道から数十メートルほど進んだところで、俺は車を停車させてキーを抜いた。

もう車は使えない。

 運転席から出てドアを閉じ、俺は後部座席のドアを開けた。

相変わらず彼女は目を閉じたままだった。

そっと彼女の手を取って、脈を確かめる。

確かな鼓動が伝わってきて、俺は音もなく小さなため息を一つついた。

それから静かに彼女の体を引き寄せ、車から下ろして背に負ぶる。

ここから先は歩くしかない。

真夜中で、さすがに気温も低くなっている。

一刻も早く身を寄せて置ける場所を見つける必要がある。

俺は正直、体力にはあまり自信がない。

つまり、俺が力尽きればそこまでというわけだ。

 希望と絶望では、絶望がほとんどの割合を示していた。

それでも、行くしかないんだ。

決めたんだ、彼女を抱きかかえながら走った、そのときから。

絶対に守ってやると、決めたんだ。

俺は闇を睨むようにして、底なしの奈落へと続く道を一歩踏み出した。

小石と砂を踏み潰す音が夜の中に響いて、林の奥深くへとこだましていった。

後戻りなんて、もうできっこない。

抗うしかないんだ。

 緩やかな傾斜を歩き始める。

一寸先は闇。

希望の光は、どこにある?

そんなものは、最初からどこにもありはしなかった。

あったのは、纏わりついて離れない絶望だけで。

――けれども。

たとえそうだったとしても。


 「……」


 ふいに感じた、小さな温もり。

気がつけば、背中の彼女は小さな呼吸を繰り返していた。

その消え入りそうな息吹が、どうしようもなく苦しくて、切なくて、悲しくて。

俺は無言のまま、奥歯を噛み締めた。

そして歩き出す。

闇の中へ。

希望はない。

でも、絶望ばかりでもない。

背中の少女だけが、唯一の希望だった。


 2


 薄暗いその場所で、少女は目を覚ました。

起き上がろうとすると、ふいにめまいがしたような感覚に襲われ、目の前の景色がぼやけてくる。

重くのしかかる頭を支えながら、少女は少しずつ周囲に目を向ける。

薄暗い部屋。

灯りは枕元にある小さな電灯だけで、部屋の中には窓は見受けられない。

壁も天井も、部屋そのものの薄暗さが強調して灰色一色に包まれているように見える。

今の今まで少女が横になっていたベッドだけが、電灯のおかげで白い色だということがわかる。

 少女は記憶が途切れ途切れで、現在の自分の置かれている状況がどういうものなのかよく分からない。

だが少なくとも、体の自由も奪われていないし、怪我らしい怪我もしてはいないようだ。

気分だけがあまり優れてはいないのだろうか、今感じためまいがまだ後を引きずっている。

ベッドから体を下ろすと、軋む音が闇の中に響いた。

意識せずとも、少女は誰に言われるでもなく足音を殺しながら、この部屋のドアへ歩き出す。

細く開いた隙間からは、微かに光が漏れていた。

 ドアノブを握る。

鍵はかかっていないようだ。

そっとノブを引いて、少女は顔だけで部屋の外を見る。

ドアの外は、左右にどこまでも広く続く廊下だった。

ガラス窓が同じようにどこまでも続き、その外からは中途半端に欠けた月が覗いている。

少女はその幻想的な絵に思わず見とれ、小さく口を開けて窓の外を凝視してしまう。

月明かりに照らされた少女の影が、実際の身長の何倍も長く廊下の奥へと伸びていく。

 月を見上げながら、少女は思った。

月が出ているということは、少なくとも今は夜、もしくは真夜中ということになる。

窓ガラスに映りこんだ自分の格好を見ていると、少女は実にラフな服装をしていた。

紺色のトレーナーに、茶系のプリーツスカート。

トレーナーのほうはサイズが大きいのだろうか、袖口から指先しか出てこない。

そんなどこにでもいるような格好をした自分が、一体こんな時間にどこで何をしているというのだろうか。


 「ここ、どこなんだろ……」


 初めて口にした疑問は、なぜかどうしようもなく自分を不安にさせるものだった。

