移民問題のレトリック
# 移民問題のレトリック
日本では近年、いわゆる移民問題が政治的な争点の一つとして浮上している一方、欧米諸国では先行して、移民問題を中心とした激しい国内衝突が生じている。
### グローバリズムと団塊の世代
俯瞰的に見るならこれは構造問題であり、財界や民間企業が私的な短期的利益を追求して移民労働力を選好するのに対して、共同体によって利権を防衛してきた若年末端国内労働者ほど損失を被る形だ。しばしば言われるフレームワークを借りるならまさに、「グローバル資本vs地域共同体」といった形である。そしてそうだから、グローバル資本が主導する主流メディアはこの事実を矮小化し、分割統治戦略によって大衆は洗脳されている。
一方、さらに不都合な事実としては、G7諸国などにおいて高齢化している団塊の世代が移民労働力を選好するという強い因果もある。つまり、介護費用や物価全体を低く抑えるためには、先人から受け継いだ共同体資産を世界市場に対して切り売りしてしまうことが部分自らにとっては最大利益だ。これは「モラルハザード」に他ならないが、グローバル資本が、攻撃対象とする共同体について権力を悪魔化して個人的自由を神聖化し、モラルハザードを引き起こして奴隷化していくことは現代どころか近代を通して普遍的な戦術であった。
つまり、老人や大衆がしばしば悪の主体であるとしても、そのモラルハザードを政治的に実現している影の実力としてはグローバル資本が見逃せない。そしてその構造のもと、悪徳への非難は、老人や女性や外国人といった「弱者への攻撃」として悪魔化される。なおかつ、世界的な大量の難民の発生原因は中東などで継続してきた地域不安定化にほかならず、それぞれの戦争は偶然的に、あるいは現地の権威主義政権の人権侵害によって発生していると報道されつつも、実態は軍産複合体を中心とした戦争経済を背景としている。
### 議会の限界と大衆の起源
こういった構造問題は長年に渡って根深いが、民衆のほとんどは自らの利己性と利益を肯定する甘えに魅惑されて公正世界仮説によって洗脳され、「グローバル資本vs地域共同体」という構造力学として世界の現実を理解できていない。そのために、移民反対派が「移民増加によって治安が悪化している」と言い、移民肯定派が「そのような事実はなく偏狭で排外的な差別的フェイクニュースだ」などと反論する状況が生まれやすい。このような表層的な議論が継続するなら、結局はグローバル資本にとって圧倒的に好都合な世界再編が継続していくだろうと悲観せざるをえない。
一方、治安問題などの具体性に帰着せず、「グローバル資本vs地域共同体」という邪悪の構造的事実そのものを議論する場合、民主主義的な議会政治において有権者に訴え獲得票数を増加するためには、実際にはあまりにもわかりにくい。歴史をたどればあるいは、民主主義の理想化とは、内部的なエリートに共同体が主導される状況をグローバル資本が洗脳によって順次破壊してきた近代史だと眺めることも実は可能だ。現実の因果は一定程度多くの因子からなっているために複雑であり、街頭演説で一言で見栄えがするものではない。例えばもし移民増加によって治安が劇的に向上するとしても、移民増加すべきではないという事実は実は容易にありうるのだ。
近代的な啓蒙思想は「馬鹿または無知だから私には良し悪しがわかりません」というアイデンティティから大衆を解放した。「共同体の政策決定に意見するために十分なだけの知識と良心と才能が自分にもある」という幻想で民衆を染め上げたとも言える。すると、「差別は良くないですよね」「戦争は良くないですよね」などという言説を振りかければ、「それは確かにそうかもしれない」「それは確かにそうに違いない」という心理反応を生じる民衆が現出する。しかしその心理反応の最大因子はしばしば、周囲について多数派に所属でき、個人的利益防衛のためにより安全かどうか、という点である。
つまり、実際にはかなりあるいは完全に無知であっても「差別だからあなたが間違っていて私が正しい」「戦争だからあなたは間違っていて私は正しい」という思考パターンを形成する。そして、差別主義や武力主義という側面を誇張して悪魔化するなら、地域共同体、代表的にはナショナリズムは、ことごとくすべて、「偏狭なナショナリズム」として否定できる。なおかつ、社会の利権を階層化してアカデミアなどに虚偽の知的優越性を自覚させるならば、ナショナリズム的な心理反応は「馬鹿な貧困層の典型的な動作」であるとして、いわゆる「リベラリズム」を誇りとするアカデミアが自動的に攻撃するように設定できる。
