小説の売上が悪い理由の一つに義務教育の”国語”の存在があると思う
さて、現状では漫画の売上はなんだかんだで好調なのに、小説の売上は相変わらずジリ貧な原因の一つに、学校の国語の授業の読書感想文によって、自分の好きでもない文学作品を強制的に、かつ担当教師の理想通りに解読させられることに対する苦手意識を植え付けられ、文章を読むことの楽しさを奪われ、嫌いになってしまった人が少なくないと思うのです。
まあ現代では単純に漫画やアニメ、ゲームにユーチューバーやVチューバーの動画系のような見たり聴いたりしてわかりやすいものが優先させるというのもありそうですが。
そしてこれは国語や英語のような語学系だけでなく、数楽や物理化学、社会科のの歴史や地理、体育や図工、音楽、家庭科、道徳科目などにも言えますが「苦手なものが改善されて得意に」なることはなく「苦手なものがトラウマになって徹底的に嫌うことになる」ことのほうが多いように思います。
まあ特に体育は野球なり、サッカーなり、ドッジボールなりの試合になるわけですが、試合をすると運動神経が優れていない人間は足を引っ張り、周りに怒られ、萎縮してさらに足を引っ張り、また周りに怒られる、あるいは呆れられるというループに捕まリがちですしね。
同じことは、クラス合唱コンクールでの歌の下手な生徒もありますが、体育の授業と合唱コンクールでは開催頻度も違いますしね。
ここらへんは教師が当該科目の能力が低い生徒の能力を底上げする方法を教えもしないし、そもそも考えもしないというか知らないのが原因とも思いますが、そういう事ができる先生というのは「担当科目の苦手ができない生徒の気持ちを理解している」だったりしますが。
問題なのはどんな科目にせよそれを教えられるということは担当科目はできるので、特に体育や音楽なんかは顕著だと思いますが、できない人間がいてなぜできないのかということが理解できる教師はほとんどいないということなんですけどね。
本来は得意じゃないけど少なくとも嫌いではない、何かをできることは気持ち良いと言う方面に思えるようにするべきだと思うのですが、日本の詰め込み式義務教育では難しいのでしょう。
まあ、苦手な子も多いのに体育や美術や音楽がなぜ義務教育で取り入れられているの理由には「自分がやらなくても見たり聴いたりする楽しさなどを知って、生活を豊かにするため」というものがあったようですが、これも現代ではそぐわないものになっていますね。
更に昔のことを言えば給食はどのようなものであれ時間内に残さず食べないといけないということまであり、給食の時間に食べられないと午後の授業でも給食を片付けさせてもらえないなんてこともありました。
本来、義務教育と生きていくために最低限必要な技術や知識、恥ずかしい思いをしないための教養を身につける場であるはずなのですが、義務教育は個々人の向き不向きや習熟度合いの差を考慮しないので、苦手な子を置いてけぼりにし、成績表というものでお前はできないだめな人間だと教え込み、むしろ恥ずかしい思いをさせるためにあるような授業の在り方は教育の失敗と言えると思います。
日本の義務教育は「広く深く」やりすぎな上に、減点方式で得意分野があることよりも苦手分野があるコチ大を責め立てられるのは本当になんとかならないものですかね。
プラトンの名言に
「無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない」
というものと
「いかに知識を身につけたとしても全知全能になることなどはできないが、勉強しない人々とは天地ほどの開きができる」
という言葉があります。
プラトンは紀元前427年から紀元前347年に存在したソクラテスの弟子でアリストテレスの師にあたる古代ギリシアの哲学者ですがおよそ2400年ほど前にはそんな事はわかってるんですよね。
まあそもそもからして人間の認知は視覚優位のほうが聴覚言語優位のほうが多いので、そもそもからして絵や画像、動画からの情報が多いほうが多くの人にとっては受け入れやすいのでしょうけど。