思い出そうとして、少女が廊下の真ん中に立ち尽くして思考を巡らせ始めた頃


 「……?」


 ふいに廊下の向こうから、カツンという物音が聞こえた。

石ころが落ちるような、地面を転がるような、そんな他愛のない音。

だけど、静か過ぎる廊下の奥から聞こえる物音は、少女を震え上がらせるには十分なものだった。

一瞬のうちに恐怖感が芽生え、少女は声を殺して壁に背中を預けることしかできなくなった。

動けば足音で気づかれてしまう。

だから少女は、さっきまでいた部屋の中に駆け戻ることなんてできなかった。

 カツン、カツン。

これは、石が転がる音なんかじゃない。

紛れもなく、人間の足音だ。

それがだんだんと、近づいてくる。

嫌だ、怖い…。

少女は身をすくめながら、その足音がどこか別の方向に遠ざかっていくことを願った。

しかしそれに反して、足音は一歩また一歩とこっちに近づいてくる。

息が止まりそうになる。

曖昧な記憶と恐怖がさらに混乱を招き、少女の精神を圧迫する。

 カツン、カツン、カツン。

足音はさらに近づく。

もう、その距離はすぐそこまでやってきていた。

気配を感じる。

人間特有の存在感。

消しても消しきれない、拭っても拭いきれないそれ。

距離が、限りなくゼロに近づく。

月明かりに照らされて、その足が少女の視界に映る。

黒い靴。

そして黒いズボン。

闇が吐き出した影に怯え、少女は頑なに目を閉じる。

カツン。


 「……!」


 そして足音は、ピタリと止まった。

少女のすぐ近くで。

目を閉じていても、ありありと分かる。

その人は、今目の前にいる。


 「……」


 沈黙が二人の間を右往左往する。

目を閉じている時間というのは、どうしてこんなに長く感じるのだろうか。

一分経ったのか、それとも十秒すら経っていないのか。

少女が恐る恐る閉じた目を開けようとした、それより一瞬早く、その人物は口を開いた。


 「気分はどうだ?」

 「……え?」


 その声色はややぶっきらぼうだったが、今まで感じていた恐怖などを全て取り払ってくれるような優しさを持っていた。

間の抜けた一声で返してしまった少女は、ゆっくりと目を開く。

少女の目の前にいたのは、一人の青年だった。

少女よりも頭一つ分ほど高い背丈。

黒い靴に黒いズボン、少しシワの浮かんだ白いワイシャツで、ネクタイだけがだらしなく首からぶら下がっている。

その手には何かトレイのようなものを抱えており、乗せられた二つのコップから湯気が立ち上っている。

目つきはあまりよくないが、不思議と怖いという印象は受けない。

かけられた言葉がそうだったからだろうか。

何にせよ、少女は目を丸くしてまじまじと青年の顔を凝視してしまう。

さすがにその態度が気になったのか、青年が再び口を開く。


 「どうかしたか?」

 「え? あ、いえ」

 「俺の顔に何かついてるのか?」

 「いえ、そういうわけじゃないんですけど、その……」


 しどろもどろになる少女を見て、青年は少し首をかしげる。

会話もまともに続けられなくなって、少女は急に恥ずかしいような情けないような気持ちになって、無言で俯いた。


 「……まぁいい。ここは冷える。とりあえず中に入れ日下部」

 「……え?」


 ふいに違和感を覚える。

青年の言葉が耳を伝わり、脳の中に情報として吸収されるその過程。

何か、言葉では言い表しにくい矛盾が生じたような気がした。


 「どうした? 何をしている?」

 「あ、す、すいません……!」


 名前を呼ばれたことに今気づいたかのように、日下部と呼ばれた少女は小走りに部屋の中へと駆け込んだ。

部屋に入って、背中越しにドアを静かに閉めた。

パタンという音が、水面に広がる波紋のようにゆっくりと壁や天井に染み込んでいく。

……あれ?

湧き上がった一つの疑問。

たった今感じた、違和感の正体。

口には出さず、日下部は胸の中で自分自身に問い質す。


 私、自分の名前を覚えてない……?