### 進歩の先鋭化とその完全な反転
現代における言論の禁忌の一つとして第二次世界大戦がある。それが正義による悪への勝利だったというナラティブについては、事実上、疑念を挟む自由が許されていない。つまり、歴史的なファシズムは現代の右派と左派の両方にとって共通の敵である。しかしもしも、歴史的に敗北してきた戦争がしばしば「グローバル資本」への抵抗闘争としての側面を含んでいたらどうなるか。それは、リベラリズムや個人の人権を信奉する左派の「先輩」だということになってしまう。しかしもしそんなものを認めれば、「自分達こそが世界の改革の最先端を行く最も知的で正義ある存在だ」という心地良い自我が保てなくなる。しかしこれこそが、歴史的な戦争の敗者はすべて権威主義者の邪悪の自業自得であり、自分達こそが個人の人権を最も完全な形で弁護する歴史上最も美しい善意を備えた存在だ、という世界観を形成してきたのだ。
そして実際に、例えば共産主義の理想に現実を近づけるために、地域共同体などにおける「権力が行う差別や軍国主義化」を非難する活動は常に可能である一方で、共産主義の理想の実現は、ソビエト連邦や中国や北朝鮮を例に挙げるまでもなく、いつまで経っても実現しない。それでは、共同体文化を解体してすべてをまずコスモポリタン的にすることが、民衆幸福を実現するために本当に最善の手段なのだろうか? 近代史を見るなら実際には、そのような正当化によって地域的・文化的・宗教的な諸々の共同体を解体することは、いわゆる自由市場原理を通じたグローバル資本による世界的な支配と搾取こそを効率化してきたのではなかったか? これを偶然だと言うために必要なのは、「意図」が実在しなかったことを証明することでは不十分であり、「因果」が成り立たず確かに独立に偶然である事実が明示的に証明されなければならないだろう。
逆の方向の極論を考える操作は、形式的には実はたやすい。すなわち、人類が戦ってきた戦争は近代どころか古来からすべてが正義の敗北に終わったのであり、人類文明が搾取的に構造化されていく不正義に挑戦するために、正義ある人々ほど貧困化などによって周縁化され、不正義であって「有用な馬鹿」である者達にほど地位と権威が与えられてきたのだと。そうであるなら、私達が享受する幸福はすべて、邪悪に加担したことに対する対価であり、つまり、自分よりもより善良でより知的な人々を攻撃して殺害したことによる結果であると。このように考えることは形式的にはたやすいが、大多数者にとっては常に、心理的に不可能だ。なぜなら、公正世界仮説という、人間という生き物の加害性を最大限に発揮するためのエンジンの出力を激減させ、成功と名声を貪欲に求めて生存する存在でなくすからである。
私はそもそも何の話をしていたのか? もちろん、移民問題についてであった。移民問題について、なぜグローバル経済どころか社会思想の話題を展開し、あるいは人類文明の歴史全体について特殊なニヒリズムを提案するような形になったのか? それが必要だからだ。なぜなら、移民問題といった、実は「グローバル資本vs地域共同体」を重要な原因とする諸問題について、その「解決不可能性」の根深さは、「認識不可能性」の根深さそのものにあるからである。私達の民主主義社会は、例えば移民問題について、解決できないのではなく、そもそも認識できないのである。
### 隣人の娘を用いる不道徳
日本の移民問題については、移民反対派の側からも、時間を限定した労働力としてのみ入国させ定住権の付与を徹底的に絞ればよいという戦術論や、人口減少や技術発展によって移民労働力は長期的には不要だという楽観論を耳にする。そのたびに私が直観的に感じるのは、異なる民族の少年や少女との経済的な力関係を用いて、自らの民族のお爺さんやお婆さんの尻の糞を拭き取らせることは「道徳的にアウト」だということだ。それは世界史を振り返るなら植民地支配や奴隷制を連想させるものであり、インドで言うならカースト制の世界観を招き入れることでもある。お金を払わなくても「老いたあなたの糞をどうか拭き取らせてください」と少年少女に懇願されるなら結構なことかもしれないが、その際にもし1円でも授受するなら、それは「権力関係の行使」であって弁明の余地はない。