 答えてくれる自分はどこにもいない。

消えかけていた不安が、再び小さな渦を巻いて胸の奥からこみ上げてきた。


 3


 小さなテーブルを挟んで向かい合い、日下部と青年はコーヒーをすすっていた。

コーヒーはさきほど青年がトレイに乗せて運んできてくれたもので、夜の空気で冷えた体を芯から温めてくれる。

ブラックで少し苦かったが、日下部はカップを両手で持ち上げて、冷ましながら少しずつ口にしていた。


 「どうだ? 落ち着いたか?」

 「はい。あったかいです」


 さっきからお互いに二言三言交わしては沈黙の繰り返しだったが、日下部もここにきてようやく気持ちが落ち着いてきた。

少なくとも、今目の前にいる青年は自分に対して危害を加えるような存在ではないようだ。

それが分かっただけでも、精神的に安心するには十分なことだった。

だが、まだ日下部には今時分が置かれている状況というのがよく分かっていない。

真っ先に思い浮かぶ疑問は、まずここがどこでなぜ自分はこんな場所にいるのかということだった。

実は先ほどから何度も声をかけようとする機会を伺ってはいるのだが、そのつどにタイミング悪く青年が口を開く。

青年も口を開くたびに日下部の身を案じてくれている言葉をかけてくれるので、「そんなことより」などと言うわけにもいかない。

 しかし結局、青年の言葉に対して日下部は相槌を打つか簡単に返答を返すだけで、会話はまったく続かない。

青年は会話が終わるとすぐに何かを考え込むようなそぶりを見せるので、それがさらに話しかけることをためらわせるのだ。

だが、いつまでも胸の内にくすぶっていることを吐き出さないわけにもいかない。

現状を知る権利くらいは自分にもあるだろう。

日下部は小さく深呼吸を一つすると、手にしたカップをテーブルに置き、意を決して青年に話しかけた。


 「あ、あのっ」

 「ん? どうした?」


 反応こそ一瞬遅れたが、青年は穏やかな口調で聞き返した。

日下部の態度に気づいてか、彼も手にしていたカップを静かにテーブルへと戻した。


 「その、いくつか聞きたいことがあるんですけど……」

 「何だ?」

 「えと……まず、ここは一体どこなんですか? どうして私は、こんなところにいるんですか?」


 まずと言った割には、同時に二つも問いを投げかけていた。

しかし日下部はそんなことに気づくはずもなく、やや身を乗り出すようにして青年の返答を待っている。

一方、聞かれた青年はすぐに答えるに至らず、少しの間何かを考え込んでいるようだった。

しかしやがて、竦ませた肩の力が抜けるように、青年はその重い口をゆっくりと開いた。


 「一つずつ答えていこう」


 日下部は頷いた。

今はとにかく、少しでもいいから情報がほしい。


 「まず一つ目。ここは人里から離れた山岳地帯にある研究施設だ」

 「研究、施設?」

 「正確には、かつて研究施設として使われていた場所だ。今はもう廃棄されて、使われてはいない」

 「じゃあ、どうしてそんな廃墟みたいなところに私……私や、あなたがいるんですか?」

 「俺だって、別に来たくてこんな辺鄙なところに来たわけじゃないし、ましてお前を連れてきたわけじゃない。仕方がなかったんだ。

  苦肉の策とも言うべきか……追っ手を振り切って身を潜めるには、俺の心当たりはここくらいしかなかったんだ」


 言い終えて、青年は再びコーヒーを口に含む。

一方日下部は、また頭が混乱し始めていた。

最初の質問の答えまではすんなり納得できた。

だが、二つ目の返答は逆に日下部の疑問を増やすこととなってしまった。

仕方がないとか苦肉の策とか、挙句の果てには追っ手を振り切るとか。

追っ手がいるということは、自分、もしくは自分達は追われている身ということなのだろうか?

だとしたら、何に追われているというのだろう?

そして、追われる原因とは何なのだろう?

やはり、消化された疑問よりも多くの新たな疑問が浮かんでくる。

 そんな言葉を聞いても、日下部にはどうしたらいいのか分からない。

結局また青年に対して、詳しく問いを投げることになってしまう。

唖然としたままの表情で、青年にまた問いかけようとしたところで、またもや青年が先に口を開いた。


 「……すまないと思ってる」

 「え?」


 言いかけた言葉を全て飲み込んで、日下部は青年の言葉に耳を傾けた。

それは単純で、何気ない一言のはずなのに、ひどく日下部の胸の奥を揺さぶった。

どうして謝るんだろう。

私はこの人に、何か謝られるようなことをされたのだろうか?

……分からない。

自分の頭の中にある全部の記憶を引っ張り出しても、この人に謝られるような出来事はない。

だとしたら、これは彼の独り言なのだろうか?

彼が何か思うところがあって、無意識のうちにそれを口に出しているのではないだろうか?

 でもそれなら、どうしてこんな痛そうな、辛そうな、悲しそうな目をするのだろう。

それも、まるで私を見ないようにするために俯いたりして。

しかし考えたところで、今の日下部には何も分からなかった。

ただ、目の前の彼がとても苦しんでいるように見えて、不思議と日下部の胸の奥も痛んだ。

投げかけようとしていた言葉は虚空に消え、行き場を失ったように日下部は膝の上で手を組んだ。


 「俺なんかが、軽々しくこんなことを口にする資格がないのは分かっている。だが、それでも……」


 青年は唇を噛み締める。

苦痛の中で、必死に言葉を探しているようだった。

日下部はただ彼の顔をそっと見上げることしかできず、また彼の言葉を全部理解することも適わなかった。

それでも、彼の自分を責めるような表情を見れば、その言葉を聞き流すなんてことができるはずもなかった。


 「お前だけは、必ず俺が守ってみせる。何に替えても、絶対に」


 トクンと、日下部の心臓が静かに高鳴った。

気のせいか、体温もわずかに上昇して、頬の辺りが火照っているようにも感じる。

それはきっと、日下部に限ったことではなく、異性からそんなことを言われた時の反応としては至極一般的なものだろう。

だけど何か、この人の言う言葉には特別な意味が含まれているような気がして。

 まだまだ分からないことは山積みだ。

でもきっと、この人は聞けば答えてくれるはず。

今の私たちがおかれている状況についても、そうなるに至った原因についても。

そして、私が失っている私自身の記憶についても、この人はきっと知りうること全てを語ってくれるだろう。

それに何より、こんなにも優しくて心強い言葉をかけてくれるのだから。


 「……はい」


 しっかりと彼の目を見て、日下部は答えた。

怯えていた自分を不安から開放してくれた彼を、今度は日下部が安心させるために。

受け取って、彼は静かに目を伏せた。

電灯の小さな灯りだけが頼りの部屋に、二人分の影が小さく踊る。


 「すまない……ありがとう」


 そう言った彼の背中は、ひどく小さく見えた。

日下部は小さく頷いて、すっかり冷めてなってしまった残りのコーヒーを、もう一口含んだ。


 4


 日下部はベッドの中で体を縮めていた。

あのあとはお互いに沈黙が続いてしまい、やがて彼が今日はもう寝ろと言い出したので、私はそれに従うことにした。

とはいっても、ほんの一時間くらい前まで眠っていた体がそんなに早く寝付けるはずもない。

すっかり夜の闇に目が慣れてしまった私は、無機質な天井を眺めながらぼんやりと考え事をしていた。

正直な意見を言えば、まだまだ彼に聞きたいことはたくさんあった。

聞けば聞くほど疑問が増えていくかもしれないが、何も知らないことに比べればずいぶんマシだと思う。

やはり、どうしてこんな状況に陥っているのかということも気になる。

それに私はまだ、彼に私の記憶が実に曖昧でぼやけているということを伝えてない。

もちろん、自分の名前すら覚えていなくて、彼がそう呼んだから初めて知ったということも。

もう一度日下部は頭の中を整理する。

今自分に与えられた少なすぎる情報をもとにして、雑ながらにも推測を立てていく。

 気がついたとき、そこはもう今寝ているベッドの上だった。

時刻は真夜中で、ここはどこかの山岳地帯にある、かつて研究施設だった場所らしい。

一緒にいたのが、例の青年だった。

最初は登場の仕方に驚きこそしたものの、少なくとも彼は危害を加えるようなつもりではない。

その彼は、どうやら何かに追われているらしい。

そしてその追われる側の立場の人間に、どうやら私も含まれているらしい。

ここまでを簡単に整理すると、つまり彼は、私を連れてどこか別の場所からここへ逃げてきたと考えられる。

 しかし、それは一体何のために?

彼の口調からするに、事態は決して生易しいものではないようだった。

だとすると私は、まさか誘拐されてきたとでもいうのだろうか?

いやしかし、一緒に逃げてきたとなるとそれは誘拐ではないようにも思える。

じゃあ、任意同行なのだろうか?

だとしたらそれは、何のために……?