移民増加によって日本の社会構造の好ましい側面が損なわれ、治安や安心や従来の日本人の幸福は低下していくだろうか? そうかもしれないが、そうだから移民増加は悪い政策なのだろうか? 移民増加が悪であるのは、むしろ先立って、奴隷的搾取関係を容認する「モラルハザード」があるからではないか? 主観的な利益の甘味に誘惑されて、倫理に関する論的な思考が整合性を乱すことに、自制的な緊張感をより強く持つべきだ。もしそのように感情を自己制御したなら、個別な人間が「甘え」によってモラルハザードに傾くとき、最も利益を得ているのは「グローバル資本」だと気づくだろう。人間達をますます馬鹿にするほど、支配と搾取は効率化され、よって必然的に民衆幸福は破滅的な末路へと流されていくのである。
移民肯定派は、移民反対派を「差別」だと非難し、「偏狭なナショナリズム」として蔑む。それに対して私はこう言っておこう。異民族の少年少女を心から愛するならば、世界的な移民経済は助長すべきものではない。富裕な国の人々が貧困な国へと一方的に旅行を楽しむことにすらそもそも倫理的な罪は伴う。世界のすべての文化は尊いのであり、あらゆる階層の共同体は搾取から防衛するための連帯としてかけがえがなく、国を超えて、愛国者と愛国者こそは心を照らし合わせる。感情で愛せるのはせいぜい家族や隣人までであり、真の愛国者は実際にはすべてコスモポリタン的な良心を備えていることが自然である。中東から難民が生じるなら、辺境を不安定化させることで利益を得るグローバル経済の悪癖こそ修正すべきだ。
### 国家と民族と土地と血液
教科書では隠された第二次世界大戦の現実を振り返るなら、例えば日本は単なる悪ではなく、民衆は単に狂った馬鹿な暴走した軍部に騙された存在ではなかった。例えば神風特攻隊は単に洗脳された、否定だけすべき出来事ではなかった。世界に存在するすべての国と土地と民族は必ず、その共同体の利益を子孫のために守ろうとする戦士達の血と命によって守られてきたのだ。そうであるなら、経済的な当面の利益ばかりを重視して人間を入れ替え、従来からその地域に生きてきた人々の子孫を、無能な低学歴の貧困層などと正当化して周縁化し未婚化し殺害していくことのどこに正義があるのか? 断じてない。土地とは古来、「血」であり、外部から流入するお金、実際には軍事的威圧によって、その政治と統治の人民主権は破壊されるべきではない。
したがって、移民反対運動を単に国や共同体の利益を理由として言語化しようとするなら、グローバル資本が「有用な馬鹿」を扇動する巧みなナラティブによって論点は表層的になり、構造的に負けつづけていくだろう。そのため、より普遍的な倫理的な問題として捉えることが常に重要だ。
経済的に贅沢を欲することは限りなく可能であり、わずかな物価上昇も嫌うなら移民増加は常に容易に正当化できることになる。しかし、民衆が主権を手にした共同体を存続させていくためには、経済的または軍事的な恫喝に感情的にただちに迎合する態度は合理的ではない。その点をそれぞれの相手国とも対話し、両国の尊厳と発展を異なる形で追求していくなら、その考え方のほうがよほど長期の民衆幸福のために有益な結果をもたらすに違いない。
### 政治は愛による正義の執行である
偽善的な言葉遊びと圧倒的な権力によって文化的な利益を破壊されていく庶民からすれば、移民が流入する諸国において強い憎悪が起こることは自然だ。一方、そこにおける指導者や政治家の果たすべき役割は、憎悪の助長よりも、理解のレイヤーの向上による共感性の拡大である。自らの共同体とその歴史を真の意味で誇ることは、他者についてのそれらを真に尊重することと実際には等しい。したがって、正義は、「排外主義」ではない。よって、正義の希望の炎を、「排外主義」や差別といったレトリックによって消し去られてはならない。
政治は常に民衆のため、つまり正義でなければならず、したがって正義は常に愛でなければならない。よって、移民問題の解決は、「愛」によるべきである。しかし、真の意味での「愛」は、自動的な肯定ではまったくない。「無条件な愛」でもない。人類を真に愛そうともし思うならば、その人は人類の最も醜い部分を直視することになるだろう。もしもそうならないなら、それは「愛」を詐称した自己愛にすぎなかったのだ。すべてのレトリックは、神のような俯瞰的な視点から、俎上に載せられ、倫理の包丁で切り整えられることになる。以上の言語において、それは高度に実演されたと言っても言い過ぎではないだろう。