 だめだ、分からない。

情報が少なすぎる。

それも当たり前なことなのかもしれない。

私の中に残された記憶なんて、おそらく時間にしてみれば半日ほどにも満たないのだろう。

そんな状態じゃ、いくら思い出そうとしてもたかがしれている。

考えることをやめて、私は静かに目を閉じた。

目の慣れた暗闇とは違う別の闇が、そこには広がっていた。

途端に私は、まるで何かに怯えるかのように慌てて目を開いた。


 「……っ!?」


 ほんの数秒の間に、私は額に汗の珠をいくつも浮かべ、背中にもかすかに汗を掻いていた。

ドクンドクンと、心臓の鼓動が必要以上に高鳴っている。

呼吸が荒くなり、体全体が熱を帯びているようだ。

息苦しささえ覚え始めて、私はベッドから体を起こした。

寒さから身を守ってくれていたタオルケットを跳ね飛ばして、呼吸を整えるために胸に手を当てる。

ドッドッドッと、高鳴った心音が伝わってくる。

寒気すら覚えた冷たい空気が、今は心地よく感じてしまうくらいだった。


 「何、今の……」


 胸に添えた手を握り締めて、日下部は一人呟く。

それはほとんど条件反射のような行動だった。

目を閉じた瞬間、急に何かに首を鷲掴みにされたような息苦しさを感じた。

息が止まり、空気を吸い込めなくなる。

悲鳴を出そうにも、のどが枯れて声も出ない。

意識がだんだんと薄れて、そのまま目の前が真っ暗になりそうになって……。

 目を開けると、それらの異常は全て何事もなかったかのように消え去っていた。

やはりここはベッドの上で、真夜中で、私は部屋に一人っきりだった。

焦るように空気を吸い込むと、今度はちゃんと肺の隅々まで酸素が行き渡ったようで、私は胸を撫で下ろした。

しばらくそのままでいると、やがて心音も正常な鼓動に戻っていった。

一瞬前の出来事が嘘のように、私は汗一つ流さずにタオルケットに包まったまま、天井を見上げていた。


 「夢、だったのかな、今の……」


 私はどうしようもなく不安になった。

改めて考えてみれば、記憶がない、もしくは欠落しているということはなんて恐ろしいことなのだろう。

知っているはずのことを知っていない。

見たはずのものを覚えていない。

聞いたはずのものを覚えていない。

積み重ねてきた全てのものが、ある瞬間を境にしてゼロへと戻る。

それは、とても恐ろしいことだった。

 どうして今の今まで、私は悠長に初対面同然の人と何も感じずに話せていたんだろう。

あの人は私の敵ではないようなことを言っていた。

私のことを守ってくれると言っていた。

でも、その言葉は一体どこからどこまでが真実で、どこからどこまでが偽りなんだろう?

信じたいという気持ちは確かにある。

けどその一方で、疑うことを知らなくてはいけないのだ。

 何度でも言おう。

私は今、本当にこんな場所で眠ってていいのだろうか?

この場所から一秒でも早く、逃げ出すべきではないのだろうか。

今になって思えば、彼は私の名前を知っているけれど、私は彼の名前すら知らない。

その名前だって、彼が適当に並べ立てただけのものなのかもしれない。

彼がもし、私が記憶を失っているという事実を知っているのならば、身近な人間を演じることはたやすいことだ。

そうやって少しずつでも、時間をかけて信頼を得ようとしているのだろうか。

いや、そもそも信頼など最初から必要すらないのかもしれない。

ある程度の期間、私をこの場所に監禁しておくことが目的だとすれば。

だとすれば、たとえ見ず知らずであったとしても二人しかいない現状から動こうと思うことは少ないはず。

今いるこの場所が山岳地帯で人気もなく、麓まで行くにしても危険を伴うとすれば。

私じゃなくても、かなり高い確率でこの場所に留まることを選ぶのではないだろうか。

では、こんな場所に私を監禁しているとして、その目的は何だ?

自分で問いかけて、私は答えることが恐ろしくなった。

しかし、考えずにはいられない。

私はもしかしたら……殺されるためにこの場にいるのではないだろうか?


 「――っ!!」


 私は声を殺して、ギュッとタオルケットを掴んだ。

指先がわずかに震えている。

分かっている、今までのが自分のくだらない妄想なのかもしれないと分かっている。

分かっていても、この不安は簡単には抑えきれない。

答えはすごく簡単なのに。

彼が、私の敵なのか味方なのか。

そんな簡単な二択問題だというのに。

追い詰められた心境では、物事は悪い方向にしか流れていかない。

 ここにいることへの不安。

彼といることへの恐怖。

そればかりが募っていく。

もはや、自分の意思だけでは感情の昂ぶりをコントロールしきれない。

どうして私は何も覚えていないのだろう。

どうして私は彼のことを知らないのだろう。

覚えていれば、きっと悩まなくていいのに。

知っていれば、こんなにも怯えることはないのに。

私は、どうすれば……。

日下部の想いをよそに、夜だけが静かに更けていく。

朝はまだ遠い。

月だけが、全てをはるか天空から見下ろしていた。


このたびは私の作品「きみのてのひら」をご覧になってくださり、ありがとうございます。

まだまだ素人丸出しの文章や構造ですが、どうにか最後のときまで物語を書いていきたいと思っています。

よろしければ、今後も暇なときにでもご覧になっていただければ幸いです。

更新は不定期ですが、なるべく早くに続編を投稿していきたいと思っています。

このたびはありがとうございました。

次回にご期待ください。

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